猫を起こさないように
追憶の夕べ
追憶の夕べ

追憶の夕べ

 「(ベランダで海に沈む夕陽を眺めている。目尻を指でぬぐいながら振り返り)いや、失敬。みっともないところをお見せしてしまったようだ。今日はね、いつものような大騒ぎの感じではなく、一度静かに君と話してみたいと思っていたんだ。センチと笑ってくれてもいい。そういう気分なんだ。
 「年に何度か、気力のみなぎる瞬間がある。普段のぼくときたら縦のものを横にもしたがらない無精者で、自分の楽しみであるはずの読書やらゲームやら映像鑑賞やらも、いざやる段になると、急にそれらが何か与えられた愉快でないタスクのように思えてしまい、気がのらないなんてつぶやいて不機嫌に眠ってしまうほどなのさ。そんな僕がね、年に何度か気力のみなぎる瞬間があるんだ。といっても、全然長続きしないんだけどね。一日も続かない、せいぜいが二三時間くらいのものさ。そういうときには何をやるにも、恐ろしいくらいの集中力と根気でもって当たることができる。これがずっと続いたならぼくはどこまで登れるのか、自分で自分が怖くなるくらいさ。世の中のまっとうに社会で活躍している人間というのは、こんな生命そのものの状態がずっと継続しているんだろうね。ぼくはそれを考えると、ちょっと不公平だなって思うんだよ。まァ、そんな考えもすぐに無気力と倦怠の中に埋もれていくんだけどね。
 「自殺、か。それは微妙な問題だね。ぼくはぼくの意見を語ることをするが、それが君にとっても同時に真実であるとは限らない。ただ、同じ時代を生きている仲間どうし、何かしら胸に響くところはあるんじゃないかと、少しうぬぼれさせてくれ。エヴァンゲリオン、という作品があった。これには人間の初源においての精神活動についてあまりに多くの隠喩や直喩が含まれているし、例えばぼくがここで何か臨床的な療法にたずさわっている療法家の名前を唐突に出すよりも、君にとって受け入れやすいと思うからあえて言及するんだ。それの映画の中に、まったく同じ形態をした量産機たちが致命的な傷を受けてなお立ち上がるシーンがあるけれど、あれは人間の初源においてのモデルそのままではないかと思う。我々は我々の心に受けた、その一つ一つがほとんど致死的であるような傷によってはじめて個性化される。はじめてオリジナルな個体として他者と分けられるんだ。人間にとっての個性とは、幼少期に受けた傷の種類・深さ・様相であると言っていい。つるりとした自然の生産物に過ぎなかった我々は、生育の過程でその上に様々の傷を受けることによって、はじめて我々自身になるんだ。知恵は人間に与えられた祝福ではなく呪いであると言ったものがいたが、それは文学的感傷をのぞくならばまったく正しい。より以上の正確さを期すならば、人間の知恵とは壊れてしまった本能の下位互換品・代換物である、と言うべきだろうね。だから我々人間はその存在の初めから、動物たちのように世界に対してゆらぎのない全性というものを手に入れる可能性とほとんど切り離されてしまっている。宿命的な知恵の呪いによってね。だから、その意味において、我々全員はちょうど弾を装填したセーフティーの外れた拳銃を手渡されているようなもので、知恵による個性化の過程で自殺を潜在的に手に入れさせられてしまっているんだ。
 「自殺という行為の本質は世界という位相において自分の位置をその時点で確定させるということだ。この確定させるという作業は、自殺そのものよりは縮小された規模で、誰もが日常的に、無意識的にやっていることなんだけれど。約束に遅れた友人を時間にルーズな頼みにならない人間と思う。これは相手を自分の意識において、ある位置に確定させている。自己は流動的だし、それと全く同レベルにおいて、他者の自己も流動的だ。互いの存在への認識は一秒ごとに改めるのが正解だし、そうしなければならない。だけれども、そうやって確定しない情報を永遠に追いかけ思考し続けるというのは、正直言ってしんどい。それなら、一度でも嘘をついた相手を信用ならない愚か者として、その存在を完結させてしまったほうが、つまり、自分の中で確定させてしまったほうが簡単だ。なぜって、それ以上かれの存在について思考することを放棄できるからね。世界の中において何千億分の一かの、かれという情報は永遠に確定し、君は少しだけ安心する。少しだけ楽になる。自殺というのはそれの拡大だと思う。自殺とは自己存在と、他者との関係性のすべてをその時点において確定させることだ。そうやって、完全に楽になるんだ。終わる先の見えない延々と続く平均台の上で、自己と世界のバランスをとり続けることをやめてしまうんだ。生きていくというのは果てしなく続くバランスゲームに似ている。だから君の思っているような意味では、いくら知ったところで、いくら生きたところで、楽になるということはないと思うね。君が真摯に人間であり続けたいと思うならば、君は苦しまなければならない。ずっとだよ。死ぬまでずっとだ。それはとても難しいことだと思う。事実、生きているのにその平均台から降りてしまっている人間だってたくさんいる。硬直した視点でもって、状況に合わない同じ言葉を繰り返すような連中だ。でも、彼らを非難できたものじゃない。ぼくたちにしたって、知らないうちに生活のかなりの部分を揺るがせないほど確定させてしまっているからね。例えばぼくにとってはプロ野球好きは全体主義者と同義だし、ゴルフ好きの男は男根至上主義者だと考えている。けどね、今みたいな、我々を過食症的にする情報の渦の中で、何にも保留を与えず、何にも確定を与えず生きていくっていうのはほとんど不可能に近い。イエス・キリストの昔とは勝手が違うんだよ。こうやって座っている間にも、時代が我々に次々と情報の確定を要求してくる。時代が自殺を強要してくるんだからしょうがないね。まァ、いろいろこむつかしいふうに言ったが、君が自殺したいと思うときにはどうぞぼくには相談を持ちかけないで欲しい。おざなりに扱って本当に自殺されたら寝覚めが悪いし、懇切に話を聞いてやって自殺をやめさせたとして、あとになってあのとき殺しておけばと思うことはきっとあるだろうからね。
 「(沈む夕陽に目を細めて)なんて光景だろう…長い煉獄のような一日の始まりを実感させる不愉快な朝や、何をやってもさまにならない間の抜けた昼や、寂しさと不安に膝を抱えてただ過ぎ去るのを待つしかない夜のようではなく、一日がずっとこんな豊かな時間ばかりであったなら、ぼくはもっと人生を愛せたろうに。ああ、日が沈む…時よ、お前は美しい、そこにとどまれ…(ゆっくりと閉じられる瞼の間に涙が盛り上がり頬を伝い落ちる)」