ペルガナ市国は半島の先端、ペルガナ史跡群と呼ばれる古代遺跡を覆うように成立した国家である。「鋤を入れれば遺跡に当たる」と言われ、古代遺跡をそのまま住居とする一帯も見られる。観光と学術研究がペルガナ市国の主産業であり、ふんだんに与えられた過去の遺産が国民の気質を穏やかにしている。
悪く言えば進取に欠け、国家プロジェクトであるはずの発掘と研究も一向に進みはしない。
なので、気持ちのいい晴れの日に、ショウ・アンド・テルと称して史跡群に連れ出したぼくのプロテジェが、歴史的な発見をしてしまうことも、実のところまれではない。
暖かい陽光に背中をあぶらせながら古代の生活へ思いを馳せているところへ、不吉な影が差す。
顔を上げると、一千年の空想もふっとぶ仏頂面の少女がにらみつけていた。
「メンター・ユウド」
小さな造作の顔なのに眉だけが太く、それが釣りあがるととても怖い。
動揺を見せまいと、ぼくはゆっくり膝の埃をはらって立ちあがる。
「何か問題でもあったのかな、スウ・プロテジェ」
動揺を見せないことはメンターにとって、いちばん重要な資質だと思う。けど、ぼくの声は少し裏返っていた。このプロテジェのことは、我がクラスを取りまとめるモニターとして信頼している。しかしながら、そのまじめ極まる仕事ぶりがぼくのいい加減なところを非難しているようで、ときどき苦手なのだ。
ぼくの無為へ何か批判を加えでもするように、スウは片方の眉を上げる。
けれど、彼女の発言はモニターとしての分を外さないものだった。まじめなんだよな。
「年少組がまた何か見つけたようですので、メンターの実地検分をお願いします」
また、というところに力がこめられる。やっぱり暗に非難されているのかもしれない。確かにここのところ、教室で講義をした覚えがないから。
「了解した。案内してくれるかな、スウ・プロテジェ」
「こちらです、メンター」
鷹揚に立ち上がると、後ろに手を組んで後をついてゆく。
スウはぼくよりも頭半分ほど背が高いので、横に並ばないように注意しなくてはいけない。もっとも、彼女がとくべつ高いというより、ぼくが低いんだ。狭い遺跡の入り口を這い入るには便利だけれど、威厳を保つには不便だ。
歩調に合わせ、一本にくくったスウの赤い髪の毛が馬の尻尾のように揺れる。
まるで時計の振り子みたいに規則正しく左右に揺れるので、ぼくは眠気を思い出す。
それにしてもいい天気だ。適度に暖かくて、昼寝にはもってこいの。
ぼくは空を見上げる。
ペルガナ市国の条例は、一般住居を平屋建てにすることを定めている。人口に比して土地がふんだんにあることと、何より古代の建築物との調和を乱さないためである。
だから、空がおそろしく広いのだ。
天球、という言葉がぴったりで、あらゆる方向へほとんど際限なく広がっているように見える。
ここで研究職に就くもののご多分に漏れず、ぼくも元々は留学組だ。初めてこの土地に着いたときの感動は、いまでも鮮明に思いだすことができる。
黒い森を越え、木製のやぐらを尻目にし、街道の果ての果てで乗合馬車を降りたとき、あまりの膨大な空間に圧倒され、思わずその場にへたりこんでしまった。
緑の丘々の稜線は天球の湾曲に沿うように、その奥に横たわる真っ青な海は水平線を無限に広げている。
ぼくは常々、自分のことを感情的というよりは、理性的な人間だと思っている。しかし恥ずかしながら、最初の呆然とした気持ちから醒めたぼくは、そのとき少し涙ぐんでいた。
でもそれは、この土地を訪れる者のうち、とびきり珍しい反応というわけではないらしかった。乗合馬車の御者がそばへやって来て、口ひげと皺の中の笑顔から座りこむぼくに片手を差し出す。
そして、こう言ったのだ。
「ようこそ、故郷へ」
なま白い手を握り返した赤銅色の力強さに、もう予感がしていた。
ぼくはきっと、この国で一生を終えることになるにちがいない。
どすっ。突然のやわらかい感触。
「どうかしましたか、メンター・ユウド」
どうやらぼくは思い出に浸りすぎていたらしい。
立ち止まるスウに気づかず、背中にぶつかっていたのだ。失態である。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていたんだ」
ぼくが深遠で高尚な思考をめぐらせていたと、このモニターが誤解してくれることを祈った。
だが、ちらりと目をやった彼女の頬が紅潮しているのは、どうやらぼくの試みが失敗に終わったことの証明らしい。怒っているのにちがいない。
怒ったスウ・プロテジェは、とても怖い。
ぼくはあわてて気をそらそうとする。
「あそこがそうかな」
指さした先には、ぼくのプロテジェたちが集まって何やらワイワイと騒いでいた。
ペルガナ市国の教育システムは、ぼくの生まれたところとはだいぶ違っている。いちばん特徴的なのは、あらゆる年齢の子どもがひとつのクラスにいることだろう。ちなみに、ぼくの受け持ちクラスには、六歳から二十歳までが同居している。
あまり期待をせずに歩み寄る。経験則(膨大な)から判断すれば、校外実習の際にプロテジェが当たりを見つける確率は、千にひとつくらいだ。手をさしいれたら、兎の巣穴だったこともある。ぼくは噛まれた。スウは噛まれなかった。研究の足しになるような遺物が見つかればいいんだけど。
ペルガナ史跡群から発見される道具、武器、生活用品、住居に至るまでがすべてひとつの共通した言語によって統御されているのは周知のことだ。
人類が世界の各地へと広がってゆく前に用いられていた、大統一(グラン・)言語(ラング)だとされている。ぼくたちが日常で使う言葉とは異なり、発した瞬間に現実へ物理的な干渉を行う。
単語や文法の概念もいちおうは存在するが、例えばひとつの単語の意味を担保する音声の幅は、ぼくたちの認識からすれば無限に近いほどの諧調がある。
文法にしても同一の単語が音声の違いによって品詞をたがえたり、おまけに構文が存在しないものだから、理論通りに運用することは極めて難しい。むしろ音楽に近いと表現したほうがいいくらいだ。
事実、古代人の交響曲だと考えられていた半刻近くにおよぶ音声記録が、ひとつの名詞を修飾する関係詞節の羅列に過ぎないことが判明したこともあった。その日、ぼくは寝こんだ。とかく、グラン・ラングはぼくたちの日常感覚を超越する。
だから、「神様のことば」なんて称されたりもする。信心深くないペルガナ市国の住民の言うことだから、揶揄も相当にふくまれている。だが、それは案外、遠くない例えなのかもしれない。ぼくにしたところで、学園に奉職してからたっぷり十年はグラン・ラングを専門に研究しているのに、まだその端緒についた気さえしない。
グラン・ラングの研究者にのん気な性格の人物が多いのも、うなずける。あくせく動いたところで、それは無限を前にすればゼロと同じだからだ。一生涯のうちにすべてが解明されることは、まずありえない。手の届く範囲だけをしっかりとやって、時が来れば次の世代にバトンを渡す。人間ができるもっとも偉大なことは、永遠を前にこうべを垂れる謙虚さだと知っているのだ。だから、ぼくのサボリも人間の本質へ迫る哲学的な内容を多分にふくんでいると考えてほしい。
どうやらプロテジェたちは、岩と岩の間に隠れた亀裂をのぞきこんでいるらしい。身体を横にすれば通れそうだ。
「見つけたのはだれかな」
声をかけると、みんないっせいにふりむく。
おもはゆい。大勢を前にメンター然としてふるまうことが苦手だったりする。
「ぼくです!」
最年少、六歳のシャイがいきおいよく手をあげる。信頼とあこがれしかない、子犬のような目でぼくを見つめてくる。
ぼくは他人から信頼されることがつらい。いつか自分の中の悪い部分が、それを裏切る気がするからだ。
正直であることは美徳だと思う。けど、正直にふるまうことができるのは、己の本性が善良であることに疑いのない人間だけだ。
ともあれ、少なくともこの瞬間、ぼくはメンターとしてプロテジェたちの前に立っており、それを演じる義務がある。
ぼくはシャイの頭に手をおいて、くしゃくしゃとかきまわす。
「よくやった。これはペルガナ市国の歴史の中で、もっとも偉大な発見のひとつになるにちがいないよ」
スウの視線を感じる。その顔には「前も同じことを言いましたよ」と書いてある。
けれど、賢い彼女はプロテジェたちの前でぼくに恥をかかせたりはしない。
言ってみれば、これはぼくの決め台詞だ。とかくメンターは衆人環視の中でコメントを求められがちである。だが同時に、繰り返しの日々に生きるメンターが対応するべき状況もさほど多くはない。場面に応じたいくつかの決め台詞を持っていれば、動揺による権威の失墜を避けられる。
しかしその定型文も、シャイ少年と一部のプロテジェたちには大きな感銘を引き起こしたようである。集団を前に重要なのは、異なった解釈の余地がある言葉を使わないこと。
ぼくは他人の視線を意識すると、動きが速くなる傾向があるようだ。状況を早く終わらせたいからだろう。はしっこい小男ほど、権威と遠いものはない。
後ろに手を組み、ことさらに悠然とプロテジェたちが取り囲む亀裂をのぞきこんでみせる。どうやら、地下道の天井に開いた亀裂らしい。
ぼくがひと言を発すると、壁が発光を始める。心の中でくちぶえを吹く。まだ生きている遺跡だ。取り囲むプロテジェたちが、おー、と声をあげる。おもはゆい。ぼくはただ、グラン・ラングで「光」と言っただけだ。
けど、プロテジェたちが驚くのも無理はないかな。ただの単語でさえ、メンターなのに使えない人、多いんだから。文節単位以上のグラン・ラングを発話することを施術と表現するが、意味のある文章を構成すること自体が並大抵ではない。
ペルガナ史跡群の遺跡は、壁面そのものが照明になっていることが多い。しかし、ここまで完全に機能しているものはめずらしい。地下道はわずかに湾曲しながら、奥へと続いている。
ふつう、どこかで埋まったり、途切れたりしているものだけれど……。
「刀を持ってくるんでしたね」
いつのまにかスウが隣に来て、亀裂をのぞきこんでいる。小さな顔が、ぼくのすぐそばにあった。若さゆえの無防備さに、心音のトーンが変化するのを感じる。できるだけ不自然にならないようにゆっくりと身をもぎはなすと、できるだけ明確になるよう言葉を選びながら、プロテジェたちに宣言する。
「この遺跡は第一級のものであり、ただちに調査を開始するべきと判断します。年少組はこのまま帰宅しなさい。年長組は学園へ戻り、事務へ調査チームの編成を依頼します。その後は帰宅してよろしい。予備調査のための斥候部隊はメンター・ユウドと――」
シャイが目を輝かせて跳びあがりかけるのに、
「志願します」
間髪を入れず、スウが手をあげる。冷静だ。そして、的確だ。
「よろしい。年長組は遭難等、万一の事態のために、メンター・ユウドとスウ・プロテジェが先行していることを同時に伝えてください。では、解散します」
プロテジェたちは三々五々、与えられた指示を持ってこの場を離れていく。シャイがうらめしそうに何度もこちらを振り返ったが、もどってくることはなかった。
「さて――」
スウが切り出す。にっこりと微笑んだ彼女は、猫のような好奇心でいっぱいだ。
「はじめましょうか、メンター」
二人きりのとき、彼女のほうが主導権を握っているような気がするのは、ぼくの気のせいだろう。きっと、劣等感がそう感じさせるんだろうな。
「少し高さがある。ぼくが先行しよう」
短くグラン・ラングを発すると、ぼくとスウの周囲を風がとりまく。
亀裂に手をかけて内側へとびこむと、ぼくの身体は重力を知らないようにゆっくりと下降してゆく。靴底で床の強度を確かめ、通路の前後を確認する。
「大丈夫みたいだ。おいで」
スウは亀裂に身体を押しこむのに四苦八苦している。凹凸がありすぎるんだよな。
やがて落下傘のようにスカートを広げながら、放射状に床のほこりを舞わせて着地する。
「もしかして、見えました?」
「いまのところ、魔物はいないみたいだね」
ぼくはスウの質問にとぼけた返事をかえす。
「それは何よりです」
スカートについたほこりをはらいながら、スウが言う。顔が紅潮しているのは、やっぱり怒ってるんだろうな。
地下遺跡の中に生態系を持つ生き物全般を、ペルガナ市国では単に魔物と総称する。言語学者は多いが、生物学者は少ないからだろう。
地上へ出てくることはほとんどなく、人に危害を加えることもまれである。過去の被害報告は遺跡の調査隊に限定されており、魔物にとっては要するにぼくたちのほうが侵入者なのだ。
壁が発光しているとはいえ、それは光ごけ程度のもので、かろうじて視界を約束してくれるだけだ。本は読めないだろう。ときどき、通路の奥からうなり声のようなものが響く。それが風鳴りなのか、何か生き物によるものなのか、わからなかった。
「やっぱり刀、持ってくるんでしたね」
すぐ後ろを歩くスウが、心細そうに言う。
「それより、荒事にならないことを祈ろうよ」
実際、魔物の一匹や二匹、腺病質のメンターひとりでも簡単に撃退できるだろう。でも、そういう筋肉質の発言をしないのがぼくのスタイルなのだ。
グラン・ラングを殺傷に用いることができるのは、研究者ならば誰でも知っている。けれど、殺傷を目的とした論文は受理されないことも学会における暗黙の了解になっている。もちろん、方便に過ぎない。心意気、みたいなものだ。刃物は、野菜も切れれば人も切れる。すべての研究は裏腹に、真逆の側面を抱えている。大事なのは、どちらをより多く見たいか、ということだ。
通路は右に曲がりながらわずかに傾斜し、地の底へとつづいているかのようだ。歩けど歩けど、どこかに到着する気配はない。
古代遺跡には大きく分けて、私的な住居と公共施設とがある。当たり前のことだ。当たり前のことだが、数千年を経て、古代の人々もやはりぼくたちと同じ人間だったのだなあ、という感慨をいつもおさえることができない。しかし、この遺跡が何の目的で建設されたものなのか、これまでの経験との類似点を見つけだすことがいまだにできないでいた。
進むにつれて天井が低くなり、圧迫感をもって頭上にのしかかってくる。閉所恐怖症にはつらいだろうな、これは。あるいは、背の高い青年男子には、かな。
ほどなくして、スウが立ち止まった。
「予備調査の役割は、もう十分に果たせたと思われますが」
せめてこの遺跡が建設された目的がわからないと戻れないよ――そう言おうとして振り返る。低い天井へ前かがみになったスウの太い眉が、情けなく垂れ下がっている。ぼくはなんだか愉快になって、思わずメンターらしくないからかいをする。
「なあんだ、怖いのかい」
たちまち薄明かりの中でもわかるほど、スウは真っ赤になった。
「いえ、別に」
ぷい、とぼくから視線をそらす。ふだんとは違って、抑制の裏がすけて見えるのがおもしろい。逆襲の機会を逃さじとまわりこんで、視線をつかまえる。
「やっぱり怖いんだ」
「こわくなんかないです!」
めずらしく、感情的に声をあらげるスウ。見れば、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。しまった、調子にのりすぎたか。
この娘はモニターとして、他のプロテジェたちのみならず、ぼくの保護者をも自認しているようなフシがある。優等生は、演じようとしている役割を否定されることにいちばん傷つくのだ。
ぼくはあわててメンターへと退却した。
「すまない、スウ・プロテジェ。いまのは撤回する」
スウの感情から肩書きを利用して逃げたのだ。ずるいやり方だ。
しかし、スウはぼくの作戦には気づかないようだ。いや、賢い彼女のことだから、気づかないふりをしているのか。
「いいえ、私のほうこそ、自制心を失いました。ゆるしてくださいますか」
厳しい表情のスウ。ゆるしてもらうのはこっちなのだが、ぼくは立場を悪用して主客をひっくりかえした。ゆっくりうなずくと、見ているこちらの胸が痛むほど、スウは表情をゆるませる。
「ひ、ひとつ言わせていただきたいのは」
なぜか、スウはひどく言葉をどもらせた。喉の動きでつばを飲みこむのがわかる。
「私はメンターといっしょならば、何も怖いことはありません」
声がふるえている。ここまで動揺したスウを見るのははじめてだ。遺跡の中には、悪い病気が閉じこめられていることもあるという。その影響かもしれない。早く調査を終わらせなくちゃな。
安心させようとして、ぼくはできるだけの笑顔で両手をあげてみせた。
「さあ、調査の続きをしよう。きっともう、長くはかからないよ」
先へ進もうとするが、スウは両手を組みあわせたまま固まっている。
しまった、笑顔が不自然だったか。しょうがない。できるだけやさしくと努めながら、譲歩を提示する。
「君がどうしてもイヤなら、学園から本隊がやってくるまで調査は中断しようか」
スウの口元がなぜかへの字に曲がり、幾度も目をしばたかせる。
「いえ、続けましょう。きっと長くはかかりませんから」
大股にぼくを追いこすと、肩をいからせるようにしてずんずんと奥へ歩いてゆく。
メンターの習い性かもしれないが、人の感情を己の利に誘導しようとするのは、ぼくの悪癖と言える。どうやら、スウを完全に怒らせてしまったらしい。
あぶないよ、と声をかけるが、ふりむきもしない。
ぼくは、悄然とついてゆくしかない。ああ、二人きりでよかった。つま先をながめながら少女のあとをついてゆく小男に、不審者以外の名前をつけることは相当に骨の折れる作業だろうから。
どすっ。突然のやわらかい感触。
気がつけば、ぼくはまたスウの背中にぶつかっていた。
「メンター、見てください」
状況に負けて思わずあやまってしまいそうになるのを、その声色が止めた。
通路は、その突き当たりで広大な空間へと変じていたのである。
おそらく、この広間の外側を巻くようにして、ぼくとスウは下ってきたのだろう。
床は土でむきだしになっていて、壁面はまぶしいほどに発光している。薄闇になれた目には、少々きびしいくらいだ。
広間の中心には、形も大きさもふぞろいの透明な円柱が、不規則に林立している。ぼくはくちぶえをふいた。
「こりゃ、当たりだ。シャイ少年の名前が教本に載るかもな」
きょとんとした顔でスウがたずねてくる。
「どうして当たりだってわかるんですか」
好奇に見ひらかれたスウの瞳がすこし赤くなっているのが気になったが、ぼくは大仰にため息をついてみせた。
「学力優秀なきみがこの光景から答えを見つけ出せないのだとしたら、ぼくのクラスにぼくの講義を理解しているプロテジェは、ひとりもいないだろうね」
優位であることが明らかな場面で皮肉っぽくなるのは、ぼくの悪い癖その二だ。
「講義中、資料じゃなくて、何か別のものを見ていたんじゃないのかい」
この言葉に、スウはたちまち真っ赤になった。クラスを預かるモニターとしての矜持が、このような遠まわしの侮辱に耐えられないのだろう。
「いえ、わかります。ちゃんとメンターのお話は聴いていましたから。古代人の公共施設に特徴的なものは、玻璃です」
祖母に育てられたというスウは、ときどき妙に古い語彙を使う。学園の外部理事だったよな、お祖母ちゃん。血統だな。
ぼくはスウのあとを引き取った。
「その方法は失われ、ぼくたちは粗悪なコピーを使うばかりだが、水晶は古代人にとってエネルギーを蓄積し増幅する一種の装置だったと考えられている。一般的に、遺跡のいちばん深いところに水晶はすえられ、全体へとエネルギーを供給する。数ある鉱物の中で、特に水晶が選ばれる理由は――」
「グラン・ラングとの親和性が高いからです」
じろりと視線をやると、あわててつけくわえる。
講義の中でならば、スウはぼくにとって極めて御しやすい相手と言えるのだった。
「教科書的には満点だけれど、意味がわかって言ってるかい?」
スウがぶんぶんと首をふる。範囲を定めた暗記ではいつもクラスいちばんなんだよな、この娘。
「グラン・ラングは現実へ干渉する。とはいえ、あくまで一過性の現象を引き起こすにすぎない。グラン・ラングの効果を固着させ、好きなときに取りだすことができるのが、水晶の特徴なんだ。エネルギーの蓄積や増幅も、その一環に過ぎない」
「なんでもできるんですか」
「理論上はそうみたいだね。グラン・ラングで記述された情報を集積するサーキットだから。古代人は紙を使わなかったそうだ」
「どうやって勉強したんでしょうね」
首をかたむけて腕組みするスウ。どうやら調子がくるっているのはぼくだけではないらしい。
「いま何の話をしているっけ」
「水晶ですね……ああ」
ぽん、と手をうつスウ。じろり、とにらみつけるぼく。
「これが口頭諮問なら落第点をつけているところだよ。紙の情報は少なくとも物理的には力を持たないし、量も非常に限定されている。質にしたところで、ぼくたちの日常語とグラン・ラングとの間には比較できないほどのへだたりがある。ぼくたちだって、膨大な情報の塊からできていると言えないこともない。もし、グラン・ラングのすべてが解明されるようなことがあって、無限の情報を蓄積できる水晶がどこかに存在するとすれば、生命をゼロから作り出すことも可能と主張する論文を読んだこともあるよ」
もっとも、ありえない仮定をふたつ組みあわせたその論文は、研究というよりは小説、というお決まりの非難でどこからも相手にされなかったみたいだけれど。
「おーい、生きとるかー」
いくつかの足音とともに、妙な抑揚の声が聞こえる。
どやどやと広間に闖入してきた白衣のプロテジェたちをかきわけて、声の主が近寄ってくる。黒髪に黒い上着、黒い巻きスカートのその女性は、肌の色も真っ黒だ。羽織っている白衣以外は、すべて黒いという徹底ぶりである。
「あいかわらず夜のように暗いね、キブ」
「アンタの性格ほどではないな、ユウド」
このやりとりはお決まりである。
だが、物忘れのように毎回、キブは大きな胸をゆらして豪快に笑う。こぼれた歯がすばらしく白く見える。これだけ黒ければ陰影も消えて、身体の起伏もわからなくなりそうなものだけれど、なんというか、こう、非常に肉感的な女性なのだ。
「おう、水晶林があるやん。こら、有望かもしらんな」
白衣の上からでもわかる大きなお尻をふりながら、キブは水晶のほうへとかけてゆく。
キブは史学科のメンターで、ぼくたち言語学科の人間とは切っても切れない関係にある。グラン・ラングには文字が存在しない。なので、遺跡で発見される遺物(レガシー)がなければ研究はおぼつかなく、グラン・ラングの知識がなければ、レガシーを精査することはできない。レガシーの中には、個人を特定するための起動ワードが封印されていることも少なくないのだ。
だから、史学科と言語学科の研究活動は、非常に相補的だったりする。公的・私的の区別なく、懇親を深める機会は多い。スウが研究員たちに取り巻かれているのが見える。なぜか、スウは史学科の男性研究員たちに人気があるのだった。
その様子を見ていると、妙に胸のあたりがざわざわする。まあ、容姿も端麗で、応用力に欠けるきらいはあるにせよ、聡明な少女だ。とりまき連ができるのはふしぎなことではない。
「ちょっと、こっち来てくれへんか」
袖をひっぱるキブ。水晶林までぼくを連れてゆくと、声を低くして耳うちする。
スウが顔をあげてこちらを見ているのが気になった。
「調査隊までひっぱってきてアレなんやけどな、この遺跡、お手つきや」
ぼくは全身が脱力するのを感じる。
「確かなのかい」
「まちがいないわ。見てみ」
キブが親指で示した先には、切り株のようになった水晶があった。視線をあげると、ところどころに同様の切り口が見られる。
「インクルージョンはすべて持ち出されてるみたいやな」
インクルージョンは史学科と言語学科に共有される隠語、一種の専門用語である。簡単に言うと、中身の入ったバケツのようなもの。中身はグラン・ラングの音声データであったり、レガシーであったり、抽象・具象さまざまだ。
そして、グラン・ラングを吹き込む技術が現代に継承されていない以上、空の水晶はただの鉱物にすぎない。
「はずれかあ」
嘆息して天をあおぐ。
「せめて、アルマのひとつくらいはと思ったんだけどなあ」
攻撃に特化したグラン・ラングが吹き込まれたレガシーを、特にアルマと呼ぶ。必ずしも武器の形をしているとは限らないが、とにかく多く産出する。古代人は、きっと戦争が大好きだったのだ。
「直接、研究室へ来てくれたらよかったんやけど、アンタのとこのプロテジェが事務を通してしもたからな。レポート出さなあかんで。あと、うちの連中へするペイのことも忘れんとってや。なんも成果があがらんかったら、内規ではアンタの自腹になるさかいにな……って、聞いとんのかいな、ユウド」
実際、ぼくは半分も聞いていなかった。
天井から巨大な水晶が、つららのようにぶらさがっているのに気づいたからだ。
薄紅色をしたその水晶の先端に、何かが入っている。
異変に気づいたキブが、ぼくの視線の先を追う。
「うひゃあ、ローズ・クォーツや! それに、見てみい、あの大きさ! あんなデカいの見たことないわ」
抽象・具象にかかわらず、内包するものの性質によって水晶は色を変えることがある。しかし、これはちょっと群を抜いている。
「なあ、先っぽに入ってるの、人に見えないか」
キブは手のひらを水平にかざしながら、目を細める。
「ちょっと透明度が低い水晶やから、はっきりとはわからへんけど……言われてみたらそんな気がせえへんこともないな」
「ふたりでこそこそと何をしておるのだ」
高圧的な低い声をかけられ、ぼくとキブは同時にふりむいた。
スウが腕組みをして立っている。制服の袖は肩口までまくられ、スカートは先ほどの半分ほどの長さにたくしあげられていた。
服装よりも表情だ。太い眉と両目は吊りあがり、唇の片側は挑戦的に歪んでいる。
ぼくはスウの腰に視線を送る。
そこに――
刀をはいていた。
ぼくはごくり、と唾を飲みこむ。かろうじてしぼりだした声は、みごとにかすれていた。
「それは、異装だよ」
「ふん、最近のメンターは学則も暗記していないとみえる」
スウは胸元にこぶしを引き寄せると、大仰にふりひらく。
「プロテジェ各人の特質を引き出すことに寄与すると客観的に判断される場合、学園の制服はその変形を認めるものとする!」
わあ、その条項、「客観的に判断する」のがだれかわかんないんだよなあ。やっぱり、「受け持ちのメンターが」と読むべきなんだろうなあ。
スウの背後で、上気した顔の研究員たちが、歓声をあげる。何しにきたんだ、あいつら。もうしわけなさそうな顔でキブがささやく。
「ウチはいちおう、止めたんやで」
刃物を持つとこの娘は、性格がおだやかではなくなるのだ。
うん、ほんのちょっとだけ。
「あれだな」
腕を組んだまま、小さなおとがいでスウはローズ・クォーツをさす。元々の造作が変わらないせいか、ひどく凶悪な印象を受ける。もっとも、背後の研究員たちがぼくに同意しないことは、尋ねるまでもない。
「人が入っているな」
「本当かい?」
ぼくは驚いて、思わず聞き返してしまう。失態である。
「プロテジェの言を信じようとしない点は、愚かなメンターの常として聞き流すとして、私の能力に対する疑義が呈されたのは看過できぬな」
スウの目が細められる。おそろしい三白眼だ。
来るぞ、例のやつだ。
「我が視力の透徹なるは星をもとらえッ!」
両手を広げると、スウは右足を大きく一歩ふみだす。
キブが悲鳴をあげて背後へまわりこみ、研究員たちが「うおおーっ」と歓声をあげ、ぼくは背中から両腕をつかまれて立ちつくす即席の人間盾と化す。
「我が拳の精強なるは金剛石をも粉砕するッ!」
ふみこんだ右足を支点に回転しながら左足を引き寄せ、両手を高くあげながら見得をきる。
「我が知恵の深甚なるは世界の深奥へ至り――」
首をふりまわしながらさらに見得をきる。赤いポニーテールが少し遅れてついてくる。
「そして、我が剣技の精妙なるは全ての物質の形状をあまねく規定するッ!」
右手が束にかかり、匕首の切られる音がする。
「我が剣の意思にそむくものは己を非存在と心得よ!」
気がつくと、ぼくの鼻先に剣先の冷たい感触がある。見えなかった。
血はでていない。でていないが、数分後に鼻だけもげるような技をすでにしかけられたのかもしれない。いや、もしかすればうしろのキブが血ぬれの遺体となって地面に転がっている可能性すらある。刀をはいたスウに関して、ぼくはすべての希望的観測をゼロにして向きあおうと決めているのだった。
もはや謙虚のショウ・アンド・テル教材と化したぼくは、降参のあかしに手のひらを見せて、「わかりましたわかりました」としゃがれた声でくりかえした。
「少なくともユウド、貴様には実際に証明しておく必要がある」
スウは傲然のショウ・アンド・テル教材のごとく胸をそびやかし、ぼくの鼻先からローズ・クォーツへと剣先を移す。
「とりだしてやろう」
本当かい、と言いかけて口をつぐみ、ぼくはあやういところで命びろいをする。
キブがぼくの右肩にあごをのせてのぞきこみ、様子をうかがっている。どうやら、まっぷたつにはなっていなかったらしい。まだ。
「ただ、アレが人である可能性を残す以上、わずかでも中身を傷つけてしまうことは避けたい。わかるな?」
ぼくとキブはつりこまれて、もはやメンターとしての威厳もどこへやら、がくがくと首を縦にふった。尖ったアゴが、肩に痛い。
「危険をゼロに近づけるためには、私の身体能力を若干高める必要があろう。そこで貴様の出番というわけだ、ユウド」
口の端をゆがめるようにして笑う。わるい子になってしまった。
だが、スウが言うからには、その見立ては正しい。
以前、史学科研究員たちの悪ふざけ(きっと、特殊な性癖を満たすためだ)で、スウはさまざまの硬度を持つ素材を試し切りするハメになった。切れないものは当然なかった。自然石にはりつけた濡れ紙を両断したり、濡れ紙を両断せずに自然石を両断したり、度肝をぬかれる見世物だった。グラン・ラングと同じように、ほとんど物理法則に干渉しているとしか考えられなかった。どうやったのかを尋ねると、「通すか切るかの違いだけだ。貴様には見えないのか」とだけ答えた。ある研究員が、自分のうしろにおいた木材を切断してみてくれ、と申し出たときはしかし、鉄拳で答えた。「遊びで用いていいものと、そうでないものの違いもわからんのか。愚か者め」
傲岸不遜だが、大言壮語ではない。刀をはいていようといまいと、根っこの部分では人に対する愛情がある。
ぼくはうなずく。
「よし、やろう。君のことを誰よりも信頼しているからね」
スウは一瞬もとのような顔になったが、すぐに背中を向けてローズ・クォーツと向かいあう。
「言葉にする必要がないことは、言葉にせぬのが賢明だ。そして女!」
「はいッ!」
キブが直立する。
「ユウドから離れておけ。集中の妨げになるといかんからな」
キブはぼくの肩をぽんぽんと二回たたくと、研究員たちのほうへと下がっていった。
「倍は必要ない。さあ、やれ」
ほっそりとしたスウの身体に意識を集中させる。もちろん、やましい意味ではない。伸びた足と膝裏のくぼみは悩ましいにせよ、仕事と私的な趣味を混同しないのが大人というものだ。
グラン・ラングの研究分野はいくつかの大きなカテゴリに分けることができる。それぞれがさらに子や孫にあたる分派を持っており、いまや相当度に細分化されている。本来ならば、すべての分野を横断的かつ学際的にとらえなければいけないだろう。だが、いかんせん、母体があまりにも無辺大に広がりすぎているのである。それぞれを組み合わせたときの有機的な動きというよりは、各パーツの持つ意味へ個別に当たっているのが現状だ。
ぼくが専門にしているのは、「付与」と「維持」である。付与者(エンチャンター)にして維持者(アップキーパー)というわけだ。研究分野の選択は、どうも研究者の性格と大きく関与している気がしてならない。専門による性格占い、というわけではないが、少なくともぼくの親しい研究者仲間で両者の不一致を感じることはない。人であれ、物であれ、自分以外に干渉するのが「付与」と「維持」のグラン・ラングが持つ特徴である。性格占いの結果は、野次馬とおせっかいだ。
この分野に関して、じつはけっこう決定的な論文を書いたことがある。研究全体の方向性そのものを変えてしまうような。慣例ではあるにせよ、うちのボスとの連名で発表されたので、周囲の評価がぼくに対して高いとは言いがたい。けど、内心ではこの「付与」と「維持」の実質的な第一人者であると自負している。
論文内で便宜上、魂と名づけたものへ直接干渉することで、人の身体能力を一時的に高めることができる。これが、「魂の高揚」と表現するぼくの発見。ちょうど、自律的に燃焼するロウソクの炎を外部からの操作によって、一瞬だけ激しく燃えたたせるイメージだ。ロウソクの比喩は二重になっていて、やりすぎると疲労を通りこして寿命そのものを縮めてしまいかねない。
この発見の後、丸二日寝こんだ。研究者の倫理として、まず己を実験台にしたからだ。自分のエネルギーを自分に供給すると、暴発をまねくという貴重な体験である。あくまで「付与」は、外的な現象であるべきという教訓だ。
集中を極限まで高める。
視界の明度は暗灰色へ。
事物の輪郭は、闇色へ。
スウの内側に清浄な青い光輝の塊が浮かぶ。
網膜を焼くその美しい輝き――
これこそが、魂と名づけられた内なる燃えあがりである。
ぼくは低く言葉をつなぎはじめる。細心の注意をもって、音をつなぎ、抑揚をつなぎ、意味をつなぐ。ひとつ発音をまちがえてさえ、グラン・ラングは全く異なる解釈へと変じてしまう。
剥きだしの魂を前に、生殺与奪はぼくの上にある。
それが、スウの信頼のかたち。
青い炎が燃えあがり、光を増す。やがて純白の輝きへと変じ、両目を射る。
スウが視界から消滅する。
跳躍したのだ。ローズ・クォーツを頂点とする軌跡を描いて、着地する。
ぼくは反響する鍔鳴りで、かろうじて抜刀があったことを知った。
奇跡の一瞬は終わり、広間には静寂の音が残された。
振り返ったスウの額には、髪の毛が一筋、汗ではりついている。
「よくやった。成功だ」
その言葉を待っていたかのように、頭上でローズ・クォーツが破裂する。外部からの衝撃というよりは、内圧で吹き飛んだように見えた。赤い水晶の破片は、壁面からの発光に照らされて、さまざまな色を発しながら、雨の如くぼくたちへ降りそそぐ。キブと研究員たちは一大スペクタクルに歓声をあげたが、ぼくの目は別のものをとらえていた。
水晶の破片にまぎれて、人が降りてくる。降りてくる、と表現したのは、まるで羽毛のようにゆっくりとした落下だったからだ。
ぼくは息をのむ。全身をおおうまでに豊かな髪の毛は黄金のように輝き、のぞく肌は乳のように白い。永遠とも思える時間のあと、一糸まとわぬその人影は、ぼくの両腕の中へおさまった。
人間の子どもだ。ぼくは目をみはる。
そして女の子だ。ぼくは目をそらす。
小さな、氷のように冷たい手のひらが頬にふれる。魚のように濡れている。
その瞳は、燃える魂ように青く。
その唇は薔薇水晶のように赤い。
この世のものではない美を前に自失するぼくの首へ、冷たい両腕がまわされる。
深く、長い吐息のあと――
渇した旅人が泉へじかに口をつけるように、薔薇水晶の唇はぼくの唇を狂おしく吸いあげたのだった。