近しい人にすすめられて、見る気はなかった地面師たちを1話から流しはじめた。エルデンリング2周目のオトモにと考えていたのが、いつしかコントローラーから手は離れて、視線は画面に釘づけとなっていた。クライム・サスペンスとしては、ベター・コール・ソウル級のおもしろさである(言い過ぎ?)。じつは直前に、実写版のゴールデンカムイを流し見していたのだが、両者の違いについて少し考えこんでしまった。以前、事大主義な全共闘の闘士たちが人定作業の甘い映像会社や演劇業界にもぐりこみ、そこでフィクションを通じて継続した「革命」が、本邦のアニメや映画における人物像と演出を、前世代の作法と連絡を断絶した独特の中身へ変質させていったと指摘したことがある。それに加えて、大手芸能事務所がキャスティング・ボードをグリップし、作品内のキャラクターというより、当該人物の作品外におけるイメージ戦略を優先した配役が長年、横行してきたことも原因の一端ではあるだろう。つまり、本邦におけるドラマや映画は商品販売のためのショーケースに過ぎず、本体というよりは冷蔵機能のついたガラス製の棚と同じあつかいを受け続けてきたのである。陳列された新鮮な果物がよく見えて腐りさえしなければ、それで必要十分だったのだろう。ネトフリ資本によって、こういった本邦に固有の二重、三重となった、本来的に物語を物語るのには不要な”枷”がとりのぞかれたことで、作品のクオリティを飛躍的に高めたのは、戦後のエンタメ業界に向けた意図せぬ批評かつ最大級の皮肉と言えるかもしれない。この理屈は、本邦の2次元文化を模した大陸産や半島産のゲームが大躍進している理由にも紐づけられる気はするが、ここではあえてふれないでおく。
実写版ゴールデンカムイで、劇的な音楽をバックに両のマナコをカッぴらいた「俺は不死身のフジモトだ!」の絶叫を見たあとだからかもしれないが、地面師たちにおける抑制的な演技と主張しすぎない劇伴は、虚構内で誇張されたキャラクターではない、実在の人物による思惑が、だれからの優遇も受けず等価にからみあっていることを、ただ静かに主張している。少し話はそれるが、電気グルーヴのファンたちは、石野卓球が彼の最高のバディのために本作へ楽曲を寄せている事実に、涙したことだろうと思う。だが、かつて深夜ラジオで「魂のルフラン」をボロッカスのクソミソにけなした石野卓球が、まさに魂のルフランそのもののオシャンティなメロディを提供しているのに、舌うちとともに苦虫をかみつぶした表情になったことを、場外の情報として付け加えておく(音楽の良し悪しは不明ながら、春エヴァから夏エヴァにかけて、死ぬほどリピートした曲なので……)。閑話休題。地面師たちのクオリティは、脚本のよく練られたアジアを含む海外ドラマや映画と同じ域に達しており、角界の闇を描いたサンクチュアリに引き続いて、ピエール瀧がイキイキと最悪に反社な演技ーー「もうええですやろ!」ーーをしているのには、「オールド・メディアから干されて、本当によかったな」と心から思えたし、黒人ハーフのオロチさんが最後の最後まで、見ているこっちがイライラする底抜けのバカのままなのは、まさに「ストーリーの都合で変質しない、生育史をさかのぼれる人格」が与えられている証拠で、じつにすばらしい美点である(ピエール瀧に言わせる「ええシャブでも手に入れたんか!」という台詞は、さすがに遊びすぎですが……)。
まあ、ゴジラ・マイナスワンみたいな映画を見すぎて、虚構接種の体幹がナナメになってしまった身ながら、マトモな脚本で演出と演技指導を正しく行えば、本邦の俳優たちの”格”は何倍にも上がるのだなと、しみじみ感じました。本作のトヨエツなんて、ジャンカルロ・エスポジートに匹敵する風格と存在感ですよ(言い過ぎ?)! 特に最終話におけるGOアヤノとの対決なんて、沢田研二と藤竜也のテレビドラマからウッカリ「やおい文学」を創設してしまった栗本薫が見たら、墓穴からとびだして真夜中の天使クラスのナマモノを一晩で記述するだろうほどの、ヌレヌレとした濡れ場でしたよ! 細かい場面を思いつくまま書きますと、稟議書の捺印にまつわる社内政治には、組織の規模こそまったく異なりますが、メチャクチャ感情移入して胃が痛くなりましたし、その後の大はしゃぎの絶頂から、地獄の底の底までストンと一直線に落ちる感じも身に覚えがあり、なぜかずっと泣きながら見ていました。あと、トヨエツがリリーフランキーを突き落とす場面は、現場で演出担当が「ダイハードになぞらえて、1で押すと思わせて2で押しますから」とリリーフランキーに言いふくめたあと、トヨエツに「3で押してください」と伝えて撮影されたにちがいなく、その驚愕の表情に思わず笑ってしまいました。それと、暴力シーンはどれも目をおおいたくなるほどリアリティのある凄惨さなのに、セックスシーンがすべて着衣なのには、「コンプラを気にする場所がちゃうやんけ! 四十路の尼さんの乳首みせんかい! いや、それより、山本耕史の尻エクボださんかい!」と純粋な義憤にかられました。しかしながら、トランクスの前の穴からTINTINだけ出してバックから挿入する様子を、頭上のフキダシに想像すると、もっともフィジカルでプリミティブでフェティッシュなファックにも思えてきますね(きません)。
盆休みのヒマにあかせて、なにか高尚な文芸映画を見ようとネトフリをさまよううち、よりによって「ザリガニの鳴くところ」を再生してしまう。アダルトビデオやかつてのエロゲーは、しばしば「男性向けフィクション/ファンタジー」なるレッテルで揶揄されてきたものだが、それになぞらえて本作を端的に評するならば、いまはなきハーレクイン・ロマンスの正統なる忌み子であり、女性の欲望を極限にまで圧縮することでショッキング・ピンクの塊に結晶化させた、「薬屋のひとりごと」もマッツァオの、超絶的「女性向けフィクション/ファンタジー」だと表現できるだろう。本職の生物学者が書いたという原作の夢小説ともどもから放たれる、男性のみが嗅ぎわけられる犬笛のような悪臭(なんじゃそりゃ)を、偏差値の高い女性ほどなにも感じないという慄然たる事実を目のあたりにし、配偶者やパートナーから「気がきかない」と言われがちな朴念仁の男性諸氏においては、オンナゴコロの教科書として、本作をケンケンフクヨーすべきだと断言することに、もはやなんのためらいもない。やはり、以前にも指摘したように、思春期を基準点として「いつ色気づくのか?」は、高学歴女子の人生において、きわめて重要な命題であるとの想いをあらたにした次第である。視聴中に生じたオトコゴコロの変遷について、順を追って説明していこう。
まず、物語のキモであると同時に作品テーマの中心と思われがちな、天涯孤独の「沼地の少女」については、かつてのジュブナイル作品で、恋愛の進展やセックスの阻害要因となる両親を海外出張させたり、遺産を残して他界させたりするのと同じレベルの、作者にとって好都合な「舞台設定」にすぎない。それを証拠に、母親、きょうだい、父親が順にいなくなる過程を描写する筆のぞんざいさを見れば、のちにイケメンたちと気がねなくファックするための、人ばらい以上の意味は与えられていないことがわかる。小学生の女子児童が沼地にひとり生活するのは、あまりにウソっぽいと作者も感じたのだろう、主人公を気にかける「良い大人」として雑貨店の夫妻を登場させるのだが、彼らが有色人種に設定されているのは、たいへんにしゃらくさい。寝起きをともにする相手でさえなければ、肌の色の濃さぐらいは充分に許容範囲だし、「昨今うるさい、ポリコレまでクリアできちまうんだ」程度の安易な着想によるものだろう。そして主人公は、初潮など身体の変化に向けたとまどいみたいなメンドくさい箇所はスッとばして、沼地にひとりで住んでいるわりには、登場のたび衣装が変わり、ムダ毛の処理もおこたらない、とても清潔感のある女性に成長するーーというか、役者が変わる。ほどなくして、腺病質だが沼地の植物を愛する学者肌の「理解あるカレ」と出会い、その庇護の下において、アルファベットの記述さえおぼつかなかったのに、みるみるとウソのように識字を習熟させ、1年で町の図書館の本をすべて読破(!)するまでになる。もっともこの描写は、少年漫画で言うところの「過酷な修行とパワーアップ」へ相当するもので、内容のリアリティについて深く考えてはいけない。
一般論として、性愛を知りそめた若い女性にとって、ただ優しいだけの男性とのセックスは、次第にものたりなさを増してゆくものだ。しかしながら、そんな下品な潜在意識を口には出せないものだから、男性側が大学進学でいったん地元を離れなければいけないことにして、10ゼロで非難されない状況を作りあげるのは、じつに巧妙かつ狡猾である。少し話はそれるが、のちに植物学者となって町にもどってくるこの人物は、出版社のリストを主人公に渡しながら、「キミの植物スケッチを送れば、必ず本にしてくれる」とうけあい、じっさいそうなる。25年ものあいだ、だれからも請われないままインターネットにテキストを記述し続けている身からすれば、本作における最大のフィクションかつファンタジーは、この点だと言えるだろう。「ラノベの賞に十数年、応募し続けてモノにならなかったのが、自らの身体障害をネタにしたら、即座にブンガク賞を受賞した」みたいな話を仄聞するにつけ、「インドの被差別層の親が子の片脚を切り落として、観光客の行きかう街路に座らせる」のと、いったいなにがちがうのか、真剣に考えこんでしまう。結局、現実の肉の属性だけが価値判断の基準となる時代であり、有名大学を卒業した190センチ近い高身長で、年収も本邦の同年代の上位5%に位置し、生物としての繁殖を堂々と終えた中年美少女の嘆きなど、だれも読みたいと思わないのである(虚構日記です)。
話をザリガニだかゲジゲジだかにもどしますと、次に主人公は、傲岸不遜でアタマの悪い「ええとこの氏」であるところの、七三マッチョとつきあい始めるようになります。人ぎらいとうそぶきながら、わざわざ若者の集まる砂浜の片隅で本を読む様子は、ウツボカズラを彷彿とさせる食虫植物のようでしたし、濃厚なキスとペッティングのあとで自発的に身を横たえてからマッチョを突きとばして、「軽い女だと思わないで!」と叫ぶのには脚本と撮影の乖離を強く感じましたし、ファック後にする「私の心の貝が少し開くのを感じた」というモノローグには、「それ、股間の秘貝やないかーい!」と思わず大声でツッコまされてしまいました。結局、この七三マッチョの女グセの悪さと粗暴さに嫌気がさして、植物学者となった腺病質の元カレと元サヤーー刀がINKEIで鞘がCHITSUだと考えると、この単語、エロくないですか?ーーに収まるため、沼地の性質を利用したSATSUGAI計画を実行に移します(ミステリ小説の犯人名にマーカーを引くレベルのネタバレだが、正直どうでもいい)。この殺人事件をめぐる裁判が、ストーリーの柱と言えば柱なのですが、クライム・サスペンスに目の肥えた観客からすれば、裁判官も検察官も弁護士も陪審員も証人も傍聴人も、全員が「ことごとくバカ」という、とんでもなく視聴者の知性をナメた仕上がりになっていて、めまいがしました。
そろそろまとめに入りますと、本作は「肉欲の権化みたいな男とレイプまがいの荒々しいセックスを充分に楽しんだあとは、ベッドでの所作は少し不満ながら、私のことを深く理解して尊重する、趣味のあう優しいカレと結婚したい。そのさい、以前に肉体関係を持った男には、みんな死んでいてほしい」という身もフタもない特濃の欲望からできあがっていて、男性が見ればなにが楽しいのかサッパリわからない、「フィーメイル・ポルノグラフィ」としか形容できない作品となっているのです。不自然な濡れ場カットも多く、文芸映画としてなら30分は尺を縮められると思いますが、ポルノ映画と考えれば、大いに得心する感じはあります。本作の視聴へといたった最大の動機はタイトルであり、いにしえの「ひらがな4文字の生物が鳴くシーズン」から宇宙背景放射のような影響をこの精神が受けていたのではないかと遅れて気づいて、いまはひどく気分が落ちこんでいます。ザリガニの英名がクロウダッドであると知った以外、この映画は私の人生から2時間をうばっただけで、なにひとつ加えなかったことをお伝えして、長々とした犬のような感想を終えることにしましょう。
待望の「黒神話:悟空」を第2回(章に相当)の、おそらく中盤までプレイ。まず、ゲーム部分をサッと湯どおしするように腐しておくと、システムはゴッド・オブ・ウォーをベースにダークソウルを隠し味に加えて、そこから防御とパリィを引いたものとなっています。武器はもちろん如意棒の一択であり、ボス戦は敵の大技をローリング回避しながら、FF16ばりに少ないダメージをペチペチーー効果音がショボいので、本当にこの擬音がピッタリくるーーと地道に累積していく以外の方法がありません。比較的ダメージ量の大きいタメ攻撃もあるにはあるのですが、道中の雑魚敵を気持ちよく処理するのには使えても、ボス戦ではほぼ役にたちません。なぜなら、こちらのタメ攻撃に対してはエルデンリングばりの、まるでキー入力をダイレクトに検知しているかのような超反応による「潰し」が入るからです。このことに気づくまで、濁流に下半身を封じられた南斗水鳥拳のごとき「跳べない猿」をしつこく棒で跳ばそうとし続け、PS5のコントローラー1個を破壊しました。近年ではゲームソフト1本よりも価格が高いぐらいになっており、破壊へのハードルは格段に上がっているはずなのですが、それさえも抑止にならず、このゲームはみごとに小鳥猊下から「撃墜数1」をあげたわけです。キー入力に対するレスポンスも微妙につっかかる感じがあり、あと一撃というところでR2L2を同時押しーーなんなん、この意味不明のキーアサイン?ーーする妖怪技が不発で得勝を逃したときには、夜中にもかかわらず魂の絶叫がほとばしりでました。もし今後、nWoの更新が長く止まるようなことがあれば、脳か心臓の血管に由来する激情型突然死か、近隣住人の通報による措置入院のせいだと考えてください。
全体の進行は「オープンワールド風味の、枝分かれが若干ある1本道」になっていて、移動を制限する不自然な透明の壁があちこちにあり、関所のように立ちはだかる理不尽の中ボスを倒すまで、ゲームの進行は完全に停止します。アンリアルエンジン5によるフィールドは美麗さ優先で作られており、スターフィールド用に新調されたデスクトップPCでさえ、処理落ちで重くなる瞬間が何度かありました。また、レベルデザインが甘いため、ふつうはプレイヤーの強化にともなってゼロにまで漸減していくはずの経験値が、いつまでも固定された数字で入るので、ダークソウル式のリスポーンを利用して同じ雑魚敵を何度もたおすことで、序盤エリアから延々とレベル上げができてしまいます。この脳死周回はファミコン時代のレベリングを想起させる絶妙な楽しさーー普段の労働が「同じ内容を、同じ精度でくりかえす」ことに特化しており、性格由来の強い耐性があるーーであり、おかげさまで米国の共和党大統領候補みたいな略称を持つアニメの最新更新分までを、ながら見で履修完了しました(感想は言いません)。サッと湯どおしするだけのつもりが、「高温のコークスで、まる鍋の底を真ッ赤に焼く」みたいになってしまいましたが、本作に対する評価は言うまでもなく、120点です。なぜって、あの斉天大聖・孫悟空をプレイアブル・キャラとして操作できるのですから! この感情は、ワンサイズ小さいパンツでパンパンーー単なる擬音で、他意はなしーーになったムチムチの尻を誇示し続ける整形顔少女が大活躍のステラーブレイドによってかきたてられた欲望と、まさに陰陽をなすものだと言えるでしょう。半島と大陸の新進ゲームメイカーが、世界におのれたちを認めさせるための、言わば社運をかけた乾坤一擲の大バクチに、「美への欲情」と「猿の英雄」をそれぞれ選んだのは、文化論的にも非常に示唆に富んでいると指摘できるでしょう。同時に、本邦の例の超人気マンガに名前ごと上書きされてしまった自国のIPを、巨大な物量で塗りかえすことで取りもどそうとする静かな意志を、ひしひしと感じます。
昭和後期に青春を過ごした人物は当時、おそらく国交正常化によって醸成された機運から山ほど作られた西遊記オマージュ作品に、心の深い部分をコンタミされており、原神インパクトに続いて長く閉じられていたフタを開かれ、その繊細な部分をひさかたぶりに外気へとさらされた気分になっております。いまパッと思いついた順にならべてみると、「そうさ、いまこそアドベンチャー」は言うまでもなく、「火の玉、悟空の大冒険、ドカーン!」や「ニンニキニキニキ、ニニンが三蔵」や「そこにゆけば、どんな夢もかなうというよ」など、傑作・怪作の数々がそろいぶみ、もしかすると「さらば地球よ、旅だつ船は」さえ、原作小説のSF的翻案だったのかもしれません。個人的には、たぶんタイムラインのだれも見ていないだろう、チャウ・シンチー監督の「西遊1&2」が大好きで、ガンダーラ編を描くだろう3の発表をいまだ心待ちにしているほどです。「黒神話:悟空」は、盛大にネタバレてしまえば、三蔵法師を無事に天竺へ送りとどけてから、悟空が作品舞台を再訪する後日譚であり、西洋文明のこざかしい批評家による「ストーリーは断片的で支離滅裂」などという指摘は、東洋文明における聖書に該当する書物についての基本的な知識すら持たないという、教養の欠落とむきだしの差別心をそれとは知らないまま、恥しらずに露呈しているにすぎません。たとえば、旧約聖書のテキストをそのままゲーム体験に落としこめば、ストーリーは現代の感性に照らして意味不明なものになるでしょうが、その指摘に対して金髪碧眼のサルは、黄色い肌をしたバーバリアンどもの無教養を、口をきわめてののしるにちがいないのです。
ともあれ、全クリしたら(できたら)、また小鳥猊下の申しのべる感想をタダで読めるわけであるから、諸君はこれから壊れるだろう複数個のPS5コントローラーの代金(値上げ後は、1万2千円超!)として、noteにお気持ちを課金してよい。
ずっと気になっていた配信映画の「ドント・ルック・アップ」をネトフリでみる。まず目につくのは出演陣の異様な豪華さで、もしかするとオーシャンズ11とかエクスペンダブルズみたいなキャスティングの裏話があるのかもしれません。ディカプリオは言うにおよばず、出演作は必ず見ると決めているところの、ケイト・ブランシェットとメリル・ストリープが配役されているーー彼らの最高傑作は順に、「ブラッド・ダイヤモンド」「ロード・オブ・ザ・リングス」「クレイマー・バーサス・クレイマー」ーーことも視聴の決め手となりました。ストーリーは、半年後に地球へ衝突する大質量隕石をめぐる、主にアメリカ国内の狂騒を描いているのですが、日本沈没の例を持ちだすまでもなく、ある破滅や災厄が人間性の底の底までをもあばいてゆく展開は、おもしろくなることが確定した「思考実験」と言えましょう。ちょうど殺狼奈禍の真ッ最中に公開された作品であり、「これからの映画は、配信が主流になる」みたいな、スローガン未満のボンヤリとした”かけ声”を元に、劇場でというよりは、家庭での視聴に軸足を置いて撮影されたと推測するのですが、「暗いハコに2時間をおもしろさでピン止めしなければならない」という制約から外れて、いつでも一時停止からの離席や”ながら見”が可能なことを前提とした作り方は、構成にしまりがないと言いましょうか、編集でシーンを刈りこめていないと言いましょうか、どこか緊張感を欠いているように感じました。冒頭付近で画面を静止させて、テロップによるツッコミが入ったときは一瞬、「コメディ路線かな?」と思ったのですが、その演出はなぜか1回きりで終わり、社会風刺のような文明批評のようなSNS批判のようなサイファイのような、風に舞う落ち葉がどの地面にも落ちきらない(フォレスト・ガンプ!)ようなトーンで物語は進行してゆきます。
いつものごとく、冒頭からフルスロットルで重箱の隅を激しくスタッブしておきながら、小鳥猊下が自信をもって「ドント・ルック・アップ」を全人類マスト・ウォッチの一級品であると断言するのは、同様のテーマを持つ作品群がむかえがちな、「破滅はすんでのところで回避され、人々はすべてを忘れたかのように、また微温的な日常にもどって」は、”いかない”からです。ここからは盛大なネタバレになるので、まだ本作を見ていない方は、見たあとにもどってきましょう。企業の利潤追求と政権与党の腐敗ーーこんなサヨクのハンコ・フレーズを、まさか使う日が来ようとは!ーーに、マスメディアのトーン・ポリシングとSNSを通じた衆愚たちの発信が臨界に達した場所で、なんと大質量隕石はじっさいに地球へと衝突してしまうのです! 本作の監督がインタビューに答えたところの、「現代社会において、宗教は掃いて捨てるほどあれど、信仰がない」という言葉から判断するに、全生命必滅のジャイアント・インパクトが進行する中で、狂乱の日々ーー超絶ハイスペ女子アナとの不倫などーーから家族のもとへと帰り、心おだやかに日々の生活をふりかえりながら、神に祈りをささげる最後の晩餐が、彼の考える「正しい信仰」の描写なのでしょう。ディカプリオが最後につぶやく、「じつは、すべて持ってたんだな」という台詞は、タイタニックでの「軽薄な美男子」というレッテルに始まり、現在へいたる彼の長い長い俳優人生がオーバーラップして聞こえて、少し涙が出ました。
そして、地球の大災厄からエンドロールへと突入し、その終わりに「2万2047年後ーー」のテロップが出たときには、この監督が「トップをねらえ!」か「ワールド・イズ・マイン」の熱心なフォロワーであることを、心中に確信しましたね(たぶん、ちがう)。与えられた死の予言に対して、家族を大切にした者は回避ーー孤独には死なないーーでき、家族を粗末にした者は成就ーー異星で怪鳥に食われるーーするという展開は、あまりにもキリスト教のスキームが全宇宙をすみずみまでおおいすぎていて、なんだか笑ってしまいます。良きにつけ悪しきにつけ、この強固な枠組みが彼らの精神の基底部を形づくっており、シリアスなものであれ荒唐無稽なものであれ、どんな種類の虚構や創作もこれを無視しては成されないのだなと感じました(マリリン・マンソンのインタビューを見たときも、同じことを考えたのを思いだしました)。また、「最後のエデン」へとたどりついたのは、大企業の年老いた社長とCEOや、功なり名とげた著名人ばかりで、「産めよ、増やよ、地に満ちよ」という神の御心からはもっとも遠い、致命的に繁殖の不可能な集団になっていて、あまり言いたくはないのですが、就職アイスエイジ・エラを経験した身にとって、ニュートラルな他人事の戯画や風刺画のようには、どうにも受けとれませんでした。
あと、ティモシー・シャラメが「敬虔な耶蘇教徒である町のチンピラ」という役まわりで登場するんですけど、髪の毛はボッサボサながら、昭和のスポーツ紙のフーゾク・コーナーふうに表現すると、「生ツバ、ゴックン!」の高貴なエロさを横溢させていて、こいつスゲエなとあらためて感心しました。ちなみに、デューンはすごくつまらない映画です(おしまい)。
原神の第5章である「ナタ編」を実装部分までクリア。「戦争が恒常化した国家」とのふれこみから、ジューに対するナチの所業が、歴史の宿痾として残穢するミドルイーストの被虐殺国ーー不謹慎を承知で言えば、スターウォーズ4を持ちだすまでもなく、大衆向けフィクションは「反乱軍視点」を好むためーーが舞台になるだろうと予想していたのですが、フィールド音楽がライオンキングのテーマをモロにアレしている点からもわかるように、アフリカ・モチーフだったのには拍子抜けしました。キリンヤガの映像化を25年待ち続け、ぢじゅちゅ廻銭の連載より20年も早くムンドゥングゥ(呪術師)が主人公の小説を書いたアフリカ通にとって、評価のまなざしは、いきおい厳しいものにならざるをえません。うがった見方ながら、ロシア相当であるファデュイの悪魔化が薄まってきていることとあいまって、中華の経済政策とリンクした舞台チョイスになっているような気がしてきております。まずフィールド部分について言えば、フォンテーヌ編で導入された水中操作は大きなインパクトを与えましたが、ナタ編はここまでのところ既存エリアのギミックを集積させただけになっていて、新奇さの演出に成功しているとは言えません。特に、恐竜へとモーフィングすることで追加されるアクションの一部が、他のエリアならプレイヤーがふつうにできる行動と重なっているため、不便さの方を強く印象づけてしまっています。フィールドのサイズもフォンテーヌより、さらにコンパクトになっており、「狭いエリアでギミックの密度を高める」方向の調整がなされていて、スメールにあった「広大さに由来する冒険感」はかなり薄まってしまっています(まあ、あっちはちょっと広すぎましたが……)。
また、しばらくぶりに世界レベルの上限が解放され、プレイヤーの強さはすえおきのまま、敵のレベルだけが10ほども上昇し、反射神経の衰えた世代による「帰宅後の酩酊プレイ」は、いよいよ厳しいものとなってきました。さらに地方伝説をふくめ、「元素パズル」や「純粋アクション」な高難度チャレンジが追加されているのですが、「ターゲットロック」「ローリング」「防御」「パリィ」がすべて”存在しない”原神において、一撃で3万超あるHPを蒸発させるボスの攻撃には、「気がくるってる」以外の表現は思いつきません(初回アップデート前のエルデンリングDLCで、大盾もローリングも使えないボス戦を想像してみましょう)。原神の戦闘は、上記のアクション群がない代わりに「元素爆発」なる必殺技の無敵時間を使って敵の攻撃を回避する仕組みなのですが、これに加えて超必ゲージにあたる「元素エネルギー」の蓄積を阻害するオーラを一部のボスがまとうという、きわめてストレスフルなギミックを導入してきました。RPGというジャンルの欠かざる美点は、「レベリングでプレイヤースキルの拙劣さを緩和できる」ことであると、ゲーム制作者のみなさまにはくりかえしお伝えすると同時に、原神プレイヤーの9割が求めていないことが過去のアンケートでも明らかな、高難度の緩和施策をホヨバに強く求めるものです。個人的に、格闘ゲームへ嫌気がさしてプレイしなくなったときと似た感覚があり、このままではちょっとまずいような気がします。開発チームのみなさまにおかれましては、先進国のチーズ・カウではなく、ゲームにはじめてふれる「アフリカの子ども」を念頭においた調整をお願いし申し上げます。
ここまで、さんざんゲーム部分の文句を言ってきましたが、ストーリー・パートはあいも変わらぬハイクオリティを維持しており、中華フィクションの真髄および真骨頂は、世界的な超ヒットとなった三体の例をとりだすまでもなく、「気の遠くなるような長い時間」のあつかい方であることを再確認しました。ナタの炎神であるマーヴィカは「赤髪ライダースーツのお姉さん」であり、開いた胸元にはじまる前面のチャックが股関に向けて伸びてゆく、昨今のポリコレ潮流をガン無視したギンギンにセクシャルな造形ながら、彼女を形づくる内面には毛ほどもチーズ・カウ的な劣情を混入させないのは、原神や同社の崩スタの大きな特徴だと言えるでしょう。今回はストーリーの初期から、炎神とのコミュニケーションを深める機会が幾度も設けられており、自然と「TINTINスタンディングの状態から、その魂の高潔さに触れて、崇敬の念に膝を折る」気持ちにさせられるのです(マーヴィカが実装されたあかつきには、雷電将軍と同じだけの課金をしようと固く心に決めました)。また、ナタにおける部族たちの時間感覚は「過去・現在・未来がひとつながりの糸(未来からのホットライン!)」のようになっていて、「個人のふるまいに対する集団の記憶が、長い時間をかけて英雄を形づくる」という仕組みは、非常に考えさせられるものがあります。エス・エヌ・エスでは「いま、この瞬間」だけが常にフォーカスされ、個人の感情を微細にドぎつく言語化してゆく一方で、ロングタームでの集団の記憶は形づくられにくくなり、人々に行動の規範を示して皆の精神を鼓舞するような「古名」は、出現をさまたげられてしまうのかもしれません。
そして、ナタ地方においては「モノに宿る記憶と精神」が現実へ物理的な影響をおよぼす描写があり、これは重要な伏線になるだろうと予想しています。炎神の孤独と責任の旅路を慰撫すべく、建築物か美術品へと託された「500年前に妹が残した、姉へのメッセージ」がどう描かれるのか、いまから楽しみで仕方ありません。「人間であった時期があるから、私はこの世界を愛おしく、守る価値のあるものだと信じることができる」という彼女の言葉は、現代の孤独な王たちの倦み疲れた心を癒すものではあるでしょう。「王になる」とは、個人であることを捨てて、計画やシステムそのものと同化することに他なりません。夜中に自室で「だれかがここで、やらねばならぬ」とつぶやいた言葉が、ふいに呼び水となって号泣するような、元より少ない仲間をさらに失った就職アイスエイジ・エラのマネジメント層にとって、炎神マーヴィカのふるまいは、まるで血を分けた同志のように感じられることでしょう。最後に別作品の話をしますが、FGO奏章IIIの中編における、箱男の文化的対偶であるところの盾女が叫ぶ、「いえ! わたしひとりで、やるのです!」という決意の言葉は、ファンガスその人がFGOのライティングへ向けた宣言のようにも聞こえて、ひどく胸をうたれました。あなたとはちがう世界に生きていて、組織の規模も養うべき人間の数も、きっとケタ違いなのでしょうけれど、わたしもここで、ひとりでやってみせます。
あまり話題になっていない「きみの色」を劇場で見る。同監督の作品でパロディ小説を書いたことのある身にとって、これは一種の責務のようなものでした。簡潔にまとめると、「どうってことない青春の蹉跌を、流麗な美術とアニメーションで描く、どうってことない物語」で、話題になっていないのも納得の内容だと言えましょう。主人公である小太り平沢唯の「多幸性人格障害」を許容できるかどうかと、物語終盤における講堂でのライブにノレるかどうかが、本作への評価を大きく分けるように思いました。映画「リンダリンダリンダ」を模して、徹底して湿度の高いジケッとした学生生活を描いたあとに、ラストのライブですべての鬱屈を吹きとばす大爆発が起こり、その余韻のままバツッと切断的にエンディングへ突入すればよかったのに、蛇足的なエピローグを付け足したのは悪手だったのではないでしょうか。そのせいで、1時間40分を並走してきた観客に「あれ、このグリッドマンのヒロインみたいな女子の問題、なんも解決してなくね?」と気づかせてしまうのは、もったいないなーと感じました。
そもそも、この女子が「なぜ学校をやめたのか?」も芯をくわないフワッとした理由ーー「私は、悪い子だから」ーーしか与えられておらず、強い消化不良感を残しています。もっと言えば、高校をやめてピアスをあける女子の漂着する先が、夜の繁華街ではなく裏路地の古本屋だというのは、現代社会において相当なファンタジーだと言えるでしょう。さらにダメ押しすると、物語をセットアップするフレーバーにとどまるのかと思えば、ストーリー全体を通しての問題としてあつかわれてしまったので、スルーできずにイヤイヤ言及しておきますと、1年毎にクラス単位で生徒がいなくなる公立の底辺校ならいざ知らず、「ええとこの子女」を集めた偏差値の高そうなミッション系の女子校で、保護者の了承なしに生徒の退学を認めるなんて、ぜったいにありえないことです。孫に退学を告白されたあとの祖母の行動はふつうなら、まちがいなく学校相手に退学の不成立と地位保全を求める裁判を起こすことでしょう。もしや、子どもを守ろうとする大人の意志と責任を軽んじた、子どもであることと地続きになった人生の「ふわふわタイム」が、いまだ継続されてはいないでしょうか。
ルイ君の取りあつかい方もそうで、作品から徹底的に”性”の要素をとりのぞくために、「ぬいぐるみ without ペニス」な男子として描写され続けます。「男のスタイリストが女の顧客に警戒されないために、芸能界ではゲイとしてふるまっている」ようなモゾモゾとした座りの悪い感じーー衝動的に女子が女子にするようなハグをしたり、廃教会でお泊まり会a.k.a.パジャマ・パーティをしたりーーは、ずっとつきまといました。物語の後半でルイ君とグリッドマンのヒロインが、保護者に隠していた秘密を吐露する場面を交互に切りかえて映す演出があるのですが、そもそものところ、2人の告白する内容が絶望的につりあっていません。国立の医学部に進学するような男子は、言わば同年代の上澄みのスーパーマンであり、高3の夏まで全力で部活にうちこみ、なんなら全国大会に出場までした上で、スルッと現役合格してくるものです。昨今では、激務をぬってバンド活動にいそしむ医師さえめずらしくはなく、この場面にはちょっと男性のスペックの上限を甘く見ている感じが、どこかただよっていました(蛇足ながら、音楽と数学は先天的な能力が9割優勢の分野で、たがいに強い相関関係を持ちます)。つまり、「受験のあいまに、隠れて音楽活動をやっている」なんてのは、「保護者に無許可で書類を偽造し、無断で退学した」のとはまったくつりあわない、甘ったれのざれごとにすぎないわけです(「医学部を受験しない」or「実家の医院を継がない」ならわかりますが、島を離れて本土の大学へと進学する様子を、最後にシレッと描いているので……)。
ここまできたら、もうツッコめるだけツッコんどきますけど、「男女交際を禁止する」ようなルールがあるミッション系の女子校で、親族でもない独身男性が校内に入れてもらえるわけないでしょ。バレンタイン祭の翌日(下手すると当日)には、父兄からのクレーム電話で回線がパンクし、シスター校長は後日、保護者会での謝罪に追いこまれると思います。全体的に「社会経験をせず、創作活動だけやってきた」人間のワキの甘さが目だち、「創作活動をせず、社会経験だけやってきた」人間の眉間にきざまれたシワは、否応に深くなっていくのでした。さんざん文句をつけましたが、この映画感想文の読後感のようにはひどい作品ではありませんので、未見のみなさんは、ぜひ劇場に足を運んでくださいね(手遅れ)! あと、中庭の噴水を校舎が囲むこの感じ、神戸女学院っぽいなーと思ったら、エンドロールに大学名がありました。海の見える坂道は宮崎っぽいし、路面電車は高知っぽいし、もう調べる気はありませんが、作品舞台はどこなんでしょうね。
連載終了が近いとの報を聞き、ようやく呪術廻戦に1巻から着手する。なんとなれば、遠くはグイン・サーガ、近くはベルセルクと、作者の死去による作品の中絶を幾度も経験してきたため、人生の残り時間を横目にしながら、「もう終わった物語しか読まない」との誓いを立てたからである。冒頭からさっそく話はそれますが、ブルーカラーへのナチュラルな差別意識を披露したゆえの炎上騒動を遅ればせに知り、中卒か高卒の両親を持つ昭和に生まれた人物は、「いい大学を出て、ホワイトカラーの高給取りになる」ことを、旧世代からの怨念に近い強迫として刷りこまれているため、ほんの少しだけ同情する気持ちにはなりました。結局のところ、時代の変遷にともなう「意識のアップデート」とは、古い世代にとって「公の場で口にしてはいけないことがらが増える」だけに過ぎず、心中に居座る「のちに間違っていると断じられた感覚」を完全に上書きするのは、ほとんど不可能に近いと言ってよいでしょう。そして、昭和生まれのオタクにとってさらに根深いのは、ホワイトカラーの上にクリエイターを置いてしまっていることです。このヒエラルキーは、現実社会に対する乖離度に正比例、貢献度へ反比例しているにも関わらず、おのれの仕事の価値をどこか相対的に低く考えてしまうという思考のクセから、いつまでも抜けだすことができません。呪術廻戦を読んでいるあいだ、この胸中にどよもしていたのは、少年ジャンプの歴史のうちで第5世代あたりの、「地方在住のパチンコ好き高卒ヤンキー」的な属性を持つ作者が、おのれの体験してきたオタク文化を悪びれずに剽窃しながら、ブルーカラーとクリエイターの「悪魔合体」を生き生きと体現している事実への感慨でした。毎週月曜日にエッキスのトレンドへと浮上してくるため、単行本に未収録のラスボスとの決着もうっすら知ってしまっているのですが、「高卒ヤンキーのまっすぐな善性」が、彼に主人公としての資格を取りもどさせるという展開は、人の減りゆく時代の問いーー「コンサルや投資家は、はたしてブルーカラーより価値のある仕事なのか?」ーーに対するひとつの回答のような気がしてなりません。
さて、大上段な放言から、呪術廻戦の内容へと話をもどしましょう。古くからのマンガ読みとして、本作への印象をざっくり一言でまとめるなら、「孫悟空が主人公”ではない”ドラゴンボール」とでもなるでしょうか。じっさいに読むまで、なにかヒネリがあるのかと期待していた「呪力」は結局、「気」や「霊力」と同じエネルギーの言い換えにすぎず、戦闘を単調にさせないためのキモである「領域展開」も、「幽波紋」や「念能力」を変奏したものになっていて、あまり新しいアイデアとは言えません。バトルものとして最大の難点は、「新旧最強の呪術師と明言されている、五条悟か両面宿儺が関与する戦いに比して、その他は常に相対的に格落ちになる」ところでしょう。五条悟・イコール・孫悟空ーー偶然にも「悟」の字が共通ーーが戦うのを見たいのに、ヤムチャやクリリン、下手をするとギランやバクテリアンの試合に延々と紙幅を割いているーー「五条ー!!! はやくきてくれーっ!!!」ーーように感じたことは否めません。また、渋谷事変の途中くらいから、1ページあたり3コマ前後で描かれるバトルの筆致が荒れはじめ、作者の精神状態が心配になるのですが、ハンターハンターを彷彿とさせるネームと言いましょうか、コマを細分化した文字優勢の語りに変じることで面白さを回復させたのには、「参照する過去作品があって、本当に良かったな」と、メタフィクショナルな安心を得てしまいました。あらためて、先行作品のない地平を単独で切り開いていった鳥山明のすごさを、噛みしめておる次第です。
呪術廻戦における戦闘のビジュアル表現は、「鬼滅の刃ほどわかりにくくないが、ドラゴンボールのわかりやすさには劣る」ぐらいの塩梅であり、描線の荒れ方が調子を崩しているときの冨樫義博ーーのちに慢性的な腰痛が原因と判明ーーソックリで、ある作者にとっての不本意をレスペクトすべき妙味として神格化している様には、ちょっと背筋の寒くなる感じはありました。そして、鬼滅の刃にも通ずることながら、「連載の初回からラスボスが登場していて、連載の最後までずっと変わらない」というのは、良し悪しではないでしょうか。ゴールと線路を最初に引いてしまえば、物語のフレームはカチッと決まるのかもしれませんが、週間連載を通じた作者の成長が敵キャラの魅力に反映される余地を、あらかじめうばってしまうことにもなりかねないからです(ハイキュー!!のネコマ高校を想起)。あらためて、ピッコロ、マジュニア、ベジータ、フリーザと、魅力あるボスキャラを変幻自在に登場させ続けたドラゴンボールの偉大さを、噛みしめておる次第です。さらに重箱の隅をつついておくと、「過去のフィクション群に全力でもたれかかった、ビルドアップのスッとばし」ーーこのキャラの設定(六眼など)は、あの作品のアレですよ!ーーも散見されます。もっとも顕著な例は「しゃけ先輩」で、作中でいっさい能力の来歴が語られない準主役級のキャラって、めずらしくないですか? 他に気になったのは、主人公の目標でありライバルでありバディでもある黒髪クールキャラの存在で、ハイキュー!!でも見かけましたけど、流川楓が源流なんでしょうかねえ(最近どの作品にも、ひとりはいる気がする)。
さんざん過去作との比較で腐してきましたが、これまでの少年マンガと一線を画するビッカビカのオリジナルは、27巻での高羽史彦とケンさんによる「お笑い幽波紋バトル」であると断言しておきます。社会生活を営めるほどの軽度な鬱で、四角四面のドシリアスな内面を持ち、いつも生と死のはざまに引かれた白線の上を歩いている感覚があり、おもしろテキストをときどきインターネットへ記述することによって、死の側へとかしぎがちな身を生の側へと引きもどしているだれかにとって、永遠に倦みはてた者と一瞬の恍惚を去りがたい者、2つの魂が交錯する「やがて悲しき」顛末には、この上ない切迫感に胸を突かれて、顔をクシャクシャにした大笑いのまま大泣きするハメになりました。じつのところ、初回の読み味が忘れられなくて、いまでもここだけちょくちょく読みかえしてしまうほどです(まあ、幽遊白書の最終回パロディはどうかと思いますが……)。バカサバイバー編の存在で、呪術廻戦への評価が天井をたたいたため、評判のいいアニメ版も履修しようと、アマプラでゼロを冠した劇場版を再生して、ひっくりかえりました。エヴァQのキャラデザの人に加えて、シンジさんの声優を臆面もなく起用しており、「商業作家による、自作人気を利用した、他社作品の二次創作」というトンデモに仕上がっていたからです。乙骨憂太のセリフをノリノリのシンジさん演技で演じあげるのには、品行方正な勤め人としてのブ厚いペルソナを貫通して、リアルで「うっぜえ」と低い声が出ましたもの! これまで見聞きした中でも、最高(最悪)レベルの「クリエイターがクリエイターに向けて作った作品」になっていて、呪術廻戦への評価がたちまち底をうちました。
FGO奏章III:アーキタイプ・インセプションの後編を読了。ファンガスと制作陣のハワイ慰安旅行がルルハワへと化けたように、我々の課金をふんだんに使用したドバイへのお大尽ツアーが今回の水着イベントへと結晶したのだろう現実に微苦笑していたら、物語はいつのまにか奏章に変じたかと思えば、急激に加速しながらグングンと上昇してゆき、ついにはブルジュ・ハリファをはるかしのぐ高い位置にまで到達していました。エジソンやバーソロミューという、記号でしか内面を造形できない他ライターによるトップクラスに「悪い見本」である死にキャラたちを、彼らの生き方へと優しくよりそうことで見事に再生してみせた手腕は、ファンガスにしかできないと信じさせてくれるものです。「ビーストを見逃したことが、結果として人類を救う」展開は、指輪物語における「ゴラムを殺さなかったビルボの慈悲が、長い年月をへだてて、すんでのところで世界の破滅をふせぐ」の変奏になっていて、もうそうなることは半ば以上わかっていながら、いざその場面をむかえる段になると、「ずるいよー!」などと言いながら、泣き笑いに嗚咽するハメになるのでした。BBドバイなんて、ふざけた名前の過去資源再利用キャラに向けた小さな嫌悪感からはじまった旅路が、他ならぬ彼女の「あれだけがんばってるんだから、まちがうに決まってるじゃないですか!」という直球のセリフーークリプターのリーダーが言う「人間はみんな、がんばっているんだよ」に呼応しているーーにガツンとやられて、号泣させられるところへまでたどりつくとは、「稀代のストーリーテラー」という称号に恥じぬ書き手であることを、再確認した気持ちになっております。
ファンガスの作家として特異な点を挙げるならば、「英霊システム」という、おそらくファミコンを「ピコピコ」と吐き捨て、蔑視の対象としていた我々のひとつ上の世代にとって、完全に理解の範疇外にある荒唐無稽の狭小な設定を用いながら、あらゆる人間に通用する高い普遍性を描いていることでしょう。「なぜかわからないが、泣いてしまう」という評は、弱き者たちへ向ける優しいまなざしと、意図せず大きな責任をあずけられた者が見せる気高いふるまいに、その理由の一端があると考えています。名も無き人々が粛々と生活を積みあげた先で、時に選ばれただれかが名をあたえられ、人類を救う仕事をするーーふだんの生活では決してたどりつかない、「世界のために善行をなしたい」という巨大な感情を自覚させられ、登場人物たちのそれに強く共鳴することによって、涙が流れるのにちがいありません。これは推測にすぎませんが、奏章IIIは過去の持ちキャラを動かしていくうちに、昨今における人工知能の急速な発展に対する思考と強い化学反応が起きてしまい、作者のつもりを越えて「書かされてしまった」物語なのではないでしょうか。ストーリー全体を通じて、あまりにFGOという作品の、もっと言えばファンガスという作家の集大成的な内容になっていて、ここまで世界の秘密を語り尽くした上で第2部の終章をどうするのか、外野ながら心配になるほどです。
そして、人間を人間たらしめているのは、同時代を生きる他者とつながるための「仕事」であり、「仕事」の本質とは、後世と後生にたくす「継承」であるーー半世紀を創作にのみ捧げてきた人物が、なんのてらいもなくこれを正面から言えることに、わたしは軽い驚きを禁じえません。ゲームアプリという一過性の娯楽に、彼/彼女の才能が費やされていることを嘆く声もあるようですが、いったいなにを読んでいるのだろうと不思議に思います。FGOがなければ、ファンガスの生涯テキスト生産量は現状の10分の1にも満たないでしょうし、このような高潔の思索へと至ることはなかったと断言できます。創作のみで口を糊していける幸運な方々の予後は、あまりよろしくないというのが個人的な観察で、虚構排出を人間の営為の最上に置いてみたり、作品を通じて特殊な政治信条をたれながしはじめたり、”既存のものではない”宗教的な考えにとりつかれだしたり、人生のどこかで世界との接続が曲がるか外れるかして、深く静かにくるっていく。ファンガスの実像がどうなのかはおくとして、書かれているものにそれらの「濁り」が寸毫も、一文たりとも混入しないのは、じつのところ、すさまじい克己によるバランシングなのです。
今回、死者の訪れなくなった冥界を比喩として、「終わらない物語」「終わろうとしない物語」「終わったことに気づかない物語」の”醜さ”に対する嫌悪感をあらわにした彼/彼女が今後、「終われない物語」となってしまったFGOアプリをどのように定義していくかは、非常に気になります。キリシュタリア・ヴォーダイムの名前が、作中で美しく想起されるのは、彼がFGOという進行形の物語において、ほとんど唯一「終わることをゆるされた存在」だからであると指摘できるでしょう。きわめて重要な奏章IIIが時限イベントにとどまり、結果として主人公の記憶からさえ抹消されてしまうのは、経済と大人の理屈で「死を喪失して」存続していかざるをえなくなったゲームアプリが、「美しく終わることもできたこと」を我々に覚えていておいてほしいからであるような気がしてなりません(蛇足ながら、「喪失の美しさ」と「生き続けることの汚さ」は、我々の心性に歴史がエンベッドした潔癖な倫理感であるやもしれず、そうなれば「英霊システム」の”英霊”も、異なった意味あいをもってひびいてきます)。
奏章IIIにおいて語られた、いくつもの印象的なエピソード群のうち、個人的にもっとも大きな感銘を受けたのは、エジソンの冥界通信に関する挿話でした。亡くなった妻と話をしたいという欲望は、「死んでから、はじめて大切だったことに気づく」のではなく、ある種の人々にとっての「死んだあとでしか、大切にならない」という宿業、つまりは人外の冷徹さを描いているのではないかと、我が身に引きよせて感じられたからです。BBドバイへと仮託されたファンガスの悲鳴は、「生きているものを、生きているうちに愛したい」という、オタクたちの祈りにも似た願いなのかもしれません。
「ボーはおそれている」をほんとうに、心の底からイヤイヤ見る。最近では、「2時間30分以上の映画には、監督のオナニー要素が必ず入りこむ」との確信を強めており、「3時間な上に、アリ・アスター」という事実だけで、相当に視聴する意気をくじかれます。しかしながら、ジョーカー以降「ホアキン・フェニックス主演の映画は必ず見る」という誓約をおのれに課しているため、陰鬱なるドカチンの日々から無理やり3時間を捻出して、まったく気のりのしないまま、シアタールームのソファにほとんど身体をしばりつけるようにして、視聴を開始したのでした。ここにいたるまでの心象が最悪だったせいでしょう、すべてが主人公の妄想か幻覚か走馬灯か判然としない最初の1時間は予想外に楽しく見れて、ヒステリー少女のペンキ鯨飲から外科医の家を脱出するくらいまでは、それこそデビッド・リンチの新作ぐらいの印象が維持され続け、我ながら異様に高い評価を与えていました。それもこれも、ホアキン・フェニックスによる精神遅滞の演技がすばらしく、いちいち動きがスローで言葉の出にくい中年男性の様子は、いらだちで観客を作品世界に引きこむ奇妙な魅力があり、レインマンやフォレスト・ガンプやアイ・アム・サムに連なる傑作なのではないかという期待さえあったのです。けれど、物語が進むにつれて、アリ・アスターの「見せたい絵ヅラと予定調和的な不幸がストーリーラインに優越する」という個性と言いましょうか、悪癖が頻繁に顔を出すようになると、次第に虚構が壊れはじめると同時に、きわめて西洋的な理屈っぽさが浮かびあがり、没入の熱が急速に冷めていくところは、ミッド・サマーと同様の体験でした。
シーンごとまるまる削除してもストーリーになんの影響も与えない、絵に描いたようなスネーク・フットである演劇村パートーー「お父さんは童貞なのに、どうしてボクたちが生まれたの?」「(無言)」ーーを終えると、いよいよ「三流の監督がパンチの足りない自作に加えるのは、決まってエログロである」を地でいく展開となってゆき、屋根裏の「おCHINPOモンスター」ーー「ドヤッ! 自宅のバスルームでチラ見せし、外科医も指摘していた睾丸肥大という伏線を、みごとに回収したったで!」ーーがメガテンのマーラ様ばりに暗闇から出現した瞬間に目が点(笑)となり、心の機微は上下動を失って真一文字のフラットラインへと変じ、わずかに残っていた作り手への敬意も完全に雨散霧消して、そこからエンディングまではケイタイをさわりながら、ただスクリーンを”ながめて”いました。最後のコロセウムにおける弾劾裁判ーー怒れる母親の握力で手すりが外れて水面に落ち、スローモーションで水冠があがる、映画史上もっとも無意味な演出ーーを見ながら、このタワーリング・シットを一瞬でも大デビッド・リンチの名に比肩させてしまったことを、深く恥いる気持ちになりました。アリ・アスターの創作態度は、「観客をとことんイヤな気分にさせてやろう」という負のモチベーションを基軸としていて、正直なところ、ストーリーテラーとしては三流以下の力量しかありません。視聴を終えたいま、本作はルーパーとかノープとかザ・メニューとかラストナイト・イン・ソーホーとかターみたいな「雰囲気クソ映画」の系譜に連なるものであったことがわかりました。センスの良さを自認する若い芸術かぶれの方々は、こういった映画をついほめがちですが、あんまり声を大きくしすぎると、ライアン・ジョンソンにスターウォーズを壊されたのと同種の悲劇を、再び地上へまねくことにもなりかねません(もっとも、スターウォーズ級のIPなんて、もう人類には残されていないのですが……)。
そして、ボーの支離滅裂な被害者としてのふるまいが、人類の運行にカケラの影響もない娯楽の範疇にとどまればよかったものを、監督がインタビューに答えた「この映画はユダヤ人の内面を表している」という発言によって、ミドル・イーストで進行中の惨禍へ向けた命題として焦点化してしまいました。すなわち、この世紀の大凡作には「ジューはしいたげられている」という視点が混入してしまっており、主人公のする「あれだけひどい目にあい続けて、これだけ面と向かって罵倒されたんだから、突然の激情でウッカリ相手を殺すまで首をしめても、過剰防衛なんてヤボは言わずに、”I’m sorry.”だけでゆるしてくれるよね?」というウワメづかいの哀願は、まさに遅滞した精神そのものの恥ずべき痴態として、世界から強く非難されるべきものとなったのです。ホラ、いつまでも過去のうらみにブンむくれてないで、住む場所をタダでもらったことと、地域の新参者として共生させていただいていることを、右や左のダンナ様に心から感謝しなきゃダメでしょ? ありあすたー(ありがとうございました)!