猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

寄稿「七夕の国 友の会」



七夕の国 友の会 – かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインのお店 – BOOTH


漫画家・岩明均の伝奇SF漫画の傑作『七夕の国』に関する同人誌です。


wak.booth.pm

 新年・お年玉サプライズ第1弾(第2弾は未定)! これこそが、長年のファンによる正しい還元の仕方だと言えるだろう。小鳥猊下とは、昔風に言えば「片眉を剃り落とした山ごもりの空手家」であり、今風に言えば「片田舎の道場に隠居する剣聖」である。つまるところ陽の目を見ぬ達人には、ただ公に試合の場所を提供してやるだけでよいのだ。ちなみに2023年現在、インターネット上に存在しない小鳥猊下のテキストは3つだけ。「テキストサイト大全」、「MMGF!後書き」、そしてこの「七夕の国・友の会」である。諸君はひとり複数冊の購入によって、私が「数字を持っているテキストサイト管理人」であることを世界に証明し、ぜひ次のオファーへとつなげていただきたい。

 シアタールームにPS5を接続してゲームを始めたのだが、フルHD画質の粗さが気になりだして、プレイの手が止まる。それから、プロジェクターの疑似4Kとネイティブ4Kの違いについて調べていたら、気づくと半日ほど経過していた。週末ぐらいしか使わない設備に300万はらえるか……?

質問:一番最高なのは「八甲田山」だろ。
回答:あ? 自分の機嫌は自分でとれよ?

質問:ええっ小鳥猊下がご顕在であらせられた!
回答:追従なのか誤字なのかわからないが、復活した当アカウントで6年も旺盛な発信(私にしては)を繰り返しているのに、いまだに届くべき層へテキストが届いていない事実へ、哲学的なめまいを覚える。

 紙媒体に掲載されることへの強い憧れから、その影響力をあまりに大きく見積もっているため、フォロワーの増加やファンメールの到来が絶無である現実に、なんだか呆然とさせられている。先ほど回答した質問もそうだが、万単位のフォロワーを持つ諸君は今回の慶事について、もっと恥も外聞もなく拡散すべきであろう。そろそろ「リツイートして、友達に猊下ファンだなんて噂とかされると、恥ずかしいし…。」みたいな思春期の少女的ムーブから脱却し、「なんぼほしいんや?」と懐から万札の束を取り出して親指をベロリと舐めるダンベエ的ムーブへと移行する人生の季節を迎えているのではないかな? とりあえずプロジェクターを新調したいので、300万円ほどBOOSTしてください。

 しかも、私しか見ていないバージョンがもう1つあるんですよねー。掲載されているのは、妥協を知らない絵師のセルフ・リテイク版なのです。

 この記事に目を通せば「300万円のBOOST」が、いかにルンペンの哀願どころではない破格のオファーであるか、諸賢にもおわかりいただけるでしょう。

アニメ「おにまい」感想(第1話)

 タイムライン局所で話題沸騰中のロリコン作画アニメ「おにまい」の1話を見る。ゆうに十畳はあろうかという個室を与えられ、エロゲーをパッケージ版でコレクションする主人公は、近年というよりは90年代の引きこもりオタクに見えます。「言うほどエロくないし、言うほど動きもいいと感じないのは、ネット激賞の弊害だよなー」などと油断していたところ、後半部でタイトルを回収する台詞にふいをうたれ、気づけば涙を流していました。これこそが現代の男性にとっての救済、神不在の本邦におけるドストエフスキー的救済だと感じたのです。オタクの抱く人としての苦しみは性別に由来していて、学歴、地位、カネ、家族、すべての社会的外形と競争から離れて、圧倒的に庇護される存在へと男性を「降りる」こと、これこそが求めていた魂の救済なのだと気づかされました。主人公の言葉をかりるなら、「お父さんは、もうおしまいでもいいのかな」とでもなるでしょうか。

 氷河期世代にもかかわらず、昭和の人生をトレースできている身を、能力や才覚のゆえだと考えたことはただの一度もなく、なぜいま子ども部屋の高齢ニートでないのかと問われたならば、「たまたま運がよかったから」とだけ回答するでしょう。夭折した祖父が人生で使わなかった分や、事故で亡くなった祖母が死の回避に消費できなかった分など、「血脈に埋設された運」なるものを近年では強く感じるし、この上でさらに自分の願いまでかなってしまっては、総体のバランスが崩れてしまうのではないかという恐れさえ、心の片隅にはあるのです。

 おにまい、願わくば最終話で「男性にもどった主人公が、引きこもりをやめて人生を一歩ふみだす」みたいな展開にはなりませんように! これまで私たちは牛のように黙って人生を前へ進めてきたし、もうここから降りて少女としての余生を手にしても責められないほどには、充分に頑張ってきたのですから!

アニメ「サマータイムレンダ」感想

 タイムラインで評を見かけて気になっていた、サマータイムレンダを見る。作画がメチャクチャきれいなので劇場版かと思っていたら、テレビアニメだったのには驚きました。ざっくりまとめると「地方都市を舞台にした伝奇ミステリーの死にループもの」で、この令和の御代において平成初期のエロゲーないしノベルゲー感がすさまじく、往時にタイムスリップしてしまったような感覚を味わいました。雫とか、痕とか、久遠の絆とか、あのあたりと同じ想像力で作られた舞台設定やキャラ造形やストーリー展開になっているのです。6話くらいまではグングン面白くなっていくので、「もしかすると、これは名作かも?」と期待していたら、そこをピークにドンドン失速していきます。何を血迷ったのか2クール目へと突入する頃には、金髪碧眼・方言美少女のスクール水着を愛でる以外に、見るべきものは何も無くなってしまいました。

 まるで、週間少年ジャンプの打ち切り漫画の打ち切り過程をアニメで追体験するような作品に仕上がっていて、「もっと原作を刈り込んで、1クールにまとめられなかったのかなー」と非常に残念な気持ちになりました。肝心の謎解きにしても野球だと思って見ていたのに、「木製バットを膝でへし折る行為をサクリファイスと呼称し、一度だけ4アウト目を許容できる」みたいなルールがどんどん追加されていくので考える気を無くすし、「最初の10週は全力全霊、そこを越えたらあとは余勢で行けるところまで」という語り方は、じつにジャンプらしいと言えるのかもしれませんが、本作のようなジャンルを語るのにはまったく不向きでしょう。もしかすると、YU-NOあたりのシステムでゲームとして再構築すれば、面白くなるんじゃないでしょうか。本作を見てしまった後遺症として、今後は「俯瞰」という単語を入力しようとするたびに恥ずかしくなり、「鳥瞰」などへパラフレーズを行うような気がします。

 もうサマータイムレンダについて話すことは何も無くなったので、無印カイジの話をさせていただきます。利根川のファッキューから始まる、怠惰なフリーターたちへ向けた有名な説教がありますよね。「数千万円はエリートたちが人生を十年単位でかけて手に入れるカネだから、決して安くはない」みたいな内容で、ここまではまあいいとして、「己の人生と向きあわずに時間を空費した者は死を迎えるときに初めて、惨めな人生が本当に己のものだったと気づく」と続くことへ、ずっと違和感がありました。生活者として一目を置いていたアカウントがあり、「いま過ごしているのが自分の人生であるという実感は、ずっとない。だからこそ、何事にも動じずに生きていられるのだと思う」みたいなつぶやきを最後に更新が途絶えてしまっているのですが、私の感覚はこの方に近いように思います。

 これが離人症の症状から来ているのか、氷河期世代の諦念から来ているのかはよくわかりませんが、利根川の言う「ボーッと生きちゃあいない」側にいるはずなのに、人生の最後には「あ、これホンマに自分の人生やったんや」と思いながら死んでいくような気がしています。まるで夏のアスファルトにゆらめく蜃気楼や、主人公にレンダリングされたモブたちの儚い影のようにね……あ、そういえばサマータイムレンダを見てひとつだけ大きな発見がありました! それは奈良の地の言葉と和歌山弁がかなり似ているということです。家人たちが「さわる」を「いらう」、「来ない」を「こやん」、「しない」を「しやん」と表現するのを聞くたびに、「なんだ、この可愛らしい生物たちは……本能的にあざとい線をねらっているのか?」などと懐疑的なまなざしを向けていましたが、本作を通じて方言だったことが判明しました!

雑文「海賊王には、なりたくない」

 海賊王の名を騙った事件のニュースを見る。生放送だろう番組でも作品名が出ないどころか、ほのめかしやにおわせさえない不自然なほどの箝口令に、作者の狂乱と編集部の狂奔がしのばれて、なんだか楽しくなってきました。もちろん作品に罪はありませんが、幅広いファン層の一部について、大きく解像度が上がりましたねー。

 本邦の長い長い下り坂と並走してきた長期連載が、そのストーリーの最終盤において、このような現実とのリンクを生んだのは、じつに示唆的かつ皮肉なことです。新たに何も手に入らない世界において、すでに持てる者の財産を仲間たちと強奪する行為に、肯定的な文脈を与えてしまっているのですから!

映画「NOPE/ノープ」感想

 映画評論家のみなさんや社会学者の先生方が激賞している「NOPE/ノープ」を、遅ればせながら4K Ultra HDで視聴しました。予算の関係で1チップ方式の疑似4K型落ちDLPプロジェクターしか用意できなかったのですが、これまで使っていた液晶フルHDプロジェクターに比べて、黒の沈み方や表現力が格段に上がっているのが素人目にもわかります。黒い肌と夜の闇と物体の影をクッキリと見分けることができたのには、得も言われぬ感動がありました。いやー、黒人主演の映画を見るのにはまさに最適のプロジェクターで、購入までにはいろいろと悩みましたが、結果としてベストバイだったことが証明されてホッとしましたねー……え、肝心の映画の中身はどうでしたかって?

 当たり前の話ですが、黒人や女性や同性愛者や障害者が監督だから面白いものが撮影できるだろうなんてのは、冷静に考えればまったく正の命題と成りえないことへ、そろそろ映画評論家のみなさんや社会学者の先生方は気づくべきだと思いますね。もし、こんなB級SFクソ映画に「クソ映画!カネ返せ!」と心の底から叫ぶことができず、むりくり「社会的な文脈」とやらを見出さねばならないのが生業だったらと想像するだけでゾッとしますし、そんなルンペンみたいな職業につかなくて本当によかったなと、いまは胸をなでおろしております。刺激的な映像をブツ切りにつないだだけの「正味」に対して、チンパンジーとコリアン・キッズの関係性へハッパをキメたような「解釈」を垂れ流さなくてすむというだけで、人生はずっとシンプルで生きやすい場所になることでしょう。いやー、それにしても黒人主演の映画を見るのに最適なプロジェクターを手に入れたのがわかったことだけは、本当によかったです!

 あと、作品の中身を知らずチューニングの合わない前半1時間はなんとか見れるけど、後半1時間で積み上げたぜんぶをブチ壊しにされて「クソ映画!カネ返せ!」って叫んだ作品あったなー、なんだったかなーと考えていたら、ライアン・ジョンソン監督の「LOOPER/ルーパー」だった。よく見たら邦題の表記の仕方も同じで、クソ映画どうしの意図せぬシンクロニシティに、笑った。

質問:NOPEを楽しめた派です。プロジェクターが良いのはわかりましたから、もう少し内容を具体的に。
回答:直近の作品で例えるとサマータイムレンダ問題とでも申しましょうか、端的に言えば「同一作品内ジャンル崩壊」を起こしているのが最大の問題でしょう。ミステリ仕立てのホラーとして始まったのが、気づけば西部劇風のエヴァンゲリオンになっているのですから!

ゲーム「2023年のFGO」雑文集

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

 FGO第2部7章の後半を進行中。ORT戦が重課金ユーザーにとって考えうる最高のギミックで実装されており、やはりファンガスは私のnote記事を読んでいるにちがいないとの確信を深めた。クラス相性を眺めながら4枚あるNP100礼装で4回宝具を撃つ作業は、優雅なアフタヌーンティーを楽しむが如しである。低所得の無課金ないし微課金ユーザー諸君は、盾女(箱男の文化的待遇)の時間による復活をイライラ待ちながら、一週間ほどかけてチマチマORTの体力を削りたまえ。それにしても、サービス開始から7年を経て、いよいよ完凸カレイドスコープがBlack Lotusなみのやらかし感を放ち始めていますねー。

 そっかー、ククルカンがウルトラマンだったかー。いま、あらゆる予想が外されていく快感に酔いしれています。ジャンピング土下座の披露は、また後日。(上映初日に言わされてる顔で)FGOさいこー!

 星4が何体か出撃した時点でORT討伐終了。星5は無傷のままでした。もっと強くてもよかったんじゃないかなー。え、盾女(箱男の以下略)の復活って時間経過じゃなくて戦闘回数なの? 開始1年未満の初心者がストーリー読みたさでここまで来たら、明確な「詰み」が生じるんじゃない? 課金誘導なの?

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

 FGO奏章プロローグを読む。第7章をすでに読み終わったもっとも熱心なファンたちが、「ではまた、1年後にこの場所でお会いしましょう」と解散しかかるのに、「待った、待ったぁ!」と運営側(notファンガス)がチン入し、新商品のチラシをまきだしたみたいな感じですねー。第6章からにおわせてあった「プレイヤーと主人公は、イコールの存在ではない」ことが極めて不穏な形で顕在化してきていたり、7年にわたる人理救済の旅の結末へ向けて設定が再セットアップされたりするのを非常に興味深く読みながら、一方でどこかガッカリするような気分もあります。

 メタ的にFGOの現況を鳥瞰ーーうッ、「フカン」と書こうとすると頭痛がーーすれば、「最終章のライティングと実装」に向けたファンガス以外のライターによる時間稼ぎでしょうし、さらに言えば「第3部の展開と設定の詰め」と「原神クラスの新アプリ立ち上げ」のための準備期間だと指摘できるでしょう。つまり、ここから3章分は1.5部と同じく、失礼ながら「二線級のライター群による本筋とは離れた埋め草」である可能性が非常に高く、ファンガスのテキストだけを読みたい少数のファンにとっては、2〜3年の虚無期間が約束されたことと同義なのです。

 まあ、まいどまいど失礼かつ悲観的な予想ばかり垂れ流す当アカウントのようなすれっからしのファンを、一喝してシャキッとさせるような快作をせいぜい期待してまーす(中指の第二関節までを鼻孔に挿入し、寝そべりながら)。

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第2部7章後半を読了。「育ちの悪い会社」だなんて、「だれかが非難や糾弾に用いる言葉は、その人が最も言われたくない言葉でもある」を地で行く育ちの悪いシャバゾーがチョーシこいて、本当に申し訳ありませんでした(土下座)。重課金者にとって愉悦のORT戦についてはすでにお伝えしておりますが、カマソッソさんが文字通りのゾンビアタックでこの難敵を単騎撃破したことを想像するとき、私のマナコとオソソッソはじゅんと熱くうるんできます。戦闘の合間合間に語られる挿話はどれも出色の出来で、アルコールが入っていたこともあり、ずっと号泣しながらプレイしていたことをまずお伝えしておきます。都市英霊の最期へ至る顛末は「勝ちがないのに、なぜ戦うのか?」という問いへ真正面から答えており、いままさに行われている地上の虐殺のすぐ傍らへ鳥瞰から舞い降りるような気さえしましたし、異霊プロテアの言葉なき翻心を描く下りには、「人は打算には打算を、気持ちには気持ちを返すものだ」という台詞を思い出して、夜中なのに強めの嗚咽がほとばしり出て近隣を騒がせたほどです。

 良質な物語だけが与えられる豊かな余韻に浸りながら、さらに思いつくまま7章での印象に残った場面をあげていきます。ある人物へ向けた「リーダーの器でないことを自覚しながら、必要な場面では逃げずに気持ちをふるいたたせ、必ず決断の責任を取る」という評が、個人的に深く胸へ刺さりました。存外「決める」ことのできる人間は少なく、それが組織や人の生き死にに関わるとなれば、さらにその数を減じるにちがいありません。社会の底から見上げる野党的な視点のフィクションばかりが横行する現在、意図せぬまま高所に立たされた者の責任と覚悟の気高さを描けるのは、FGOが空前の大ヒットとなったからこそで、他のスマホゲーでは表現のおよばない魅力だと言えるでしょう。じっさい、昨今のSNSにおける他責や他罰の有り様は見ていられないほどですし、学生の世迷言や貧乏人の私小説なんて、もう薬にもしたくないですからね!

 また、あるディノスの死に際しては旧エヴァの「彼の方がずっといい人だった。生き残るならカヲル君の方だったんだ」という告解を思い出しましたし、「フィクションには涙を流せるくせに、身近な人たちの死にはまるで不感症である」という自責の吐露は、己のことを言われているようでした。以前、「nWoに可能な愛と勇気の物語を」とスタートした小説に「紡がれるのがどのようなテキストであれ、私たちは本質的に小鳥猊下を読んでいるのです」という感想を寄せられたことがあり、当時は批判のようにも感じられたのですが、いまならばこの感覚はよくわかります。私がFGOに触れるときの態度がまさにそれで、本作を通じて「リアルタイムで追う最高の物語のひとつ」を体験しているのと同時に、「同じ時代を生きるファンガスの人生」を読んでいるのだと言えるでしょう。第2部6章が彼の歴史観や人間観を高い視点から集大成的に表現していたのに対して、この7章は王道的なストーリー展開でありながら、地に足をつけた彼の個人的な感覚や感情を引き写して、そこここに落とし込んでいるような印象を受けました。

 マーリンに代表される「現世と隔絶された、孤高の観察者」というモチーフには、生涯を語り部として過ごしてきたファンガスの人生と自意識が仮託されていると確信するのですが、今回の「星見の姫」はより解像度の高いリフレインとなっているように思います。これだけ多くのファンたちに求められている人物の自意識が、「与えられた環境からは離れて生きられない巨竜、その心はどれだけの時間を経ても成長せず、善悪の区別なく未来永劫を観察し続けるのみ」であることには悲しみにも似た、しんとした気持ちにさせられます。成長とは幻想であり、たとえ家族を持ち日々を仕事にやつしたところで、容れ物の外殻が厚みを増すだけのことで、たたえる中身が大きく変質することはありません。彼はあるキャラの幕間の物語において「生きることは、濁ること」と表現しましたが、その言葉とは裏腹に出力されるテキストは、ますます清明に研ぎ澄まされていくのです。この事実は私に、戦争帰りのトランペット吹きを書いた古い小説を想起させました。人を殺したために音楽から見放されたと嘆く黒人ペッターへ、乞うて一曲を吹かせたところ、これまでに無いような深い音を響きわたらせる。彼はその直後に、信じていた音楽から裏切られたと感じ、自殺してしまうーーそんな内容です。

 あと、「死徒」とか「直死の魔眼」とか、月姫リメイクアルク・ルートだけ読んで続きを断念した私にもかろうじてわかる単語を散見しましたが、「同じ部品で再構築しても、機能停止を一度でも通過すると再起動できないのが、生命の本質であり死の定義」という考え方は、初期作品での観念的な「書生の繰り言」から大幅にアップデートされた「魂の思想」とも言うべき何かへと至っており、「書き続けること、生き続けること」による長い時間をかけた変化を見ることができました。キノコの着ぐるみの中にいるファンガス本体はアラフィフぐらいだと推測しますが、この年代は論語とは違って天命を知るどころか、フォントサイズ100かつボールドの「惑」一文字であり、人生の残り時間が見えてくるからでしょうか、傍目には無謀に思える大転身をする方々がポロポロ出始める時期です。どうか社長を筆頭とする周囲の大人たちは、この希代のストーリーテラーが乱心して道を踏み外さないよう、最果ての塔の錠前をしっかりとロックして、物語だけをさえずるカナリヤとしての天寿を、彼にまっとうさせてあげて下さい。

 7章読了後に型月世界とやらのwikiを眺めていると、20年を塩漬けにされていた大学ノートの「最強設定集」が、FGOの大ヒットにより正史として語られ始めていることへ感動を覚えると同時に、これがコアなファンの内輪ウケに消費されるだけでいっさい世に出ないまま、書き手が寿命を迎える未来も充分にありえたのだと思うと、そら恐ろしい気分にもさせられるのです。もはや中身がスッカスカのアバターでさえ、「全5部作!」なるキャメロン翁の妄言を看過しているのですから、型月世界の膨大な裏設定をすべて預けられつつあるFGOなら、「全9部作!」くらいブチ上げてファンガスに残された作家人生へ明確なロードマップを引いても、だれからも文句は出ないでしょう。

 そして古希を迎えるあたりから、FGOが「世界の真実」を観念的なテキストで語る新しい宗教と化していったとして、それを2次元文化の成熟が生みだした新たなパースペクティブとして全面的に受け入れ、什一税のお布施も死ぬまでは欠かしませんので、関係者のみなさま、どうか何卒、なにとぞ!

小説「虐殺器官』感想

 タイトルがすばらしいので、「読まなきゃな……」と思いながら十数年が経過した虐殺器官をようやく読む(青少年のみなさん、これが中年期以降の時間感覚です)。膨大な設定と蘊蓄の集積を、まるで日本人みたいな自意識のアメリカ人の語りで聞かされる、しかもぜんぜん話が進まない、ダメなときのメタルギアシリーズみたいな作品でした。「ストーリーを語るための設定」と「設定を語るためのストーリー」があるとすれば完全に後者へ寄ってて、全体の90%を過ぎてもまだ蘊蓄を語り始めるので、思わず「いい加減ストーリーに集中しろ!」と叫んでしまいました。もはや調べる気はありませんが、世界のコジマが激賞しそうな雰囲気だけはただよっています。なんと言いますか、現実における死の経験不可能性が結果として神秘のヴェールをまとわせたって感じがしますねー。

 あと、三体のときにも指摘しましたけれど、男性作家が作中でつい少女をリョナっちゃうのは、現実における少女との性交不可能性にイラだつあまり、架空の暴力へと欲望を転化しちゃうんでしょうか。作中で頻発する児童スナッフには、現実における本作の映像化不可能性を感じますが、もし「原作に極めて忠実な」実写が存在するのだとしたら、ぜったいに見ます!

雑文「アニメ版チェンソーマン・第1期終了に寄せて」

 NOPEについての感想を調べるうち、チェンソーマン作者の妹アカウント(意味不明)がこの映画をほめているのと、チェンソーマンのアニメが漫画版のコアなファンたちに大きな不興をかっているのを同時に知りました。この配信全盛の時代に、いい音響設備を持っていれば話は別として、わざわざ円盤を買う層がいるとも思えませんのに、その売り上げを人気のバロメータとして語っているのには、いつまでも野球のニュースがスポーツコーナーの大半を占める「本邦の変化できなさ」と同じものを感じます。以前、いくつかの読み切りへの感想に、「この作者を理解できるのは自分だけだと思わせ、読者の一人ひとりと直接に書簡を交わすことのできる、稀有な作家」みたいなことを書きましたが、今回はこの特性がアダになっている気がします。なまじ感想を言語化できる、中途半端に偏差値の高い層がファンなので、SNSでバズりやすいと同時に燃えやすくもあったんだろうなーと思いました。当の監督さえも口を閉じていられずに、「アニメではなく、邦画のように撮影した」みたいなことを得々と語らされてしまうあたり、本当にファム・ファタールのような作家性だなあと感心してしまいます。まあ、チェンソーマンは洋画、それもB級洋画のチープさで撮らなきゃダメなんですけどね(「運命の女」の色香にやられた者の目で)!

 「アニメ版チェンソーマンのどこがダメか?」という議論をイヤイヤ横目で流し見しましたけど、わかりにくい例えながら「東大京大以外に通っていた者が、自分の出身大学は明かさないまま、私立大学の序列について語りあってる」みたいな雰囲気を感じましたねー。この例えに乗っかって言うなら、アニメ版の評価は「都心から少し離れてるけど、難易度も手ごろで、いい大学よ」とでもなるでしょうか。自戒をこめて書き残しますが、中途半端に偏差値が高い人物の言語化は、表現した内容と意識の本体に微妙なズレがあるんですよね。そして、発した言葉の方にピッタリ合うよう意識の本体を補正していくことで、やがて人格にまで影響が出るようになっちゃう。SNSがもたらした最大の弊害は、「言語化しないほうがいいもの」の存在を人々に忘れさせてしまったことだと考えています。個人的には「言語化に前駆する意識の広がりを後置される言葉で剪定しない」ということを、最近では肝に銘じておる次第です(これを記述するのが、そもそもの矛盾ですが……)。

 余談ながら、海賊王を名乗る詐欺事件の話が原作ファンの間で思ったほど燃えているように見えないのも、ファン層の大半を占めると思われる言語化の苦手な低偏差値ヤンキーたちは、ツイッターに生息していないからでしょうねー。長くなってきたのでまとめにかかりますと、アニメ版チェンソーマンの敗因は、「中途半端にかしこいメンドくさいファンが、受け手と送り手の双方に多く含まれていたこと」だと指摘できるでしょう。特に本邦での「かしこさ」ってのは、神経症の言い換えみたいなもので、美人の顔にある小さなひとつのシミさえ批判の本体にしちゃいますからねー……おっと、例えが昭和オヤジすぎて、平成キッズのみんなは引いちゃったカナ? 美醜は無いもののようにふるまうのが令和流だったよね、メンゴメンゴ! 最近では加齢と飲酒で脳細胞の多くがいい具合に破壊され、「言葉が存在しない状態」に生きる時間が増えてきました。これこそ、実家住み・マルチプルインカム・中卒ヤンキーの持つ多幸感の正体なのだと気づき、これまでの無用の苦しみをふりかえると、その遠回りに悔しいような気持ちにもさせられます。

 ともあれ、イケメンの頭頂部の砂漠化ぐらいのこと(大問題)で第2期を立ち消えにしてしまっては、元も子もありません。いまこそ私たち高偏差値の男前ハゲは、あたかも高等教育を経験しなかったかのようなフリで、アホになるべきではないでしょうか。では、みなさん、ごいっしょに! (ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)チェンソーマンのアニメ、さいこー!