猫を起こさないように
崩れゆく聖域
崩れゆく聖域

崩れゆく聖域

 「ぼくは自分も見えないほど傲慢だったから、きっと君になにかしてやれると思ってた」
 木々が重なりあい、互いにもたれあうかのように深く深く複雑に生い茂った暗い森。近くにある国道から時折車のライトが照らすが、番人のように密集してそびえる木々に遮られ、その奥はまったく様子がうかがいしれない。枝々の隙間から、かわいた血の色をした月明かりだけが微かにそこを照らすことができる。月明かりの下、小さな子どもなら頭まで埋まってしまいそうな木々の下生えに、もみあうふたつの人影が見える。そのうちのひとりはもうひとりの半分ほどの身長しかない。獣のような低い息づかい。突然の魂消る絶叫。速い風が雲を押し流し、斜めに差し込む月明かりが人影の上を照らす。ひとりの少女が下生えから足を引きずるようにして出てくる。身にまとう高価なものであったのだろう洋服は左胸の部分が無惨に引きちぎられ、その下にあるぎょっとするような生めいた薄い赤色の乳首の周辺には、5本の指をそれぞれ数えることができるほどくっきりと青く、手のひらの形のアザが浮いている。フリルのついたスカートは中ほどから裂かれ、少女の内股を伝って恐ろしいほどの量の血が流れつづけている。ほの赤い月明かりに照らされた横顔は、その年齢の子どもの精神では決して持ちえないような、一種凄惨な憎悪に引き歪んでいる。
 「(手の甲で頬についた血をぬぐい、荒い息の下から)ちくしょう、あんなクソ野郎、前は何人だって簡単に殺せたのに! ちくしょう、ちくしょう……誰ッ!(物音に、洋服の残骸をかき集めるようにして後ずさる)」
 「(木の後ろから、奇妙に人間めいた印象を欠いた幽鬼のごとき様子で男が現れる)江里、香」
 「(警戒した様子を解かず)お父さん。よかった」
 「(少女の無惨な姿に、恐ろしく低い声で)まさか、失敗したんじゃないだろうな」
 「(瞬間ひどくおびえたような表情を見せるが、何かをはねのけるように強く)失敗? ハ、私が失敗するわけないじゃないの! 殺したわ、もちろん殺したわよ。このナイフの先端が頸骨を砕くほどに何度も突き立ててやった。白土三平の漫画みたいに、水平に数メートルも血を吹き出して、下衆な悲鳴を上げながら死んだの、ママ、ママって。そりゃ本当に無様で、みじめな…(言いかけ、急に片手を口に当てると身体を折り曲げるようにして嗚咽する)」
 「(その様子を見下ろすようにしながら)そうか。確かに殺したんだな。ならいい。(感情も抑揚も全く感じられない声で)よくやったな、江里香」
 「(少女、男の声の調子に嗚咽を止める。漏らしてしまった弱みを恥じるように、気丈に胸をそらし)死体の処理はどうなってるの」
 「(事務的な口調で)今回は非常に簡単なケースだ。あの男はおたく的な引きこもりの典型だったからな。月に何度かはバイトに出ていたようだが、30を過ぎて定職にもつかず、両親はじめ親戚縁者からは軒並み勘当されている。ころ合いに社会から断絶され、今までの中でも最も処理しやすい死体のひとつだろうな」
 「(苛立たしげにもつれた髪を手櫛でひっぱりながら、形だけの相づちで)そう、それはよかった。(さりげない話題を切り出すように)ところで、猊下は?」
 「(男、初めてわずかに困惑したような表情を浮かべて)それは、わからない。ただ(口を開こうとして黙り込む)」
 「(眉を寄せて)ただ、何?」
 「(何かを推し量るように宙へ手のひらを指しのべて)猊下の虚構力が弱まってきていることは事実だ」
 「(いらいらした様子で)あなたが何を言ってるのかわからないわ」
 「おまえにもわかってるはずだ、江里香。いや、名前を持たないおれなどが言うまでもなく、おまえたちには何の障壁もなく感じることができるんだろう。それに、(侮蔑の表情を浮かべ)現におまえは取るに足りないあれくらいの獲物に逆襲され、犯され、ほとんど殺されそうになっているじゃないか」
 「(薄明かりにわかるほど、サッと顔を紅潮させて)私が油断しただけよ! (胸に片手を当て)猊下には何の関係も無いわ」
 「(聞こえないかのように)各地の実行部隊からの消息が次々と途絶えている。(ぽつりと)潮時かもしれんな」
 「(首を左右に振って)何、言ってるの。いったい何を言ってるのよ」
 「猊下の虚構力が現実を束縛できなくなりつつある。おれたちの形を規定できなくなりつつある。(唇の端を弱く歪めて)いまなら抜けられるさ」
 「(崩れていく何かを見たくないかのように目をきつくつむり、絶叫する)お父さんッ!」
 「おまえは傷つけられた子どもだった。おれは壊れてしまった家庭の償いをしたいだけの大人だった。夢を見ていたよ、ずっと。長い、長い夏の日だまりのような。おれはおれの家族を恢復することができるかもしれないと思った。だが、それは嘘だった。すべてつたない誰かの手による作りごとだった。洗脳から解けた人のように、ある朝おれは奇怪なギニョール人形を抱きしめて、廃墟でダンスを踊っている自分に気がついたのさ。(後ろめたさを隠すように陽気に両手を広げて)言っておくが、おれは猊下を恨んじゃいないぜ。(うつむいて)ただ、おれが気づいてなかったのは、それが他人の虚構だったってことだ。(間。唐突に顔をあげて)おれといっしょに逃げないか。そうして、誰のものでもない、ふたりだけの、新しい家族っていう虚構を始めないか。(すがるように)このままじゃ、そう遠くないうちにおまえは殺されちまうぞ」
 「(殉教者の静かさで首を振って)ありがとう。でも、もう決まってるの」
 「(力を無くして)そう、か。おまえは猊下に名前をもらった人間だから、そう言うだろうとはわかっていたよ。わかっていたんだけどな(語尾が弱々しく消え、男、顔を伏せる)」
 「(男の感傷を遮る酷薄な冷たさで)さようなら」
 「(男、口を開きかけるが、きびすを返して行こうとする。と、立ち止まって振り返り)なァ」
 「(感情のない微笑みで)なぁに」
 「(ためらうように)小鳥猊下って、いったい何なんだ?」
 「(最も美しい数学の解答をうたうように)ただのホームページ制作者よ」
 「(失う苦悩を声に含ませ、強く)だったら、なぜ!」
 「(ひどく大人びた表情で、憐れむように、小さな子にかみふくめるように)誰かを愛するとき、崇高であったり、美しかったり、尊かったり、かしこかったり、価値があったり、そんな必要は少しもないの。ただ、それが愛であればいいんだわ」
 「(男の顔が泣きそうに歪むが、すぐに無表情を取り戻し)さようなら、江里香」
 「さようなら、(一瞬の逡巡の後)…お父さん」
 男が森を抜け国道へと降りていくと、少女はただひとり暗い森の中へ残される。しばらくの間、何かに浸るように目をつむり立ちつくしていたが、やがて足をひきずりながら、重なりあい、深く深く複雑に生い茂った、すべてを拒絶するかのような暗い森の中へとひとり帰っていく。