猫を起こさないように
映画「ホビット3」感想
映画「ホビット3」感想

映画「ホビット3」感想

 いくど時計を見返しても、びっくりするほど針の進まない二時間半。そのうち一時間は、一言の台詞さえない。俺様の心がわずかにエレクチオンしたのは冒頭のスマウグ討伐シークエンスだけで、ファンタジー的想像力と美術が前三部作にてほとんど使い果たされていたことを確認した後は、3DアクションゲームのQTEを延々と見せられ続けてるような気分になった。

 以前ヴィゴ・モーテンセンが、「旅の仲間ではちゃんとロケハンしてたのに、二作目からCGの比重がどんどん増えていった。監督は役者の演技を軽く見てると思う」みたいな批判をするのを見かけたが、まさにその言葉の通り、ピーター・ジャクソンの悪い側面が今作ではすべて出てしまっているように思う。要は、徹頭徹尾のポストプロダクション頼みが透けて見えるのだ。「役者どもは、しかめ面のアップだけ多めに撮影しとけ。あとは全部スタジオでなんとか見れるようにするから」みたいな現場の雰囲気、言えば人間の芝居には興味が無い感じ、つまり監督の本来の出自であるギーク臭がぷんぷん漂ってくる。特に象徴的なのが終盤、マーティン・フリーマンとイアン・マッケランが夕日を背にならんで腰かけるシーンであり、これは役者の演技や存在感をぜんぶポストプロダクションが塗りつぶしていて、本当にひどいとしか言いようがない仕上りだった。

 タムリエルとかいうオリキャラ(おそらくエメラルドドラゴンへのオマージュ)とドワーフとのロマンスとか、スーパーマリオと化したレゴラスの母への執着とか、監督の混ぜこんだオリジナル要素はことごとく原作のエルフが持つ高潔さを台無しにしている。前三部作は偉大なるトールキンへ膝をついて作られている感じがひしひしと伝わってきたものだ。しかし、このホビット新三部作は、ピーター・ジャクソン本人が原作者になりかわってふんぞり返る様子しか見えてこない。こんな水増しの完結編を見せられるくらいなら、当初の予定通りの二部作で充分であった。虐げられてきたギークがいったん権威と化せば、かようにふんぷんたる臭気を垂れ流すようになるという事実を、諸君は他山の石とせよ。