猫を起こさないように
甲虫の牢獄(5)
甲虫の牢獄(5)

甲虫の牢獄(5)

 日々はここに来る前にぼくが想像していたような劇的さではなく、淡々と過ぎていった。生活のスケジュールは高天原によって管理されており、徹夜で作業をしたことなどはほとんど無かった。
 朝は六時に起床して、鶏の駆け回る前庭でラジオ体操を行う。ラジオ体操が終わる頃には、元山宵子が小太りの男の運転するワゴン車に乗せられて、自宅で作ってきたのだろうか、大量のおにぎりとみそ汁の大鍋を朝食として運んでくる。ぼくは全神経を集中して元山宵子のにぎったおにぎりを味わい、彼女の風味を探し出そうとするが、いつも失敗する。朝食が終わるか終わらないかのうちに、元山宵子はまたワゴン車で下界へと送られてゆく。
 七時半過ぎごろから仕事が始まり、正午まで続く。
 昼食には朝のおにぎりの残りに加え、塩漬けや煮付けが用意されることが多かった。この塩漬けや煮付けは大量に作られた大皿から何日もかけて全員で消化してゆくのだが、最初に感じた抵抗感は一週間ほどで消えた。
 午後には昼寝の時間が一時間あり、みな思い思いの場所で横になって、高天原のセットした目覚ましが大音量で鳴り響くまで眠る。
 夕方に、元山宵子が再び姿を見せる。制服の上にエプロンをつけて、小太りの男を助手に夕飯の支度をする。だいたい七時頃から夕飯が始まり、食事を終えた者から高天原が薪で焚いた風呂へ順番に入る。
 風呂の後には簡単なミーティングがあり、仕事の進行状況と問題点を高天原にそれぞれが報告する。全員の報告が終わる頃には片づけを済ませた元山宵子が土間から座敷に顔を見せ、「お疲れさまでした」というお決まりの言葉を残して帰宅する。
 ミーティング後は基本的に何をしていても構わないが、仕事を継続する者もいた。足を制限された山奥の一軒家に、受信される放送局の少ないテレビ一台では、他にすることは無かったからとも言える。直接チャンネルを回す古いタイプのテレビで、ここに来た当日にはゲーム機を接続するジャックが無いと悲鳴が上がったものだった。
 十時を過ぎた頃には誰からともなく立ち上がって布団を引き始め、高天原が布団に入っている皆を見まわし、「それではまた明日」と言って電灯のひもを引く。十一時を迎えないうちに部屋の灯りは消える。
 おおむね、毎日はこんなふうに過ぎていった。ぼくたちの集まっている目的を考えなければ、ほとんど健全と言ってよかっただろう。
 ぼくに与えられた仕事は、一人の少年が一人の少女と恋に落ちる場面をシナリオとして書くことだった。
 「君自身がその少年だと思って、その少年に自分自身のこれまでの人生を投影するつもりで、正直に書くんだ。もしまずいところがあれば、あとで私が修正しよう。上手にやるのではなくて、正直に書くんだ。少女の容姿や設定は君のシナリオが完成してから、すべて逆算でデザインする。私が求めているのは君が自分自身に正直であること、そして君の理想の少女を理想そのままに美しく書くこと、それだけだ」
 高天原は最初にそう言ったきり、ぼくを完全に放っておいた。
 ここにやってきた最初の数週間、ぼくは一切何もしていなかったといっていい。ミーティングのときも、高天原はぼくにだけは仕事の進行状況を聞かなかった。モニターの上に日々完成していく精緻な絵を横目にして、ぼくは真っ白なノートの前にただ呆然と座っていた。周囲にはさぞかし馬鹿のように映っていたに違いない。
 八月に入ると、元山宵子は朝やってきてから、夜まで帰らないことが多くなった。
 しかし食事を作る以外は何をするわけでもなく、ときどき本を読んでいることもあったようだが、縁側で前庭を眺めながら足をぶらぶらさせていることがほとんどだった。細いうなじに陽光が照り返して白く輝いているのを見るのが、ぼくは好きだった。
 一度だけ、どんな仕事をしてるんですか、と元山宵子がノートをのぞきこんできたことがあった。そのときのぼくは大慌てでノートを閉じると、何も言えずただぎこちない微笑みを返すことしかできなかった。元山宵子は一瞬、目の奥にふしぎなかぎろいを見せたが、一言謝ると元のように縁側に腰を下ろした。
 集まった人間たちは、あまり私的なことは話さなかった。高天原がそれとなく、これまでのことについて話すのを禁じていたせいもある。暑いとか寒いとかうまいとかまずいとか、その場限りに終わる感情以外の話題は、必然的に仕事に関することばかりになった。プログラムやそれに類する専門的な話は全く理解できなかったので、ぼくはいつもなんとなく蚊帳の外に置かれているような気になったものだった。高天原を除くならば、ぼくが思い出せる言葉でのやりとりというのはとても少ない。だから、その場面はとてもよく覚えている。
 それは、元山宵子のいる午後だった。
 プログラム担当の男が突然、奇声を上げながら後ろに向けてひっくり返った。
 仕事に煮詰まってのことだったのかもしれない。男は大の字に寝ころんだまま、誰へともなく言った。
 「俺、文明の進化って言うのは、容量を減らしてゆくようなものだと思ってるんだ」
 仕事上のトラブルにひっかけていたのだろうか、唐突な内容だった。縁側に座って足をぶらぶさせながら、庭を眺めていた元山宵子が振り返る。
 「逆じゃないんですか。世の中の複雑さはどんどん増えてゆくように思えますけど」
 「ところが俺によるとそうじゃないんだな」男は仰向けからぐるりと身をかえすと、元山宵子に向き直った。
 「俺が言っているのは、人間のことさ。こうやって話している言葉だって、省略できるものはどんどん省略して容量を減らしてるだろう。人間の言葉なんてのは、本当はたいそうなものじゃなくて、圧縮と解凍の連続でできているマシン語のバリエーションみたいなものに過ぎない。ただ、最も正確にしゃべったとして周囲に正しく命令が伝わるとは限らない、ヘボ言語だがね」
 元山宵子は黙って聞いていたが、ただ眉を少し寄せるだけの表情でいったい何を言っているのかわからないと伝えていた。彼女の感情はときどきほとんど言葉にされないにも関わらず、驚くほど周囲に伝わることがあった。元山宵子はきっと、それを意識して使い分けていたと思う。
 男はいらいらとした調子で続ける。
 「圧縮するためには、余分な情報は真っ先に削る必要があるだろう。俺が言うのは、そういう意味さ。科学技術の発展によって、車とか飛行機とか、まず世界の広がりが圧縮されたんだ。いまは人間そのものが圧縮されてきてる最中なんだよ。例えばエロゲーの世界なら、俺なんてまず真っ先に削られてしまうだろう。俺が主人公だったことは一度も無いし、ゲーム内のカメラが向けられる瞬間も無いだろうからな。スポーツゲームの観客席のようにのっぺりとした、背景を持たない一枚の書き割りなのさ。他人なんてすべて自分にとっては書き割りみたいなもんだし、このやり方が全く正しいことを認めざるを得ないね」
 自嘲気味に男は乾いた笑いをあげた。
 「俺たちをいつも白けさせて正気に戻らせちまう現実の雑音は、エロゲーでは全部無いのと同じように圧縮されて、ただ感動や欲情や俺たちが必要としているものだけが残る。俺がこの仕事に止まり続けているのも、たぶんそれが理由なんだ。エロゲーは俺たちが過ごしやすいように、現実の旨みだけを取りだして誇張して、必要の無い部分はすべて圧縮してくれる。エロゲーで体験できる生の密度に比べれば、現実なんてオンラインゲームみたくクソ薄っぺらだよ。ひとつの解答を見つけるのに数メガバイトくらいのシナリオじゃなくて、何年もヒントすら無いままにさまよわなくちゃいけないなんて、神様っていうのはきっと相当のヘボクリエイターなんだと思うよ。俺はエロゲーを作ることで、この世界が実はクソゲーだということに気づいてしまっている連中に、やつらが体験したいと思っている正しいプロポーションに成形された世界を見せてやってるんだ。神様のしわ寄せ分を俺たちがせっせとアイロンがけしてるってわけさ。それとも裁断かな。だとすれば、科学技術が次に求めるべきなのは時間を圧縮する手段だよ。SFみたいに旅行する必要は無いんだ、ただ圧縮できさえすればいい。クライマックスからクライマックスへ、現実においてエロゲーのイベントのように意味のある濃度を持った瞬間だけを体験して、残りをすべてスキップできる装置さ」
 そこまで聞いて、元山宵子がわずかに息を吐いた。
 「そんなふうに圧縮や省略を繰り返せば、残るのは生まれることと死ぬことだけなんじゃないですか。私は少なくともゲームのプレイヤーとしては現実を生きていません。無数の取捨選択の中で私だけの意志を提示するために、この世はこんなにも膨大に作られているんだと思います」
 男は口元に嘲りを浮かべ、ひらひらと宙空に手を泳がせながら言った。
 「楽な小遣いかせぎをしている高校生ぐらいには、わからんよ」
 その言葉に、元山宵子が跳ねるように立ち上がった。夏の陽光が大きく影を作ったせいだろうか、小柄な彼女が室内からは一瞬倍ほどにも大きく見えた。
 逆光に輝く両目だけが強調され、燃える火のような瞋恚が瞳の底に渦巻いているのがわかる。
 思わず、といった感じで男が起きあがり、居住まいを正す。ばつの悪そうに頭を掻きながら、「悪かったよ、煮詰まってたんだ」とつぶやいた。
 「死に直面すれば、生を再生できるかもしれない」
 ふすまを隔てた隣の部屋に、籐椅子の上でじっと眠っているようだった高天原が口を開く。
 「省略の果てに人生のすべてを体験すれば、そしてそのとき君がまだ生きていれば、もう一度同じ人生を体験しなおすしかない。その人生はきっと以前と同じだろうが、それを体験する君自身は元の君とは違っているだろう。生の反対は死じゃないんだ。生の反対は、再生なんだよ」
 この言葉を高天原の言う本当の意味で理解したのは、ずいぶんと後になってからのことだった。
 振り返ると、元山宵子はいつも通りの小柄な制服の少女だった。
 彼女は縁側に日干ししてあったエプロンを身につけると、夕飯の準備をするために土間へと降りていった。