猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

日の名残り


日の名残り


執事たちの沈黙! なんつって! 頭では名作であることを理解しながらも、裏腹に小生のまぶたは重くなり、未だこの枯淡に至らぬたくだくしい(おたく×2、の意)己が精神の健在を喜んだのだった。あと、昨今の翻訳に比しての邦題の凄みに、ゾッとした。

よい大人のツイッター講座その3

 (広いスタジオの中央に布のかかったキャンバス。背なしの椅子に浅く腰掛けた段ボール鼻の外人、カメラに向かってにこやかに)やあ、また会えたね。みんなをよ り良いツイートに導く当ツイッター講座の伝道師、トゥレットだ。いま、局の番組編成は上を下への大混乱だ。そんな中、当マイナー番組がちょっとした埋め草として思い出されたってわけ。ごめんごめん、ひがみっぽい言い方になった。世の中にはもっとひどいことがある。今回の登板を、ぼくは前向きに受け止めないといけない。さて……
 まだ君はこんなふうに考えているのかい? 「ぼくのツイートなんて、このご時世に余計なトラフィックを増やすだけさ」「結局みんな、有名人の普段着姿が見たいだけなんじゃないの?」「オフィスでも社員旅行には必ず仮病をつかうのに、人を引きつけるツイーティングなんて無理だよ!」大丈夫! ぼくといっしょに学べば、君のツイートは必ずリツイートされるし、君は必ず誰かにフォローされる! 繰り返すけど、このメソッドは米国でもワンハンドレッド・トゥエンティ・パーセントの成功が保証済みなんだ!
 今日の講座は、ちょっと趣向を変えてみよう。英語圏の名言を拝借して、日本語のツイートに変える方法だ。メイジ・ピリオド(meiji period)以降、本邦では庶民から知識人まで、欧米の発信に対する免疫力を喪失している。特に英語由来の情報は、魔法のように人々を無条件で降伏させてきた。メイジ・ピリオド(mage period)は未だ健在ってわけさ!(鼻段ボール、腹を抱えて爆笑する) これこそまさに上級編、着想の技術の極北、もう君の貧困な発想力で面白くもないツイートを無理やり捻り出す必要は無いんだ。ただすべてを借りてきて、片ッ端から翻訳しちまえばいいのさ!(鼻段ボール、キャンバスにかけられた布を取る。表れる文字列)

 ”I wouldn’t say a single word to them, I would listen to what they have to say and that’s what no one did.”(私は彼らに何も言わないだろう。私は彼らが言わなければならないことを聞くだろう。そして、そんなことは誰もやらなかったことだ)

 (鼻をつまんで)おお、翻訳くさい! 翻訳くさいね! 日本兵に銃剣で脾臓を刺突された紅毛人も、思わず首をかしげて困惑の表情を浮かべる翻訳くささだ! まず、英語と日本語の違いを明確にするところから始めよう。英語の文章における主語は強固で、その出現頻度は日本語の文章と比較にならないほど多い。これは簡単だね。次に、見落としがちなのは、英語の意味を担保するのは単語の順序だってこと。一方、日本語は助詞のおかげで、語順のくびきからは解放されている。簡単だろ? つまり、英語ツイートを日本語ツイートにするときは主語をできるだけ省略して、助詞の使い方へ少し意識を向けてやればいい。もう充分に簡単だけど、助詞についてもう少し補強しよう。この番組も、次があるのかわからない。出し惜しみは無しだ。おまちかね、ツイート技術の上級編。メモの用意はいいかい? 日本語の助詞は、文章の意味だけではなく論理性をも担保する。助詞を脱落させなければ論文になり、脱落の量を少し増やせば散文になる。じゃあ、多くを脱落させたら? そう、ご明察。それは詩になるんだ。ソー・ファー、ソー・イージー! 主語と助詞、覚えておくべきティップスはふたつだけ、すっごく簡単なのさ!

 『何も言わないだろう。彼らが言わなければならないことを聞くだろう。そして、そんなことは、誰もやらなかったことだ』

 うん、いいね。でも、まだまだ固いな。英語の助動詞が与える感情の明晰さは、日本語の淡い情感と対立する場合が多い。できるだけ訳出しないことがポイントだ。また、接続詞の論理性にも同様のことが言える。順接の場合は、思い切って省いちまえ。ソー・ファー、ソー・イージー! 助動詞と接続詞、覚えておくティップスはふたつだけ、すっごく簡単なのさ!

 『何も言わない。彼らが言うことを聞く。そんなこと、誰もやらなかった』

 少しは見られるようになってきたね。でも、省略の果てに元の文章に込められた気持ちまでを削ぎ落としてしまっては、本末転倒だ。細かく見ていこう。まず、”a single word”だけど、”single”を用いることで”a”の一個性を強調している。日本語として自然な強調となるよう語を付け加えよう。そして、”would”は仮定の意味合い、つまり、起こりえない現実への想像力と、起こりえないことへの悲しみを暗示しているんだ。これは語尾を解放することで、”would”の持つ感情的な余韻を表そう。

 『何も。何も言わない。ただ彼らが言うことを聞く。そんなこと、誰もやらなかったと思うから』

 ほら、誰にでもできる工夫でだいぶよくなってきた。え? なんでいつまでも「彼ら」を残すのか、だって? おいおい、勘弁してくれよ! これまでの講座で何を学んできたんだよ! 文章の硬度を調整するために決まってるだろ! このツイートの持つ乾いた気高さを、水気たっぷりの自己満足的な女々しさへ堕とそうってのかよ! それに、「彼ら」を取り除いたら、文章が自ずから持つ思考の足跡と、その出自が失われちまうだろ! そんなに自分の生まれた国が嫌いなのかよ! だったらエスペラントでもバブリングしながら、パシフィック・オーシャンの真ん中にひとりで浮いてろよ! もちろん、この未完成品をツイートしてしまう慌て者はもういないと思う。大切なことだから、何度でも繰り返すよ。君が唯一、衆に秀でた部分、有り余る時間を使うんだ。最後に、原文の持つ人としての共感を落としこもう。なんだか難しそうって? 簡単さ! 君が極悪非道のレイシストでも無い限りはね!

 『何も。何も言わない。そばにいて、ただ彼らが言いたいことを聞く。そんなこと、誰もしてやらなかったと思うから』

 フーム、いいね。すごくいい。たったこれだけの文章に、人の愚かさの受容と鎮魂の意思までもが見え隠れする。ちなみに、今回のツイートに用いた英語は、「ボウリング・フォー・コロンバイン」でのマリリン・マンソンのインタビューから引用した。不思議だね。ときに天使より悪魔の方が、深く静かに哀悼する。この世の悲惨は、すべて自分に無関係ではないことを知っているからかもしれない。興味のある向きはぜひ一度視聴して欲しい。この言葉が話される際の透明な空気感は、ぼくの知るいかなるツイート技術を持ってしても表現できないと思う。おや。ツイッター講座でツイッターの敗北を認めてしまった。
 さて、名残惜しいけど、そろそろお別れの時間だ。このお別れが一時期なものになるのか、ずっと続くものになるのか、それはわからない。だってそうじゃないか。毎朝、当たり前のように玄関先で見送る誰かの背中が、いつ失われてしまうのかさえ、誰にもわからないんだから。ただ、それが尊かったのだと後になって知るより、少しだけいつもの不機嫌を直して、いま目の前にある背中へ優しさを分け与えることが、きっとぼくたちにできる最良のことなんだと思う。きょう、君と会えた事実に感謝を。さよならは言わない。またいつか、どこかで。(微笑んで手を振る鼻段ボール。引いてゆくカメラ)

おわり(制作・著作 NMO)

ソウ・ザ・ファイナル


ソウ・ザ・ファイナル


「血と肉の色はどの人種でも同じことを知るだろう」。ピンクってこと?

ドラゴンエイジ・オリジンズ


ドラゴンエイジ・オリジンズ


ぼくは、例えばファイナルファンタジーが、ぼくとともに成長してくれなかったことをどこかで恨みに思ってきた。本邦のおたく産業は、いずれ誰もがそこから離れることを前提とした若さと未熟さを輪廻する文化であり、大人になったぼくはいつまでも離れられないことを恥じてうつむきながら、それを再確認し続けてきた。じっさい、おたくだったぼくはずっと、たぶんつい最近まで、三十歳から先は無いもののように感じていた。なぜって、ぼくのいる場所では、どこにもそれは描かれていなかったから。けれど、世界との処し方において、人の成長はどこまでも続いていくことをやがて知る。確かに、荒い作りのゲームだ。システムの根幹に気がついてしまえば、いずれ変わらぬ一本道RPGには違いない。キャラ造形にしたって、いずれ同じトラウマ劇じゃないかと言われれば、全くその通りだ。でも、どのキャラも人くさく歪んでるのに、そのくせ、その歪みを誰かのせいにしないほど成熟している。そう、すべての成熟が、ついにぼくをうつむかせなかった。争いや信仰や愛憎や生殺は終わることがなく、世界の破滅という大きな題目を前にしてさえ、誰もがじぶんの小さな安寧を捨てられるわけじゃない。「グレイ・ウォーデンはその無私により、あらゆる種族から人間の存亡をかけた信頼を付託される」。無私の奉仕だけが救済を可能にするという揺るぎない事実。己の生命よりも長く続く何かに寄与できることの尊さ。失われたと思っていたあの系譜が、こうあって欲しいと願ったあの物語が、異国の地で接木され、生き延びているのをぼくは見た。この若い文化さえ成熟できるということ、そして、誰かの成長に寄り添う物語を生んだということに、ぼくは深い感謝を捧げたい。

エクスペンダブルズ


エクスペンダブルズ


「うわあ、つまらない! びっくりするほどつまらないよ! 特撮とかアニメとかでもそうだけど、オールスターが登場するお話になると、とたんつまらなくなるのはどうしてなんだろう! 教えて、聖母さま!」「(微笑んで)それはね、ケンジ君、優しさゆえなの。スター全員に、等分の尺で見せ場を作ろうとする製作側の配慮が、シナリオから緩急と起伏を奪ってしまうのよ」「うわあ、聖母さま、ありがとう! よくわかったよ! もうぼく、オールスターものはぜったい見ないことに決めたよ! ぜったいに!」

キック・アス


キック・アス


らんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららーらんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららー。従来の魔法少女ものの文法を逆手に取ったのが貴様らの愛するアレならば、従来のアメコミヒーローものの文法を逆手に取ったのが俺様の愛するコレだ! ロリコンという罵倒ですら生ぬるい、刃物と銃火器を振り回しながら猥語を発する少女にしか欲情できぬ腐れオマンコ野郎どもには、お似合いの作品だわ! らんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららーらんらんらーらんららんらーらんらんらんらんらんららー。

マチェーテ


マチェーテ


なぜ本邦では武力蜂起や革命が起きないかと申せば、やはり打倒すべき悪が明確ではないことが上げられましょう。本邦において悪の概念にもっとも近いのは、近視眼的な責任回避や生への倦怠から来る不作為に端を発した、善の不在なのです。じっさい近年、大局として求められる悪を積極的に行使するだれかはいませんでした。しかしながら、善の不在も長く続けば、それは悪へと変質する瞬間を持ちます。そのとき本邦に登場するマチェーテは、閾値を超えた連中の生き血に染まる、鉈(なた)という名前のセーラー服少女に間違いありません。彼女はあらゆる男性から理由なく好意を寄せられますが、行為に及ぼうとする者はすべて死にます。深夜アニメで制作された後、似ても似つかぬ新人アイドルで実写化され、封切り一ヶ月ほどでこのキャラクターには完全なる国民的忘却が与えられるでしょう。そして、その新人アイドルがアダルトビデオに出演するときに、ほんの少しだけ思い出されるでしょう。こうして、武力蜂起と革命の気概は若者の胸から、ごく小さな体積で莫大な吸収率を誇るサブカルという名のポリマーへことごとくに吸い取られ、結果、この世の悪は保持されるでしょう。諸君、これが文化の差と呼ばれるものだ。

ベリード


ベリード


小生の少なくはない映画視聴歴において発見した法則に、「低予算映画はバッドエンド」が挙げられる。1つ目の仮説は、設定と脚本へ大きく依拠せざるを得ない宿命が、視聴者をあざむく方向へとそれらを複雑化させるからというもの。2つ目の仮説は、低予算しか与えられない監督が新人である可能性は高く、その若さが本邦で言うところの中二病に由来する後味の悪い幕引きを求めるからというもの。今作がいずれに該当したかはわからないが、高めに高めた息苦しさの後、多くの視聴者が求めるだろうカタルシスをあえて外した結末に、ひどく低予算映画を感じた。90分の閉塞が視聴者にもたらしている感情をなぜ利用しないんだろう。ミステリ的な脚本の収まりや現実への批判を含ませたい意図はわかる。でも、生理的解放感という単純さを嫌ったというだけの理由なら、もったいないなあ。

デュー・デート


デュー・デート


「論理的である」というのは現代人にとっての陥穽だ。数式や定理ではないそれは、万人に通じるという前提を持たないにも関わらず、有効性を疑われない状態に置かれている。論理性とは、個人の解釈に世界を矮小化するための筋道に過ぎず、物語化された後の世界が第三者に対して常に意味を為すわけではない。究極的に論理と宗教とは同義であり、それゆえ人間が二人いれば、この世に新たな教義が顕現する可能性がある。その特殊性こそが、人と人との関係性として、人生へ新たな意味付けを行うのだ。小生はそろそろ、頼みにならない相棒しかいないこのインターネットから抜け出し、現実のファック野郎とトレイラーでアメリカを横断したい。