猫を起こさないように
アニメ「瑠璃の宝石」感想
アニメ「瑠璃の宝石」感想

アニメ「瑠璃の宝石」感想

 瑠璃の宝石、アニメ4話の放送段階で原作の電書と実体を両方とも入手したほどにはハマッているので、エッキスのトレンドに作品名が浮上したことをきっかけとして、ザツ語りの自分語りを残しておきたいと思う。ぶっちゃけた話、本作のジャンルは「オッサンの趣味嗜好を美少女に追求させる性癖動物園」であり、見開きページの左に鉱床、右にシワまで描きこまれた美少女のパンツが配置され、そのどちらも「輝いて見える」人間にもっとも”刺さる”内容になっているわけです。瑠璃の宝石を語る評の中には、アカデミズム方向へと極端にかたむいた礼賛が散見されますが、対置される性欲が本作を視聴する強い動機であることを、ごまかしてはいけません。デブの男子大学院生とヒョロガリの男子高校生から、鉱石の魅力を力説されたところで、けっしていま我々の胸中にきらめく、同じ感情へといたるはずがないのですから! つまり、作者自身の投影である巨乳大学院生が、偶然に出会った女子高校生(美少女)から、マイナー分野の知識のみを理由に好かれはじめ、その友人とおのれを慕う研究室の後輩との師弟愛ーー師妹愛という言葉がないのでーーを間近に愛でるという、瑠璃の宝石ならぬ「百合の放埓」こそが、作り手にとって最高の願望充足であると同時に、チョウチンアンコウのごとく受け手の興趣を誘蛾する要因だと、指摘できるかもしれません。

 最近、アメリカのある企業がテレビCMを布面積の多めな有色のふっくら女性から、布面積の少なめな白人のセクシー女優に変更したとたん、株価が倍になったという話を聞いて思わず笑ってしまったのですが、性的なまなざしの否定は、公の場での表出をひかえさせる効果こそあれ、内心にたぎるマグマのような熱を冷ますにはいたらないのでしょう。オタクたちがもじもじと認めたがらない、これらファクターSEXの向こう側には、路傍の石から永遠の宇宙へと想いをはせる、中華フィクションである三体原神も真ッ青の、時間を基軸としたセンス・オブ・ワンダーが広がっているのです(本邦の田吾作賞が、「アルトリア顔」ぐらいの雑さでSF認定しそうな未来が見えます)。サファイアの産地を探る過程での、知ることによって謙虚になり、謙虚になることで怖さを知る描写も、「学びの本質」を突いていて、とてもいい(学ばないかぎり、我々は無敵でいられるのです)。また、本作は青春期において、”好き”があることの強烈なアドバンテージをはからずも描いており、「スーパーカブでソロキャンプに来て、ラジオで競馬中継を聞くオタク」のイラストを脳内に想起しながら聞いてほしいのですが、初老男性から青少年男子に、過去の悔恨とともにお伝えしておくと、美少女の登場する虚構を愛する我々は、「性欲を”好き”とカンちがいした、なにも”好き”ではない人間」にすぎず、世界において情熱をかたむける対象がないことから目をそむけたまま、ただただ生と性を空費し続けている存在なのです。

 瑠璃の宝石は、本質的に「”好き”がない高偏差値の学生よりも、”好き”がある低偏差値の学生のほうが、受験期のがんばりがきくし、大学に入学したあとの予後ーー前者は医学部を受験させられて、不登校の末に中退するイメージーーも良好である」みたいな話で、2人の10年後に思いをはせると、ナギさんは万年助教みたいな立ち場で貧乏を苦とも感じず、楽しく地質学の研究を続けているだろうし、ルリは院進せずに地元で接客業か販売業に従事しながら、趣味で鉱石版の郷土史家みたいなことをやっているところまで想像できてしまいます。先日、タイムラインに人工知能の台頭を契機とした、ライターやイラストレーターの価格ダンピングに対する悲鳴が流れてくるのを見て、同情より先に「ブルシットだがコンスタントに少なくないカネが手にはいる、”好き”でもなんでもない生業」を選択したことへの安堵と優越が先にきたような人間なので、将来の2人が手にするだろう「清貧の幸福」には、なんともうらやましいような、ねたましいような、あいだにはさまりたいような気持ちにさせられます。ともあれ、パンツが見えてしまうことを意識しないルリの小学生ーー高1にしては幼すぎません?ーーみたいな駄々は最高だし、ナギさんのガテン系のガタイとカタパルト・パイオツはもっと最高です!