猫を起こさないように
クラウド・アトラス
クラウド・アトラス

クラウド・アトラス


クラウド・アトラス


“My life is far beyond imitations of me.”監督の好きなモチーフと撮りたい場面をてんこ盛りにブチこんだ、超絶・寄せ鍋映画。6つの物語が同時進行する3時間を混乱なくスッキリと試聴できるのは、編集の巧さゆえか。ぜんぜん話は変わるけど、おれ最近さあ、スカイリムにダウロードコンテンツが3つも追加されてるのに気づいて、またぼつぼつプレイしてんのね。このゲーム、MODっていう有志の追加プログラムがあって、ゲームの中身をいろいろ好きにいじれんだけど、あんまやりすぎるとCTD、クラッシュ・トゥ・デスクトップつって、クライアントごと落ちるようになったりするの。あとプレイ時間が累積してくと、これまたセーブデータにゴミみたいのが溜まっちゃって、ゲームが遅くなったり止まったり、しまいには起動しなくなったりすんの。おれ最近、年くってきて特に思うんだけどさあ、なんかこれまでの経験からゴミみたいのが体の奥底に溜まってきてて、ひとつひとつは無視できるくらい小さいんだけど、MODの残りカスみたくそれが全体を鈍らせていってる感じ、あるんだよね。ああ、これが溜まってって、おれもいつかCTDすんだなってなんとなく思うわけ。でも、スカイリムと違ってクリーンインストールとかニューデータでスタートとかできないからさ、まさにファミコン世代への上からの批判に追いつかれはじめてるって感じなの。で、クラウド・アトラスだけど、CGとかVFXとかバンバン使って、同じ俳優の肌の色や性別まで変えたりして、魂の平等と輪廻を描いてんだけど、マトリックスの監督がいつのまにか性転換しててさ、じぶんの経験からたどりついた思想とかを反映してるんだろうなって考えさせる仕上がりなわけ。自分の悪行を反省したら転生で魂が次第に浄化されて、ついには善玉になるみたいなやつで、ぶっちゃけ、すごい仏教的な世界観なんだけど、おれ、ぜんぜんそれにノれなかったっていうか、うさんくさいなって思ったのよ。たぶんキリスト教の枠組みがガチガチにある国の人だから、そっから外れた東洋的な考え方に救済されるっていうか、ホッとさせられる部分、あったと思うんだよね。でもさ、キリスト教的な復活も仏教的な輪廻も、どっちも同じくらい救いとしてはうさんくせえなあって思っちゃう。スカイリムと同じで、ニューゲームで始めてもデータのゴミが積み重なって汚れてって、クラッシュしたあとに全体へ吸収されてまた生まれ変わるって、そんなの繰り返したって汚れが濃縮し続けるだけじゃん。この映画じゃ行為としての悪が明確に定義されてんだけど、悪ってのはもともと自然界には存在しなくって、つまるところ人と人との関係性において生じる何かを指してるんだから、人間が人間である限り、悪の概念は消滅しないのよ。だったら幼年期の終わりとかエヴァみたく人の形態を捨てるか、ワールドイズマインとか女神転生4のバッドエンドみたく人なるものを消滅させるってのが、救済っていうならいちばんしっくりくるような気がする。これに対してキリスト教の復活はいまの意識の継続を願うわけだから、輪廻のほうがずっと上等な気はするけど、つきつめるとどっちもどっちだよね。どの宗教でも死への解釈が輪廻と転生に分かれるのは、自我の消滅に恐怖が伴う文化なのかどうかってのが、その理由として大きいんだろうなあ。岩と砂漠の中で死ぬのと、水と森の中で死ぬのとでは、やっぱ死の受容に対する理屈づけって変わる気がする。個人的にはさ、たぶん意識は消えるだろうと思ってるけど、身体を構成する分子とかまでは消えようがないから、別のかたちで何かの中では続いていくんだろうなとは感じる。でもそれって、あんまりにも物語じゃなさすぎるよね。どっかで書いたけど、世界で最初の物語って、老いた生者が若い生者に語る死の意味づけだったと思うんだよね。いまの自我を保ったまま、天国で72人の処女とヤリまくるとかって物語、身もフタもなくて笑っちゃうけど、すごい人間らしいじゃない?とりとめもなく話したけど、クラウド・アトラス、SF好きならぜひ見ておくべきでしょう。いろいろ考えさせられます。あと、りんこ、演技が見られるようになったな、もうこれまでみたいにまんことかうんことか呼べないな、と思ってたら、あれ、りんこじゃないの?