ドラゴンクエスト10
正直、全然期待してなかった。発売の時期的にディアブロ3をヘビー(社畜なりの)にプレイしていると思っていたので、アマゾンで予約注文こそしたものの、届くまでその存在をすっかり忘れていた。ちょうどディアブロ3に行き詰まりを感じていたこともあり、ほとんど気の迷いみたいにWiiの埃をはらってインストールしてみたところ、気がつけば週末通して30時間くらいプレイしていた。自分でもびっくりした。MMOなのにオフゲーっぽい雰囲気で、シナリオを追うだけならソロでも大丈夫なバランス。底意地の悪い楽しみ方だが、ビッグタイトルが閾値を下げたゆえに流入した、従来のネットゲーにいなかった層のふるまいを見ているだけでも相当に面白い。無料期間が終わればこういう奇矯な人々はガクッと減るだろうので、立ち上げ時期限定の状況だとは思う。そしてやはりと言うべきか、全体的に同社のFF11を徹底的に研究している感じがあって、そのコアな部分への意識した逆張りで、カジュアルなオンラインゲームを作ろうとする姿勢が見えて好ましい。公式サイトの冒険者の広場や3DSでのすれちがい通信プログラムの配信など、MMOなのにプレイヤーを外へ外へと誘導していく感じも新しい。FF11なんてもう怖くて触れない(時間的に)といった社畜の諸君にも、接続への脅迫なしに楽しめる仕上がりである。グラフィックは確かにアレだが、じっさい触ってみれば、ゲームにとってそれは三の次くらいだと納得できるだろう。本邦の企業体はとかく改革を叫びがちだが、その実質はほとんど革命に近い。過去をすべて棄却して、ゼロからの土台に何かを築こうとする姿勢だ。伝統や踏襲が検証なしに悪とみなされ、新しいアイデアは新規に議論されたという事実のみが重視され、その自己陶酔感の中でこれまた検証の薄いままに実施されていく。かくして、名と外殻のみを同じうする異形が世に顕現するのである。例えば、現在のファイナルファンタジーはもはや異形と化している。ディアブロ3も、たぶんそうなんだろう。必要なのは不易の部分を見極めることであり、今作ではオンライン化という最大の流行を前にして、その他すべてを変えないという決断が成されている点がすばらしいのだ。え、国民的ビッグタイトルだから、だれも進言できないだけじゃないかって? なるほど、確かにそうかもしれない。しかし、得られた結果がプラスならば、何の問題も無いではないか。とかく自信の無いヤツほど、転職やら何やら、ウロウロと意味もなく現状を変えたがるものだ。我らがホーリー遊児の、確たる才能に裏付けられた安定感を見よ。明確な意志ではなく、喪失した自信が薄っぺらな変化を加速させている本邦で、その変わらなさは力強い輝きを放っている。もちろん、薄毛的な意味ではないよ。
BIUTIFUL
『幸せにしてやりたいと思っている。でも、その方法がわからないんだ』。太陽と、鏡と、霊媒と。死者の声は聞こえても、生者とどう向きあえばいいのか、わからない。一個の死に向けて、収束しようとしない世界。それは逆説的に、あらゆる生命が平等であることを証明している。ようやく、イニャリトゥが日常の舞台に戻ってきました。基本的にいつも結末を投げっぱなしの監督ですが、その個性が今回は物語のテーマと絡みあって素晴らしい効果をあげています。私は本作こそが、氏の最高傑作であることを疑いません。けれど残念なことに、本邦ではバベルほどに視聴されないのは必定です。なぜなら前作をみなさんがご覧になったのは、ケン・ワタナベが中核的な役割を演じたノーラン監督のインセプションと同じく、菊地うん子? まん子、でしたっけ? 名前はよく覚えていませんが、自国の俳優が出演しているという事実が主たる理由だったでしょう。あらゆるマーケティングや作品の出来そのものさえも押しのけて、自国の俳優が出演しているかどうかが、外国映画の最大の広報になるお国柄です。これじゃ、近隣諸国の愛国的な所作を笑えません。BIUTIFUL、みんな見てね、アジアからは中国人しか出てないけどね、ホモのね。
新少林寺
すごく久しぶりに中国映画を見たのだが、自分の中にアジアの物語文法が強く残っていることがわかって驚いた。考えてみれば、年代的にはちょうどキョンシーやらジャッキー・チェンやらが大流行した頃に少年時代を過ごし、その亜流を含めて山ほどアジア映画を見てきたのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ひらたく言えば、感動した。ダークナイト・ライジングよりも、はるかにグッときた。いまから言うことは私を含め、ヒエラルキーの大部分を構成する人々を慰撫するためのステレオタイプだとわかっている。そして、あらかじめ設定した期待値を超えるかどうかが映画の評価につながる自分の傾向を自覚してもいる。新少林寺を見たときの気持ちは「雨に濡れながら捨て猫にミルクをやる不良少年」を見たときのそれと同等であり、ダークナイト・ライジングを見たときの気持ちは「夜中に裏山で捨て犬にエアガンの試し撃ちをする優等生」を見たときのそれと同等である。ヒエラルキーの頂点を形成する優等生諸君には申し訳ない例えだった。しかしながら、「数百年を経た寺社仏閣に躊躇なく大砲を打ち込む紅毛人をゲリラ作戦で奇襲して惨殺するアジア人」を見たときの気持ちは、不良少年も優等生も私に同様であろうと思う。ローマにとってのシルクロードの例えを持ち出すまでもなく、西洋には人類史の黎明期に刷り込まれた東洋への劣等感が内在している。差別意識とは、すべからく恐怖心に由来するのだから。
範馬刃牙
父性の本質は暴力だとどこかで書いたが、父親から行使される暴力の本質とは、無謬性ではないか。つまり、問答無用でぶん殴り、その正しさの証明が必要ないことだ。一方で、母親との関係はどこまでつきつめても、感情に落とし込まれる。父親がその父性を完遂するには、より強い暴力に負けないことが必要だ。多くの誤解を恐れずあえて言うと、昨今は父親が息子を問答無用にボコれば、即座に児童保護施設や警察がとんできかねない。家庭外の権力に屈した瞬間、あるいは長じた息子に殴り返された瞬間、父性は終わりを迎える。もしかすると人類史上、例えば狩猟を中心とした社会などでは、敗北しない父性が存在した可能性はあるだろう。しかしながら現代において父親とは、あらかじめその過ちを誰かに証明されるために存在する何かなのだ。ざっと最終回の感想を確認したところ、否定的なものがほとんどだった。わたしはこの結末を肯定する。あえて敗北を描かないことで、父性を描ききったからだ。
誰も知らない
サクマドロップ、アポロチョコ。世界の残酷さを描くのに、プライベート・ライアンのような戦場ドキュメンタリー的映像を撮るか、原爆が投下される一日前に過ごされただろうありふれた日常を丁寧に追うかは美学の差である、みたいなことをどこかで監督が語るのを読んだことがある。話は突然変わるが、この夏をかけて諸君がスメリー・マウスで萌え萌え言っていたところの「けいおん」を全話視聴した。重篤な高二病の罹患者である私は、ブームが去ってからも一定の期間を置かないと人気作に触れられない気質なのだ。視聴後の気分をひらたく表現すると、とても感動した。あらかじめ失われることの決まっている日常が、丹念に描かれていたからだ。もちろん、現実にまま生じる負の要素が一切とりのぞかれていることをリアリティの欠如として指摘する向きもあるだろう。しかしながらこの物語の本質は、失われるものへの哀悼なのだ。喪失がより残酷さを増すためには、幸福は楽園の夢のように描かれなくてはならない。いつ桜高は桜女子高になったのか、みたいなツイートを以前したような気がするが、全話を通して見た現在、むしろその転換は必然だったと感じる。なぜなら、女は男より多くを喪失するからだ。男は五十の声を聞いても、少年ジャンプを読んでオナニーしてればいい。だが女は、若さも、美しさも、朗らかさも、すべての持ち物をただ時間に奪われていく。諸君は美魔女などという単語を聞くとき、眉をひそめてはならない。なぜならそれは、己が死への追悼を読みかえているのであり、弔辞を聞くときの厳粛さで受け止めるべきである。閑話休題。この映画を見て、例えば初めてのセックスのときに有線で流れていた曲のように、特別な記憶を呼び起こさないままにアポロチョコを食べることは、私にとって永遠に不可能となった。
ストリングス
インセプションの作劇をチームアメリカの文法で撮影するとこの映画になります。監督の意識はおそらくノーラン側ですが、観客たる私の意識は常にトレイ&マット側でした。ラストシーンで爆笑するか号泣するかで、その人の資質をはかることができます。婚約前の恋人と見ましょう。え、私ですか? んもおおおお! 「横断歩道の白いとこ踏み外したら死亡」みたいな設定で感動させられると思うなよおおおお! 小学生かよおおおお! んもおおおお!
ドライヴ
ネットでの高評価だけを鵜呑みにして、何の予備知識もなく視聴したら前半と後半の落差にのけぞった。北野武の初期作品とか、長渕剛の昔のドラマとか、レザボアドッグスとか、そういうのと同じ匂いがする。つまり、強烈な怒りによって世に出た者に共通した、突発的かつ執拗なまでに残忍な暴力描写だ。メカに強くて運転がうまくて、普段は穏やかで欲がないが、他人のために怒ると滅法強い。この主人公像は、ある種の人々とってものすごく願望充足的に機能するんだろう。エンディングに流れる主題歌(?)の曲調と歌詞がストーリーの内容と異様にミスマッチだと感じた私は、監督の想定するヒーロー像に感情移入できておらず、おそらく理想的な視聴者ではない。中二病のアッパーバージョンみたいなこの内容を激賞する方々とは、ちょっと友だちにはなりにくいなー、と思った。あと、ドライ“ヴ”という邦題の付け方がこの映画の本質をよく表しているなー、と思った。
メランコリア
やったよ、ぼくらのヒロイン、キルスティン・ダンストに最高の当たり役が来たよ! 君は顔面アファーマティブ・アクションで出演させてもらっている女優じゃなかったんだね! 言わば食べられる方のブタ、演技ができる方のブサイクだったんだ! それもこれもサム・ライミの野郎の、ラース・フォン・トリアーとは別の意味で気の狂った配役のせいで、ついうっかり世界的に有名なブサイク(見た瞬間に処女ではないとわかる圧倒的なツラがまえ!)になってしまったのが悪かったんだ! キルスティン、極東より心からのおめでとうを言わせてもらうよ! 第一部は盛大な手ぶれカメラからの徹底した欝展開で、本邦随一のファンを自認する小生を陶然とさせる完璧な上がりでした。しかしながら、監督が「日常では屑そのものだが、終末ならば泰然と迎えられる自分」を称揚するために作った第二部は完全な蛇足です。アンチ・クライストのときも少し思ったけど、ラース・フォン・トリアーにカネを与えてはいけません。このオッサン、余計なとこに使うから。極東のファンはあなたの無一文からのワシントンが見たいと願っています。あと、モノホンのキチガイがモノホンのビョーキから作り出した冒頭の十分間を見て、テレンス・マリック某は深く深く恥じ入るべきだと思った。
プロローグ
思えば、世界に倦んでいたのではなく、未知に倦んでいたのだろう。
過去を語る老人は、未だ成さざる者にとって、白紙の課題と同義だった。
達成される前には重荷で、達成されれば無と同じになる、人生という名の課題。
はたして、この世界を美しいと思い、愛せる瞬間など本当に訪れるのだろうか。
その人は、ぼくの諦念へやってきたのだ。
端正な横顔は少年のようでもあり、少女のようでもある。
黄金色のくせ毛は、陽光に輝く秋の麦畑のように豊かで、
ほそく通った鼻筋は、冬に冠雪した尾根のように冷厳で、
春の若芽のように柔らかな唇は、触れるものを溶かすほどに甘い。
夏の陽射しを思わせて燃える瞳がうつす表情は、
ときに賢者の白髪のように老獪で、
赤子のうぶ毛のようにあどけなく、
そして、あらゆる光を絶望させるほどに、その深淵には底が無い。
憧憬を得た者だけが、我が苦しみを知る。
ぼくの苦しみを、他のだれが理解しよう。
未だ憧れの熱狂も醒めぬこの身で、かつて魂すら捧げた崇拝を砕かねばならぬ、我が苦しみを。耳朶に残る熱さは、あの人が触れたせいか、憧れが燃え残るせいか。
鈴のような忍び笑い。虚ろな心に反響して、虜にする。
では、こうしようか――
時が経巡り、経巡った時が循環の果てにお前の掌へと還ったその日、
もし世界が醜いままで、可愛いお前の憎悪にしか値しないとすれば、
そのときは、乱暴な子どもへ与える玩具のように、この身をお前の恣にさせよう。
時が経巡り、経巡った時が循環の果てにお前の掌へと還ったその日、
もし世界が美しく優しさに満ち、お前の愛を捧げるに足るとすれば、
そのときは、最良の主人を持つ奴隷の幸福の如く、お前の生命を私に捧げるのだ。
では、手始めに――
この世界すべての栄華と叡智を順に、お前の卓へ饗することにしよう。