夕方のリビングでゆったりとソファに腰掛けながら、FMラジオから流れてくるブルックナーの交響曲に耳を傾けていたぼくにも、その声はなぜかはっきりと聞こえた。
「 らおう の ちんぽ が 」
二階の寝室にあがると、半年ほどまえからいっしょに暮らしはじめたカノジョが、ベッドサイドランプのつくりだす銀色のハロウに横顔を照らされながら、寄る辺無いようすで座りこんでいた。カノジョは少し泣いているようだった。
ぼくはカノジョの口から出た男の名前や、カノジョの言葉に続くのかもしれないカノジョの過去にはふしぎと興味がわかなかった。
ただぼくは、半年あまりもいっしょに暮らしておきながら、カノジョのことをあまりにも知らないのだという事実に、軽いショックを受けた。
そのときの、ロシア人の血が少し入っているのと笑って言ったカノジョの、ガラス細工を思わせる繊細な横顔は、階下より静かに流れてくるブルックナーの交響曲とあいまって、よくできた恋愛映画のワンシーンのような、甘い胸の痛みをぼくの中に残したのだった。
ぼくは沈みがちなカノジョをなぐさめようと、蛍光塗料を塗布したシールと、日曜の午後すべてを使って、寝室にちょっとしたプラネタリウムを作り出した。昼間の光を吸い込んだそれらは、夜の底にすてきに輝くのだ。
その夜、いつものようにぼくの腕を枕にして大柄なカノジョは、いつもとちがうふうな安らかなため息をもらした。
ぼくたちだけのために輝く星たち。
白鳥座、天秤座、オリオン座、北斗七星…
「 しちょうせい が おちてくる はやく ひこう しんれいだい を 」
カノジョが身を起こす気配があった。灯りをつけると、全身にびっしょりと汗をかいたカノジョが、まるで雨の中に捨てられた子猫のように、小さく身を震わせていた。
ぼくには、どうすることもできなかった。
それは本当に夢だったのかもしれない。そのときにもぼくたちのクライマックスを飾るように、ブルックナーの交響曲が流れていたような気がする。
窓から射し込む夕日が、部屋のすべてを黄金色に染め上げる中、ぼくは玄関ドアの前に立つカノジョを、確かに見たと思った。
行ってしまうのかい? ぼくは午睡のまどろみのうちに、カノジョにそうたずねた。
「 ごめんなさい なんと の しゅくめい が 」
逆光になりカノジョの顔は見えなかったが、カノジョは最初に出会ったときのように、泣いているようだった。
謝らなければならないのは、ぼくのほうだ。ぼくには最後まで、君を泣かせることしかできなかった。
遠くで、とても遠くで、扉の閉まる音が聞こえた。
目覚めたときぼくにかけられていた毛布には、かすかにカノジョの匂いがした。
それっきりだった。
買い物用のサンダルがひとつだけ、無くなっていた。カノジョは最初からぼくのまわりにいなかったかのように、消えてしまった。ぼくの心の、いちばんやわらかく傷つきやすい部分に、恋の甘い棘をのこして。
今でもときどき思い出すのだ。ブルックナーの交響曲の流れる、こんな黄金射す夕べには。
カノジョの声がリフレインする。
「 ねえ らおう の ちんぽ が 」