猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 おもにエッキスで話題のプロジェクト・ヘイル・メアリーをIMAXで見る。以下は、原作を2周読み、物語の展開と科学的ギミックの詳細について、ほぼすべておぼえている人物による感想です。小説が記憶喪失の一人称による段階的な情報開示と科学知識への興奮でストーリーを駆動したのに対して、この映画は洋楽の懐メロをふくむ多彩なBGMと宇宙空間の映像美をナラティブに変えて進行していきます。舞台は基本的に宇宙船という単一の密室ですが、原作にはなかった全天型のプロジェクターを導入したり、音波生物の主観カメラをビジュアルで見せたり、一人称の独白による状況説明は地球へのビデオレターのていをとるなど、小説を映画として成立させるためのさまざまな工夫があちこちに見られます(ロッキーが使うドーム型の歩行器って、原作にありましたっけ?)。さらに、ふだんSF映画を見ないような観客のためにBGMは、かなり意図的な「いま何が起きていて、どう感じるべきか?」を誘導する情動のガイドになっていて、すこしうっとおしいなと思う瞬間はありました。しかしながら、小型ロケットで試料を地球へと送りだすさいに、ビートルズの”Two of Us”が流れだしたときにはブワッと涙があふれましたから、単に好みの問題なのかもしれません。

 また、センス・オブ・ワンダーを喚起する科学的ギミックの数々は、短いセリフや映像であっさり処理されていきますので、原作を読んでいないと意味のわからない部分が多くあるのではないかと心配になります。ざっと思いつくだけで、固体のキセノンが通常の地球環境ではありえないとか、宇宙放射線の影響でロッキー側のクルーが全滅したとか、相対性理論を知らないので余分の燃料を積んでいたとか、タウメーバがキセノナイトの分子構造をすりぬけたとか、初見の一般人(ノット・SFマニアの意)に作中の描き方でちゃんと伝わるのかには、はなはだ疑問が残りました。小説ではロッキーにとっての「食事と排泄」が、かなりデリケートな”種の問題”として描写されていたのに、映画では一瞬のギャグシーンとしてサッと流されてしまいますし、超重力惑星であるエリドに地球の宇宙船がどう着陸したか、あるいはしなかったかについても、既存の科学知識に照らして説明できないせいなのか、残念なことにオミットされています(これは小説でも、そう)。その一方で、一人称をつらぬいたがゆえに原作ではえがくことのできなかった”エリドの反対側”の結末をわずかばかりながら見られたのーーキセノナイト製の分身を地球へと帰還させるのには、グッときたーーには、かなり溜飲の下がる感じはありました。小さく重箱のスミをつついておけば、問題が解決したことを「赤背景から黒色の染みが消滅する十数秒」にあずけるのはあっさりしすぎていて、いささか大冒険のカタルシスを減じているようには思います。

 映像化されたプロジェクト・ヘイル・メアリーを見て、あらためて気づいたのは、いちどは70億人の同胞を見すてた者が、たったひとりの異星人のために、おのが生命を投げうつ決断をしたということで、私的な”良い物語”の条件である「始まりと終わりで、主人公がまったく別の場所に立つ」を、本作は物心ともにはたしていると言えるでしょう。こういった深い感慨をいだくのと同時に、昨今の世界情勢をかんがみるにつけ、たとえ地球滅亡の危機にさらされたとして、国家の枠組みを超えた人類の共闘は決して実現しないだろうという諦観もあります。作者のアンディ・ウィアーが続編の執筆を確約したとのことですが、本作のエンディングから時系列を延伸するのではなく、この世紀の名作が語り足りていない部分を「SIDEストラット」によって補完してくれることを望みます。