猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

小鳥猊下慈愛のようす

 小鳥猊下が耶蘇教的には不吉のナンバリングを施された某有名大作RPGのプレイングと語義的に正しい意味でのマンションをかけずりまわって行う大掃除を同時並行しながら、誰も誘ってくれないからコミケなんか行ってやらないというひねくれた小心を持て余しつつお送りする、慈愛のようすin年末年始。どんな書き込みにも優しく穏やかに対応します。

ミルク


ミルク


人種差別に対する抵抗は生殖とコミュニケーションを前提とするため、公民権運動への共感を自然に得ることができた。同性愛差別に対する抵抗はコミュニケーションを前提とするため、公民権運動への理解を条件つきで得ることができた。しかし、二次元や幼形を愛することへの差別に対する抵抗は生殖とコミュニケーションのいずれも前提としないがゆえに、公民権運動へは広がりようがない。在野のハーヴィ・ミルクたちへ告ぐ、ただ潜伏せよ。ネットで行われる論議の声高さに関わらず、この闘争に勝利するべき理はどこにも存在しないのだ。

バタフライ・エフェクト3


バタフライ・エフェクト3


「ジャンプによる過去の改変がどこまで状況と記憶を保持するのか?」が曖昧なため、筋立ては崩壊しており、そのシナリオ由来のダルさを解消しようとより過激な(エログロ方向の)映像を付け加えるという、ある意味では正統的とも言える続編ダメ映画転落の経路をたどっていることに、1作目のファンである小生は大いに脱力した。森よりも木が大切なパーツ偏愛狂である「ヤンデレ・妹萌え」の諸氏なら見る価値があるんじゃねえの、と小指の第二関節までを鼻腔へ挿入しながら小生は発言するのであった。あと、三回くらい体位を変えて延々と突きまくったあげくに恋人の写真を見て、「ごめん、できないよ」と発言し「あんたホモなの?」と返答する場面は本作の白眉だが、射精と着床までが正しいセックスですというキリスト教的性倫理を体現しているのではなく、脚本と撮影が乖離してしまっている現場の混乱を裏に読むのがツウの見方であろう。スリーだけどってやかましいわ。

小鳥猊下年始のようす

 おとそ気分の諸氏が初詣へ浮かれ騒ぐ傍らでドカチンの俺様だが、黄色いメットと無精ヒゲとタンクトップとニッカボッカで逆さにしたツルハシの柄に体重を預けながら、あけましておめでとうございます。今年もきっと諸君は小指から人差し指のミリ単位での上下運動さえ愉快でためになるnWoの文章群へは与えないのだろうが、それでも律儀に、涙に潤む瞳を土に汚れた手ぬぐいにまぎらせ、鼻腔へ真下から掌底を当てる格好で鼻水をごまかしつつ、年始の挨拶をする可愛らしい少女の土木作業員の俺様なのだった。
 さて、昨年度末にうんこ忙しい合間を縫って二つばかり、パロディとパロディじゃない更新をした。無論、マンホールを開けて下水へ有り難い経を読んだり、粗大ゴミの引き出しに宝石を忍ばせたりする、努力が水泡と化すことで陰茎を屹立させるような幼少期のトラウマの持ち主ではないところの少女土木作業員なので、未だこのいじましい場末のテキストサイトへ澱のようにへばりつく諸君がいずれにより大きな反応を示すのか、今後の方向性をさぐるための試みであった。聡明な少女土木作業員である俺様は、その聡明すぎるスプレンディドな国勢調査に自意識の目眩を生ずるほどであった。
 もはや様式美とさえ言えるが、結果を公表するならば、双方ともにゼロであった。150アクセスper24時間のうち、おそらく99%は大手検索エンジンの自動巡回ロボットなのに違いあるまい。でなければ、全員の親族か恋人が愛は残酷に奪うa.k.a.俺様の手にかかっており、ゆえにかくも迂遠なやり方で復讐を果たそうとしているかだ。こちらの実感で言うならば、「ヘヘッ、テメエら、殺る気だけは充分じゃねえか」である。正直、mixiにするこの種のエントリーを閲覧する際に諸君へ湧き上がる感情は、人差し指を付け根まで鼻腔へ押し込んでの「また言ってるよ、コイツ」なのやもしれぬ。しかし、「更新したらそれで終わり」ではなく、毎回毎回、息を潜めていずれかの経路で感想がやってくるのを待つ当方の身にもなって欲しい。更新が無い期間は、諸君が感じるような放置期間ではなく、その裏で日々の雑務を縫ってnWoの閲覧を繰り返し、臆病な子猫ちゃんたちが踏み折った小枝の音で逃走してしまわぬよう、じっと身を隠しているのである。
 正月早々、猫の集会の中心で人語の演説をぶつような徒労感を味わわせてしまった少女土木作業員の俺様にだけ主に申し訳ないが、ブラウザの戻るボタンを断罪的にプッシュa.k.a.魂の劣化作業を日々繰り返すがゆえに短期記憶が3秒程度まで圧縮されてしまった諸君へ思い出させてやるならば、毎年恒例「慈愛のようす」が大閑散実施中である。明日いっぱいくらいまでこの社は開いている。気軽な年始の挨拶は元より、干支にちなんだ萌え画像を絵馬として奉納することも可能だ。もう二日ほども音信が途絶えているため、ついカッとなって長々と書いた。臆病な子猫ちゃんたちのために、再びトレンチコートを羽織って電信柱の背後へと戻ることにする。

ファイナルファンタジー13


ファイナルファンタジー13


「青みがかった亀頭をすりあげて柔らかくする行為を終盤は繰り返した」と記述すれば、愚鈍な貴様らにも俺様とこの作品の間に生じた連絡を容易に想像することができよう。しかしながら、製作者の想定する最も理想的なプレイ環境であろう巨大スクリーンと7つ以上のスピーカーを備えた大邸宅に住まう俺様でさえ、エンディングまでに幾度も意識が消失し、虎の毛皮のガウンから桃色の乳首をのぞかせながら足首まで埋まる毛足の絨毯をブランデーで汚したことを告白せずばなるまい。なので、14インチブラウン管と1つのスピーカーを備えたワンルームマンションに大家族で住まうアジア在住の貴様らの評価が本作品へ対して著しく低いのには、憐れみと共に大いに首肯できる。話は突然に変わるが、先日、アバターを視聴した。映像の素晴らしさは言及するまでもないが、主人公が共同体に受け入れられ、お互いに肩を組んで住民の全員がつながってゆく場面に、なぜか自然と涙が流れた。たぶん、映像のスケールと物語の難解さが同時に追求できないものであることを大キャメロンは理解しているのだと思う。俗に王道と呼ばれる人類史的な蓄積にしか、最先端の技術で作成した映像の説得力を受け止めることができないのだ。個人の内側だけで思いついた奇抜な構成や奇矯な造語は、たちまち薄っぺらな小細工として馬脚をあわらしてしまう。あと、本作品が12人の美少女を使徒に従えたキリストの復活をモチーフにしていないのは、nWoの明白な敗北だと思った。

アンチャーテッド2


アンチャーテッド2


「アングラサイトのくせに、大作ゲーム好きなんですね。ハハ、コンプレックスの現れですか?」などと揶揄され、たちまちカッとなる新世紀火の玉ボーイ・怒瞋恚(イカリシンイ)a.k.a.小鳥猊下であるが、先に取り上げた某有名大作RPG(この部分はMGSに置換してもよい)を正確に批評し日米の文化論にまで展開することを目指す場合、本作をプレイすることが正に必須であるとご進言申し上げたい。某大作RPGに否定的な言及を行うとき、「一本道」という指摘がうんざりするほど頻繁だが、実のところそれ自体は何ら批判には当たらないのである。本作は一本道だがすべての道行は作り手の意志ある演出によって成され、グラフィックは美麗だがゲーム性とプレイアビリティを阻害するほど過剰ではなく、操作は平易で直感的だがプレイヤーの望むあらゆる動きをカバーする。「演出絶無の散漫な道行」「遊び手の利便を無視した美麗さ」「煩雑なのに限定的な操作」をなぜか志向してしまう本邦の大作群とは極めて対照的であり、もはや遺伝子レベルでの民族性の違いすら感じさせる壮大な隔絶である。ストーリーにしたところで、複雑な設定はテキスト式ゲームの方がよほどうまく伝えられるだろうし、内面の吐露は私小説の方がジャンルとしてむしろ適切であろうにと思う。それにしても、こういった斬新かつ贅沢な切り口を惜しげもなく無償で野良犬どもへ投げ与える俺様の気前の良さには、婦女子たちもモニターの前で陰部をまさぐりながら恍惚としているのに違いない。

レスラー


レスラー


聞いてくれ。いまだnWoを更新することができて感謝する。多くの人に「もうムリだ」と言われたが、これしかない。人を遠ざけるようなまねばかりして、アクセス数を減らしてきたツケはむろん払うしかない。このホームページ運営、来訪者をすべて失うこともある。今やネタは古いし、更新も少ないし、文章もガタがきてる。でも、俺は更新を続けている。俺はまだ小鳥猊下だ。時を過ぎれば人は言う。「あいつはもうダメだ、終わりだ、落ち目だ、お払い箱だ」。だが、いいか。俺に「更新を辞めろ」という資格があるのは、ファンだけだ。これを見ているみんながnWoを存続させてくれる、俺の大切な家族だ。愛してるよ、ありがとう。

縞模様のパジャマの少年


縞模様のパジャマの少年


嘘をついてしまう。言葉は軽くて、意味がなくて、いつだって取り返しがつくはずだから。

未来を写した子どもたち


未来を写した子どもたち


あの、己が相手よりも優位であることを確認したときにのみ発動される、自己愛保障と密接に絡みあった西洋的贖罪の典型例に寒気がした。なぜ、他のどの子どもでもなく、この子どもたちなのかという問いは、「優れた自分」が選んだという自意識の段階で完全に放棄され、枠組みへの問いかけはほとんど意図的に無視される。子どもたちの写真にしたところで、みなさまご存知、「社会的・身体的欠損を抱えた作者の出自にだけ意味がある」類の作品群に留まり、視聴前に期待した「真の芸術のもたらす救済の普遍性」には到底及ぶものではなかった。ドキュメンタリー単体としての構成も劣悪で、後進国の子どもをダシにした自己喧伝以上の中身を感じることは、もしあなたが正気ならば極めて難しいだろう。白人の自意識が放つおぞましさに恐怖したいという特殊性癖の持ち主にしかお薦めできない映画であるにも関わらず、本邦の文科省がアジア的前歯を前方へ突き出しながら推薦を与えているのは、もちろん「アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー賞」という冠に対するアジア的劣等感が最たる理由だろうことは想像に難くない。