英国王のスピーチ
「生まれつき吃音の子どもはいません」。そう、生まれつき養育者を憎む子どもはいないし、生まれつき二次元を愛好する子どもははいないし、 生まれつきおたくの子どもはいない。つまりそれらは、のちの矯正により植えつけられた、後天的な性質であるということだ。この吃音というモチーフは、少なくとも精神的にはひどいどもりであるところの我々が抱える課題と大きく重なる部分を持つ。おたく諸氏は大戦萌えやら貴族萌えやらの言い訳を用意して、身体を斜めにしながら視聴を開始せよ。映画が終わる頃には、諸君の身体はまっすぐになっているはずだ。あと、内容に関して少し触れるならば、最後のスピーチの場面は大きなプレゼンを前に控えるあの緊張感がとてもよく伝わったが、国の存亡というよりは己のスピーチの成否にのみ気持ちがある様子は反面教師にしなければならないな、と思った。この二つは同じ重さで、同じ場所になければならない。それと、役者の力量のみが説得力を作るこの作品の中で、チャーチル役が演技負けしてるのがおしいなあ、と思った。なんか、モノマネのレベルなの。
ブラック・スワン
“I have nothing.”。芸術の魔性。”dark impulse”の源泉。すなわち、親殺し。己の生命を燃やし尽くした先に到達できる、人類の存続さえ超越した至高の瞬間。私が次の世代への継続を語るとき、この深奥へ到達できないことへの諦めが、はたしてそこに無いと言えるだろうか。メフィストフェレスのファウストへ告げるが如く、世界の全てを魅了する一秒を積み上げた数十年の幸福と交換に与えようと言われれば、はたして私は拒絶できるだろうか。しかしながら、崇高な疑念の交錯する中に去来した小生の下世話な想念は、「まるでアミダラ王女がアナキンの苦しみを苦しんでいるみたいだな」という内容でした。
アンチクライスト
諸君もご存知の通り、小生はニーチェの「反キリスト者」が大好きである。同じタイトルを関するこの作品について、本邦での発売を待ちに待たされたせいもあり、かなりハードルが上がった状態で視聴を開始した。結果、肩すかしを食らった気持ちになった。カメラが良すぎだし、音に演出を頼りすぎだし、映像の編集しすぎだし、何より話が理に落ちすぎだ。しかしながら、ラース・フォン・トリアー作品は無条件で監督買いしている小生の感想であり、これが氏以外の手による映画だったなら、すごく感銘を受けた可能性があることを付け加えておく。そういえば前に同じような感想を抱いた作品があったなー、なんだっけなーと考えてたら、シュヴァンクマイエルのルナシーだった。あと、モザイク無しの海外版で無ければ真価がわからないと鼻息を荒げる輩が散見されるが、全くそんなことはなく、英語リスニング自慢の欧米厨の発言だと思った。
スコット・ピルグリムvs.ザ・ワールド
ギャグというのはその根幹の部分では、小学生のうんこちんちんと同じ、例えばドリフターズやMr.ビーンのような普遍性を持つが、高度化するほどに文化的な差異の部分へ面白さを大きく依拠するようになる。 笑うべきパートを頭では理解しながら、心ではとくだん面白いと感じない。なんとも波長を合わせるのが難しい映画だった。たぶんこの笑い、日本で言うとうすた京介の漫画に相当すると思う。
イディオッツ
(個人で輸入雑貨商を営んでいそうなスーツの男が微笑んで)ほー、いいじゃないか。ラース・フォン・トリアーはこういうのでいいんだよ、こういうので。私の中にある売れない劇団のイメージは、まさにこんな感じ。あと、私の中にある百万ヒット以下のテキストサイトのイメージは、まさにこんな感じ。そして年に数回、親族の中にいることを強要されるときの気分が、まさにこんな感じ。
ダークソウル
DV男や悪女から逃れられない人の気持ちって、たぶんこんな感じ。なぜなら、彼らはすごいペニスやヴァギナを持っている上に、絶世の美男美女だから。クセのある操作感を覚える段階は、まさにおまえの膣を俺のチンポの形にしてやるぜ状態。最初の調教が終わり痛みが消えると、待っているのは快楽地獄。背後から地面に頭ごと押さえつけられ、身の毛もよだつ太いチンポを次から次へとブチ込まれ、いつまでも終わらないアクメに全身は痙攣して、足の指は開きっぱなし。頭からは言葉が消えて、日常では経験できないほどの増幅した喜怒哀楽がただ渦巻く。私はもともと自己抑制の強い性質で、実は深く耽溺してしまう本性を恐れての防衛機制なのだと思うが、本当に愛しているものにさえ正面きって好きと言うことが難しい。つれないふりで実は、当アカウントをフォローしているあの人やあの人のことも、毎日愛のメッセージを送りたいほど大好きなのだ。安心しなさい、もちろん君のことは生理的に受け付けないほど憎んでいるから。そんなシャイでプリティでキュアフルな小生が宣言する、このゲームが好きだ、好きだ、大好きだ! ロンダルキアに降り立った瞬間の胸のおののきに端を発した我がゲーム遍歴、ゲーム好きを広言できないほどいい大人になってからでさえ、スピークイージーに通いつめるアル中が如くゲームを続けてきたのは、ダークソウルをプレイするためだったのだ。多くを不快にすることを承知で、話を蛇足的に続ける。私は3DSやらPSPやらモバゲーやら、本邦の携帯ゲーム群が大嫌いだ。グローブのような両手を持った身長2メートルを超える雲突く大男である小鳥猊下には、あのチマチマした画面と、何より操作のしにくさが致命的になじまない。そして、ゲーム性までそのサイズにたわめられる気がする。ニンテンドー64時代の、ちょうど与党から野党に転落した時期の任天堂が持っていたゲームのイノベーション感が、私は大好きだった。最近、時のオカリナが3DSでリメイクされたというから、3DSを本体ごと購入してひさしぶりにプレイしてみた。結果、ひどくガッカリさせられた。当時ハイラル平原に感じたあの無限の広がりが、小さな画面の内側に矮小化されているように感じたのである。マンホールのようなヴァギナを持った身長3メートルを超える雲突く大女である小鳥猊下には、3DSもPSPもモバゲーも言わば細すぎるペニス、致命的にGスポットへ届かないのだ。昨今の携帯ゲーム隆盛は、不況下の本邦における経済退潮が文化にまで侵食し、自信の喪失による精神退行を物理的な形に落とし込んだもの、言わば内向きの消去法で選択されたレジデューに過ぎないと考えている。人の叡智が創り出した何かが、適者生存の混沌に敗北した格好だ。64時代には、夢見ていた。じめじめとした洞穴を抜けた先、濡れたブーツが人類未踏の大地へ触れる。新雪は粉のように、足元へぱっと散る。風鳴りの向こうから聞こえるのは、一ツ目巨人の悲しげな吠え声だ。等身大の世界をそのままに体験するという場所へ、ゲームは進んでいくと夢見ていた。完全無欠のロックンローラーである私がロスに構えた邸宅へ、巨大スクリーンと多重サラウンドの完全防音シアターを備えたのは、正にその、ロンダルキアの夢を受け入れんがためだった。かつての希望とは真逆の携帯ゲーム台頭に、我が願いは虚しく終わるはずだった。しかし、最後に大逆転が待ち構かまえていたのである! とりあえず本邦のガバマンコ、違った、ガバメントはフロムソフトウェアにクールジャパン推進の先鞭として6兆円ほど投資すればいいと本気で思う。なに、こないだまで洋ゲーを礼賛してたし、ダークソウルも似たようなもんじゃないですか、だって? シャット・アップ・ユアフェイス! 若造がきいたふうな口をきくな! 国粋主義者の私にとって洋ゲーなど、和ゲーという幼妻を前にすれば、ただ性欲を静めるための買春、粗悪な代替物に過ぎないのだ! フロムソフトウェアのゲームはキングスフィールド2の昔から、中世ヨーロッパを思わせる西洋ファンタジー風の硬派な見かけで始まりながら中盤を過ぎたあたりから急激に、武器・防具・モンスター・ストーリーが本邦の伝統芸能であるところの厨二病化してゆくのが最大の魅力なのだ。中世の古城から折れた長剣を片手に始まったはずの冒険が、気がつけば異次元空間でレーザーを放つ月光剣をふるい、悪の首魁・スペースドラゴンをブッたぎるという大団円を迎えてしまう。いい意味で気が狂ったこの匙加減は、外人ぐらいの常識では到底たどりつけるものではない。すべての携帯ゲームよ、滅びるがいい。手のひらサイズのハイラル平原こそ、我が怒りの火の中へ燃え落ちよ。次世代ゲームの覇権だって? そんなものは小鳥猊下と十四歳以下の美少女とダークソウル以外の人類で勝手に決めればいい。
輪るピングドラム
誰かに届こう、わからせようという物語の、いかに醜く脆弱なことか。弱い物語は理解を得られた瞬間、消滅して意味を失う。理解されることが自己目的化したプログラムだからだ。強い物語は、不動の高みから人々を煽りたて、追い求めさせる 。そして作り手の胸の熾火に、触れるものすべては焼け落ちるのだ。西の情弱エリア在住のため、BDでの初視聴だが、第1話がすごすぎた。第2話以降も充分に群を抜いているのに、第1話があまりに研ぎ澄まされているため色褪せてみえるという凄まじさだ。棒高跳びの器具でハードル走をしなくてはならなくなった感じ。以後、情弱エリア在住の俺様の前では、ピングドラムのネタバレを禁止とする。
マクロスフロンティア劇場版
(天狗の面をつけた全裸の男が革張りの椅子にふんぞりかえって)何が「ぶっといミサイル」じゃ! チンポやろが! 何が「このバリア破って」じゃ! 処女膜やろが! 何が「小腸」じゃ! 子宮やろが! 何が「腸内細菌」じゃ! 精虫やろが! どれもこれも、あからさまにセックスを連想させようとしすぎなんじゃ! そのくせ、ちいともエロないんじゃ(萎えた陰茎のアップ)! ちいとも回春せんのじゃ(膨らんだ陰嚢のアップ)! どうなっとるんじゃい(天狗の鼻のアップ)! いますぐここに責任者を呼ばんかい!
ザ・ファイター
ロッキーから連綿と続く「ボクシング映画に外れなし」の言葉通り、本作もまた傑作の部類に入る。そして予想通りというべきか、クリスチャン・ベールの狂気じみた役作りが根こそぎすべてを持っていく作品でもある。すでに視聴済みの諸君は、親による略取行為と強いられた共依存に対して、「家族の絆」という欺瞞に満ちたラベリングでの擁護を試みる本作を、私がきっと口汚く罵るだろうと考えていたに違いない。視聴を終えるまでは、確かにその気分はあった。しかしながら、エンドロールに登場した実在の兄弟を見た瞬間に、批判めいた気持ちはぜんぶ吹き飛んでしまった。この家族は、これでよかったのだと思う。