猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

アリス・イン・ワンダーランド


アリス・イン・ワンダーランド


「トウの立ったアリスが最後に経済的自立を果たす」という一行まとめを聞いただけで、謎の韓流スター”ペ・ヨウジョン”の皆様は怒りのあまり鼻血を吹き、ネリチャギでちゃぶ台を叩き割るに違いない。映像技術とかシナリオとか、もうそういう範疇を越えた由々しき原典冒涜である。例えるなら、柘榴から生まれてきた桃太郎が犬と獣姦におよぶくらいの暴挙であり、万人の評価を前にしてなお、小生はひとり抗議のこぶしをティム・バートンに対してふりあげるものである。しかし、アリスが鎧を着て剣(賢明なnWoファンの諸氏には、これが何の象徴かおわかりですよね?)をかざした場面では「おお」とか言いながら、ちょっとだけこぶしを下ろした。あと、なんや、マッドハッターって。いかれ帽子屋やろが! 馳夫の中つ国をヒイヒイつらぬき丸やろが!

サックス博士の偏頭痛大全


サックス博士の偏頭痛大全


週末ごとに偏頭痛を迎える偏頭痛人格の小生は、いま正にひどい偏頭痛を耐えながら、虫の息でこれを紹介するものである。この本にはあらゆる症状・症例が網羅かつ言語化されており、もし君が偏頭痛を持病とするならば、その深い孤立感を大いに弱めてくれるだろう。誰かにそれを説明したいが、説明するのが難しいと感じたことがあるならば、ぜひ一冊を本棚へ備えておくとよい。また、偏頭痛など薬にもしたくない君にさえ、人体の高度なメカニズムに対するセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる名著である。

ゴッド・オブ・ウォー3


ゴッド・オブ・ウォー3


壁面を覆う100インチ超のモニターと7つ以上のスピーカーを備えたロスの大邸宅に住まうロックスターの俺様は、例によって片方の口角を上げた薄ら笑いでプレイを開始したのであるが、開始直後から全速全開の尋常でない迫力と熱気に、俺様の表皮の鱗を垂れ流れる白濁した液状の批判精神は、たちまちすべて蒸散したのだった。14インチブラウン管と1つのスピーカーを備えたワンルームマンションに大家族で住まうアジア在住の貴様らが、よし、このゲームへ何か人がましい言及をしたとして、もはやそれはレビューとして何の正当性も持てないだろう。だが同時に、小生のように手首を切ると青い血が垂れ流れる人間の高貴な言葉と等価の情報として、貴様らの部族の方言で語られた卑賎な言葉がネットの悪しき平等の上へ垂れ流れるのだという事実に思い至り、慄然とさせられたのである。その状況を俯瞰できる誰かがいるとすれば、王の人生と乞食の人生を、ただどちらも生命であるという観点から同じ天秤にかけるような、グロテスクな無意味さを見ることになるだろう。しかしながら、腋下や外性器への積極直舐めを誘発するような婦女子を三次元上にモデリングする技術に関しては、まだまだアジア在住の貴様らに軍配が上がることを、貴様らの名誉のために付け加えておく。主観的な省略の妙味こそ、本来は存在しない婦女子の魅力を顕現させるというからくりが、奴ら紅毛人にはわからぬのだ。あと、主人公の名前が女性の外性器の突起みたいだな、と思った。

MOON


MOON


良いSF作品の条件とは、若さと反体制と、何より人の孤独が描かれていることだ。この映画には、若さと反体制と、嗚咽にも似た孤独がある。監督がデビッド・ボウイの息子だというのだから、ちょっと出来すぎじゃないか。

マイレージ、マイライフ


マイレージ、マイライフ


いい脚本、いい俳優、いい映画。語りすぎず、じわりと沁みる。なあ、知ってるか。三十代の監督が撮ってんだぜ、これ。孤高を気取るnWoを本当の意味で絶望的な気持ちにさせるのは、こういう作品なんだ。

鈴木先生(10)


鈴木先生(10)


“愛のうた”は、「鈴木先生」の第1巻から始まった。はたして、何人がこの10巻までを追い続けているだろうか。現実を題材としながら、もはやファンタジーと称してよい中身にも関わらず、そのボルテージは依然として高まる一方である。そして、読むときに呼吸が止まり時計を見なくなる瞬間が訪れる、すれっからしの享楽乞食にとって数少ない作品の一つだ。さて、同じ学校を舞台にしたファンタジーという意味で、この作品が対比されるべきは、誰も指摘しないのが不思議なくらいだが、諸君がスメリー・マウスで萌え萌え言うところの「けいおん!」である。前者が「言葉が万人に有効である」というファンタジーを忍ばせているのに対し、後者は「女子の青春が男子無しで充足できる」というファンタジーを忍ばせている。違いは、それらのトリックを用いて作り手が描きたいと考える現実の側面なのだが、あえてその解答は諸君へ残しておきたい。ページの半分以上を文字が埋めるこの異様な群像劇を、君も体験してみないか。

ハート・ロッカー


ハート・ロッカー


USアーミー、かく戦えり。彼らが戦ったのが、いかに彼ら自身の恐怖であったのかがわかる。アメリカは映画を撮影することで現実の贖罪とする。だが、覚えておかなくてはならない。アメリカは同時に、映画を撮影することで歴史改竄を行うことを。山男エンド(俺たちゃ町には住めないからに)は、シナリオ的に収まりが良いのかもしれないが、イラクの実状に対しては、あまりに冒涜的過ぎた。

刑務所の前3


刑務所の前3


これを好きと言うと、ニワカ・サブカルかぶれを看破することを何よりの娯楽とする、リアル・サブカリストの方々が口の端を歪めて「ア・ハーン」という表情をするのがイヤでイヤで、あえて表明を避けてきたアングラサイト運営のこんなぼくですが、ずっと前から先輩のことが好きでした!

隣の家の少女


隣の家の少女


撮影は映画というよりTVドラマであり、いくら映像での残酷描写を重ねようと、その悲惨さにおいて原作へ遠く及ばないことが逆説的に原作の凄まじさを際立たせるが、毒親の支配する家庭の空気だけは存分に追体験することができる。本邦においては、おそらくエロゲーだけがこの作品の持つ文学性を再現できる唯一のジャンルであろう。さあ、思い出せ。おまえたちが創造と呼ぶそれが、天上から来た祝福ではなく、この地下室に由来する呪いであることを。そしてこの、顔面が不自由なヒロインを、萌え美少女へと昇華してくれ!