アベンジャーズ
「スーパー!」の理解を深めるために併せて見るべき、同時上映の前半部分、前座的な大作と言える。この集大成のために作られた様々のマーベル・ヒーロー映画のおいしいところを、ロバート・ダウニーJrのキャラクターがすべて持っていってしまっており、アイアンマン番外編と称した方がしっくりくる仕上がりだった。冒頭で巨大空母が宙を舞うシーンを見て、なんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたらエヴァQだった。気づいた途端、ボロボロと涙がこぼれてきて、どれほどひどく爆破されても傷ひとつつかない(CGだから?)、墜落する素振りすら見せないヴンダーに比べて、なんて作劇上の緊張感があるんだろうって、やっぱりこの国のフィクションはハリウッドには絶対に勝てないんだって、悲しくなったの。
コクリコ坂から
なんだろう、宮崎駿を失った後、ジブリはその遺産の管財人として生きるので無ければ、新たな当主を否応に担がなければならないはずのに、すべてにわたって全く結集できていない感じがする。ゲド戦記は原作者とファンの双方を激怒させるほどにクソだったが、少なくとも監督の個人的な反骨、父親を超えようという意志だけは感じることができた。今回はそれさえ失われている。作品選定の段階で、父親には認められたい、観客には自分を父親と重ねて見て欲しいという前回より退行した意志をしか感じない。監督の年齢から考えて、この作品の舞台設定に己の表現を重ねたい何の動機があるのかも全く不明だ。残された者の生活のためにスタジオを残す、それは充分に尊いことだと私は思う。
プロメテウス
『しかし、誰もが親の死を望むものではありませんか?』『私は違ったわ』。ストーリー展開のトンデモを指摘する低評価が多く見られますが、いいですか、これはSF作品ではありません。リドリー・スコット作品です。「このモビルスーツからはオマンコの臭いがしない」で有名な某監督と同じく、あらゆる台詞、あらゆる場面、あらゆるデザインが個人の妄念と情念に由来していると考えましょう。すべては必然なのです。あと、SF作品としての既視感を指摘する声があるようですが、いいですか、ブレードランナーとエイリアンはリドリー・スコットが作りました。これらから派生した多くの亜種・亜流を回収して再集約する試みがプロメテウスであって、某国のように起源を曲げた発言をしてはいけません。私たちが見てきたあらゆるSF的映像は、リドリー・スコットの影響下にあるのです。有象無象のコピー作品群とは異なった、本家の圧倒的なセンスの良さを感じとりましょう。それと、開始後すぐに物語最大の謎が明かされて拍子抜け、みたいな批判が散見されますが、あのね、それは配給会社が宣伝文句として投げかけているホワットであって、この映画の問いの本質はホワイなんです。だいたい、リドリー・スコット監督という時点で、映画館に入る前からホワットの問いはすでに答えが割れてるみたいなものでしょう。そうですね、この映画を視聴すべき層へピンポイントで届かせるには、きっとタイトルを“エイリアン・ゼロ”とかにすれば――おおっと! あぶない、あぶない! あやうく重大なネタバレをするところでした! 「その名を聞けば無条件で視聴し、視聴前から批評を越えている」数少ない監督の一人なのでこれ以上は語りませんが、ひとつだけ。親を憎むクリエイターが、親を憎まない人物を主人公にする。多くの物語の本質はそこにあるのかな、と思いました。
ヘルタースケルター
原作好きの小鳥尻ゲイカとしては、いつか見ずばなるまいと思っていた。で、今日見た。ジャック・ブラックのファンが彼の顔芸だけで内容を度外視した二時間を楽しめるのに対して、沢尻エリカのファンが彼女の肉体だけで内容を度外視した二時間を楽しめる映画に仕上がっていた。もちろん原作の持つ凄みを越えるものではないし、おそらくハナから原作を越えようと制作しているわけでもないだろうが、多用されるプロモーション・ビデオ的な映像が全体を冗長にしている嫌いこそあれ、実写化としてこれ以上を望むのは難しいのではないか。現在の本邦を見回して、沢尻エリカほどりりこと近似値を取る存在はいないからだ。演技ができるわけでもない、歌がうまいわけでもない、ただ若さと美貌だけが芸能界に彼女の居場所がある理由だ。ただ以降はこれらの持ち物を手放していくしかない時期に、りりこ役にキャスティングされたことが、沢尻エリカのドキュメンタリー的要素を作品に加えている。確かに、ほうぼうで指摘されるように、演技ができていない。怒りと傲慢と、そしてたぶん無邪気さが彼女の地金で、それ以外の感情を演じなければならないとき、シーンが虚構として成立しないレベルだ。特に物語の後半、りりこの崩壊を描く部分では、もはや原作とは遠く離れた別物になってしまっている。しかしながら、若さと美貌しか寄りどころを持たない誰かの空っぽさは、皮肉にも演技ができないことで痛いほど表現されており、原作とは全く別物でありながら、沢尻エリカという人物そのものが放つメッセージ性にまで昇華されている。未視聴の諸君へのアドバイスするとしたら、沢尻エリカのファンなら必ず見るべきだし、原作ファンであっても原作を下敷きにした二次創作的派生作品だと自分に言い聞かせることを前提として、やはり見る価値がある。あと、全国で一割にも満たないだろうアホみたいなギャルどもを、さも女子高生の主体であり本流みたいにフィクションで描くのは、「制服少女たちの選択」ぐらいからずっと変わんないなー、と思った。いったん与えられた社会学的メッセージが、二十年くらい誰にも更新されていない感じ。
崖っぷちの男
文字通りのクリフハンガー。一時間半強できれいに伏線を回収して、後味スカッと面白い。やっぱ映画はこうじゃなくちゃな! それにしてもエド・ハリスってみんなが抱いてる、銃と金融で世界を牛耳る悪いアメリカ白人の典型例だよな! そして本当の黒幕はグリフィス四重奏(2回目)を聞きながら、手錠で後ろ手に拘束されたエド・ハリスのビキニパンツに100ドル札をねじ込んで、庶民のガス抜き目的で低所得者層が支配者層をやっつけるこの映画を作らせたに違いないんだ! くそっ、なんて悪い奴らなんだ、イギリス貴族の連中め!
惨殺半島赤目村
山奥の廃村にトラウマを持ち、横溝正史と江戸川乱歩とファミコン探偵倶楽部に思春期の感受性を略取された身にとって、ド真ん中の直球ストライクである。私の愛好した3つの作品群に共通するのは執拗なまでの”過剰”であるが、本作もやはり過剰さに満ち満ちている。人物造形や舞台設定だけでも行き過ぎなところへ、さらには主人公が突然サイコメトってしまうのだから、屋を架した屋上が轟音と共に瓦解していくスペクタクルに、もはや直立したまま失禁する以外の選択肢はない。早くに余生へ突入した私の命を永らえさせる作品は、もはやハンターハンターとワシントンだけになっていたが、赤目村の完結までは生きる努力をすることをここに誓おう。なに、最高のノベルゲーを教えてくださいだと? そんなもの、うしろに立つ少女に決まっておろうが!
おおかみこどもの雨と雪
あるかなきかのシナリオを演出の力のみで見せていく作りに、欠点を隠して長所を強調する、ようやく化粧の仕方を覚えた若い女性を見守るおじさまの気持ちにさせられた。しかしながら、この作品の与える感動の本質は、作品の力というよりむしろ人類の共有財産に依拠しており、己の体験した経験を思い出して、あるいは予期してのそれであることをどうしても否めない。ざっくりとしたまとめ方で、最後まで失点をしなかったことが、作品の高評価につながってる気がする。そして、「老い」を描くのにアニメーションほど不適当なジャンルはない。二度ばかり畜生と着床ファックをした少女が、年をとらないままロハスな子育てゴッコをしているという印象を受けてしまうのは、作品テーマにとって大きなマイナス点だ。作りこまれたCGを含めて全体的に実写よりのアプローチなのが、アニメーションのアドバンテージをことごとく放棄している感じがした。菅原文太の演じる頑固ジジイを含めて、じゃあもうこれ、実写で撮ればいいじゃんっていう。もっと低予算で一ヶ月くらいの撮影で同じもの撮れるじゃん、っていう。なんでわざわざアニメーションを選んだの、っていう。アニメーションの持つ特殊なディスアドバンテージを勘案されての一般評なんじゃないの、っていう。この作品を見てエヴァQの方を擁護したくなる気持ちにさせられたのは、我ながらすごくひねくれてると思う。あと、自分もそうなんだけど、大家族と核家族のちょうど狭間に生まれた世代にとって、長期休みに一週間ばかり帰郷する自然に満ちた農村は、原体験であると同時に記憶の中で絶対の正しさを持った場所へと聖別されてるんだろうなと思った。それと、青春期の抑えがたい獣性を言う方々は、ライフ・オブ・パイを見ればいいと思った。個人的に言えば、ネットで貴様らが取り沙汰する獣姦シーンが、少しもファックしてないことにガックリした。
ビーン
ローワン・アトキンソンがMr.ビーンを引退するというニュースを遅ればせにネットで閲覧し、久しぶりに試聴した。ビーンらしさと言えば飛行機のゲロ袋とトイレのシーンぐらいで、イギリス・コメディの系譜に連なる偉大なイコンがアメリカの巨大映画資本に札束で横ツラをはたかれる惨めさに、何度見ても涙を禁じえない。泣きながらイギリスを追われた清教徒が腹いせに原住民を虐殺しまくる様をワイン片手に見下していたのに、モンティ・パイソンより売れたMr.ビーンを買収されたどころか、アメリカ風のウンコ脚本へとその本質を改変されてしまったのだから、英国人が心穏やかでいられるはずはない。さらに、コメディ文法のパーソナリティを現実世界に置いて彼がただのキチガイでしかないことを見せつけ、より大きな舞台でシリアスの俳優として活躍したいというローワン・アトキンソンの矮小な功名心を明るみにした。この映画は、イギリス人にとっても、Mr.ビーンのファンにとっても、ローワン・アトキンソン本人にとっても、まさに三方一両損の典型的な黒歴史なのだ。現在、この映画が無かったものとして誰からも黙殺されているのは、至極当然のことだと言える。ギャグやコメディで世に出た人は、あとになってみんなシリアスで認められたがるけれど、ギャグやコメディこそがこの世で一番インテリジェントで難しいフィクションであることは疑いがない。子育てと子離れみたいな、親子の相克と葛藤みたいな、誰がやっても同じハンコ状の白痴に向けた感動へ逃げずに、もっと自分の仕事に自信を持って取り組んで欲しい。政治やシリアスを志向するコメディアンを、私は絶対に信じない。あと、Mr.ビーンDVDの第二巻に収録されているドキュメンタリーは、ビーンというキャラクターの成り立ちと、ローワン・アトキンソンの出自を理解するのに役立つだろう。オックスフォード大学出身の英才が喜劇へ傾倒していく様は、同じくオックスフォードのガススタンドでセルフ給油の意味がわからず床にガソリンをぶちまけた経験のある小生にとって、深い共感を得られる内容だった。それと、フェラチオの正式な発音がフェラーティオウであることを学ぶ貴重な機会だった。