どれだけ生きれば、癒されるのだろう。

生きながら萌えゲーに葬られ(1)

 「そもそも、愛や夢や希望などというものを虚構の中に持ち込まないで頂きたい。
  現実に可能なものは、ただちに戸外で実行すればよろしい。
  愛や夢や希望が虚構の上に体現されているのを見るとき、私は君たちの
  埃の浮いたコーヒーマグや、四畳半の万年床や、
  アルバイト情報誌の隣に転がる酒瓶を否応なく連想させられてしまい、
  段ボールの底に横たわる皮膚病の赤犬とつい目が合ってしまったときのような、
  やるせない気持ちに陥るからである」


 「犯罪性向を抱えた優しい精神薄弱者たちが、人々にとって脅威となることを回避するために作り出されたはずの遊戯は、バネがたわめられた分だけ高く跳躍するように、当初は予想もされていなかった方法で社会へと反動しつつある。健常者たちに犯罪性向だけを植えつける装置として機能し始めているのだ」
 手のひらへわずかに暖かさを伝えるティッシュをもてあそびながら、そうつぶやいてみる。立ち位置を明確にしないがゆえに可能な新聞的高所からの批評を自慰の直後、わざわざ声にする癖がついてしまった。つまるところ、この行為がうしろめたいのだろう。
 眼前のモニターにはパステルカラーに彩色された少女が頬を染め、巨大な眼球を潤ませてこちらを見ている。途端、胸は締め付けられるような哀切に満たされ、一度は萎えたはずの男性が再び硬直してゆくのを、上田保春はまるで他人事のように眺めた。客観的な事実としてか弱い少女への嗜虐心とそれに起因する歪んだ喜びを観察するのはまったく不快な体験と言えたが、その感情は彼自身と無関係どころではなかった。人々から我々に向けられる嫌悪は、だとすれば至極当然のことだ。外耳全体を覆うヘッドフォンを取り外すと、目線の高さにまで積み上がった長方形の紙箱を青黒く隈の浮いた目で眺めながら、彼は深いため息をついた。少女たちの奔放な姿態が様々のデフォルメで各面に描かれているが、誰もが特定の年齢には到達していないという点で共通している。少女たちの頬は人類の血液ではありえない色調で紅潮し、湧き上がる衝動に耐えられないといったふうに例外なくその瞳を潤ませていた。「萌えゲー」の外装を見るときいつも、特定の感情を激しくゆさぶられずにはいられない。ある側面でそれは父性に似ていないこともないが、父性と定義してしまうにはあまりに反社会的な要素を含みすぎていた。
 上田保春の愛好する萌えゲーとは、アニメ風に描かれた少女と最終的に性交することを目的としたアダルトゲームの一種である。主にパソコン上で楽しむ、挿画の豊富な官能小説だと考えればわかりよいだろう。社会からなされる認知の温度は駅売りの官能小説と同程度に低く、全人格的な開き直りを伴わなければ、それへの愛好をわずかに表明することさえ難しい点で共通している。従来のアダルトゲームがアニメ風とは言え、成熟した女性を性の対象と考えてきたのに対して、萌えゲーは一定年齢以下の外観を持った少女をその対象としている。昨今の社会状況に鑑みて、一定年齢以下なのはあくまでも外観のみということになっている。萌えゲーをプレイすることの主な目的は性的昂揚の促進に加えて、少女たちが自己決定できないゆえに知らず発散してしまう依存や媚びを愛玩することである。手のひらで冷えてしまったティッシュをくずかごへ放り込みながら、人に言えぬこの趣味は健全に発散できない父性の代償行為なのだと、上田保春はいつもの強引な一般化を口にする。だが、下半身を丸出しにしてモニターに対峙するその姿は、誰を説得することもかなうまい。現代の反社会性の肖像は品格を喪失し、もはや堕落論的ですらないのだ。
 窓の外へ目をやれば、日はとうに落ちている。それは新たな日曜日がまた萌えゲーの消化だけに費やされたことを意味していた。人生の空費だとか若さの漏電だとか、その手のことはもはや誰かに言ってもらうまでもない。それらの言辞は上田保春に内在化し、常に同じトーンで頭蓋の内側へ再生され続けている。言葉で状況を了解してそれで止められるくらいなら、そもそも彼は萌えゲーおたくにはなっていないだろう。母親に構われすぎたゆえの現実への無気力と、その窒息するような愛情への逃避先として架設した、二次元を対象とする性愛と。ほら、説明はいくらでもつく。だがそんな言葉は、男性をむきだしにパステルカラーの少女を眺める自分とは、何の関係も無いのだ。理由の無い繰り返しこそが、彼の日常なのである。長く呼気を吐き出してから緩慢に立ち上がると、上田保春はガレー船の漕ぎ手が嵌める足枷のように足下で丸まっていたブリーフと有名量販店のジャージを腰まで引き上げる。ガレー船の認識は、彼にとって比喩のように響かない。上田保春がとらわれている現代の陥穽は、ガレー船の漕ぎ手の境遇と何ら変わりないからだ。
 インスタント食品がレンジで回る低い音を尻目に、テレビの周辺に山と詰まれたDVDからアニメ作品を取り出し、食事中のバックグラウンドビジュアルとして再生ボタンを押す。二次元の映像に耽溺しない時間にわきあがる正体不明の不安、それに名前をつけることができた試しはない。喫煙者がニコチンを血中に切らしたときの不安と同じ種類のものではないかとも想像する。上田保春に煙草をのむ習慣は無い。彼の本質は耽溺や中毒と遠いとは言えなかったが、収集したものがヤニで汚れることを嫌ったゆえの克己であり、後天的特性が本能を凌駕し得る近代人的自我の体現と言えた。
 上田保春はテレビ番組を見ない。独り身の夜には、テレビ画面に人が動いているという事実が救いになる瞬間もあるはずだが、彼は意識的にそう努めている。三十路を迎えた頃だろうか、社会の規定する理想的な人間像とははるか遠い場所にいる自分が強く意識され始めたからである。あらゆる番組が上田保春を視聴者として想定していないことが理解されると、ブラウン管を通じて提示されるすべてのメッセージは、彼の安住するささやかな生を否定しているように受け止められるようになったのだ。日曜の夜に放映される昭和を再生する大家族アニメなどは、人々の健全な生産性を管理する目的で国家全体の産業計画を黙々とスケジューリングしているようにさえ映り、社会主義の足音を間近に聞く錯覚すら覚える。また、ときどき画面へ現れる萌えゲー愛好の同類さえも戯画的に描かれた珍獣のような演出を必ず伴っていて、上田保春はそのあからさまな敵意を見るにつけ、背筋へ寒気を生じるのである。番組制作者は彼らの異常さを強調することで、階級制度が人間の精神にとって合理的であることを立証しようとしているのかも知れぬ。二十代前半のうちはテレビ番組が誘導する平均値的な生き方へ、自然と現在の誤差は修正されいずれ合流してゆくのだろうと無邪気に予想していたので、来るべき将来の姿として余裕を持って相対することができた。だが、テレビの提示する人生のイメージと自分の実際との距離が次第に離れてゆくことに、上田保春は気がついてしまった。アニメ作品がほとんどであるが、萌えゲーおたくとしてどうしても視聴を避けられない番組は、極力コマーシャル抜きで予約録画したものを見るようにしている。ほんの数十秒のコマーシャルですら、ときに上田保春の現実を真二つに切り裂くような苛烈さを呈することがあるからだ。萌えゲーおたくを続けていくのに、用心を重ねるに越したことはない。
 先ほどから連呼される「萌えゲーおたく」という言葉で連想される人物の外観として、いまあなたが頭の中へ瞬時に描いた図画が一般的に認知されているが、上田保春の容姿はそのすべてを裏切っていると考えてもらっていいだろう。少なくとも十人並み以上ではないかと食事の前、カーテンを引く際に夜のガラス窓へくっきりと映し出された自分の姿を見て自惚れではなく思う。だいたい世間から悪意的に揶揄されるような、一目見てそれとわかるおたくらしいおたくなんて、ほんの一握りでしかないのだ。だが、中国人は全員カンフーの達人であり、フランス人は全員ナポレオンであるといった度外れた類型化がなぜか萌えゲーおたくの上には平然と実行され、それを誰も疑わないのである。全体主義統制下のように、提供される彼我の情報量が圧倒的に違うからだ。そして、その誤った認識が覆されることも今後決してあるまい。上田保春が代表を務める側の萌えゲーおたくは世間の悪意を鋭敏に察知して、秘境の直立歩行獣のようにはあえて人前へ姿を現そうと思わないほど十分に賢明なのである。
 一つの製品が一万円を越えることも、こと萌えゲーに限ってまれではない。南北問題を体現する搾取構造のゆえに原価が低く抑えられた、俗に販促用の特典と呼ばれる粗悪な付属物が定価を上増しする要因として考えられる。そんなものは誰も必要としていないと思うのだが、同じく搾取の下部構造にいる上田保春に反駁の権利は与えられていない。自らの趣味嗜好が含む犯罪性に後ろめたさを感じているから、路地裏で売人の言い値に従う他はないのである。多い月には十万円を越える金額を諾々と支払うのだが、それは何ら特別な行為どころではなく、萌えゲーおたくを続けていくために必要な最低限のみかじめ料に過ぎない。この巨額の遊興費に破滅しないことが、彼に自身の社会性と正気を信じさせる理由の一つになっていることは皮肉である。
 萌えゲー愛好を言うことがいかに異様に響くか、上田保春は客観的に理解しているつもりである。「萌えゲー」という言葉を聞いたときに漏らされる失笑と侮蔑の鼻息だけで、この執着のすべてを否定するのに過不足無いこともわかっている。現代に生きる人々の中で自己の対象化を彼ほど進めているのは、他には哲学者か歴史学者くらいのものだろう。人類の歴史とその精神史上に占める自らの位置を相対的に把握できるからこそ、すべてを秘し隠して生きてゆくことを選ばざるを得ないのである。上田保春は、職場のデスクトップパソコンの壁紙に萌えゲーの少女を設定している知り合いを思い出して眉をしかめた。心の有毒物質を漏洩させぬため、週末に行う安全の指さし確認を妨害される気持ちになったからである。だが、その男の職種は某大学の入試業務全般を担当する事務方であり、彼のパソコンを見るのは閉じた事務室の同僚ぐらいしかない。同僚からの悪感情が表計算ソフトの数字や売り上げを乱すこともなかろう。これが一般企業の営業職についている人物ならどうか。社のデータを入力してあるノートパソコンの壁紙に萌えゲーの少女を設定することは、もう完全にあり得ない出来事だと言えるだろう。もし、他社の気むずかしげな役員たちを前にして、萌えゲーの少女を背景に得々とプレゼンテーションを行う誰かを現実に見ることができるのなら、上田保春は己の世界観の偏狭さと無知を打ちのめされることをむしろ喜び、涙さえ流すだろうが、待ち望んでいるその機会には未だ巡り会えたことがない。無論、萌えゲーそのものやそこから派生する経済圏に関わることで金銭を得ているのならば話は変わってくるのだろうが、それにしたって新興宗教の布教活動の如く見られるには違いない。新興宗教が新興で無くなるためには、数百年を長らえる強度が必要である。つまりキリストの死を目撃してしまった上田保春は、ただ誰にも知られないよう頭を低くしている他はない。
 同性愛をカミングアウトする人々の勇気に、上田保春は敬服する。同性愛者を積極的に許容しようとしない態度がどこに論拠を持つかと言えばおそらく、「次世代につながらない」という一点なのだろう。萌えゲーを愛好する上田保春は、自分の嗜癖が同じ根を持つことを自覚している。性愛の対象が現実には存在しないという意味で、同性愛者よりもさらにもう一階梯分、人々からの認知の可能性は低いと言える。もちろん、上田保春の悲観を慰める態度や同情的に擦りよってくれる素振りも無いことはない。世の中にはいろいろなものに熱中する態度があって、その意味では誰もがおたくと呼び得るという意見がその一つだが、上田保春の現実において全く有効ではない、ほとんど競技ディベートの反論ぐらいに過ぎないと思う。萌えゲーおたくが例えば鉄道おたくなどと決定的に違うのは、他のおたくたちがその趣味を人生の一部と肯定し、ときに公言さえはばからないのに対して、抱く愛着を誇ることが外的に封殺されている点にある。いわば異端の神への信仰、常にうしろめたさを抱えながら誰に対して懺悔することも改宗することも不可能なのだ。趣味という表現よりも、アルコールやニコチンや薬物への中毒と同じ種類のものと説明した方が実状に近いし、モニター上に映った少女の図画を見て興奮するような嗜癖を持たない善良な人々からの同情票も得やすいだろうというのが、インターネット上に頻繁な萌えゲー擁護の発言を見るときに抱く上田保春の感慨である。新聞投書と同じ、嫌悪のまなざしを実際に受けることのない場へ投函する類の意見表明に救済はない。萌えゲー愛好に誇りを持っているし、その嗜癖を衆目へ晒すことに何らためらいはないと発言するあなたが学生でもなく引きこもりでもないのだとすれば、ぜひ次のことを想像してみて欲しい。年末年始の親族との酒宴で――そんなものは体験したことがないほど都会の核家族に育ったというのなら、場面は社員食堂だって友人の結婚披露宴会場だって構わない――積極的に萌えゲーの話題を切り出し、その場の雰囲気を冷却してしまわないことができるかどうか。テレビに登場する同類たちの如く道化にだけ徹する気概を持てば、その後の人間関係のすべてを犠牲にして一時的な笑いはとれるかもしれない。
 つまり、愛しているものを誰にも誇れないことが、萌えゲーおたくの抱える根元的な問題の一つなのです。
 終日、部屋から一歩も出ずに萌えゲーに耽溺していた上田保春は、心のバランスを取るためだろう、インスタント食品にプラスチック製のフォークを幾度も突き刺しながら、頭の中に作り上げた架空の聴衆に向かって語りかけ始めた。王様の耳はロバの耳、真情を吐露することをほとんど物理的に禁じられた彼は、ときに演説のような形で思考する癖がある。
 時代にもてはやされるには、愛好している事実を誰かに言うことが個性を表現したり高めたりすることにつながらなければならないのだと、私は痛切に感じざるを得ません。人間には誰かとより深い共感を得たいという欲求があり、それが趣味嗜好を伝播したいという欲求へとつながっているのです。その本来を考えれば性的状況ではなく世界観の描写に力点を持つ萌えゲーが定期的に流行するのも、理の当然なのであります。つまりそれらは比較的、針で突いた先と鉛筆で突いた先ほどの違いですが、公表しやすい側面を持っているということです。萌えゲーおたくの萎縮は直接的な糾弾によるものではありません。我々はむしろ卑下で自尊心を萎縮させてしまうのです。ですから、愛好するカテゴリに収まりながら同時に自尊心を補償してくれるものに救済さえ感じ、脂肪の縞が浮いた腹を見せてたちまち無条件降伏してしまうのです。一流の芸術家が持つ自己顕示欲と凡人の才能に萌えゲーが加わったとき、個人の魂に発生する神学的抑圧はほとんど想像を絶します。ですから、我々がときに萌えゲーの本来であるところの少女の媚びというよりも、社会から漏らされる嘲弄の鼻息をわずかにも軽減してくれる作品をこそ積極的に求めてしまうのは無理からぬことなのです。
 上田保春は空想上の聴衆から寄せられる喝采に、はにかみつつ両手を挙げて見せる。
 皆様のご静聴、感謝致します。
 食事を終えて流し台という名前のゴミ捨て場にプラスチックの器を投げ入れる上田保春だが、その憤りと絶望が心の聴衆がする拍手を通じて軽減されるわけでは全くない。解消されない負の感情は延々と対象を変え続けるのみである。
 こんな麻薬よりも麻薬的なゲームを年齢制限くらいの、しかもほとんど有名無実な法規制でしか取り締まらないなんて、本当にこの社会はどうにかしているとしか言いようがない。現に上田保春は学生の頃からアダルトゲームを嗜んでいる。当時、萌えゲーという定義は存在しなかったが、呼び名はなくとも同種のものは存在した。最初はほんの軽い気持ちに過ぎなかった。それこそ煙草に興味を持った中学生が父親の背広の胸ポケットから一本拝借するくらいの、罪の意識はあるがほんの気軽な一歩に過ぎなかった。いや、過ぎないはずだった。いまや上田保春は、もう自分が萌えゲー無しでは生きてゆくことができないのを知っている。自己を対象化できるほどバランス感覚に富んだ上田保春は、我の陥っている状況がどれほど人類という大きな範疇から鳥瞰して、あるいは歴史という観点から俯瞰して、異様なものであるか知っている。だが、その観察に救いは無い。どんな重度の麻薬中毒患者であっても、自分の陥っている状況を客観的に理解できていない、後悔していないなどということはあり得ないのだ。上田保春の抱く絶望とは、過去に前例が存在しないということへの絶望である。性的に嗜虐を求めようと被虐を求めようと、それは全く問題がない。そして極端な若年層や生命を喪失した身体を愛好する態度であってさえ、過去に、つまり歴史に無数の倣うべき、もしくは反面教師とするべき前例が転がっているので、まだそれらの嗜癖の持ち主には人間的な理解と共感の道が残されている。救いがあるとすら言えるだろう。
 面相の醜悪さから萌えゲー愛好にたどり着いた者たち、これははるかに業が浅い。異性と懇意にする機会を持てないが故に、その代償行為として萌えゲーのキャラクターを利用しているに過ぎないからである。この手の連中は現実の女性と交際を始めた瞬間に、これまでの女性性なるものへの怨嗟と、二次元の少女に捧げた情念は何だったのかとあきれるほど簡単に足を洗って、この比喩が定型的過ぎるというならば男性をぬぐって、さっさとここから出ていってしまう。上田保春はいくつかの実例を見てきたが、止めることができる類の萌えゲー愛好はリストカットに酷似している。無条件に受け止めてくれる場所ができたとたんに解消してしまう類の、容易な精神的宿題なのである。愛情への希求を裏返した示威行為の一種なのだから、その淡泊極まる転向劇は至極当然のことだと言えるのかもしれない。もっとも手に負えず業が深いのは、自分のような人間なのだ――上田保春はそう考える。社会に居場所はある。一万円近くもする萌えゲーを月に十本前後購入しても生活に支障をきたさない程度にはある。女性と話すことも苦手ではないし、恋愛経験も人並みだと思う。当然、性交に特別な思い入れもない。性交が特別だったのは、童貞のときの妄想の中だけだった。これを言うと萌えゲー仲間でさえ引いてしまうので、知られないように細心の注意を払っているが、現実の女性と関係するよりも萌えゲーをプレイしながらの自慰行為の方が、肉体的にも精神的にもはるかに素晴らしいのである。人間の性的達成は精神的な部分が動物よりもはるかに大きいのだろう。お互いに幻想を保持した恋愛初期段階には一定の充足を得ることができるが、こちらの幻想を一方的に投影できないほど親しくなってしまうと、つまり相手の人間としての在り方を理解してしまうと、あとは肉体的な快楽を残すだけとなり、虚空を眺めての自慰に限りなく近づいてゆく。反対にこちらの精神的なわがままさ、妄想を一方的に注ぎこむことのできる萌えゲーの少女との架空のまぐわいは、もう筆舌に尽くしがたく素晴らしいのである。どうにも出口がなく、やめられない。上田保春にとって、萌えゲーは満たされない現実の補償として機能しているのではない。だから、その業はますます深いのだ。
 おそらく――上田保春は考えている。我々は二次元の少女に葬られる最初の世代だ。萌えゲー愛好をここまで重篤にこじらせてしまう前、興味の対象は主にSF作品にあったことが懐かしく思い出される。黎明期のSFマニアがその趣味を高じさせた果てにどう死ぬかは実例が見えてきた。学生運動に身を捧げ大酒を飲み、豪放に自虐しながらもSF愛好を公言することを止めず、最後には世間と和解して磊落に死んでゆくのである。それはしかし、上田保春にとって遥かに遠い世代のできごとでしかなく、我が身を処する上での実感にはつながってゆかないだろうと思っている。上田保春は切実なのである。例えば萌えゲー無しでは生きられない身体になってしまった自分が五十になり、六十になり、七十になり、やがて現在のような肉体的自立を失った先にどのように死んでいくのか、ただひたすらに不安なのである。まさか老人ホームで若い看護士に弛緩した股座を濡れタオルでぬぐわれながら、萌えゲーをプレイするのか。誰も萌えゲーおたくがどんなふうに死ぬのかを知らないのだ。「過去に前例が存在しない」からである。誰もこんなふうには感じないのだろうか。よもや卒業できるなどと夢にでも考えているわけはあるまい。上田保春も過去に何度か萌えゲーから足を洗おうと試みたことはある。しかし、そのすべてはことごとく失敗に終わった。ハードディスクをフォーマットしてグラビア付きの週刊誌を買いにコンビニへ出かけたところで、自慰行為の絶頂には検索エンジンで二次元の少女画像をサーチしているのに気がつくのである。インターネット上に羅列された萌えゲー愛好者たちのする軽繰的な言辞に、上田保春は疑いを禁じ得ない。彼らがこの不安を感じていないはずはない。祭りの終わりにある現実の到来を延着させるために、こんなにも明るく騒ぎ立てるのだろうか。萌えゲーへの狂騒の正体が祝祭的な熱狂であると知りながら、それを日常の連続へと着地させようとする自身の愚かさと、現実との齟齬を理解するからこそ彼は苦しむ。萌えゲーをプレイしている間だけ、真実の生に接続することができると上田保春は感じている。それ以外の時間はすべて不安な灰色の繰り言に満たされている。舞台を降りた歌手が現実のモノトーンに耐えられず麻薬やアルコールへと耽溺するように、最近ではときに日常がさしこみのように胸元にせり上がってきて、耐えられないと思う瞬間が頻繁に訪れるようになってきている。萌えゲーは上田保春の何かを刺激した。欲望をかきたてた。だが、彼の欲望の対象はどこにも存在しない。おそらく最後までその事実と折り合いがつけられないのではないかという漠然とした予感がある。
 上田保春の人生は――もう、萌えゲーの少女たちに葬られてしまっていた。

生きながら萌えゲーに葬られ(2)

 「萌えゲーおたくは清純な娼婦のようなものなので、猥褻な言葉の奔流の中に少しの美しさを忍ばせて提示するしか方法が無いのです。それ以外のやり方を採用するなら、我々の発言は何もかも嘘か作りごとになってしまうからです」
 上田保春の夢へ定期的に登場しては叫び声をあげさせる記憶が、地表を埋めてゆく無数の十字架というビジュアルイメージで脳を浸食してゆく。金縛りから逃れるために繰り返す般若心経の如く、猥褻な言辞を繰り返すことで意識を過去から離脱させると、背中にじっとりと湿気を感じた。目を開くと分厚いカーテンになお遮ることのかなわない朝の陽光が室内へ染み出してきている。上田保春がいるのは、蛍光色の頭髪を生やした少女の痴態が丹念に描写された、商業的な販売経路を持たない冊子を同級生に高々とつかみあげられて泣くあの放課後ではなく、自室の布団の上だった。
 枕元に目をやると同時に、秒針が垂直に真上を指す。五時五十九分零々秒。鎮座する目覚まし時計が鳴り出す一分前に上田保春は毎朝を起床する。萌えゲーの少女が盤面に印刷されたそれは正座をした彼によってうやうやしく掲げられ、宗教儀式にも似た厳粛さでスイッチをオフにされる。いったん鳴り出すとこの目覚まし時計は萌えゲーの声優が直接吹き込んだ声で、本当にいい声で鳴るはずなのだが、未だ彼はその哀切な快楽の悲鳴を聞いたことはない。薄い壁一枚隔てただけの隣人に、官能の極まったいい声で鳴っている目覚ましの音を聞かれたりしようものなら、それこそ我が身の破滅だからである。この目覚ましを枕元に置くようになってから、こと起床時間に関して上田保春の体内時計は完璧に調節されている。精神集中を高めた賭博師が指で繰った辞書のページ数を見ずに当てることができるように、秒単位の正確さで彼は毎朝を起床するのである。
 朝食を取らない態度には感心しないという態度にも感心しない、批判で身上を立てるうちに自身の信条さえ輪郭を喪失し曖昧化してゆく上田保春の朝食は、一本のバナナと一杯の牛乳だ。エネルギー効率とかそういった類の選択ではなく、世間という苛烈極まるあの場所に出ていく直前の時間を二次元に触れること以外に使いたくないがゆえである。玄関を出る前に一つか二つ空咳をして喉を通すことを、上田保春は忘れない。廊下で隣人とはちあわせた際に、くぐもっていない声で挨拶をするためである。挨拶をする声がくぐもっていないというのは、萌えゲーおたく同定を避ける重要なファクターであると彼は信じて疑わない。
 七時三十四分発の快速電車に乗り込むと、上田保春はいつもの位置に身体をねじこませた。吊革に体重を預けるとようやく一息つくことができる。満員電車ほど、痴漢・痴女の類を除くならば人々の関心が他者へ向かない場所も無いからである。無味無臭の一乗客として、上田保春は自己定義の隘路を迷走する日々の苦闘を一瞬だけ忘れることができる。弛緩した表情で車内を見回すと、全く思いもかけず見慣れた文字群が視界に飛び込んできた。
 曰く「少女」、曰く「萌えゲー」。
 上田保春の動悸は爆発的に高まり、身体がその非日常から身を離すようにのけぞってしまうのを押さえきれない。思いもかけぬ告発が、突然に自分を名指ししていると感じたからだ。隣に立っていた中年男性が不快げに押し返してくるのを感じ、上田保春は我に返る。平静にさえしておれば、誰も自分の内面の動揺を見透かしたりできるはずがない。彼は小兎のようにうろたえてしまった自分の小心を恥じた。そんな頼りなさでこの揚げ足取りの苛烈な現代社会を、萌えゲーおたくとして生きのびていけるはずがないではないか。一般人の群れの中で脳裏に浮かべることすらはばかられるその文字列への反応を政府直属の野鳥の会メンバーが線路脇から双眼鏡でチェックしており、後日萌えゲーおたく同定の葉書が役所から送付されるというファンタジックな妄想が瞬間脳裏をよぎり、上田保春は思わず苦笑を浮かべる。よく見ればそれらの単語は、車内の吊り広告に印刷されたものだった。「真昼の爆発事件――秋葉原、日本橋のアダルトゲームショップを襲った惨劇。犯人は『萌えゲー』愛好家?」との見出しに、どうやら同類がまた何かしでかしたようだと察知する。
 上田保春が新聞を読まなくなって久しい。なぜならテレビ番組と同様に、生まれたての子鹿のような彼の自意識を脅迫しない新聞記事など、この世のどこにも存在しないからである。上田保春は時事問題についての情報源をもっぱら電車内に掲示された女性週刊誌の吊り広告に依っている。世間があまり陰惨な事件に満ちていない場合、女性週刊誌は何ヶ月もの間、同じ内容をわずかにニュアンスを変えただけで掲載し続けるため、この吊り広告に示された記事がいつのものなのか見当もつかない。
 だいたい、おたくと言えば日本橋や秋葉原などというのは周回遅れの連想である。それらは巡礼者のための古びた聖地に過ぎないのであって、世間に揶揄されること頻繁な、そこをわざわざ詣でるような居直った連中はむしろ少数派である。ほとんどの萌えゲーおたくはより安全な、つまり積み上げた紙箱を抱えてレジへ向かうのを知人に見られたりする危険性の無いネット通販ですべてを済ませるはずなのだ。萌えゲー以外の住所を現実に持っているならば、その居留地を喪失して難民化する危険をわざわざ興味本位で冒したりはしないものである。吊り広告の「爆発事件」とやらに巻き込まれた人々の中に、ほんの興味で店をのぞいただけの一般人がいたとすれば同情に値するが、居合わせた同類たちには不注意と不用意への批判を向けざるを得ない。病院のベッドで包帯に巻かれながら、上司にどんな理由で長期欠勤の電話をするのかを想像するだけで胃が縮み、足のすくむ思いがする。
 それにしても――上田保春は慨嘆する。これでますます、自分のような萌えゲーおたくはカミングアウトが不可能になってゆくなあ。個人のホームページに萌えゲーのグッズを満載した部屋の写真を掲載し、「いまこの部屋に踏み込まれたら、ヤバいっすよ!(笑)」などとキャプションをつけているのを見たことがあるが、全く笑いごとどころではない。近頃は真剣に、冗談にまぎれさせてしまうのは危険すぎるほどに、「ヤバい」のである。あの手の日記を記述する連中はどの程度この身のすくむような社会的苛立ちの高まり、我々へ向けられた人外の畜生を見る如き嫌悪を感じているのだろうか。「自分は萌えゲー愛好家だが、犯罪性向などひとかけらも持ち合わせていないし、誰もが特異なものを持っている趣味の一貫なのだから、何ら恥じるところはない」と強い調子で、誰に向かってなのかわからない言辞を繰り返し発信するような人物は、自室に全くその傾向が無い人々を連れ込んだ場合、精神的動揺を感じない、感じさせない何らかの公算を持っているのだろうか。上田保春が自分に置き換えてその想像をめぐらすとき、「死にたい」とも違う、「消えて無くなりたい」、「この世に存在していたことすら、すべて水に流してしまいたい」という気持ちが、生まれてきたことへの後悔の念とともに膝頭から全身を駆け巡るのを押さえることができない。実際に罪を犯そうが犯すまいが世間の目からは、萌えゲーの少女を愛好する誰かは全く、一ミリのずれも伴わないほど犯罪者、特に性犯罪者と同義である。萌えゲーの大量保持者であることが発覚し、青少年への性的略取根絶をスローガンに掲げるNPO団体に市中を引き回され都心のスクランブル交差点に生首を晒されたとして、警察がただ死因を「萌えゲー愛好」とのみ断定して捜査本部を解散するような社会状況なのだということを同類たちは実感として理解できているのだろうか。
 しかし、そこまでの危機感を抱きながらどうしてなお萌えゲーおたくであることに執着し続けるのかと問われれば、上田保春は答えに窮してしまう。人生にこだわるものが他に無いからだとも回答できるし、質問者を怒らせることを考慮に入れないならば、萌えゲーをプレイしないのならこの世界は退屈で退屈でしようがないからとも返答できるだろう。不謹慎な話だが、例えば肉親が手術ミス等、国立病院の内部犯罪隠蔽により不倶にされたとしたら、その病院を相手取った訴訟団の代表にでもなり一歩も引かないだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば娘が無職の青年にいたずらされ、その青年の自室から大量の萌えゲーが発見されたとしたら、萌えゲーを地上から撲滅することに残りの人生すべてを投じるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば近隣の半島から首都にミサイルが撃ち込まれ、政府は転覆、経済は崩壊、弾頭に含まれた成分の影響で大気には極端に発火しやすい物質が充満したとしたら、銃火器は使用できないので極限にまで肉体を鍛え上げ、レジスタンスのメンバーとして指先一つでダウンの必殺拳法を創出し、新しい秩序を確立しようと試みるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。つまり、上田保春の中にある萌えゲーへの姿勢はすべて順接ではなく逆接でできているのである。
 世間からされる萌えゲーおたく嘲笑の尻馬に乗り、あるいはその注目を利用し、萌えゲーを文化として冷静に分析しようとする視点も無いことはない。だが、全く中立な観点から語っているように見えたとしても商業的な旨みがあるからの売り出しでなければ、萌えゲーに感情的な罵倒ではない言及を試みようとする誰かは、間違いなく二次元の少女に肉体的・精神的興奮を覚える人間である。つまりどんなに冷静な分析的視点を開示しようとも、人々の日常には不可視であるとの立場を取らないならば、それは萌えゲーの実在に随喜のリキッドを垂れ流した、諸手をあげての万歳肯定なのである。人間精神の在り方を批判するためにいくら先鋭化してみせたところで、あるいは一般人が嚥下しやすいようどれだけ甘い糖衣にくるんだところで、例えば上田保春が職場へ萌えゲーの少女が描写された何かを伴って出勤できるような、萌えゲーおたくであることを広告して一切の不利益が業務に及ばないような社会情勢は決して訪れはしないのだということだけは確信できる。もし、萌えゲー肯定派の人々が真剣にその運動を推進し、萌えゲーを愛好することが正常位と後背位の違い程度のニュアンスで世間へ浸透するとしたら、それはそれでこの国はもう終わりだろうなと彼は思う。
 萌えゲーをはじめ、架空のキャラクターに性愛を伴って没入する類のおたくを世間が全く理屈無しに強く嫌うことについては多くの理論武装があるが、上田保春が思い出すのは一昔前のSF作品である。地球に降り立った超科学の宇宙人の容姿が中世より描かれ続けている悪魔に酷似しており、人々が悪魔を無条件に強く嫌う理由は、時間は始まりと終わりをその開始の時点でループ状に伴っていて、自分たちを未来に滅ぼすことになっている存在の外見を人類の集合無意識があらかじめ知っていたからだという筋立てだった。二次元のキャラクターを愛好する者へのほとんど無条件に思える嫌悪、あるいは冗談にまぎれさせた侮蔑についても、このSF作品と同じことが言えるのではないかと彼は考えている。つまり、我々の趣味嗜好が人類を未来に滅ぼしてしまうことを知っているから、その拒絶は常に自動的なのではないか。米帝のリベラルな思想だけを鼻薬に嗅がされた子どもたちに、その愚直な勤勉さを罵られながらもまっとうに働いて、脇目もふらずにおのれの信ずる人生を疾駆している人々は、子どもたちが何か伝染性の病原体に脳を侵されて、自分たちの知らない存在になってしまうことを無意識のうちに恐怖しているのではないか。発症してしまった子どもたちは、いつまで経とうと両親の元へ伴侶や孫を連れてくることもない。その一事を取ってみても、時代と社会への誠意に満ちた彼らの人生を侮辱しており、拒絶の理由としてはもう充分この上ないのではないか。萌えゲーを肯定させよう、そこまでは無理にしてもせめて中立の無味無臭くらいにはしようという言説は、子ども時代に体験した大人からの精神的・肉体的搾取行為をこちらが成人してから相手に認めさせようとする性質のもので、何か前向きな結果の到底得られそうにない、不毛なやりとりのように思える。
 そして、この手の議論でいつも片手落ちなのは、自分のような立ち位置にいる人間の声がどこにも反映されないところだと上田保春は感じている。萌えゲーを直接的に生業にしていたり、それを傍らから論ずることで間接的に飯を食っている人々は肯定すればするほど、ときに否定すればするほど飯の質が向上するわけだが、例えば一般企業に勤める一サラリーマンが萌えゲーを愛好することを肯定したとしてそれで飯が食える道理はないし、インターネット上の言辞そのままに職場で布教の演説や活動を始めようものならば、たちまち次の日から路頭に迷うことは必定であろう。上田保春は誰かを傷つけることを目的にして、こういった思考を弄んでいるわけではない。否定とは真逆の要素が彼の煩悶には含まれているのだ。現実の女性よりもはるかに素晴らしい萌えゲーの少女たちを捨てて、この退屈で退屈でしようのない世界に、生きていかれるわけはない。彼女たちがいなければ、もう犯罪に手を染めるか自殺するかしか選択肢は無いような気さえする。結局のところ萌えゲーおたくとは、100%の精神障害や、100%の犯罪性向、そして100%の自殺願望を二次元の少女たちの力を借りて、それぞれ30%くらいにようよう薄めて、あるいは押さえこんで、社会生活をかろうじて成立させている潜在的不適応者たちの別名なのだろう。
 萌えゲー愛好を積極的に肯定できないが、それをやめることもできない現実を上田保春は知っている。自分のような人間が一番苦しんでいるのだとつくづく感じる。ダチョウが砂地に頭を埋めるが如く何も見ないようにして盲目的に、圧倒的に没入できればと願う。しかし、そんなことは到底不可能である。彼が大半の時間を過ごすのは、萌えゲーとは何の関係も無い場所なのだ。新作の萌えゲーが発売されるとインターネット上で狂繰的に感想を交わすような人々は本当に心の底から、自身の有り様に疑問を感じることもないまま、己の性癖に没入できているのだろうか。だとすれば、それほどうらやましいことはない。社会を排除しての完全な没我がうらやましい。あるいは、萌えゲーで飯が食えることがうらやましい。萌えゲー以外の場所で生きていかねばならない自分のような人間はいったいどうすればいいのだろう。その回答が欲しい。切実に求めている。だが、萌えゲーについて語られる言葉には実地の検証が無い。上田保春が求めるのは生きるための処方と同義であるのだから、萌えゲーを愛好しない人々と対面した実験が必要なはずなのだ。本当の意味で社会と四つ相撲に組み合って苦闘する誰か――その誰かは萌えゲーの少女を真の意味で愛しておらねばならぬ――を彼は見たことがない。街頭で無作為に呼び止めた一般人に、最も人体からデフォルメの進んだ類の萌えゲーの少女を見せた後にその素晴らしさを説明し、心からの賛同を得るという現実の強度を、彼は萌えゲーを語る言説に求めてやまない。もしその実施検証を乗り越えてなお有効な、現実と虚構とを自在に横断する大統一理論が可能なのだとすれば喜んで過ちを認め、萌えゲーおたくであることの賛歌を職場で、街頭で、高らかに歌い上げるだろう。
 上田保春がいつも頭の中で巡らすのはそういった、すべての齟齬や不利益をたちまち超越するミュージカル的妄想なのだが、それを形にしてどこかへ残すことはあまりに危険なので、つまり萌えゲーおたくとして最も恐れる意図しないカミングアウトの可能性を残してしまうので、自分や同類たちの言葉が発信される場所としては犯罪後の法廷ぐらいしか思いつかないなあと、満員電車に揺られながら前後左右のサラリーマンから胃を圧迫されて、げっぷともため息ともつかない音を漏らすしかないのである。

生きながら萌えゲーに葬られ(3)

 タイムカードを押して、向かいから歩いてきた女子社員と微笑して会釈を交わす。この際コンマ数秒の注視によって相手の視線をこちらに向けさせてから微笑することが大切である。
 上田保春は会社の女子社員に人気があった。どういう種類のものであれ、暴力の匂いをさせず、性へのあからさまな衝動を感じさせることのない清潔な男子は、その交流や感心が表面上の段階へ留まるのなら、女子に人気があるものだ。上田保春の暴力――軽く頬を張られた少女が困った顔をするのを見たい――や、性へのあからさまな衝動――初めての愛撫に恥じらう少女を乱暴に押し開きたい――は、すべて萌えゲーが引き受けてくれていたので、会社での彼の行動は女性に好意を抱かれるのに十分な範疇へぴったり収まっていた。
 萌えゲーおたくを続けることで細分化された上田保春の自意識は、彼の中の反社会性に気づいた相手がそのことを意識にのぼせるよりも速く察知して、矢継ぎ早にそれを否定する情報を投げかけるという防衛において発展していったのだが、怪我の功名というべきか意図しない副産物というべきか、女性の感情の機微を繊細な柔らかさで捉えることができた。テレビを見ず新聞を読まない上田保春が深く話せる話題はあの二次元空間のこと以外に無かったので、女性と話をするときの彼の行動は自然、相づちや相手の意見を別の言葉で言い換えての支持、踏み込ませないためにする見せかけの感心の断続的表明に終始した。それはほとんどカウンセラーのやり口に似ており、休憩時間中、上田保春の元へ悩みの相談に訪れる女子社員は、口コミで部署を越え結構な数になっていた。女性には誰かに話をすることで論理的に自分の考えを整理したいだとか、相手の話を注意深く聞くことで相互の理解を深めたいだとか、そういった欲求は極めて薄いというのが上田保春の理解である。表面上の臭みを消すことにさえ注意を怠らなければ、女性との交流の中で萌えゲー愛好を悟られてしまう危険は皆無だった。彼が相談を受けたほとんどすべての女性の欲求は「私だけのために時間を割いてもらう」「私の現在を肯定してもらう」という段階に留まっているのであって、それを理解してさえいれば話を聞くという一点だけでたいていの悩みは雨散霧消し、結果として相手の好意は深まるのだった。萌えゲーには登場人物やシナリオに設定された条件のリストが存在し、各項目をどれだけ満たしたかによって主人公への好悪や話の筋そのものが変化する。一定の変化に至る最後の条件を満たしたことを俗に「flagが立つ」と表現するのだが、その複雑極まるflagの管理に周到な上田保春にとって現実の女性は萌えゲーの少女よりもはるかにエキセントリックとは言えず、彼女たちとの交流に心をすり減らす心配は絶無だった。無論、これを口にしたときに女性が感じるだろう激怒も容易に想像できるので、相談相手を前にした彼が浮かべる微笑はますますその悩ましい陰影を深めていくのだった。
 また上田保春は、同僚との私的交流を極力避けるように努めている。飲み会やコンパなどへの出席は、不自然に思われない回数にとどめた。体育会系の男性社員がアルコールにまかせてする個人の性格的特徴への放言は、ときに驚くほど真実に肉迫してしまうことがあるからだ。そして何より彼はアルコールに強くないため、最初の席取りに失敗して無理やり飲まされてしまうような状況での超自我からの失言を恐れた。なぜなら萌えゲーおたくの持つ深層意識においての自暴自棄は、常にすべてご破算にしたいという願望を爆発させる機会をうかがっているからである。
 ともあれ上田保春は、総じてうまくやっていたのだ。うまくやりすぎるくらいに。しかし、三十代も半ばを迎えようとする彼のモラトリアムは終わろうとしていた。女子社員が給湯室で立ち話をしている内容を偶然に耳にしてしまったことがある。職場にいる年配の独身男性に対する発言だったのだが、それを聞いたとき上田保春は心底から社会のする残酷に慄然としたものだった。その男性社員が未だに独身でいるのは性的に×××だからではないか――×××の部分を具体的に記述するのに、上田保春の自意識は繊細すぎる――、とその女子社員らは発言したのである。本人たちには無邪気な子猫の甘噛み、ぼんやりとした午後にスパイスをきかせる悪意に過ぎなかったのだろうが、上田保春は不意にこみ上げてきた嗚咽をこらえるため必死で口元を押さえなければならなかった。涙ぐんでさえいる自分を自覚したのである。上田保春の微温的な平穏が喉元にせり上がってくる水位のように塗りつぶされ、ついには彼を溺死させてしまう未来が確実な現在の延長線上に見えてしまったからだった。平穏な日常というささやかな夢も希望も、萌えゲーおたくであるという事実だけで無惨に蹂躙され、黒く塗りつぶされていく。しかしそれを塗り返すのは、萌えゲーにより排出された体液の黄ばんだ白でしかない。確実な破滅が眼前に迫っているのに、逃れるすべはどこにも存在しないのだ。それはまるで、意識のあるまま殺人鬼に解体されてゆくような絶望だった。
 「もし江戸時代だったなら、自分は目覚めないままで一生を終えることができたと思う」と、性犯罪で服役する幼児性愛者が語るのをネットサーフィン中、目にしたことがある。上田保春はその発言に同情と共感を禁じ得なかった。自分が同じ立場にあってもおかしくなかったろうということと、対象の違いこそあれ彼がいまいる境遇をこの上も無いほど的確に言い表していたからだ。幼児性愛者と萌えゲーおたくはその性嗜好において極めて似通ったものを持っていると上田保春は思う。つまり、直接的な肉欲を精神的な投影が凌駕してしまう点において共通なのである。江戸時代ならば人々からの非難や制裁は社会からの根本的抹殺というレベルではありえず、現代のように徹底的に人格の根源までを破壊されつくして追いつめられることも無かっただろう。もちろん、犯罪の肯定と受け止められかねないこんな感慨をどこかへ漏らすわけにはいかないから、彼にできるのはただマウスのボタンをいつもより強く圧迫することだけである。
 上田保春の心に澱のように溜まっていく何かは、ますます彼の本質を自閉的なものにしていく。その記事を目にして以来、ときどき萌えゲー愛好に目覚めなかった自分を想像してみることがある。その想像は例外なく、自殺か発狂か独房へとつながった。だとすれば、萌えゲーの実在を全く非難する筋合いはない。むしろ自分は救済さえされているのだ。しかし、その思考が気分を晴れさせることはない。なぜなら目覚める必要の無い人間たちのことを同時に、否応に考えざるを得ないからである。消極的な抑止ではなく、人格の上へ新たな犯罪的性嗜好を追加するくらいのニュアンスしか伴わないのならば、萌えゲーは社会的脅威を増大させる以外の効果を生まないことになる。そこに上田保春の得たような、潜在的犯罪者への負の救済はない。萌えゲーをプレイしない日常を想像するとき、そのモノトーンに自殺を考えないならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。もし萌えゲー以外の何かで健康な性的満足を得ることができるのならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。自分に機会が与えられるのなら、そうやって彼らに忠告してやりたいのだ。しかし、萌えゲーに耽溺する者たちが集まるワークショップなどありそうにない。ニコチンやアルコールを断つための相互互助の集まりは存在するのに、萌えゲーに対するそれは世間には見られない。萌えゲー愛好者の集まりは、例えば「実践的殺人愛好倶楽部」と同じような意味合いを含んでしまうからだろうと上田保春は推測する。どこにも表明できず誰にも届かない以上、彼の抱く苦悩はどこまでいっても人類の枠の外を旋回しているに過ぎない。上田保春の実感は永遠の村八分、流浪するオランダ人なのである。一昔前ならば最終的な受け皿の無い人間は野垂れ死にをし、社会は自然に脅威を回避していたはずなのだ。しかし、現代においてはインターネットがあまねくすべての人間の受け皿となり、すでに究極の平等を実現してしまっている。お互いに交流することのなかった社会の範疇外の異常と異常を出会わせ、その異常性を増大させる役目を果たしてさえいる。本来ならばすべての埒外で無視のうちに殺されていた自分と自分の同朋たちが、新しい脅威として人々の生活の中へと侵入していっているのだ。上田保春はそこまで考えると、頭の中で猥褻な単語を連呼することで無理に思考を中断した。自殺しないためである。
 所属する部署の机に座って、周囲を見回す。清潔なオフィスの朝だ。職場のデスクトップパソコンの壁紙を萌えゲーの画像に設定し、机上に少女をかたどったプラスチック人形を並べていると公言する知人の大学職員のことを思い出し、上田保春は嫌な気分になった。だいたい、誰もが人に言えないような趣味を一つくらい持っているものだ。目の前に座っているこの一見真面目そうな眼鏡の同僚だって、家では新妻を相手にSM趣味を展開しているかもしれないではないか。だが、職場まで昨夜妻に使っていたピンク色の巨大ディルドーを持ってきて自慢げに見せびらかしたり、デスク上に陳列したり、それを使うとき妻がどんなふうだったのかを延々と説明したりはしない。一方で萌えゲーおたくはときに、社会からの絶え間ない抑圧のせいに違いない、ほとんどそれに類するネジの外れた行動に抑えがきかなくなることがある。開き直りが、理性を凌駕してしまうのだ。上田保春は実のところ、その大学職員に少しの劣等感を抱いていた。趣味嗜好を完遂できる蛮勇をうらやみ、反して己の中途半端な生き様へ自己嫌悪に近いものを抱いていたのだ。しかし、いまこの職場の清浄な空間、抑制された始業前のさざめきに身を寄せて、彼は自分の感覚の方が正しいことを巨大ディルドーの例えから確信することができた。
 そうだ、同僚にピンク色の極太巨大ディルドーを強要できるような職場状況が容認されていること自体がそもそも異常なのだ。そう考えながら、上田保春は巨大ディルドーに口づけしながらこちらへウインクする経理課の田尻仁美を思い浮かべた。彼女はその面相こそ十人並みなのだが、本人が自覚しているかどうか知らない、ひどいアニメ声なので、経理課に電話する機会の多い上田保春のお気に入りとなっていた。上下がぴったりとは合わないよじれた形をした彼女の唇は一種淫猥な雰囲気を作り出しており、萌えゲーのキャラクターを見慣れた上田保春にとって新鮮に映った。唇の形状でキャラクターの容姿を書き分けする萌えゲーが存在しないことは、極めて暗示的だ。萌えゲーにおいて唇はふつう、わずかにグラデーションが加わることもあるが、一本線の長さと湾曲でのみ表現されることがほとんどである。唇に特徴を与えるということは厚みや色合いを与えることであり、それは女性の肉体的・精神的成熟と萌えゲー愛好家を直面させる結果を生んでしまう。唇とは心理学や吸茎の例を持ち出すいとまもあらばこそ、女性器の明確すぎる暗喩だからである。萌えゲーにおける愛玩の対象が二次元の少女であることを考えれば、唇への力点が周到に回避される裏には全く首肯できる道理が存在するのがわかるだろう。途中で話がそれたがつまり、萌えゲー愛好とは巨大ディルドーと同義なのだ。巨大ディルドーを繰り返し使用して婦女子の皆様方には大変申し訳がたたないが、萌えゲー愛好を開示できる場所は巨大ディルドーを取り出すことのできる場所なのだと、上田保春は自分の在り方を肯定するための思考に意気を強める。
 萌えゲーや二次元に対する性愛へ向ける一般人の嫌悪はほとんど自動的なのは、教育的・教養的過程を踏んでいないからだ。つまりそこに至る論理や歴史の一切を前提としないので、彼らを説得したり懐柔したりするのは不可能なのである。上田保春は自身の経験からそれを知っている。高校生のとき、田舎から泊まりに来た祖母が彼の自室にあったアダルトゲームの紙箱――青い着物の袖を噛んで何かに耐える表情の少女がこちらを見て涙を浮かべており、販促用の帯には『今夜も不義密通』と記載されていた――を見たときの表情と、その後の反応を彼は一生涯忘れないだろう。
 当時の祖母は八十五歳、その年齢に至るまで腰も曲がらずかくしゃくとし、毎朝四時に起床しての畑仕事を半世紀以上現役で続けてきた彼女が触れるメディアといえばかろうじて宗教系の新聞くらいのもので、アニメはおろか老大家による新聞四コマ以外の漫画すら見たことのない昔人であった。つまり、現在で言うところの萌えゲー的なものどもに対する教育・教養は一切無かったのだ。その反応は当然、上田保春が体験したものよりもっと中立的でしかるべきだったはずだ。しかし、祖母の反応は全く公平ではなかった。孫にこづかいをやるつもりで入ってきたのだろう、笑顔の皺に顔のパーツをすべて埋没させた祖母はパソコン机の上に置いてあったアダルトゲームのパッケージを目にした途端、たちまち表情を失って皺の底から恐ろしいほど大きく目を見開いた。それはまるでハリウッド製の特殊メイク技術を早回しで逆に見ているような劇的変化だった。祖母は怪鳥のような悲鳴を上げ、大声で上田保春を下の名前で呼ばわった。ベッドに横たわって雑誌を読んでいた彼は驚愕のあまり床へ転がり落ちた。そのあまりの大音声に、台所で炊事をしていた母親が洗剤の泡を手につけたまま飛んできたほどである。母親というものはすべからく息子の性癖を知っているものであるから、無論息子の二次元性愛傾向には気づいていたはずだ。しかし、面と向かって何か具体的なコメントを加えたことは無かった。だから自分の性癖の持つアブノーマルさについて、上田保春は思うよりも油断があった。友人の多くが週間漫画誌のグラビアを自慰の素材に使っているのを横目にしていたのだから、もちろん全く自覚が無かったわけではない。しかし、せいぜいが文化的な差異、肉食と菜食の違いくらいの気軽さで考えていたのだ――祖母に大音声で罵倒される、この瞬間までは。祖母は彼を正座させ、手にした杖でゲームのパッケージを幾度も打擲しながら実に三時間、彼を罵り続けた。昔人の語彙の中には上田保春には意味のわからないものも多くあったが、彼の理解した部分を要約すれば社会的、倫理的、道徳的、果ては神学的――お天道様、という言葉を祖母は繰り返した――におまえのやっていることは下劣極まりない、という内容だった。おまえは鬼の子である、とも言われた。そのあまりの剣幕に取りなそうとしていた母親が泣き出し、つられて意味もわからず小学生の弟が泣き出し、母親と弟を軽い気持ちの二次元性愛で泣かせた情けなさに上田保春自身が泣き出し、祖母は泣くくらいなら最初からするなといった内容を昔人の語彙でおしかぶせ、いったいその大混乱がどうやって収拾したのか思い出せないほど、それはもう大変な有り様だった。萌えゲーへの嫌悪はIt's automatic、「どうしようもなくそうなってしまう」もので説得や弁明の余地がないと考えるのは、この体験が元になっている。
 百歳を越えて祖母は未だ存命中なのだが、いまやあの頃の硬骨の人から恍惚の人へと変化してしまった。成人してからも会う機会は何度となくあったのだから、あのとき何故あそこまで激烈な反応を見せたのか一度でも聞いてみれば良かったと上田保春は後悔している。子どもの頃に通い馴染んだ商店街が大手資本の巨大スーパーにとって変わられるとき、あの町並みは確かに眼前に存在しているのに、それはもはや自身の脳裏にしか無いのだということを信じられない瞬間がある。祖母の脳細胞は着実に破壊され、萌えゲーおたくと一般人との間にある避けがたい不協和音の実在を上田保春に刷り込んだあの事件の真相も、もはや子どもの目線の高さで聞く商店街のさざめきと同じ手の届かない遠いところにあった。二次元の少女を見たとき、祖母の心の中に沸き上がった感情は、祖母を強くゆさぶった倫理観は、いったいどのようなものだったのだろう。それがわかりさえすれば、自分は世界と和解できるのではないかと思う。しかし、それがわからない以上、齟齬を齟齬のまま生きていく他はない。

生きながら萌えゲーに葬られ(4)

 扉を開いた途端、開栓後に放置しすぎてビネガーと化したワインのような、何かを拭いた後に洗浄されずに醗酵した雑巾の湿気のような、上田保春に括約筋を思わず引き締めさせるあの臭気が鼻腔を刺激した。それはしかし、彼に不快だけをもたらすわけではなかった。上田保春は萌えゲーおたく的ではないふるまいを自身に強いているとは言いながら、その魂の所在は一般人の暮らす住所からははるかに遠い。その臭いを嗅いだ瞬間の彼の感情を表現するとすれば、「暗雲の下、銃弾の雨の中を駆けに駆け、塹壕に転がり落ちたときの安堵」とでもなるだろうか。
 週末の夜、彼は萌えゲーを愛好する仲間たちとマンションの一室で集まりを持つ。上田保春は多い月には十本程度の萌えゲーを購入するのだが、そのくらいの数では実際のところこの流れの速い場所で単純に現状へ追いつき続けることすら難しい。萌えゲーおたくのする創作物への態度をその傾向が無い者たちに説明するのが難しいと感じたなら、「それはまるで増えすぎたイナゴが穀類に群がるあの映像に酷似している」と答えればよろしい。一つの対象を偏執的な執拗さでもって原型を止めぬまでに噛んで噛んで噛み尽くして、その対象が自分たちの重みを支えきれないほど弱ってしまったなら、次の餌場を求めて集団で移動を開始する、あらゆる有機物を殲滅させずにはおかぬ、あのイナゴのやり方そのものである。つまり、この場所の流れを異様に速いものにしているのは彼ら自身の態度に他ならないのだが、そんな説明で恥じ入るほど彼らの抱える餓えは生やさしいものではない。萌えゲーを摂取し続けることができなければもぐらのように、誇張ではなく彼らの精神は死ぬのである。
 萌えゲーはおたく文化の中では傍流的な位置にあるためか、ときにアニメなど他のおたく文化の流行を色濃く反映する傾向がある。つまりパロディやオマージュの様相を呈することが頻繁なので、他の傍流ではない場所からの尽きぬインプットが、真の意味で、あるいはイナゴのように、萌えゲーを楽しむには不可欠であった。また、パロディやオマージュという方法論で形成されたはずの作品のさらにパロディとオマージュから成る商業目的ではない冊子の実在なども考慮に入れると、もはや個人のみで萌えゲーおたくを続けていくことは物理的に不可能であるとさえ言えた。例の大学職員はこの集まりを「受動おたくにならないための勉強会」と称したが、どうにもそれは「挿入しないための童貞堅持会」のように聞こえてしようがない。その集まりの中で上田保春はしばしば、受動おたくの典型例として揶揄された。その最たる理由としていつも指摘を受けるのは、商業目的ではない冊子だけを展示・販売する会合が年に何回か全国局地で開催されるのだが、それらへ参加するために仕事を休む勇気を彼が持たないことだった。大学職員は萌えゲーのために仕事を休むことを一線にしているし、上田保春は萌えゲーのために仕事を休まないことを一線にしているのだから、この話はどこまで突き詰めても平行線をたどるに違いなく、しかし会合から持ち帰られた冊子を彼は切実に必要としているので、この話題を持ち出される際はいつも視線を伏せてもごもごと自己卑下の言葉を繰り返すしかなかった。自分を下げてみせさえすれば、たいていの場は嘲弄ぐらいの恥辱で穏便に収束する。すでに人生の半分以上を二次元性愛に捧げる上田保春が獲得した、いじましい処世術であった。
 「要は、人類が成人しても無毛な、幼形成熟の生物だということを考慮すべきなんだと思います。幼形であればあるほどぼくたちが欲情を感じるのは、何も全く異常なことではなくて、神の本道を外れたことではなくて、生物学的視座から本能の裏打ちを、つまり神のお墨付きをもらっているとも言えるのではないでしょうか。自然の摂理と反した文化行動がその不自然さにも関わらず何かのはずみに定着してしまうことは、民族学からの実例を引くまでもなく明々白々としていて、いま現在あるような幼形を愛することを自身の確かな一部として表明してしまうことへの忌避は、そういった不自然、本来は採択されるべきではなかった文化行動の生きた実例なのではないでしょうか」
 誰かが部屋の中で話をしている。その声音は、未だ他人に届こうとする意志を含んでいたので、萌えゲーおたくがするように自閉的には響いていなかった。上田保春が声の主を確認しようと室内へ歩みを進めると、鯨飲馬食の四字熟語が全く比喩的に響かないほどの勢いで、太った大男がビールを飲み干しているのが目に入った。フローリングの床にはすでに十数本の空き缶が転がっている。
 彼――太田総司はこの3LDKのマンションの住人であり、所有者である。上田保春と同年代のはずなのだが、働いてはいない。親元から月に数十万円の仕送りを得て、それで暮らしている。太田総司の実家は東北地方にある素封家らしいが、ふんだんな仕送りと萌えゲーとコンビニとインターネットのおかげで、このマンションの一室はどうやら彼の両親にとって息子を世間から閉じこめておく呈の良い座敷牢と化しているようであった。太田総司の社会的身分は本人の言を信じるならば大学生とのことだったが、どこの大学であるかや何を専攻しているかの話題になると彼は突然聴覚障害に陥るので、あきらめというよりも優しさからその質問を投げかけるのをいつか止めてしまった。首筋と下腹へ衣服に隠しきれず寄った脂肪の重なりから、彼の容姿は一見まるでアザラシのように見えた。その原因が飲酒と宅配ピザと大量の萌えゲーであることは明らかだった。上田保春は太田総司が酩酊状態以外にあるのを見たことがない。彼を見るとき、何かに気づかないために生きるというのはいったいどれほどの苦しみなのだろうと想像する。それを滑稽だと笑う権利は誰にもあるまい。夜を迎えるために萌えゲーをし、朝を待つために酩酊する。人生とは、すべからくそういうものなのかも知れないのだから。
 どうやら手持ちを飲み尽くしたらしい太田総司は、いま現実に戻ってきたかのようにゆっくりと左右へ首を振り、どんよりとした目で上田保春を見た。そして、コンビニの袋に下げてきたビールを手渡す隙もあればこそ、ほとんど横殴りにひったくって、全く冷えていないのにも頓着せずにごくごくと飲み干し始めた。その有り様は会社帰りでスーツに身を包んでいる上田保春の、萌えゲーおたくへ向けて補正されきっていない感覚から見て全く尋常のようには映らず、何かしら前世の因業という言葉さえ想起させるような、文字通りの醜態であった。太田総司の体表からはとめどなく汗が吹きだしては伝い流れており、彼の座っている床の周辺には誇張表現ではない水たまりが薄く広がっているほどだった。冷蔵庫と床の隙間からゴキブリがかさかさと走って来、その水たまりの岸辺で停止すると触覚を上下に激しく動かした。やがて触覚の先端はうなだれるように水たまりに浸かり、ゴキブリは動かなくなった。太田総司の表皮を流れる汗はわずかに透明ではなく、伝い流れるその速度も粘度を伴っているかのようにじりじりとしており、ウェットティッシュで吊革やドアノブを拭くことを習慣にしている眼鏡の同僚が見たりすれば、即座に悲鳴をあげて玄関から飛び出ていくだろうことは必定だった。それはまるで理科の実験で行う濾過装置の逆転版のようなもので、荒い砂利からきめ細かい砂へのグラデーションが泥水を真水へと濾過する過程を遡行し、きれいな物質が太田総司の体内を経ると全く汚染された何かになって出てきてしまうのだった。上田保春だって汗はかく。排尿も排便もする。射精についてはすでに述べた。それらは人間であることの避けられない崇高な摂理であるとは思うが、この太田総司の場合、すべての行為が肯定不可能なものとして、完膚なきまでに戯画化されてしまうのである。
 このプロセスこそが、萌えゲーおたくの本質なのではないか。誰もが当たり前にする人間的営為の持つ聖性をまるで悪魔が神を穢すためにしてみせる演技の如く、目を背けたいものとして貶めるのである。萌えゲーおたくであることの異様さは何も特殊な行動によるものではないと、太田総司に会う度に上田保春は身の引き締まる思いで自戒する。つまり表層を忠実にトレースするだけでは、全く足りないということだ。一般人がする行動の質を貶めることなく繰り返さなければ、萌えゲーおたく同定を避けることはできないのである。会合の場所として太田総司のマンションを彼が指定するのも、職場からほどよく遠いという理由だけではなく、その自戒を再確認し続けるという目的もある。悟りとは一瞬で別の次元にステージを移すことを意味しない。繰り返さなければそれは当たり前の日常へといとも簡単に変質してしまうことを上田保春と同じ実感で理解しているのは、現代において仏教の高僧くらいであろう。
 そんな物思いを知らぬふうで、部屋の奥から言葉は続いている。それは関心のためか、あるいは自負のためか。
 「しかし、これだけではまだ説明がつきません。だって、ぼくたちが現実の幼形よりも二次元の図画として描かれた幼形の方に、より強く心引かれることの説明がついていません。ですが、人間の心の構造の基を考えれば、即座に首肯できる理由があるのです。人間は本能を失ってしまっているとよく言われますが、本能的な精神の動きは確かにまだ残存しているのです。それは意味を付加するという作業であり、あまりにも積極的、いや、自動的に行われているので、私たち自身さえ気づかないほどなのです。その傾向が鰯の頭を神にする。ぼくが今朝蹴飛ばした猫が夕方ぼくに自転車事故をもたらしたように、客観的・科学的例証に個人の意味づけは常に優先するのです。この話でぼくは何を証明したのでしょう。本来は曲線と直線の集合に過ぎない、意味の無いパーツのつらなりである二次元上の図画の方が、個人の意味づけによって組み立てられているゆえに、科学的にはより強い、疑いようのない実在であるはずの現実の少女よりも、萌えゲーに登場する少女の方がはるかにぼくたちにとって魅力的に映ってしまうということを証明したのです!」
 学校の屋上で煙草を吸ったりする程度で解決できるなら、授業をボイコットし、煙草を吸った方がいい。それはいずれ、社会という名前の大きなテーゼに巻き込まれてゆくことへのアンチとしての示威行為に過ぎず、押し返したとして、押し返されたとして、それらは依然お互いが同じ軸線上にあることを自覚したじゃれあいに過ぎない。萌えゲーおたくである上田保春が学生時代に体験したのは、全く意図せぬジンテーゼの恐怖であった。一度たりともそれを望んだことは無かったというのに、従来の軸線上で押した押さぬの小競り合いを繰り返す人々からは、彼の立ち位置はまるで不可視だったのだ。この発言の主はそれがわかっているのだろうか。あるいは上田保春が感じた意図せぬジンテーゼとは全く別の思想をこの声の主は確立しているのか。
 それにしても――萌えゲーおたくの性向を推理小説のように推理してみせたところで全く意味が無いのになあ。上田保春は自身の繰り言を轟音とともに棚上げして、昏い感慨を抱く。推理小説の犯罪をそのまま現実に移し替えた事件が待てど暮らせど発生しないのは、それが現実を忠実に描くことや人間存在に真摯であることを目的としていないからである。発言の主が自説の中で展開しているような、不注意や不運による事故の原因を四足獣の呪いに求めるような、自然界の中では人間だけのする、自身を納得させる以外の効果は無い意味づけ作業に過ぎない。しかし、わかっていてもやめられないから、人はそれを物語に仮託するのだろうと上田保春は思う。本質的に、即ち科学的には無意味な虚構を量産することが、逆説的に人間の証明になるのである。
 上田保春の信念をゆらがせるほど確信的かつ露悪的な萌えゲーおたく、件の大学職員、有島浩二は、彼が室内に入ってきたことへ気づいているだろうにも関わらず、一瞥すら寄越さずにアニメに登場するロボット群をコマとして戦わせる軍人将棋式テレビゲームに没入し続けていた。もしくは、没入するふりの演技を続けていたのか。上田保春が声をかけるべきかどうか逡巡していると突如、有島浩二は何の予備動作も無しにぐるりと顔だけをこちらへ向けて、表情筋を痙攣させるような素振りを見せる。微笑んでいるつもりなのだ。しかし、薄暗い室内でモニターからの光源に照らされたその表情は、相手の気を安らわせるどころではない、ホラー映画の一場面を視聴する効果をしか生み出さなかった。まだ完全におたくの領域へと感覚を適応させきれていなかったスーツ姿の上田保春は、同朋のするその異様な仕草にほとんど足下を失うような目眩を感じた。
 おたくと呼ばれる人々の多くが予備動作の無い動きをすることや異様な早口だったりすることは、よく一般人の側から指摘を受けるところだが、彼には最近その理由がわかってきたように思う。動作や発話に前駆する空間的・時間的「間」は、相手に配慮する目的でなされているのだ。文化的躊躇とも言うべき、他人の実在を認めるがゆえの意識的空白なのである。一歳前後の赤ん坊には予備動作がほとんど無く、大人は気づかぬうちに眼鏡を奪われたり、頬を張られたりしてしまう。赤ん坊は相手に対する意識も自分に対する意識も未だ確立の途上にあるので、文化的躊躇、他人への配慮の「間」が無いせいで、大人は赤ん坊の行動を受け入れるための情報をあらかじめ与えられない。人の発するものはすべて他者へ届こうとする意志を伴っている。だが、有島浩二にはまるで赤ん坊のようにそれが無い。彼の早口と予備動作を伴わないマリオネットのような動きは、赤ん坊の配慮の無さと同義なのである。
 有島浩二はコントローラーから手を離さないまま部屋の隅に向かって顎をしゃくり、「その鞄の中に入っているから、拾っていくといいよ。犬のようにね」と一般人ならばリスニングの極めて困難だろう早口で言った後、何が可笑しかったのだろう、映画「アマデウス」のモーツァルトの笑いにおたく色を濃く反映したような笑いを短く神経に笑った。上田保春は軽く頭を下げると、手垢でさらになめされてしまったように赤黒い光沢を放つ革鞄から、無地のメディアに直接極太マッキーで萌えゲーのタイトルが書かれたDVDや、彼のよく知っている萌えゲーの少女がその本来のデザイナーではない人物の手によって描かれている冊子を、のろのろと自分の鞄へと移し替え始めた。期待に胸と男性が膨らんでいくのを押さえきれない上田保春が自己嫌悪を越えた背徳的悦楽の微笑を口元に浮かべると同時に、有島浩二が予備動作を伴わない動きで再び彼の方を向き、「そうそう紹介するのを忘れていたが」と異様な早口で告げた。それはあまりに伝達の意思を放棄した早口だったので、「蕭々蒋介石尾張tiger」のように聞こえた。
 有島浩二が顎をしゃくった先には驚いたことに、一人の少年が膝を抱えて座っていたのである。すわ、略取監禁、などという単語が脳裏をよぎるのは萌えゲーおたく的小心の極みである。聞けば少年は十四歳、インターネット上の掲示板で知り合いになったのだという。「なかなか見どころのあるやつなんだ」と有島浩二が異様な早口で言い、それは「中出し水戸黄門R膣難産」のように聞こえ、少年がその言葉にもじもじと身をよじるのを見て、上田保春は高まった気持ちが急速に萎えていくのを押さえることができなかった。インターネットの功罪が叫ばれる中、上田保春に言わせればそれは明々白々としており、たった一つしかない。これまでの人類の歴史の中ではありえなかったような出会いを誘発し、それによって一種異様な人間関係の化学反応が発生してしまうことである。個人が自室に引きこもってできることはたかが知れているが、もし引きこもりの個人が複数集まってしまったりしたら、それが集団自殺のような積極性を持ったとして何の不思議もない。萌えゲーおたくであることを恥じた三十代も半ばを迎えようとしている会社員と、萌えゲーおたくであることを絶望や恐怖ではなく自負として捉えている十四歳の少年。本来なら出会うはずのない二人が出会い、何かお互いにとって有益な結果を期待できるほど、上田保春は人生の生み出す善の効果に希望を失ってしまっている。
 有島浩二がまるで何事も無かったかのようにゲーム画面へと向き直り、太田総司が座ったままの姿勢でうとうとと居眠りを始め、上田保春が何やら昏い目をして黙りこんでしまったのを見て、少年は自責を感じたのか空間を音声で満たせば気まずさを調伏できると信じるように、萌えゲーおたくの萌芽を予感させる痛ましい軽繰的な様子で話を続けた。
 「最近は友だちから薦められてハマってるジャニス・ジョプリンをiPodで聞きながら、萌えゲーをするのが最高に気分いいんです。生きながらブルースに葬られ――ぼくが思うのはジャニスがブルースに選ばれて、そうして選ばれた代償としてブルースを歌っている以外はクスリ漬けの廃人だったみたいにぼくも萌えゲーに選ばれて、萌えゲー葬られているんじゃないかって感じることがあるんです。学校も、両親も、友人も、誰も、萌えゲーほどぼくの命を充実させてくれるものは無いんですから!」
 少年らしい強い思いこみに頬を紅潮させるその様子と、その甘い自負とははるかに遠い現実そのものの感覚だったにはせよ、何とはなしに感じていた違和感を言葉にして提出されてしまったことに上田保春はかすかな感動を覚え――そして、憐れみを禁じ得なかった。このまま聞いてないふりで黙ってさえいれば、少年は再びこの陰鬱な会合を訪れようとは考えないだろう。それがこの場でできる、少年に対する本当の優しさだったはずだ。しかし、フローリングの床に散乱した銘柄の違う無数のビールの空き缶と、薄暗い室内でおたく仲間の肩越しに明滅を繰り返すモニターとが、彼の中にあるsentimentalismを刺激したのかもしれなかった。うたた寝から目を覚ました太田総司が、新たなビールのプルトップを引く音が背後で聞こえた。その濡れた音に促されるように上田保春は、やめておけ、やめておけ、と内側から囁きかける理性の声を聞こえないふりで、少年に対して諭すように話しかけ始めた……

生きながら萌えゲーに葬られ(5)

 「鰯の頭も信心からと先ほど言いましたが、物質に物質以上のものを読みとってする人間の没入こそが、神の始まりなのだとぼくは思うのです。そして、鰯の頭よりも人間の姿を模した偶像の方が感情移入しやすいのは自明のことで、偶像が存在すること自体が個人に対する期待値を大幅に下げ、没入力がより低い状態であっても、格段に神にアクセスしやすくなるわけです。かつてならば、神に没入することのできる層は極めて限られていたと言えましょう。それは教育や教養の多寡という意味合いもあるでしょうし、何より木彫りの仏像に込められた芸術性は、堅苦しい言葉がお好みでないのならば、その理解の要求度は、現在よりもはるかにハードルが高い位置にあったでしょうから。かつての神はずっと高邁で、多くの人間にはアクセスされないことをさえ、その意義の一部としていたと考えることができる。偶像崇拝を禁じる宗教も世界にはありますが、容易に神にアクセスしてしまうことを忌避した結果であるとぼくには思えてならない。それは神を容易な没入の対象へ、あるいは消費の対象へと貶めてしまうことを注意深く避けようとする態度なのです。わかりやすくしましょう。ぼくたちが文字を読む場合を考えてみて下さい。どのように文字を読むのか。文字で表現された事象を脳内に映像化することで、ぼくたちは意味の輪郭を把握することが可能となるし、その映像の細部を具体的な形へと近づけてゆく過程でぼくたちは理解を深化できる。つまり、脳内に神を自作することで初めて、人間は世界を理解することが可能になると言えるのです。だとすれば、偶像を脳外に作成することは、脳内への神の降臨を妨げる効果を発揮してしまうことになる。脳外に神を見れば脳内に神を作成せずとも、世界を理解できますから。ぼくたち萌えゲーおたくは神の外部投影を繰り返すあまり、神をいまや手軽な娯楽にまで引きずり下ろし、さらにその神性を劣化させている真っ最中なのではないでしょうか。いま現在、巷間に氾濫する萌えゲーの群れをご覧なさい。あそこに描かれている少女たちに感情移入するのに、もはやいかなる克己も信仰も必要ありません。脳内の神は、萌えゲーの少女たちが実在することにより死んだのです。彼女たちの存在そのものがブラックホールのように、ぼくたちの魂を具象化された神の重力渦へと吸引する。そして神の娯楽性にぼくたちはなお飽きたらず、凄まじい勢いで次々と神を生産しては消費し続けている。一ヶ月に発売される萌えゲーの総量とその登場人物の数を考えたことがありますか。ここ二十一世紀に至り、過去の先人たちが自身の積み重ねの先に予見した科学万能の時代の見かけを裏切るように、我々はそれとは全く逆のオカルティックな大発見、萌えゲーを作り出したことによって神の鉱脈を掘り当ててしまったのです。最近ぼくを脅えさせるのは、世界の神性にあらかじめ総量が定められているのだとしたら、という空恐ろしい想像です。神を湯水の如く消費することで世界そのものの、人間そのものの価値が貶められていっているのではないか。ぼくたちは萌えゲーをプレイすることで人間の意味を深く傷つけ、この世を神のいない荒野へと変化させていっているのではないか。止まぬ戦争、終わらぬ貧困は、ぼくたちの萌えゲー愛好のせいなのではないか――」
 朝の光が照らす廊下を歩きながらもう何度目だろう、上田保春は牛のように少年の言葉を反芻していた。匂い立つ自負と、たがにはまらぬ論理の飛躍、未熟な思いこみすら好ましく思える。自然、頬に笑みが浮かぶのを押さえることができない。昨晩の上田保春は目眩のするような気持ちで、次から次へと延々尽きぬ少年の告白を聞いたのだった。有島浩二と太田総司は、その奔流のような言葉に気づかぬふりで、ゲームやアルコールや、他人の中にあって自身の深淵だけをのぞき込む作業を繰り返していた。彼らの無関心の後ろで上田保春は若い恋人を持った初老の男性のように、少年の話にひたすら耳を傾けた。少年の言葉はひどくよく理解できた。理解しようとする姿勢に構えるまでもなく、まるで自分がそれを話しているかのように受け止めることができたのである。
 知性に優劣は存在しないのだということを、上田保春は実感する。偏差値で切り分けられていたあの学生時代には、思いつきもしなかったことだ。すべての人間の知性は、並列なのである。そして並列であるから、そのどれもが劣っておらず、間違ってもいない。あの少年と自分の知性は、おそらく質において非常に似通っているのだと思う。有島浩二と太田総司でさえ、同じ萌えゲー愛好を業としているのだから、似た部分を持っているには違いない。しかし、少年のようでは到底ありえなかった。社会の構成員の知性を横にすべて並べて、最も色合いの濃くなっている部分が世間と呼ばれるのだろうと上田保春は感じている。そして、人間の知性が階層ではなく並列である以上、どれだけ先鋭化しても難解な用語で彩ってみせても、多数決に勝利できない萌えゲーおたくたちは常に虐げられる側に回り続けるしかない。上田保春はそこまで考えて、萌えゲー肯定の言辞がその裏に抱えてしまっている虚しさへ天啓に近い説明を得た。自分から何かを発信しようと思う人間は、理解されたいという欲求からそれをするのである。理解されたい欲求とは、理解されなかった原体験によって発生するものであり、一般の人々は自ら発信しようなどと思わないのである。理解されたいという初源の欲求を十全に受け止められた健やかな人たちは、不特定多数に向けて継続的に個人の内面を表現しようなどという欲求は、全く持ち合わせていない。だから、インターネット上で萌えゲーを肯定する言辞を多く目にしたからと言って、それが陰気な市民権運動の前向きな成果、多数決での勝利へ向けた大きな前進であるなどとは、ゆめ思わないほうがいい。上田保春の思考はいよいよ演説めいてくる。発信を自制し続ける上田保春にとって、同類の無邪気な放言は許せないのだ。なるほど、ついに尻尾をつかんだと言わんばかりのそのしたり顔は、新聞やテレビという健全な人々のする発信を指さしてのものだったのか。廊下の窓からのぞいた先に見える歩道の鳩に剣呑な視線を向けながら、彼は架空の群衆をじろりと睨みつけてみせる。心の中にしかいない群衆はたちまち縮み上がって、野次を飛ばすのをやめてしまう。君たちは私が自律的と言ったのを聞いていなかったのか。壁が投げかけられたボールをはじき返すのに壁の主体性を論じる馬鹿者はいない。それは疑いようのない自明だからである。それらのメディアは人間社会そのものに依存しているだけであって、自律的な発信の欲求から主体的に成立しているわけではないことを考えてみたまえ。注意深く見ておればあらゆるメディアは、いつだって世界の破滅は今日から一歩先にあり、解決の方法は常に残されているという態度をとっているのがわかるだろう。彼らが、世界はすでにして破滅しているのだと宣言することは、完全にあり得ないと私には確信できる。なぜなら人間社会の存続と自分たちが同義であることを、すべてのメディア、自律的でない発信源たちは無意識のうちに自覚しているからだ。あの戦争を報道する大手紙の、破滅の一歩手前で足踏みをしているような連日の記事――新聞を読むのをやめたのは、その頃だったかもしれない――を見ただろう。状況は明らかに日々悪化していっているのに、現実に真摯であろうという姿勢からではなく、破滅の一歩手前を書いてしまえば自分自身を殺さないために、あとは永遠に足踏みをしているしかないのだ。人間が一人でも生き残っていることが、何万の死体の前で世界の破滅を否定する材料だと言うのなら、そんな認識こそ呪われてあれ。彼は自身の結論に満足したように、廊下でひとり大きくうなずいた。
 発信する必要性を問いかけられてさえ、きょとんとした顔で小首を傾げたり、気味の悪いものを見た表情で歩み去る人々が世界の大多数を占めている事実を萌えゲーおたくはまず認識するべきなのだ。どれだけ声を張り上げたところでその発言は世間から不可視だし、偶然目を留めてもらったところで発信を必要としない人々には理解できないテーマに満ち満ちている。その意味で自分たちが多数決に勝利することは不可能なのだと上田保春は痛感する。萌えゲーおたくとは現代社会において、思想犯のマイルドな別称なのだ。世界のほとんどの場所を支配する発信を必要としない健全な人々は、ただ自信に満ちて行動する。圧倒的な人海戦術、絶望的な波状攻撃によって萌えゲーおたくは疲弊し、圧殺され、散り散りに逃走する背後を撃ち抜かれ、各個撃破されてゆくのだ。ビールを飲みながら出た腹をさすって人気球団の監督の采配をテレビの前で野次ってみせることと、神と偶像と萌えゲーの間にある関連と暗示に洞察を展開することとは、その価値において全く違いがない。上田保春は悲しんだ。いつものような自虐の快楽を得るための自己憐憫ではなく、未だ知性や言葉の有効性に疑いのない、あの少年が持つ痛ましい無垢のために悲しんだのである。
 少年が気づかなければならないのは、我々の心をふるわせる生き方や物語が我々以外の誰をも感動させることはないという事実なのだ。事実は真実の敵である、とドン・キホーテの如く宣言するというのなら、それを延長した究極の先は白昼に下半身を露出して街中を闊歩する道へとつながってしまっていることを自覚するべきであろう。我々はみな、社会の虜囚であるのだから。軽躁的な萌えゲーおたくたちに反論と理論武装を許すほど杜撰で、いつでもあと一歩のところで社会のくびきから彼らを逃れさせてしまう、あの不可解な生理的嫌悪を基調とした論には言及せずに説明しようではないか。上田保春は心の中にいる少年に向かって語りかけ始めた。物語とは、あるいは人生とは、0から始まって1へと向かう力学、エネルギーそのものを指している。たとえ最終的に1へと届くことがかなわなくとも、彼のエネルギーが1を指向したという事実そのものが、人の心をふるわせるのである。より善良な、より崇高な存在でありたいという希求がこの力学の本質的な正体だが、0であることに拘泥する物語であったとしても、それは0であるまま一生を終える大半の人々の関心と、ときに内省を度外視した同情を買うことができるし、0からマイナス1へと転落する物語であっても、その不幸が0から始まるがゆえに、人々に自分がそうであったとしてもおかしくない可能性に思い至らせ、悲しみを誘うことができる。翻って我々はどうか。我々は、マイナス1から人生と物語を開始するのである。萌えゲーおたくとは、マイナス1から0を、マイナス1そのものを、あるいはさらに以下を指向する人々の名前である。我々が決死の取り組みによって0へと身体を引き上げたところで、それは施設で更正を果たした元犯罪者が、「あんなに犯罪性向に満ちあふれていた私が、いまではもう真人間になりました」と隣人に菓子折を手渡しながら告げるのと同じことで、そのわざわざする宣言は偏見を助長し、警戒心をあおる以外の役目を持ちそうにない。犯罪者になぞらえてほしくないと言うのなら二次元性愛を克服し、現実の女性に興奮できるようになったことをわざわざ誰かに告げようと思うだろうか。また、「弱者を罵倒したり、理由なく殴りつけたり、突発性の激情で刺したりすることでしか世界との関係性を維持できない者の悲哀」という設定に君は感動を覚えるのかもしれないが、SF的展開にでも紛らわしてしまわない限り、それは誰もが目を背けたい明確な異常でしかない。マイナス1がマイナス1であることに拘泥したとして、それは犯罪者が更正しない、犯罪をやめそうにないというだけのことだし、マイナス1からそれ以下への転落を考えたとて、「強盗傷害に致死が加わりました」ぐらいのニュアンスでしか響かないだろう。本来、我々とそうでない人々の物語は客観的に等価値のはずなのだ。移動のエネルギーはどちらも1であるのだから。しかし、マイナスの基点を持って生まれてきたこと――それは他者を容認し、社会を形成できぬほど弱いという意味でもある――、そして多数決に勝利できぬことが萌えゲーおたくを永遠に流浪させる。そうだ、少年はその事実を知らなくてはならない。上田保春は宙空をにらみながら笑みを浮かべる。彼を笑ませるのは、あなたが想像するような教育的観点からする少年への優しさや愛情では無くて、ついに存分に蹂躙することのできる相手を見つけたという小昏い感情である。また男子間肛門性愛に執着を感じるあなたの深読みを裏切って真に申し訳ないが、それは肉体的な接触においてではなかった。知性は互いに近い位置に無い場合、認識を噛みあわせることが難しい。それはまるで違う次元にいる人間同士のように触れあうことが適わず、どれだけ言葉を尽くそうとも、逆に言葉を尽くせば尽くすほど、相互理解から遠ざかるのであった。上田保春と本当の意味で言葉を交えることのできた相手は彼の三十数年の人生を遡って思い起こしても、片手で充分に足りてしまう。言葉を増やせば増やすほど、相手が離れてゆくことを上田保春は知っている。いま彼の中にあるのは二つに欠けた片割れを見つけたという喜びと、四つ相撲に組んだ相手を完膚無きまでに蹂躙できる力を自分が持っていることへの痛いほどの自覚であり、先ほどの笑みはそれゆえであった。少年をずたずたに論破してその心を屈服で満たす妄想に、上田保春はほとんど快感すら覚えた。まだいまならば少年を圧倒的にうち負かすことができる。いつか少年は上田保春がうち負かせないほど巨大に成長するだろう。それは疑いがない。しかし、完全に手に負えなくなるその寸前に、少年を歯牙に捕らえることを彼は夢想する。それはきっと、えもいわれぬ素晴らしい充足感に違いない。そら、抵抗するのを止めてしまえ。君を甘噛みしているこの犬歯の鋭さを、顎の筋肉の強靱さを直視するんだ。さあ、反論するのを止めてしまえ。言葉は常に多数決で決定すると教えたばかりじゃないか。言葉そのものが正しかったり、間違っていたりすることはないということを認めてしまえ。そうすれば、枝葉にあえてこだわった自己擁護の裏返しの反論もついには萎えはてるはずだ。さあ、さっさと白旗をあげて、腹を見せて私に全面降伏するんだ……
 視線を感じて顔を上げると、向かいから歩いてきた経理課の田尻仁美が微笑を浮かべて会釈をするところだった。少年を痛めつけることに夢中だった上田保春は、ほとんどうろたえるような心持ちになって、慌ててそれに会釈を返す。イニシアチブを握り続けることで萌えゲーおたく同定を避け続ける上田保春にとって、ほとんど失態と呼べるできごとであった。もしやいまの瞬間、萌えゲーおたく特有の何かを外部に向けて発散していたのではないか。田尻仁美の微笑の理由は、そこにあるのではないか。彼はほとんど恐慌に陥りそうになる。ご覧になってきた通り、上田保春には一種の夢想癖と演説癖があったが、一般社会の中でそうした妄想に浸りきってしまうほど危険なことはない。萌えゲーおたくの自然体は、普通の人々にとっては不自然の極みである。人間の形を保ち続ける意志を放棄すれば、萌えゲーおたくはたちまち忌むべき肉塊へと堕してしまうのだから。自身の油断に舌打ちをしながら、課のデスクへと向かう。思えば田尻仁美とのできごとは、何かを暗示していたのかもしれない。科学的には迷信のように響いたとして、意味づけで現実を補強し、時に悪意も補強する上田保春にとって、その二つは何か非常に強い関連を持っているように感じられたのだ。はじめデスクの上にそれを見たとき、彼にはそれが何なのかはっきりと認識できなかった。なぜなら、職場とそれが同時に発生する瞬間は、これまでのサラリーマン生活の中で一度も無かったからである。絶望とは一瞬に心を黒く塗りつぶしてしまう性質のものではない。肌の冷たさに気づき、頬を張り、身体をゆさぶって、胸元に耳を当て――そうやって高まってゆくがゆえに、絶望は真に人間の魂にとって致命的になり得るのだ。
 そこにいたのは、萌えゲーの少女だった。全く無縁な場所で突如恍惚の表情以外を知らない萌えゲーの少女を見るときの衝撃は、実際に体験したものでなくてはなかなか理解しにくいだろう。自分の趣味に合致する定期刊行誌を書店で見つけない方がよほど困難な、すべてのニッチという名前の隙間は埋め尽くされたように思われる昨今、やはり萌えゲーを購入する特殊成人層に対する専門誌というものは存在するのだが、上田保春のデスクの上に鎮座していたのはまさにその雑誌だった。購入するゲームを検討するための単なる情報誌だろうと、萌えゲーおたくでない向きは推測するのかもしれないが、ノンノン、そんな生まれたての子鹿のような愛らしさどころでは済まないのである。萌えゲーおたくたちは掲載された新作ゲームの画像を見ながらことさら気むずかしい表情でためすがめすページを繰って、自慰にふけるのである。自慰行為によってどれだけの快楽をそれぞれの新作ゲームが約束してくれるのかを吟味して、そうして購入の是非を亀頭に問うのである。商業を目的に立つ女性へ「まず試させて下さい。支払いの是非はその後で私が判断します」と笑顔で持ちかけるような異常の倫理無視、破格の厚顔無恥が、萌えゲーおたくを一般の人々からますます遠い存在にしていると断言することに、もはやあなたは何の躊躇も感じないはずだ。快楽の絶頂間際にしか見られないような理性を手放す寸前の表情でこちらを見つめてくる少女の非現実さに、上田保春は目眩を通り越してほとんど卒倒しそうになる。最もありうべからざるものが、最もありうべからざる場所に存在しているのだ。萌えゲーを愛好しない向きにもわかりやすく例えるなら、職場や学校の机の上に山盛りの大便が盛られているようなものである。大便よりもはるかに通常ではないという点において、萌えゲーの少女はさらに危険だった。誰もが大便を排泄するが、誰もが萌えゲーを愛好するわけではないからである。不幸中の幸いと言うべきか、上田保春は始業時間よりもだいぶ余裕をもって出勤するたちだったので、未だ周囲に人影は薄かった。すでに誰かが見てしまっている可能性もあったが、いまは眼前にあるこの危険物をどのように穏便に処理するかを考えねばならない。選択肢はいくつかある。一つ、萌えゲーを全く知らないふりをして「あれえ、なんだこれは」などと素頓狂な大声をあげてみせ、周囲にこの雑誌と自分の無関係さを強調する。ぶっちゃけありえない。まず何よりもこのひどい動悸の下で、自然な演技が可能だとは思えない。失敗の許されないミッションに、一か八かの賭を選択することは避けるべきだろう。二つ、雑誌に書類を重ねて自然な動作で鞄にしまい込む。GAME OVER。この場をしのぐには、最もリスクの少なそうな選択肢に見えるが、騙されてはいけない。その雑誌が入った鞄を一日中持ち歩かなければならないのだぞ。ついうっかり営業先で書類と共にテーブルの上へ並べたりしてごらんなさい。君の社会生命は完膚無きまでに、不可逆に抹殺されるだろう。これが自分を陥れようとする誰かの策略だったとしたならば、その誰かはただ鞄の中にある雑誌を何気ない素振りで指摘するだけでよい。爆薬入りの錠剤を呑み込むのと同義だ。しかも、起爆リモコンは相手の手の内にある。三つ、共用のごみ箱へ放り込む。それだ! 少女を身辺から遠ざけてしまえば、すこぶるよろしい。見れば委託の清掃会社従業員が順にごみ箱の中身をさらっているところである。上田保春はひどい動悸の中、常とは意味の違う生唾を飲んで雑誌を取り上げると、コールタールの海を泳ぐような抵抗感で空気中を進み、ついにそれをごみ箱へと落とし込むことに成功した。すさまじい疲労から虚脱状態で背もたれに身を預けると、頭に浮かぶのはいったい誰が自分を陥れようとしてこんな罠をしかけたのかという疑問だった。罠とは限るまい。知っているのだというサインを示したかっただけかもしれないではないか。いや、そんな生やさしいものではない。友好の印でないことだけは断言できる。こっそり肩を叩いて囁くのではなく、こんな致命傷になりかねないような手段を取る相手だ、断言できるに決まっている。これは間違いなく悪意である。しかしいったい誰が、何のために。

生きながら萌えゲーに葬られ(6)

 主体的に世間と関わることによって世間を遠ざけてきた上田保春の苦闘の日々で、防戦に回ってしまうことは起こってはならないはずだった。なぜなら、上田保春の持つ弱点は北欧神話の竜の逆鱗のように、知られてしまうことが即座に死につながるような、文字通り致命的な種類のものだったからだ。上田保春は思いだしている。二次元のキャラクターを愛好することが個性になり得ると心の深いところで全く疑っていなかった、あの時代のことを。あの頃の上田保春の世界は、遊園地の幽霊屋敷に鳴り響くような不安な音階に包まれていた。何によってかはわからない、個人の内面がどんな種類のものであれ犯罪につながらない限り、周囲を取り巻く世界に優先すると信じこまされていた。自分が正常な、あるいは清浄な多数派に属していることを無邪気に疑わなかった。だからこそ不安だったのだと、いまならばわかる。一会社人に成長した彼が抱き続けてきたのは諦観であって、あのような不安ではなかった。しかし、また上田保春の現実をあの不安が取り巻こうとしている。その実感は敵地深く侵入を果たした丸腰のスパイと同じであり、いつ誰が突然に、例えば企画会議の席などで質問の挙手に指名した際に「こいつだ! こいつは俺たちの側の人間じゃない!」と叫ぶのではないかという不安、正体を見破られる恐怖に身を縮めていた。
 廊下の向こうから歩いてくる同僚が浮かべる表情にいつもとは違う何かを読みとったような気がする。その背中が曲がり角の先へ消えていくのを見送った後、上田保春は壁に身体をもたせかけて緊張に高鳴る胸を押さえた。その油断を見透かしたかのように、アニメ系の最新着メロを逐一ダウンロードしているにも関わらず公の場所ではそれを鳴らす機会を持たない上田保春の携帯電話が、胸騒ぎを物理的に表現するが如く彼の胸元をバイブ機能により振動させた。背広の胸ポケットから心臓がハート型に飛び出す幻視に頭を振って、携帯電話を開く。待ち受け画面には柴犬の顔を正面から接写したものが貼り付けられている。実弟の飼っている犬を撮影したものだ。待ち受け画面には心の深い部分にある執着が反映されてしまうというのが、上田保春の持論である。萌えゲー以外の趣味を持たず、自らの趣味を表明することを忌避する彼の待ち受け画面に、柴犬の顔面のアップほど適切なものはあるまい。油断したそぶりで柴犬の顔を眺めている様を女子社員の数名に目撃されれば、それで当面の偽装工作は完成である。あとは同じ犬を違う角度から撮影した写真を何週間かおきに更新し続ければよい。趣味や執着を表明するということは、個人の無防備な部分、弱い部分を相手に委ねるということで、それは形を変えた他者への信頼の一形態である。表明できない種類のものであるからといって、わざとそれを回避したり触れない態度を続けることは、かえってそこにある何かの実在を証明する不自然な空白を作り出すことになってしまう。上田保春はそれをこそ恐れた。一般人の疑惑にダミーを抱かせておく必要があるのだ。それにしても――上田保春は思う。こちらからの一方的な投影を許すものしか愛好できないという意味で、毛の生えた哺乳類を愛好する人々は、萌えゲーおたくとその本質において何ら異なるところが無いように見える。「犬や猫の言うことがわかる」と声高に宣言するときの、上田保春を同族と見間違えた相手が浮かべるわずかに常軌を逸脱した表情は、萌えゲーの少女のことを話すおたく仲間とまるで双生児のように似通った雰囲気を醸成している。自己愛の鏡像への、それと気づかぬままの言及という意味で、彼らは否応無く似てしまうのだろうと推測する。その無意識の類似からも、柴犬を愛好する自分を演出するのは他の、例えばキャンプとか草野球とかを愛好する自分を演出するよりは上田保春にとってはるかに容易なのである。本来の自分に近い形で萌えゲーおたくを隠蔽することができるのだ。これ以上の選択肢が他にあるだろうか。
 上田保春は受信したメールの差出人を確認するが、記憶を検索しても画面に表示されている名前に思い当たるものが無かった。親指でメールを開封すると「先日お会いした中学生です。覚えてらっしゃいますか」と書いてある。「至急・緊急に」上田保春に会いたい旨を、年上の者に対して書き慣れぬ敬語で記述していた。果たしてあの夜の自分は少年にアドレスを教えただろうか。これは有島浩二の仕業に相違あるまい。全く聞いていないふりでその実、上田保春と少年とのやりとりに興味をそそられたのに違いあるまい。もっとも、一瞬たりとも有島浩二がゲーム画面から視線を外すことは無かったのだが! これは彼の仕掛けた罠だろうか。有島浩二の考えることは正直言ってよくわからない。突発的なエキセントリックさでふるまうことを、他人の個性との差異を強調する意味の「キャラ立ち」と表現してはばからない感性の持ち主である彼のことだから、可能性は充分にあると言えた。だが同時に、メールでの少年の様子には作りごとではない切迫感が感じられたことも確かだった。上田保春はしばらく逡巡した後、日時と場所を指定した短いメールを返信した。携帯電話をしまういとまもあらばこそ、彼の内面に起こった惑乱を具現化したようなバイブレーションと共に、「了解しました」とのメールが入った。上田保春は、社外の知人からのメールをメモリーに残さない。中学生とは言え、少年は萌えゲーおたくの立派な予備軍である。思えば電子機器が生んだ最大の功罪は、日常には頻繁なほんの気の迷いや判断の誤りを永続する形としてこの世に顕在化させてしまうことではないか。一般人が自然に行う日常の選択を膨大な脳内シミュレーションから不自然に選択する彼にとって、思考の経路が形に残ってしまうことは自分の異常の痕跡を残してしまうことと同義であり、極力避けたい事態であった。上田保春は少年からのメールを念入りに消去した。
 待ち合わせには、太田総司のマンションから最寄りの駅にある喫茶店を指定した。会社の同僚に目撃される心配が薄いということもあったが、何より少年と自分が共通で知っている場所はここしかなかった。まず少年の側の希望を聞いてもよかったのだが、相手の方がよく知っているテリトリーに引きずり込まれることをこそ、上田保春は恐れた。それは長年の隠れ萌えゲーおたく生活で染みついてしまった、悲しい習性のようなものかも知れなかった。その意味では自宅に呼び出すという選択肢も考えられたのだが、自室に未成年を連れ込む姿を隣人に目撃されたりすることは、この社会状況の中、あってはならなかった。約束時間の三十分前に到着したのだが、少年はすでに店内に到着しており、窓際で外を眺めていた。窓越しに上田保春の姿を確認すると少年はぱっと顔を輝かせ、思わず気後れを感じるほど邪気の無い様子で大きく手を振ってみせた。店員は二人の関係をいぶかんでいるだろうなと思いながらコーヒーを注文すると、彼は差し向かいに腰を下ろす。少年はほとんど顔を赤らめながら、急に呼びつけた非礼を許して欲しいと年上への慣れぬ口調でたどたどしく言葉をついだ。店員どうしがカウンターの向こう側でこちらを見ながら、ひそひそと言葉を交わしているのを上田保春は視界の端に見たように思った。その視線が彼の萌えゲー愛好を見破ったゆえではなく、三十がらみの会社員と制服姿の少年との関係に注がれていることは重々承知だったが、それでもやはり他人の関心が特別なものとなって注がれているのを感じるのはあまり愉快な体験ではなかった。上田保春の人生の中で、他人が彼の中に見出す特別さというのはほぼ例外なくおたく的性向であり、それが好ましい反応に転じたことは一度だって無かった。他人が自分へ向ける関心とは他人が自分を迫害・糾弾する可能性と同義であり、その関連づけの馬鹿馬鹿しさは客観的に理解されていながらも、木の股を見て嘔吐できる現代人の自我、愉快ではない気持ちが沸き上がってきてしまうのはどうにもしようがなかった。他人から関心を持たれないためには、無気力や怠惰や意気消沈では全く不充分であった。積極的に他人の理解へコミットしようとする態度こそが、上田保春の望む無関心を作り出してくれるのである。事実、長い迫害の歴史の中で彼は自分の真情というよりはむしろ、場にふさわしい役割を感知し演じることに長じるようになってきていた。上田保春は軽く目を閉じると、外界からの干渉すべてを内面より閉め出すほんの一瞬の空白の後、教師か保護観察員のように振る舞うことを決める。そうすると、気が楽になった。「それで、君、悩みというのは何なんだい」と背広の上着をやや乱暴に脱ぎながら水を向ける。少年は上田保春の精神に発生した陰鬱な化学反応に気がついた様子もない。何の疑いも含まぬ真摯な瞳を彼へ向けて、言った。
 「実はついさっき、自殺志願者を募集するサイトの掲示板に書き込んできたんです。今週末に決行するグループに割り振られました。もう死ぬんだ、楽になれるんだって思う嬉しさの反面、誰にも、親にさえぼくの本当の姿を知られないまま逝くんだと考えたら、もう孤独に叫びだしたいような気持ちになって……そうしたら、頭に浮かんだのが上田さんでした」
 少年はこみ上げる感情に頬を紅潮させ、潤んだ瞳に燃えるような色を浮かべてこちらを見た。しまった、と上田保春は舌打ちする。どうやら罠に追い込まれて、ハメられてしまったらしい。そもそも、突然にメールを送りつけてくる段階でこの可能性に気がつくべきだったのだ。社内での萌え少女からこちらというもの、ずいぶんと判断の平衡を失っていたものだと、ここに至って彼はようやく気づいた。表情には出さないまま、引き出されてしまった以上は何らかの形でこの場を収束するしかあるまいと、自身の失態に罵倒したいような心持ちで考える。しかし、それにしても奇妙なことだ。萌えゲーを愛好する少年が集団自殺の掲示板に書き込みをするというのは、どこか非常にアンバランスなできごとに思えた。萌えゲーおたくとは、究極的に個別化されている存在である。眼鏡に性的興奮を感じるか、靴下に性的興奮を感じるか、妹に性的興奮を感じるか、神職に性的興奮を感じるか、萌えなどという愛らしい表現で控えめそうに希釈されて発信されるが、その正体はぎらぎらと熱された性への欲望でできている。それぞれの分類の内側は、数百、数千、数万にわたるグラデーションで階層化されており、その傾向を持たない者には精神病棟のうめき声、本当に何を言っているのかわからないことを承知で記述するが、例えば「眼鏡と妹」のように、別の分類との組み合わせも欲望の対象になるのだ。数学的素養の無い上田保春でさえ、その種類の膨大さを考えただけで、目眩に近いものを感じざるを得ない。萌えゲーおたくとは一人として同じ性癖を持つことは許されない、忌避すべき劣情のオンリーワンなのである。もはや人間という括りでの共感や同情という言葉も虚しく響く。そんな題目が通用するのなら、そもそも萌えゲーおたくは社会に受け入れられているはずである。糖蜜でできた萌えゲーという名の海へと水没し、溺死するまで甘い海水を肺腑の深く、底の底まで吸い込んで満たすことが出来ればどんなにいいかと上田保春は思う。上田保春がかつて愛好したアニメ作品のように、肺腑を満たす糖蜜が自分を窒息させるのではなく新たな現実との媒介として、この萎えた心と身体に活力をそそぎ込んでくれればいいと切望する――彼の生きる力を萎えさせる、世間に充満したあの清浄な空気のようでは無く。だが、甘い海水が肺腑の最後の一部を満たすその直前に上田保春は糖蜜の海より急浮上し、全身を波打たせると待ち焦がれていたはずのその幸福を渇いた現実の砂浜にすべて吐き出してしまうのだ。自律的な嘔吐に精通した拒食症の女性のように、上田保春は何度も何度もその幸福の嘔吐を繰り返してきた。なぜ自分がそうするのか、全く解説がつかないでいる。けれどそこに深い意味づけや、哲学的なメッセージを求めることだけは避けなければならぬと上田保春は自戒の意味で考える。この嘔吐は全くの個人的なできごとであり、人類の歴史の連なりから教訓を得ることも与えることもない、自分自身だけが苦しむことのできるパーソナルな携帯性の地獄なのだ。
 萌えゲーおたく同士が好意を抱きあうことなどあり得ない。正常の側から見れば彼らは人生の最初期に歪みを与えられてしまった者たちの総称であり、その歪みは成長すればするほど大きく目立つようになってゆく。上田保春は正直なところ、この少年に好意を寄せている。その言動はまるで過去の自分を見るようであり、少年を救済することで過去の自分をもまた救済できるのではないかというファンタジーを抱いているせいでもある。しかし、いま好意を持っているからといって、萌えゲーおたくである少年が成長するにつれ、その歪みを鼻持ちならないほど大きくさせてゆく過程で、最初に好意を抱いてしまったからこそ深く憎悪するようになってしまうことが無いとは言い切れないではないか。いま少年に自殺を思いとどまらせたとて、後になって引き留めなければよかったと思うことは必ずあるに違いない。萌えゲーおたくとは個性を究極へ押し進めた結果、理解と共感のメーターを振り切ってしまった個体群をひとまとめにして分類するために与えられた、カテゴリエラーを表す名称であり、価値を与えられないという観点から見ればどの個体も同じ様な存在であり、ひとからげに殺されて誰も悲しまない何かである。
 沈黙が降りている。少年は何らかの回答を求めているのに違いなかった。上田保春はどう声をかけるべきか、顎をさすって考える。おそらく少年が取り巻かれていると感じている、こちらからの入力を許さぬ世間とは最大公約数的な場であり、個人がそこへ齟齬を生じるのは何もその個人が特別な繊細さや感受性や才能を持っているからではなくて、ほとんど理の当然、誰もが避けられない必然なのだと言える。しかしいま周囲を見回したとき、その個人的齟齬に焦点を当てた虚構のなんと多く氾濫していることであるか。個人内にある社会集団への当たり前の齟齬なり違和感なりを、恋愛やファンタジーや探偵やSFや伝奇や宗教や、そういった名付けでコーティングして、本来は至極ありふれたものたちに丹念に意味づけをし、本来全く中立的であるはずの情報に、ほとんど重厚な芸術的陰影を与えてしまうのである。もちろん内なる齟齬を否定せよと言っているのではない。内なる齟齬を否定してはいけない。それは同一性・同質性への再帰だけを目的にした平板さと、排除の理論に終始する人生を生みだしてしまうだろう。しかし内なる齟齬を肯定することもまた、周到に避けなければならないのである。齟齬に焦点を当て、それを特別にしようとするならば、究極の押し詰まった延長線上には、現実には虚構の内包するような飛躍による解決法が用意されていない以上、自分が死ぬか他人を殺すか、その二つの袋小路にしか道はつづいていない。世界と内面との葛藤に苦しむ男が実は人類を滅ぼす力をその精神薄弱の世迷い言とともに兼ね備えていたり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は数名のイケメン天使たちに囲まれる神の子の転生だったり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は誰からも愛される容姿をしているのだが自身の魅力に気づいていないだけだったり、最後の例えが最も端的に上田保春が言おうとしていることを表しているように思うが、現代的な虚構の大半は被愛妄想と関係妄想を初期動機としてできあがっているという意味から、ジャンル名はすべてハーレクインロマンスとするべきである。それらの物語がいかに人間のバランスを喪失させ、植え付けられた世界認識の歪みがそれらの物語を摂取する者を現実における真の破滅へと導いてゆくかを、誰かが声に出して言わなければならないはずなのだ。しかし人間を人間と証明をする物語を物語るための外的な状況は存在せず、少なくともこの国の内側には存在せず、それゆえ誰もが通常に抱える齟齬や違和感へと物語の題材は自然逢着をし、現在のような荒廃を回避することは不謹慎を承知で言うならば、我々全員を残らず巻き込む巨大な災厄や不幸という新たな状況を迎える以外には、もはや不可能なのではないか。少年が自殺を求めるのも才能や運命というすり替えで、齟齬の特別さを刷り込まれてしまったせいなのかもしれなかった。世界との齟齬程度の凡庸さしか我々を物語へと駆り立てるものがないとは、なんという惨めな醜悪さであることか!
 上田保春の思考はまとまりを見せようとせず、それゆえ少年に何を回答すべきか見つけだすことができず、「萌えゲーおたくはすでに死んでいるのだから、二度死ぬ必要はない」と言った。最後まで面倒を見るつもりの無い以上、少年を自分へ執着させ続けておくことはあまりに無責任であろう。意味の無い発言で失望させることで少年の関心を切り離す算段だったが、この年代の若者にとっては現実に有効であるよりも、抽象度が高ければ高いほど多く重要度を含有してしまうことを、三十も半ばにさしかかろうという上田保春はすっかり忘れてしまっていた。少年は彼の言葉を聞くと、小声でそれを何度か繰り返し、少女のように長い睫毛を伏せると臍を噛んで少し黙った。少年は自分を実際に救済してくれる言葉の中身を求めていたわけではなかった。少年は他ならぬ上田保春が自分に語りかけるという、その事実のみを欲していたのである。やがて顔を上げ、さらに潤んだ瞳と紅潮した頬で見つめ返し、「上田さんがそうおっしゃるなら、今週の集まりには参加しないことにします」と誇らしげに宣言した。上田保春は少年の目を見て、当初の計画が意図とは逆の効果を生みだしてしまったことを痛感し、気持ちが沈んでゆくのを押さえることができなかった。半ば投げやりに考える。だいたい自殺などというものは、黙って一人でやればいいのだ。自殺したところで、自傷したところで、拒食したところで、引きこもったところで、それらはすべて世界の否定、自己の消滅、真の意味での死の様相を客観的に受け入れたがゆえの行動とは遠く、なるほど愛情への渇望からやってくるあなたの哀しみには覚えがあるので理解しよう、それらはすべて誰かとの関係性を求めるための逆接に過ぎないのである。死ぬ人間は黙って死ぬ。もし自分が自殺するのだとしたら――上田保春は夢想する。笑顔で世間とうまくやってみせ、完全に世界と和解した人のようにふるまい、仲間たちと馬鹿騒ぎをし、酔っておどけてみせ、卑猥な冗談に笑い声をあげ、最高に愉快なひとときを過ごし、「また明日」と陽気に別れた後、突然死んでみせるだろう。誰かに同情されたり、理解されたりなどということを想像するだけでぞっとする。理解されたいだけのことに、齟齬や死を用いる人々の群れ。虚構の提供する軽繰と、人生の持つ平板な抑揚との差に苦しみ、現実にハーレクインを求めている。ただのハーレクインを高尚な何かに転化できると思っている。上田保春は、日本橋と秋葉原を爆破したあの吊り広告の犯人のことを唐突に思い出していた。この瞬間に意識の表層へと浮上してくるとは、きっとどこか心の深い部分でひっかかりを覚えていたのに違いない。きっとその人物ならば、自分のこんな気持ちを的確に代弁し得るのではないか。家に帰ったら、あの事件について詳しく調べてみよう――その思いが関係性を希求する人々の感情と全く同じ場所から発していることに、上田保春は気づいていない。
 「本当に、いつかこの孤独と疎外感が消えてなくなる日が来るんでしょうか。ぼくは、一人で死んでゆくのが怖いんです。集団自殺なんて馬鹿なことをと思われたかも知れませんが、共感はうわべだけだっていいんです、ぼくはぼくの側でいっしょに同じ死を死んでくれる人を切実に求めていたんだと思います。自分に正直であればあるほど、友人たちはぼくの元を離れていきます。この世には、誰もぼくを本当の意味で理解できる人間はいないような気がする。この前、ある言語の最後の話し手を取材したドキュメンタリーをテレビで見ました。同胞たちは全員殺されるか死ぬかしてしまっていて、彼の話す言葉を理解できる人はこの世に誰もいないんです。彼は少しなら英語を話すこともできるんですが、それが本当に自分を表現するとは決して考えていないでしょう。彼の内面を表現するのは彼の民族の言葉以外には存在せず、その言葉を理解できる人はもう彼だけしかいない。夜になると、彼の家から歌声が聞こえてくるんです。でも、その歌は彼の民族の言葉で歌われていて、誰も何を歌っているのか知ることができない。テレビから流れるその歌声を聞いていると、全く内容はわからないのにぼくは涙が出た。彼の抱えている孤独は、ぼくの抱えている孤独と同じだと思ったから」
 少年の言葉は、徐々に嗚咽へと変わっていった。なぜこの少年の言葉は無意識の柔らかい部分をひっかくように響くのだろう。感情移入しないように椅子の背もたれに身を預け、上田保春は防衛を露わに腕組みをした。しかし、それも虚しいことを彼自身が知っている。新聞の悩み相談にあるような、典型的な十代半ばの青臭い悩みに何を心動かされることがあるのかとお思いのことかもしれない。繰り返すが、ここで間違えてはいけないのは、上田保春と少年は萌えゲーおたくだということである。これはやがて社会に生産性を加えるための、居場所を約束された若者の持つ予定調和への躊躇ではなく、社会に危機を与える種類の個性を萌えゲーによって押さえ込んだ、誰も彼に居場所を約束できない若者の悲鳴なのだ。上田保春にはそのことがよくわかっていた。そして、少年の言及した最後の話し手が歌う民族の歌の哀切な調子は、すべての知性が底流として共有する人間において他者へと届き得るが、萌えゲーおたくたちの言語はすべて人間への逆接、あるいはときに侮辱においてできあがっているので、少年の投影は実のところ的はずれで、彼の孤独が癒されることがこの先決してないことも上田保春は知っている。少年の感じている孤独は、萌えゲーおたくが自らを受け入れるために経過しなければならない、人間を捨てるステップの第一段階に過ぎないのだ。しかし、レジで聞き耳を立てているのだろう店員たちにはそうは聞こえなかったはずだ。上田保春は店員たちとの間にある長大な距離に、やるせなさを感じた。それは自分の有り様を憐れんだためというよりは、目の前に座る欠けた片割れに対する悲しみを感じたゆえだった。少年はもはや滂沱と流れる涙をぬぐおうとも隠そうともせずに顔を上げたまま小さくしゃくりあげながら、正面から上田保春を見つめている。目の前に泣き濡れる少年を見て、自分の防衛が溶かされ、伝播した嗚咽の痛みが喉に溜まってゆくのを感じた。しかし、少年といっしょに泣いてやることはできなかった。なぜなら、上田保春と少年はそれぞれ別の世代の萌えゲーに葬られてしまっているのだから。世間から十把一絡げに扱われるおたくたちの実体は相互に厳しく断絶し、絶望的に孤絶化している。上田保春は無理やり嗚咽を呑み込んで腕組みを解くと、少年の肩に優しく手を置いてやりたい衝動を押し殺して、教師が生徒を諭すように高圧的に、同情的には響かないよう慎重に意識して言った。
 「泣くんじゃない。泣いたって、しょうがない。君はまず私の世代がどう死ぬのかを見極めるんだ。私の世代は嗜好によって切り分けられる最初の世代だ。文字通り自らの嗜好と心中するしか方法が無いんだ。私の世代から先は、きっとそれぞれが個別の死を死ぬことになる。しかも人類の巨大な連続の中から、誕生日のケーキのように切り分けられて、誰にもその悲しみを理解されない、全く個別の悼まれない死を死ぬしかない。受け入れよう。その覚悟の確認をするために、私たちはいま生きている」
 もちろん、こんなことを言うべきではなかった。それは上田保春が抱えている実感と、限りなく近い位置にある言葉だったから。太田総司にも有島浩二にも言ったことのないその真情を開帳したことは、ほとんど魂の告白であるとさえ言えた。彼は場の雰囲気に呑まれてしまった自身の失態に呆れ返りながらも、どこかで安堵を感じた。それがどんなに虚しい願いに過ぎなくとも、上田保春はずっと、萌えゲーおたくであることからの救いを求めていたのだろう。少年をその救いであると考えるほどには単純でもセンチでも無かったが、彼の心の深い部分にあるその希求が、過去のうつし身のようなこの少年を死から一時的に救いあげたことに安堵を感じさせているのは間違いなかった。上田保春は内面の葛藤を悟れないよう努めてぶっきらぼうに「もう行かねば」と告げる。少年は制服の袖で涙をぬぐうと、決然と立ち上がった。上田保春が二人の支払いを済ませ、店を出る。肩を並べて切符を買い、無言で改札をくぐると、お互いが別のホームへと降りてゆくことがわかった。「また、会えますか」と少年。「会うようになっていれば、会うだろう」と上田保春。はぐらかすため、あるいは判断を保留するためのその発言は、しかし新たな感銘を与えてしまったようだった。少年は熱烈に上田保春の右手を両手で包み込むと、「必ず」と言って、ホームへと降りていった。少年は乗り込んだ電車の窓越しに最後まで手を振っていた。少年を乗せた列車が向かいのホームを離れると、上田保春は孤独を感じた。萌えゲーがありさえすれば、孤独などは何の意味も持たないはずだったのに。上田保春は少年が彼の中にある人間なるもの――あるいはその真似事をゆさぶって、はるか昔に苦しんだ苦しみを再び呼び覚ましたことに、恨みに近い気持ちを禁じ得なかった。しかしその負の感情すらも、上田保春の中に生まれた新しい希望を拭い去ってしまうのに充分ではなかった。人目のある中なので実際にそうしたわけではなかったが、上田保春の内面の盛り上がりは、望みさえすれば即座に涙を流すことができるほど昂まっていたのだった。彼は自分がナルシシスティックな高揚感に酔うにまかせた。そしてこんなふうにさえ考えた。私は次の世代に責任をとる最初の萌えゲーおたくになりたい。思えば高い代償であるが、おたく以外の人間による不断なるおたくの収奪を根絶したいと願う純粋な熱情によって、それは実現可能となるはずだ。上田保春の昂揚はほとんど革命家のそれに近かった。しかし、抽象かつ巨大なものが語られるときには注意が必要である。その語り手は自信が無いか、責任を放棄しているか、現実感を失っているか、いずれかの状態にいるからだ。そんなものに身をまかせているのは、泥船に乗るよりも足場がない。上田保春の足下にひらいていたのは、まさにその陥穽だった。だが、幸いにもと言うべきか不幸にもと言うべきか、彼の昂揚は長く続かなかった。
 その晩、母から電話がかかってきたからである。

生きながら萌えゲーに葬られ(7)

 「哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない。そのことが、彼を哲学者たらしめるのである」
 萌えゲーおたくについて考えるとき、上田保春の中に惹起するのは、もう遠い昔にどこで読んだのかも忘れてしまった、その一節だった。哲学者を萌えゲーおたくへ置換せよ。萌えゲーおたくとはこの文脈の意味する哲学者であり、誤解を廃するよう付け加えるのならば萌えゲーおたくとは思索をしない哲学者のことである。自分自身のことを振り返るとき、上田保春は家族という最小の観念共同体においてさえ、自分が異邦人であったことを思い出す。思えば三十数年にわたる上田保春のダンテ的おたく遍歴において、両親のことへ自然に言及できるおたくに出会ったことは一度だってない。おたくにとって両親とは文字通り、語義通りの鬼門である。手にした受話器の底で、遠慮がちに上田保春の近況を尋ねる母親の声が響いている。母親と会話をするとき、上田保春はいつもするようには自分の求められた役割を選択することが出来なくなってしまい、つまり母親が自分に求めている役割とは「いまの自分であってはならぬ」という目眩さえ伴う哲学的命題であり、そうして上田保春は思索できない哲学者だったので、ただの空っぽな魂の容器として吃音にくぐもった声でぼそぼそと、申し訳に応答するしかなくなってしまう。そのときの自己嫌悪といたたまれなさの大きさは、受話器を握る手の反対に苦しまずに生命活動を停止できる錠剤を手渡されたとしたら、その感情から一時的に逃れることを求めるためだけに、その永遠の死を迷わず嚥下するだろうほどである。――申し訳ない。三十路も半ばを過ぎようとしている独り身の息子へ母親が持ちかける話題として恋人とか結婚とか、萌えゲーおたくである上田保春には内面に構築した疑似的な世間知から推察するしか方法が無いのだが、もしかすると見合いなどが一般的には高い確率で出現するのかもしれなかった。しかし上田保春にはその種の話題を母から持ちかけられたという記憶が、完全に無かった。よもや、まだ間に合うと思っているのではあるまい。その推測は萌えゲーおたくである上田保春にとってあまりにも希望を含みすぎており、微温的にすぎた。息子の性的嗜好の露骨な顕現に至る過程と以後の変遷を余すところなく知る母親であるから、自分の息子が捧げてしまっている得体の知れぬ何かへの遠慮からか、世間知において我が子を鑑定しての絶望に近いあきらめからか、もしかすると――この想像が一番上田保春を苦しめる――愛情と優しさから、それらを口にできないのではないか。――申し訳ない。母親との会話でいつも感じるのは、「隣の部屋に血塗れの死体が転がっているのを知りながら、ティーポットへ付着した赤い染みに言及できないまま、紅茶ごしに談笑する男女」の醸成するだろう雰囲気である。誰もが知っているが、誰かが口に出すとすべてはそこで終わり、という状況がこの世に決して少なくないことを彼は知っている。太田総司の巨体が脳裏をよぎった。だからこそ、上田保春は母親の真意に対する想像を、人間存在を極小化するあの宇宙的恐怖から、直接に確かめたことはない。
 上田保春が学生時代に愛好したある作家の小説に、「もし全世界が云われてしまえば、全世界が救われて、終わってしまうわけです」という台詞があった。萌えゲーおたくにとっての両親とは、きっとそういう存在なのだ。自分がこのようにある理由を、存在の秘話を、神話的でも哲学的でもなく、その後の人生の存続を難しくさせるほど完全な整数として割り切ってしまうのだ。ただ両親に言及しさえすれば、小難しい理論や引用をひきならべるまでもなく、すべては平穏かつ平板な日常の用語でいたって容易に、余すところ無く言語化できてしまうのだという事実。その事実を再確認するたび、上田保春を取り巻くすべてへの実感は温度を無くし、まっさらに漂白されたようになる。そんなとき、彼は大げさではなく、魂そのものがそれなしでは生きてゆけぬパン、キリストの肉として萌えゲーを渇望していることに気づき、呆然とするのである。両親と正対するとき、萌えゲーおたくの抱える世界は言われて、救われて、厳然たる形を持つ苦悩だったはずのものはその境界を曖昧にして、全部終わらされてしまうのだった。だが、上田保春はこのように明確に思考したわけではない。もしそんなことをすれば、彼の現状を伴うならば、自殺するか発狂するかしかないからだ。しかしこの場合の発狂とは、萌えゲーおたくにとっては修辞的な脅迫にしか過ぎない。言葉が覆うことのできない脳の範囲まで意識が拡大してしまうことを発狂というのであって、上田保春の意識は脳の隅々へと余すところ無く広がり、アメーバ状に浸食してゆく彼の意識は完全に過不足なく言語化されることができた。おたくの苦悩の本質とは発狂するべき点で発狂できないことであり、彼らの異常さが一般人の許容度をはるかに越えてゆくように思えるのは、発狂するべき自意識の点にいたっても未だに言語というフェイルセーフが有効に機能し、発狂し切ってしまうことが不可能な点にある。母の電話を受けた上田保春の無意識はすべてが言語化された瞬間、脳内のフェイルセーフを機能させ、彼の意識と言語化された内容との連絡を即時に断った。つまり彼の無意識は、母親からの電話によって日常の底に開いた完全な虚無から逃れようと反応した。自己憐憫という逃避先を新たな思考経路として、上田保春の識域へ設定したのである。――申し訳ない。上田保春は受話器を右の外耳に押し当てたまま電話機の前でうなだれながら、考える。逃げてはいけない。彼はこの段階ですでにして逃げているのだが、その逃避はあまりに、ほとんど霊的なまでの高次元において行われていたので、巧妙なおたくの脳細胞は逃避そのものの存在を本人にさえ気づかせることはない。上田保春と名付けられた個体が生物的つながり、時間的つながり、空間的つながり、それらすべてから切り離されて在る究極の実存であることを、何の夾雑物も無い意識で受け止めることよりも、現実の惨めさの中にその理由を落とした方がまだ、彼の否定しつつ求める人間とのつながりを軽蔑や非難という形であったとしてさえ感じることができ、無意味が言語化されたのを見てしまう自我崩壊の危険を回避することができるのだった。――申し訳ない。自分がこのようになったのに、誰を責めるわけにもいくまい。両親はカッコウに託卵された巣の宿主であり、肉と遺伝子という連続性よりも強く我が子を規定する外的情報因子が世には氾濫し、それを拒絶できないほど自分が弱かったというだけ。結局、自分の脳髄が腐っていただけ。ただ、本当にそれだけ。何かへの所属を通じて手に入れることの尊さや、「皆で団結して、懸命に作り上げる」ことの素晴らしさを理解する。本当に、それを想像するとき涙が浮かぶほどに切望する。その憧憬のような、マスゲームの埋没への希求を上田保春は誰よりも強く持っている。しかし、真実その場所に触れることができたとして、自分が笑顔をその瞬間のままに張りつかせてたちまち嘔吐するだろうことをまた知っている。我が身を駆けめぐる毒を浄化する血清にアレルギーを持った瀕死の冒険家。それが、上田保春だった。誰に指摘されるまでもなく、自分が救われる道を上田保春は知っている。ただ、それを有効化する手段をあらかじめ封じられているのだ。母と話す限りにおいて萌えゲーおたくに革命は必要なく、あの少年との関わりにおいて昂まっていた全人類的な愛情は行き場をなくし、あるいは行き場をとりあげられて、急速にしぼんでいくのが感じられた。
 しかしながら、母の言葉はその内容がどのようなものであれ、常に上田保春に自責を含んだ特定の感情を引き起こすというだけで、母の持ち出した話題が何か深遠な命題を伴っていたわけでは全くない。母が話したのは、祖母のことだった。上田保春の中へおたくの特異さを刷り込んだあの祖母である。数年前に祖父が亡くなってから、しばらくは長女である母が自宅に引き取って面倒を見ていたのだが、祖母はいま老人介護の施設で生活をしている。母に愛情はあり、少なくともあらゆる事象に対して破滅の瞬間を先送りに長引かせるほどは愛情があり――上田保春がその典型例と言えた――、彼女が介護の負担をいとうたわけではなかった。祖母自らが、施設に預けて欲しいことを母に申し出たのである。母から伝え聞いたその契機となるできごとについて思い至るとき、上田保春は祖母への畏敬の念を新たにせざるを得ない。萌えゲーおたくが身に纏う人間存在への侮辱や軽蔑を圧倒する厳粛さが身内に湧きあがるのを上田保春は禁じ得ない。ある晩、就寝中に祖母は失禁した。翌朝、汚れた布団の横に正座した祖母は、部屋に入ってきた母が声をかけようとするのを制し、昔人の語彙でこう言ったのだった。私が自分以外のものになる前に、お前や孫たちの目の届かないところにやって欲しい。ほとんど気づかせないように振る舞っていたが、祖母の痴呆はその時点でだいぶ進んでいたようだ。毛糸玉がほどけてゆくように喪失してゆく自己、その恐慌を誰へも漏らさず現状へと踏みとどまり続けようとする祖母の克己を想像するとき、上田保春の倒錯した共感は彼に愛さえ感じさせた。自我の抑制を失った自分は、いったいどのように振る舞うのだろう。それは遺伝学的に考えても、全く意味のない仮定とは言えないと思われた。上田保春は祖母と同じ老年に達した自分を想像する。その想像はいつも、ほとんど絶叫したいような醜悪さへと逢着した。夜尿の染みを自分のものだと気づかず、男性を握りしめて息を荒げる年老いた自分。現在の自分をかろうじて人間の形に規定している社会性のたがを失い、孫ほどの園児の登校を眺めながら目を細めるのではなく頬を赤らめ、そこがまるでインターネット上ででもあるかのように通りで興奮に奇声をあげる年老いた自分。それらをありありと自身の延長上として幻視するとき、上田保春は膝が抜けるような緊張と恐怖を感じざるを得ない。太田総司を見よ。自己を律する強い意志が無ければ、萌えゲーおたくはたちまちにあのような肉の塊と化すのだ。ああ、この清らかな世界では、ただ正気を保つだけのことがなんと困難を伴うことであるか! 逆にその努力を放棄さえすれば、楽になれるのだろうこともわかっている。しかし、彼にそれはできない。なぜなら、上田保春の中には祖母がいる。彼女は上田保春の見えない背後にずっと正座して、彼の来し方、彼の行く末をじっとその澄んだ瞳で見つめている。その深い瞳をのぞきこんでも、彼女が正気なのか狂気なのか、傍らの者たちにうかがい知ることはできない。彼女の強い克己心は、誰の同情も共感も許さない。
 一度だけ、上田保春は母には告げないまま施設へ祖母を訪ねたことがあった。その理由について言えば、祖母のことを心配してなどという人並みのものでは全くなかった。母に連絡をしなかったのは、その動機が全く自己中心的なものでしかないことを知っていたからだ。上田保春はただただ、彼におたくの特異性を刷り込んだあの事件の真相を知りたかったのである。国道を少しそれた山の中腹に祖母の入所する施設はあった。駐車場はバスの停車場所をも備えた広大なものだったが、訪問した曜日と時間帯もあったのだろうか、寒々しいほどに車の数はまばらだった。車を降りると真っ先に、漂白されたように清潔な平屋の建物が視界に入った。いったい心のどの部分からなのだろう、自分と世界との意味のつながりを寸断する不可思議な感情が湧き上がってくるのを押さえつけるために、上田保春は立体視の要領で両目の焦点部分をずらしながら脳内に猥褻な単語を連呼した。予想していたのに反して、受付では二三の質問があったきりで不審そうな素振りすら無かった。イレギュラーな訪問客には慣れているのかもしれない。施設の職員は上田保春を案内しながら、「偉いですよ、あのおばあさんは」と述べたが、その言葉は要するに「手間がかからない」の社交的な言い換えに過ぎなかった。割り当てられた個室で祖母はベッドの上に正座をし、窓の外をじっと眺めていた。上田保春が近づいて来るのに気が付くと、皺に顔のパーツを埋没させるやり方でにこりと微笑み、「こんにちは」と言った。長い萌えゲーおたく生活の中で、抱いた感情に相手が名前をつけるよりも先に察知することに長けた上田保春は、その表情の様子、声の調子だけで祖母が自分のことを全く認識していないのがわかった。会釈して、ベッドの傍らにある椅子に腰掛けた孫へ、祖母はその日の天候のことに始まり、他愛の無い話題を次々と投げかけてきた。しばらくそれへ相づちを返しながら、やがて上田保春は祖母の話題が彼女のベッドの上から実際に見えるものだけに限定されていることに気づく。そして、その質問は相手のYesかNoの返答をだけ予期すればいいものばかりだった。ほんのかすかな涙が膜のように眼球の表面へ張る。視界に歪む祖母。上田保春は萌えゲーの少女を見るときのような哀切に、胸が締め付けられるのを感じた。祖母はこの世のすべての干渉を拒絶して、あらゆる人間に対して他人のように振る舞うことによって、この世界に正気を保ち続けているように見せかけていたのだ。上田保春には、それを滑稽と断じることはできなかった。上田保春が日常で行っている操作と、祖母の行動はいったいどこが違うというのだろう。その操作はあまりにも強い自制心によって行われていたので、肉親以外ならばきっと彼女の正気を疑わないだろうと思えた。偉いですよ、あのおばあさんは――上田保春の抱いた感情は施設の職員と全く同じ言葉で表現されたが、両者の間には目眩を伴うような長大な距離が横たわっているのが感じられた。弱い違和感と表現してもいいだろう上田保春のその感情は、おそらく永久に誰とも共有されることがない。発される形は同じ言葉として何ら変わるところがないのに、そこに含まれる本質はもはや絶望的に違ってしまっている。その差異は、一見して認識できないほど細分化されてしまっているので、現実には存在しないと仮に定義したところで、この世のすべての場所において何の不都合も生じないだろう。地上で最後の言葉を話す語り手、覆しえぬ圧倒的なマイノリティ、しかし彼でさえその存在を異なるものとして認知されて死んでいくことができたのではないか。上田保春は、誰とも異ならない。なぜならその差異を表現する手段はどこにも無いので、誰にも見ることができないから。気がつけば目の前に、まるで萌えゲーの少女のように澄んだ瞳をした祖母が、上田保春をのぞきこんでいる。しかしその瞳はすべてを拒絶しており、言語として記述されたシナリオ以上の背景を持たない萌えゲーの少女と同じ空漠を、虚無をたたえていた。上田保春は両腕をもみしぼりたいような焦燥感に襲われた。しかし、その中身を言語において表現される具体的な形として同定することは、ついにかなわなかった。あなたの孫だと切り出せないまま時は流れ、やがて面会の時間は終了した。無言で立ち上がる上田保春に祖母は、「お帰りになるんですね」と微笑んだあと、昔人の語彙でこう付け加えた。もう来ない方がよろしいですよ、次にお会いするとき、いまの私はいないかも知れませんからね。上田保春は祖母に背を向けて足早に病室を出ると、トイレの個室へと駆け込んだ。扉を閉めた瞬間に、口から嗚咽がほとばしった。それが自分のためだったのか、祖母のためだったのか、上田保春は未だにわからないでいる。
 だから、祖母が正気を取り戻したと母が告げたとき、上田保春はまさにこの世の奇跡を聞かされた気がしたものだった。祖母は、祖父の死んだ家へ戻ることを望んでいるのだという。上田保春の心には少年時代の夏の記憶を多く占める、山中に通い馴染んだ藁葺き屋根の一軒家が想起された。あの場所での記憶が、墜ちていこうとする自分をこの清浄な世界へ最後の一線で足止めしている。私はそこで死ぬことが決まっているから、連れていってくれるだけでいい、最期の始末は自分でつけるから。そう言って祖母は聞かないのだそうだ。姥捨てでもあるまい、まさか老女をひとり山の一軒家に置いていくわけにはいかない。しばらくは、いっしょにそこで暮らすことになるだろう――祖母が再び自分を失うまでは。どのくらいの期間になるか見当もつかないし、生活に必要なある程度の荷物を持ち込みたい。この週末に車を出してくれないだろうか。それが萌えゲーおたくの息子にする、母のささやかな要請だった。上田保春は電話口に母の声を聞きながら、動悸が早まっていくのを感じていた。あの自責と罪悪感は、いつの間にか消えていた。上田保春の聖地へ、いま託宣の巫女が帰還を果たそうとしている。はるかな昔、上田保春の鼻先で閉じられた扉が、彼がいま現在見ているようではない正しい世界へと続いているはずのその扉が、神話的にさえ思える長い長い時間を経て、再び開こうとしているのだった。扉の向こうにあったものを手に入れられなかったがゆえのディアスポラ、それがようやく終わりを迎えようとしているのかもしれない。生返事に受話器を置いた後も、上田保春は意識をそらせばたちまち霧消してしまうほどかすかな、希望のようなものにとらわれ続けた。そこへ、充電中の携帯電話が自宅でのみ可能な最新のアニメ系着メロを鳴らした。上田保春はほとんど無意識で携帯電話を取り上げ、着信の番号を見るいとまもあらばこそ、電源をオフにした。上田保春は自分自身へあまりに深く没頭していたので、電話の相手が彼のことをまさにその瞬間に、他の誰よりも強く求めていたのかもしれないことへ思いを巡らすことができなかった。若い時代には、生死さえ分ける苦しみが訪れる特別な晩がいくつか存在するものだ。後になって、上田保春はこのときのことを幾度も思い返すことになる。上田保春の罪はナルキッソスの罪。自分の内側へと閉じこもり他人を見なかった罪。世界より重大な自分、世界に優先する自分。しかし現状を看過することさえ困難な人間の視力の中で、誰がそれを罪と言うことができるのだろう。世界の本質に対する宿命的な弱視と、つかんだ手をただ引き上げることができないほどの脆弱さと、失敗したという事実だけが音も無く水底に積もってゆく罪悪感と。眼前へ並べられた血塗れの自殺器具、傲慢な神が信仰を得るためだけにそろえた大きな自己否定を前に、人間の意識はきっと罪へと陥れられるようにできていた。だが、少なくともこの夜の上田保春は、狂おしく求め続けてきた、そしてすべては虚しく終わるはずだった、自己存在の秘儀が明かされるのではないかというかすかな希望のようなものに、歓喜と畏れの狭間を揺れ続けたのだった。

生きながら萌えゲーに葬られ(8)

 腰を真横へスライドさせる度に組み敷かれた田尻仁美がギャアギャアと、ちょうど生ゴミを漁るところへ石を投げられたカラスのように鳴きわめくので上田保春の欲情はいっこうに昂進せず、ただ勃起を維持するので精一杯だった。加えて普段からの不摂生により人並み以上に皮下脂肪と内臓脂肪をたくわえた腹で、射精に至るほど連続的なピストン運動を続けることは極めて困難と言えた。妄想世界で少女にする荒々しい、しかし手首の運動だけを伴った自慰から得るあの激しさを、全身を用いて局部に与え続けるのは至難の業である。そして羞恥から婉曲表現に頼ることを許して欲しいが、脈動する女性のヨグ・ソトホートの形状や状態によらず、適切な瞬間に適切な圧を男性に加えるのに自身の握り拳よりそれがふさわしかったことを彼は未だ経験したことがない。また、萌えゲー内の絶好の射精ポイントを求めて男性性を達成する瞬間を操作することに長けた上田保春は、自慰の激しさと相まってほとんど遅漏でさえあったので、自分が快楽の絶頂へ到達するためというよりはむしろただただ田尻仁美が早く果ててくれることだけを願って、運動部の兎跳びのごとき非科学的なこの苦行に耐えていたのだった。また、右利き用マウスを使用する上田保春の局部は左手で習慣的に強く握られ続けてきたため右方向に大きく湾曲しており、通常の膣を有する女性との媾合においてその体位は正常位とは名付けのみ異常さで、身体と身体が直交する有り様はほとんどカギ十字の様相を呈した。それがどういう作用だろうか田尻仁美にとっては性的に敏感な部分を強く刺激される結果になるらしく、先ほどからもう気の狂わんばかりの悲鳴を上げ続けている。こんなふうに性交を避けられない場合にいつも浮かぶのは、バイザー型のモニターを萌えゲーの画像が満載された自宅のパソコンに接続し、それらを閲覧しながら交接させてはくれないものだろうかという、当の女性が聞いたのならば瞋恚に鼻血を吹くような人道に外れた妄想だった。それさえ可能なら、現実の性交はもう少し悦びに満ちたものになるに違いないのだが! 上田保春は本当に心の底からそう感じているのであり、これを聞いて誰もが彼の性癖を異常だと糾弾するのに何の躊躇も必要あるまい。しかしそれにしても――上田保春はあえぎ声をあげつづける田尻仁美を冷静に観察しながら思う。もう少しあの萌えゲーの少女たちのように計算された繊細さをもって声をあげてはくれないものか。そう考えて再び、上田保春は自分をこの安宿に留めている理由に思い至り、勃起がたちまち萎えてゆこうとするのをくい止めるために決死のスライドを開始するのだった。田尻仁美が絶叫した。その悦楽の没我に歪曲する顔面を至近距離から眺めながら考える。――この女は、なんて藤川愛美に似ていないのだろう。上田保春が感慨に漏らした藤川愛美なる人物を簡単に説明するならば、彼の愛好する萌えゲーに登場するキャラクターであり、更に詳細を期すならば蛍光色の頭髪をした十八歳の小学生であると表現できるだろう。だが、この場面に至るためには少し時間を遡行する必要がある。
 母からの電話を受けた翌日のこと、週末に備えて定時に職場を離れようとする金曜日の上田保春へ声をかけてきたのは、田尻仁美だった。今夜お暇ならご一緒願えませんか。上田さんにご相談したいことがあって。男性に対して何か効果を与えるのだろうと確信している素振りで上目づかいに彼を見つめながら、田尻仁美はこう切り出した。しかし、上田保春はご存じの通り並大抵の男性どころではなく、また彼の頭は全く別の思いによって占められていたので、その申し出に正直なところ「鬱陶しい」以上の感情を抱くことができなかった。お気に入りのアニメ声の君であるから、昨晩の母からの電話が無ければまた状況は違ったかもしれない。週日の上田保春は現実から可能な限り萌えゲーを楽しむ時間を切り取るため求道者のように振る舞い、それが仕事の能率と結果としての評価を彼に与えていたのだが、萌えゲーに耽溺する豊潤な時間を翌日に約束された週末は、仕事以外で同僚と交流することにずいぶんと寛容な気持ちであることができたし、自宅の床から積みあげた萌えゲーの量が少ないような晩は自分から誰かを誘うことさえあった。もっとも、萌えゲーを堪能し尽くした日曜の夜にはこの物語の冒頭で見たように、萌えゲーおたくであることの罪悪感をも同時に味わいつくし、精神的に衰弱するほど疲れ果ててしまうことが常だった。上田保春の社会での活動はその意味で贖罪の行為に近く、彼の日常は罪を犯すことと贖うことを一週間というスパンで繰り返しており、ほとんど絶海の修道院に住む尼僧の日々と変わらぬと言えた。ともあれ全く便利な日本語、上田保春は主語と述語を曖昧にし、かつ語尾を濁して、それでも今夜はつきあう気持ちは無いということを田尻仁美に明示する。普段ならばあり得ないことだったろうが、なおも何か言いつのろうとするのをほとんど無視して鞄を取り上げ、その横を通り過ぎた。上田保春の抱く思いはあまりに重大だったので、この瞬間の田尻仁美は彼にとって物語の進行上に現れた障害物に過ぎなかった。要するに、無視する権利のようなものを身内に感じたのである。しかし、個人の抱く思いの重大さというものは、そこが現実である限り世界にはわずかの影響もなく、上田保春が感じたような権利は言ってみれば都合のいい虚構に脳を毒されたがゆえの錯覚でしかない。それを証拠に彼が田尻仁美を無いように扱えたのもそこまでだった。廊下を歩み去ろうとする上田保春の背中に彼女はこう声をかけたのである。「相談というのは、藤川愛美さんのことなんですが」
 上田保春は驚愕した。意識が空白化し、全身が金縛りのように硬直する。鞄が指からすっぽ抜けて、よく磨かれた床を回転しながら滑ってゆく。思わず内面の動揺を表してしまったことを後悔するが、すべてはすでに遅かった。振り返れば、田尻仁美が明らかな優越を瞳に浮かべている。是非、上田さんと彼女のことをお話したいものですわ。その奇形な唇に勝ち誇った微笑みがゆっくりと形作られるのを彼は呆然と眺めた。一瞬のうちに攻守は逆転し、もはや否の返事は許されていなかった。
 寒い大地を強制的に連行されるイメージで、悄然とつき従う上田保春。繁華街のざわめきを通り抜け薄暗い店内を案内された先は、まさにこういう誰にも聞かれたくない際の会談にはうってつけの個室だった。田尻仁美はこれから行われる脅迫行為を誰にも知られたくないはずだったし、上田保春はその脅迫材料を誰にも知られたくなかった。部屋の光源は卓上に置かれた硝子細工の内側に輝くキャンドルと、部屋の四隅の床からぼうっと浮かぶ間接照明だけだった。上田保春は肩幅の内側へ両腕をもみしぼるようにし、落ち着ける先が無いかのように視線をさまよわせた。田尻仁美は満足そうにその様子を眺めると、店員を呼ぶためのブザーを押した。このときの彼の行動は相手の優越を満足させるという一点において為されていたので、彼が特別このような機会に慣れていないというわけではなかった。上田保春は萌えゲー以外の嗜好を持たないがゆえに、この社会という場所ではあらゆる執着と欲望から切り離された完全な空虚であり、誰かの感情への共振でその杯を満たすことで、連日連夜彼が陵辱する萌えゲーの少女のように、相手の要求だけにぴったりと当てはまるオーダーメイド的人格を顕現させることができるのだった。もっとも萌えゲー愛好にたどりつくような上田保春にとって、相手の嗜虐をさそう人格が最も得意とするところだったのだが! その意味で皮肉にも田尻仁美との相性はぴったりであると言えた。だから、この後に記述される上田保春の言動にはむしろ田尻仁美の内面が照射されていると捉えた方が、より正確に状況を把握できることだろう。屠殺場で眉間に単銃を撃ち込まれるのを待つ牛のように、じっと黙りこむ相手を気にもとめず、田尻仁美は手慣れた様子で注文を済ませると取りだした煙草にやくざな仕草で火をつけた。その動作は自分の行動に対する疑いを一片も感じさせないほど滑らかで、まるで獲物を追い込む肉食獣の舌なめずりのように上田保春の目に映った。実際その通りだったのだろう。田尻仁美は煙草を吸いたいからというより、許可なく煙草に火をつけることで自分が優越した立場にいるということを知らせるためにそうしたのである。上田保春は敵のテリトリーに誘い込まれ、完全にイニシアチブを握られてしまったのだ。何か言おうと彼が唇をわずかに開いたその瞬間に、田尻仁美は滑るような動作でハンドバッグに手を差し入れると、一枚の葉書を取りだした。「これ、たぶん見覚えあると思うんですけど」
 人差し指と中指で挟んだ葉書をキャンドルの上にかざしてみせる。そこに萌えゲー制作会社の名前が印字されているのをはっきりと読みとることができた。定規で「行」の上に二重線が引かれ、見慣れた神経な細い筆跡で「御中」と訂正がしてある。住所・氏名の欄には果たして「上田保春」と書かれていた。萌えゲーおたくの無意識は常にすべてをご破算にしたい欲求を孕んでいると彼は恐れ続けてきたが、まさにその予感は当たっていたのである。思い返せばこれまで胸元へ差し込む現実を和らげようと、飲めぬアルコールを無理に流し込んだ夜がいくつかあった。青い血の貴種が人外の獣と同じ局部を持っていることを放言できぬ床屋の鬱積と同じように、声に出せぬ思いが消えてゆくことは決してない。それは忘れたように思っても意識の裏側に隠れていて、やがて腐り、醗酵し、平衡感覚を奪ってゆき、ついには発症するのだ。上田保春はネット上の匿名巨大掲示板にさえ、当局の萌えゲーおたく追跡を半ば本気で恐れるあまり書き込みをしたことは無かった。そんな彼の無意識は宿主にただ正気を保たせるために、アルコールの力を借りて強すぎる抑圧を緩和し、脳髄の外へ残してはならぬはずの歪んだ情念を、二次元に描かれた少女を心の底から愛しているのだというその叫びを、アンケート葉書の裏へびっしりと書き込ませたのだった。いったん吐き出しさえすれば満足するのは脳髄であろうと陰嚢であろうと同じことで、朝起きて葉書が見あたらないことを彼はそれほど深刻には捉えなかった。どこか家具の隙間にでも滑り込んだに違いない、引っ越しのときには見つかるだろうなどと軽く考えたきり、完全に忘れてしまっていた。隣人に萌えゲー愛好を察知される寸前を引っ越し時期に決めている上田保春だが、どれだけ用心していても思わぬ瞬間というのはある。一度などは、会社の設備点検の影響で臨時の休みとなった平日に自室でくつろいでいたところ、突然大家がドアの鍵を開けて入ってきたことがあった。そのとき大家の視界に映ったものは昨今のニュースに見慣れた、既視感と危機感を同時に伴う映像だったに違いあるまい。午後を奔走し、翌日、上田保春は会社に有給休暇を申請すると引っ越しをした。敷金は戻ってこなかった。大家は、「あんな部屋の使い方されちゃねえ」と言った。つまり、敷金が返却されない理由は壁一面に貼られた萌えゲーのポスターなのだった。上田保春が管理権を越えた蛮行の数々を訴えようと思わぬのは、萌えゲー愛好を知られたおたくに世間の同情など集まろうはずがないからである。引っ越しの当日、ガスの元栓を閉めても閉めぬと常に告げる上田保春の衰弱した意識が、一度階下まで降りた彼を空になったはずの部屋へと戻らせた。扉を開くと、大家が壁に塩をぶつけている真っ最中だった。悟られぬようそっと元のように扉を閉める上田保春。陪審員制度の導入に彼が危機感を覚えるのは、例え訴状の内容がどのようなものであれ、萌えゲーおたくはすべての裁判で敗訴を避けられないだろうからである。少々話がそれたが、萌えゲーおたくがこんな形で露見することを上田保春は想像すらしたことが無かった。田尻仁美の掲げる葉書は実のところ、残業で郵送できず持ち帰った仕事の封筒といっしょに彼自身が投函してしまっていたのだったが、それはこんな形での破滅を想定した行為では無論なかった。いったいいくつの偶然が重なればいま置かれているこの状況へと至るのか、もはや見当もつかない。物語の成就を偶然に多く頼る萌えゲーをモニターの前で罵倒し続けてきた上田保春は、それが人間の意識では計測することの出来ない何かの総称であることを知らない。この世界に潜む偶然を極力排除しようとする姿勢に科学文明の基があることに思い至らず、まさにいまその無知と罵倒によって彼は復讐されつつあるのだった。もちろん、上田保春だけを責められたものではない。少年の言葉ではないが、人は意味づけできない偶然よりも、どれほど貧弱であれ常に自身の解釈を優先して採択するものなのだから。しかし、なぜ田尻仁美がこの葉書を持っているのか。口を半開きにした上田保春が葉書から視線を外したのを見て、彼女はすべてわかっているといったふうにうなずき、声にされないその疑問へ厳かに回答を与えた。「藤川愛美の声を当てているの、私なんですよ。気づきませんでしたか」
 そうして両拳を口元に持っていってポーズを作ると、二三度わざとらしく目をしばたかせた後、田尻仁美は「あたし、お兄ちゃんが欲しいの」と言った。それは本当に、藤川愛美そっくりの声だった! 上田保春はまず目眩を感じ、次に手元にあるグラスを田尻仁美の顔面に投げつけたいような気持ちに駆られた。猫をモチーフにした国民的有名漫画キャラの声優が、料理番組で子ども相手に声の芸を披露し、ハンバーグの種を投げつけられるのを偶然テレビで見たことがあったが、上田保春の気持ちはまさにそのときの子どもが抱いただろうものと同じであった。つまり、大切な何かを冒涜されたと感じたのである。彼の抱いた感情はいたって真面目なものだったし、傷つけられた思いはきっとあの子どもと同じような純真さにあふれていたが、何をおいても彼の信仰の対象は性交のためだけに、更に言えば男性の勃起を満足させるためだけに彫刻された萌えゲーのキャラクターだったので、自分の感情の真剣さを理解させるため全身全霊で反論しようとも、軽蔑の鼻息ひとつで充分にすべての試みは吹き飛んでしまうだろう。上田保春の脳内で十二人の怒れる陪審員が陪審席に立ち上がり、立てた親指を下に向けながら、「死刑」を連呼するのが聞こえる。それは子ども時代に抱いた無力感に似ていた。例えば夏中をかけて集めた大量の蝉の殻を父に捨てられたときの感じ。相手の側が圧倒的に力を持っているので、言葉に託した取り替えのきかないほど重大なはずの感情が全く無化されてしまう、あの感じ。田尻仁美の話すところによれば、学生時代に所属していたアニメ同好会の後輩の一人がアダルトゲームの制作会社を経営しており――上田保春が葉書を送付した会社だ――、数年前まだ同人サークル規模だったときに安価な声優の一人としてゲーム音声の録音に呼ばれたとのことだった。何人分も声色を変えて一日あえいで、五千円ですよ。これが結構、未だに売れてるみたいで、わかってれば私、買い取りじゃなくてもう少しお金もらえるようにしたんですけど。ほとんどドサ回りの演歌歌手、あるいは弱小プロの売れないアイドルのような調子だ。そしてやはり、上田保春のデスクに萌えゲーの雑誌を置いたのは田尻仁美だったのである。出演した萌えゲーの紹介記事が掲載されているのを、その後輩が律儀に郵送してくれたのだそうだ。藤川愛美への熱烈な愛情がしたためられた、ファンからのアンケート葉書を同封して。これを聞くに至って、上田保春には何か巨大な意志が自分を破滅させようと画策したのだとしか思えなくなる。アンケート葉書に書かれた名前を見て田尻仁美は最初、同姓同名の別人ではないかと考えたが、経理部の社員名簿を繰るうちに真相へたどりついたのだった。そう言えば、いくつか思い当たるフシはありましたよね。その言葉は誰にでも可能な結果論に過ぎなかったが、それでも上田保春の自尊心を傷つけるのには充分な効果を発揮した。完全に萌えゲーおたくを隠し続けることが、彼の自己定義の一つだったのだから。気がつけば眼前には料理が運ばれてきており、田尻仁美は手酌のアルコールにひどく酔っているようだった。上田さんが誰にもなびかないのは社の外に彼女がいるからだってみんな噂してましたけど、まさかこういうのが好きだなんて思ってもみなかったわ。そう言うと田尻仁美は、藤川愛美が初めての性交時に頬を赤らめるときのように、再び両拳を口元へ持っていき――あたし、お兄ちゃんの欲しいの。料理の上へ眼を伏せたままその声を聞いた上田保春は、股間にかすかな勃起を感じた。相手の顔さえみなければ、それは彼の愛する藤川愛美だった。田尻仁美という現実の肉を得たせいで彼の内側に死んでいきつつある少女を想って、彼は気づかれぬようひっそりと落涙した。架空のキャラクターぐらいに何を泣くことがあるのかという嘲りの響きは、もはや上田保春にとって実験室のマウスへ定期的に流される死なない程度の電流のように、抗議に首をもたげるのも億劫な、通り過ぎるのを待つ何かに過ぎない。なぜ電流が流されるのかは知らない。その意味を知っているのは神か悪魔か、上田保春で実験をしている存在だけだ。この世は地獄だ――彼はそう感じたが、彼の感じる地獄を共有できる相手は見渡したところでどこにもいなかった。
 田尻仁美は上田保春の沈黙をどうとらえたものだろうか卓上に手を伸ばして来、彼の手にそっと重ねた。彼女の手は熱を伴って、ほとんど焼けるように上田保春には感じられた。拒絶する素振りが無いのに調子を得て、田尻仁美はゆっくりと手の甲を愛撫し始める。人肌のぬくもり。上田保春は自分の意識とは完全に乖離しているにも関わらず、身体を切実に促すような感覚が胸の内に生まれるのを冷静に観察した。萌えゲーおたくとは肉体よりも頭脳での世界理解が先行してしまった人たちを指すのかも知れない。知的レベルの高さは問題にならず、人肌に触れるとか、人間的営為の当たり前の素朴さに簡単に降伏してしまう。このときの上田保春も例外ではなかった。強く拒絶を表すこともできたはずだが、それをしなかったのだ。生物としての本来的な部分が渇いており、その渇きに水を注いでくれるのならばどのような相手であれ、他の事象に対する内省を度外視した高い論理性や、それほどまで強くては自分以外の存在を少しでも容認できまいと思えるほど先鋭化した批判精神もみるまに吹き飛んで、たちまち腹を見せて完全な恭順を示してしまうのだ。その滑稽さを避けるためには、贅を尽くした釈尊が赤子を踏みつけて出家したように、肉を得てから知に至らねばならぬ。これを順番ぐらいのことと軽視してはいけない。愛していると言ってから交接すれば結婚だが、交接してから愛していると言えば犯罪である。普段は高慢な女性がその裏に男性へ屈従する弱い気質を隠しているからこそ彼女の罵倒を楽しめるのであって、普段穏やかな笑顔で微笑みかける女性がその裏に自分のことを生理的に心底嫌いぬいている事実を隠しているならば、それは現実そのものでしかない。肉というのは象徴的にはこの世を二分した際のこちら側の本質であるが、こと男性においては下世話なほどに手っ取り早く女性という形を取る場合が多いようである。ただ知から始めてしまったがゆえにその知の偉大さや研鑽にも関わらず、後に肉に陥落してしまう喜劇的な滑稽さを呈するのは例外なく男性である。釈尊が仏敵魔羅に幻惑されなかったのは、充分に肉を知っており、それに飽いていたからに他ならないと上田保春は思う。そして、賢明な誰もが見ないふりで目を伏せてくれているのにわざわざ歩み寄って腕をつかみ「あの感性が私に欠けていたものだ」だとか、「知に携わる者が肉を言ってはならぬ」であるとか、問いもせぬのに聞かせてくる段へ至っては何をか言わんやである。女性は男性個人にとっての救済になることはあっても、世界と同義では無い。つまり、当人以外を救うには全く効果を為さないという当たり前さに、順番を違えただけ盲目になってしまうのだ。上田保春は田尻仁美に触れられた際の心の動きを自覚し、漠然とそんなふうな分析の言葉で追ったが、それは内から出て内へ還るだけの、一瞬浮かんでは永遠に消えてしまう類の思考の泡沫に過ぎなかった。
 田尻仁美が欲情に渇いた唇を、煙草の常習で茶色く染まった舌先で湿すのが見えた。その唇はいまや濡れ濡れと輝き、上半身と下半身を直結するあの暗喩を持ち出すまでもなく、欲情しているのだった。田尻仁美は上田保春に欲情しているのだろうか。いや、彼女はこの状況に欲情しているのだ。自分好みの面相をしたフェミニンな男子を脅迫し、追いつめ、屈服せしめるという現在の状況そのものが、彼女を欲情させているのだった。だとすれば、彼に与えられた役割はただひとつである。気弱げに睫毛を伏せて、膝に握ったこぶしに視線を落としながら、かすれた声をしぼるようにして、「それで、田尻さんはいったいぼくにどうしろとおっしゃるんですか」と上田保春は言った。我が意を得たりと、田尻仁美の両目が爛々と肉食獣の輝きを浮かべる。ああ、生命! 田尻仁美の有り様はまさに生命の営みそのものではないか! 彼女のような生命力が無ければ、きっと人類はゆっくりと滅びてゆくに違いないのだ。それとは真逆に、自分はただ清潔でありたいのだろう。生きることのみっともなさや、みじめさや、不潔さとはすべて遠いところにありたいと願っているのだ。田尻仁美は全く正しい。しかし、上田保春の中の生き物の部分は誰かの肌を触れたいと切望しているのに、生命の、否定的な意味ではない不潔さを目の当たりにして嘔吐に近い感情をもまた禁じ得ないでいる。自分が誰かから本当に好かれるなどということはあり得なかった。過去、上田保春と関係を持つに至った女性たちは、彼のあまりの没交渉ぶりに――性交が少ないという意味ではない――自然と離れていったものだった。社会的な場でのつきあいから私的な関わりへと移行するにつれて、上田保春は母からの電話に受話器をかかげてうなだれるあの上田保春となり、つまり、役割を満たされない彼は完全な空虚でしかなかったので、どの女性もそこへ注ぎ続けるほど自己愛から離れて、あるいは傲慢に響かないように言い換えるならば、献身的ではあれなかった。そしてようやく獲物を手に入れた田尻仁美の歓喜にも関わらず、上田保春にはもう事の顛末がわかっている。この一夜にしたところで、過去と全く同じ経過をたどるに違いなかった。――ああ。上田保春の胸に感慨が去来する。身体の中にある動物から離れて、自分は聖者でありたいのだろう。この世の汚れからすべて離れて、自分は聖者でありたいのだろう。
 ネオン街の安宿にチェックインし、背後に防音仕様の重い扉が閉まる音を聞く。ネクタイを引き抜き、ワイシャツの第二ボタンまでを外した状態でベッドの前に逡巡する上田保春へ、田尻仁美はまさに文字通り襲いかかってきた。そのときの彼女は本当に、何の比喩でもなく肉食獣そのものであり、飛びかかってくる彼女を眺めながら、逃げられない距離でライオンと遭遇してしまったときのインパラのように、運命を――あるいは不運を――受け入れる澄んだ瞳で彼は立ちつくすしかなかった。ベッドの上に押し倒され、奇形によじれた唇を重ねられる。女性は男性をレイプできないというのは、嘘だ。弱気な男性が筋力に訴えることができないような脅迫を用意しさえすれば、女性は男性の性を生贄の屈辱と共に思う存分むさぼり、蹂躙することができる。女性器が刺激に応じて本人の意思に関係なく濡れるように、男性器も刺激されれば本人の意思とは関係なくただ勃起する。例えば日曜の午後、プレイする萌えゲーが無いような際に文字通り手慰みにする手慰みを考えれば、それは明らかだ。頭の中では別の考え事に没頭しながら、手首の刺激だけで射精に至ることは極めて容易だからである。愛していないからエレクチオンしないといったふうな劇的展開は劇画内でしかあり得ず、物理刺激が最大の性交要因でないとすれば知性を発展させる長い長い道程の途上で大半の雄猿たちは童貞のまま果て――この場合童貞であるからして、「果て」のコノテーションは「死ぬ」でしかない――、間違いなく人類は滅亡し、今日の萌えゲー隆盛は無かっただろう。愛情とは滑走路の誘導灯のようなもので、それが無くともランディングは不可能ではない。ベッドの上でそうこう考えるうち、こじ開けるように田尻仁美の舌が上田保春の口腔に割り込んで来、彼の舌を、唾液を、むさぼるように吸い上げる。上田保春は田尻仁美の内蔵の臭いを感じ、喉の奥に嘔吐を覚えた。現実と萌えゲー少女の間にある違いを考えたとき、それは臭いではないかと上田保春は思う。例えば、唾の渇いた臭いは最悪だ。特にこういう接吻などの際に他人の唾の渇いた臭いを口腔から鼻腔へ感じるとき、上田保春の中にある現実へ干渉しようとする積極性、女性との交接の場合には相手を征服しようという精神的昂揚はすべて萎え果ててしまう。例えどれだけ映画やアニメや萌えゲーが進歩しようと、これらを並列に並べる段階で上田保春の精神はかなり深くおたくという病に冒されていると言えるが、臭いだけはきっと再現されるまい。それは現実そのものであり、どんなにある虚構が現実に似た迫真性を持っていると称揚されようとも、現実そのものであっては心からの没入などあり得ないのである。脳内に神を自作することで人間は世界を理解すると言った誰かがいたが――上田保春の無意識は現実にあるささいな情報を拾い集めることで彼を守る予言視のような役目を果たしており、この瞬間にその誰かのことを具体的に識域に持ち出すことはなかった――、脳というフィルタを通じて現実の真の様相を希釈することでしか、現実をある一種の虚構として判断し、体験することでしか、人間は世界を理解できないように作られている。だから、省略の妙味によって映画やアニメや萌えゲーへの没入は存在し得るのだから、これ以上の迫真性をそれらが持たされてしまうことが無いよう上田保春は切実に祈るのだ。そしてその理屈で言えば、現実の女性と性交するよりもアダルトビデオを見ながらの自慰の方が素晴らしく、アダルトビデオを見ながらの自慰よりも萌えゲーの少女を見ながらの自慰の方が間違いなく素晴らしい。上田保春は真の意味での萌えゲー愛好家であったので、萌えゲーに登場する少女たちが現実に存在したらと切望することはない。現実に存在する彼女たちからは何らかの臭いがするに違いないからである。現実に存在するということは何かを殺すということで、殺せば少女たちは食べざるを得なくなり、食べてしまえば内蔵からは臭いがするだろう。例えメロンパンを愛好するといったような愛らしい設定に頼み極力内蔵から臭いがしないようにし向けたとして、食べてしまった少女たちは排泄をせざるを得ず、そうなれば少女たちの使った便器からは臭いがするに違いない。萌えゲーの少女たちが現実にいて欲しいと願うこと、それは窓辺のジャーに仮面を保存するようなすべての孤独な人々が避けられない人恋しさのすり替えに過ぎず、上田保春はそれがわかっているから、萌えゲーの少女たちにはただ画面の中から微笑みかけ続けて欲しいと願うのである。それはまた、彼が現実へ留まり続けたいという祈りとも言えた。
 しかし、こんなふうに想像することもある。明日に祝日か日曜日をひかえた深夜、窓の外の雨音を聞きながらパソコンのモニターだけが光源の薄暗い部屋で、下半身を剥きだしにしたまま自慰にいそしむ自分。ほとばしりをぬぐい取ったティッシュを別のティッシュで丹念に包む作業の途中で、ふと背後に気配を感じる。振り返ると、そこには暗闇に発光するように、萌えゲーの少女が立っているのだ。おそらく上田保春という意識はその瞬間に終わりを迎えることができるだろう。自分の描いたキャラクターが迎えに来たのを振り払って逃げた漫画家のように、上田保春の意識は現実に留まり続けるという意志の継続によって成立している。もし、現実に萌えゲーの少女を見ることができたのなら、彼は自己定義を完全に崩壊させられ、終わることができるだろう。人の内罰性は、罪責感を終わらせることができるという一点において、時に自己の消滅を快楽に転じることがある。かろうじて正気を保った上田保春の現在はその想像に、うしろに立つ萌え少女にホラー映画と同等の恐怖を感じるが、しかしそこには快楽も同時に潜んでいた。
 田尻仁美の寝息が聞こえる。シーツの下に上下する、萌えゲーの少女のようでは全くない、生命力に満ちあふれた分厚い両肩を上田保春はまるで無感動に眺めた。それはただの物体に過ぎなかった。――私はこれを愛せない。視線を戻し、初めて見る天井を眺めながら、上田保春は人と触れながら人と触れられぬあの孤独を感じた。田尻仁美のせいではなかった。これが別の誰かであっても、やはり彼の感じる孤独は同じものだっただろう。腐っているのは、結局自分の脳髄だけ。ただ本当に、それだけ。その究極のはずの感慨へ思いめぐらすとき、しかし彼の心は少しも真理を得た気持ちがしない。この世にはまだ底があり、それは自分に対して永遠に秘匿されているのではないか。彼の推測は実のところ正しかったのだが、萌えゲーおたくの脳細胞はなぜだろうか、もしかするとそれの運ぶ外的情報因子を絶やさないために、この世の底を垣間見せることは無いのやも知れぬ。枕元の時計は深夜二時を指していたが、どうやらもう眠れそうにもなかった。十代の頃にはこんな夜がいくつもあった。だから、あの頃のように上田保春はじっと待つことにした。床に脱ぎ捨てられた背広の内ポケットから携帯電話を取りだして、着信の履歴をぼんやりと閲覧する。大量のスパムの中にあの少年からの着信を確認するが、それはメールではなく通話によるものだった。こみ上げる寂しさが上田保春にリダイヤルの操作を促すが、少年が電話を取ることはついになかった。音を立てないようにそっと携帯電話を畳むと、ふと部屋の入り口に気配を感じたような気がして、上田保春は半身を起こす。しかし夜目をこらしても、そこには誰もいなかった。再びベッドに身を横たえると、やはりそこに何かの気配が残っているように感じた。そう、もしかすると上田保春はずっと待っているのかも知れない。少女が現実に現れる瞬間を――自分が壊れるその瞬間を。

生きながら萌えゲーに葬られ(9)

 何かを批判したり批評したりする態度だけをとり続けることを選択すれば、永遠の生命を生きることが出来ると思っていた。新聞というメディアが現実に依拠することで永遠を存続できるように、誰かの作り出した何かに依拠し続ければ、自分は存在を長らえることができるだろうと考えていた。後から後から、尽きせぬ生命の流れが生み出す世代のせり上がりから汲み続ければ、この精神は永遠を持続し、きっと死なないだろうとどこかで信じていた。もし肉体の不滅を仮定するならば、果たして人の心はそうやって永遠をながらえることができるのだろうか。おそらく、他の善良な人たちが当たり前にするようには、自分はこの命を次の誰かへと手渡すことはできないだろう。個の不滅――こんな馬鹿げた問いにすがるような思考を繰り返すのは、萌えゲーを愛好し、人のするそれ以外のすべての営為に冷笑的、虚無的な態度をとり続けながらその実、心の奥底ではこの命が継続しないことが寂しいからか。命ではないものを残すために、ずっと誰かを傷つけ続けるのか。自分以外への愛で命を継続させることができないから、ただ悪罵を繰り返し、他人の傷の中へ蛆のように憎悪の卵を残そうとするのか。
 クラクションの音に、我へかえる。見れば、信号はすでに青へと変わっていた。アクセルを踏み込むと車はするすると前進を始め、上田保春はまた元のように大きな流れの一部となった。上田保春は、車を運転することを愛好した。車を運転するときには、まるで自分がまっとうな人間であるかのような錯覚が生じ、それを信じる瞬間を持てるからだ。車の流れに乗り、交通法規を守ってさえいれば、誰もが上田保春を正常とみなしてくれる。先のクラクションのように、異常な行動はすぐにそれと警告され、すぐに正しい場所へと帰ることができる。車の運転は、上田保春の迷いに満ちた日常生活の中において、自分であることを意識せず自動的に行うことのできるほとんど唯一の行為だったと言っていい。そこには何の葛藤も複雑さもなく、あるとすれば高級車に道をゆずり、軽自動車にクラクションを鳴らすくらいのもので、彼は車を走らせるとき、安逸な心持ちを抱くことさえできた。自然を装った不安定な言動ではなく、車のフレームが外殻として彼を無条件に規定してくれるのだ。その意味では上田保春を安らわせる理由の大半は、子宮回帰願望という言葉で説明できただろう。移動する全能感である。そして、上田保春は車の運転を愛好するものの、その種類や手入れに重要性を見いだす生粋のカーマニアというわけでは無かった。彼が愛好するのは運転であって、車そのものではなかったからだ。現在乗っている車を購入する際に求めた基準は二つ、外観の凡庸さと気密性の高さである。シルバーのファミリーカーという外観は、彼が車の運転に求めているものを考えれば自然と首肯できると思うが、気密性については少し説明が必要であろう。上田保春は車の運転中、萌えゲーのテーマソングを聴くことを習慣としていた。気密性の高さとは、外界との遮蔽率の高さということであり、車内での物音を少しも漏らさぬことが上田保春にとって肝要であった。なぜなら、萌えゲーのテーマソングを大音量で流しているのが車外へ少しでも漏れたりしようものなら、それは身の破滅につながるからである。世間へ薄壁一枚をしか隔てぬ自室よりは、車内の方がはるかに萌えゲーのテーマソングを流す場としてはふさわしい。外耳全体を覆う例のヘッドフォンをはめればと思われるかも知れないが、ガスの元栓を閉めても閉めぬと告げる上田保春の意識は、プラグの先端がちゃんとコンポないしパソコンに接続されているのかどうか、少しでも音漏れしていないかどうかを何度も確認しないでは済まず、結果として曲を聴くことに少しも集中できないのである。何を音楽くらいで神経質なことを言うのかと上田保春の抱える不安を軽視する態度を取る向きは、説明を求めるより萌えゲーのテーマソングを一度でいい、試聴してみるとよい。日常はおろか、現実の秘めごとの最中でさえめったやたらとは聞かれぬような猥褻な言辞が登場すること頻繁なのだ。例えそれが登場しないような場合でさえ、脳言語野に疾患を持っているとしか思えぬような日常を不安にさせる作詞や、白痴少女としか形容できぬ甲高い裏声で絶叫する三十路を越えた女性ボーカルなど、人間社会が普段は秘し隠している何かをしか、それらの楽曲は内包していないのである。しかしながら、そういう曲を試聴しようという態度自体がもぐり酒場の密造酒のような危険を社会的に身の上へもたらすこともまた確かなので、蛇足とは理解しながらあえて内容についての解説を少し付け加えたい。想像して欲しい。「子ども時代、暖かな夜の大気を泳ぐように楽しげな音曲に誘われて行けば巨大なテント、サーカスショウだと思い天幕のすそを持ち上げて覗くと、中で行われていたのはフリークスショウだった」。この情景を思い描いてもらえば、最も実際に近い感じを得ることができるだろう。
 ともあれ、車の運転が上田保春の人生に意味するところは理解されたと思うが、そんな彼の安逸や全能感も助手席に母を、後部座席に祖母を伴っていないときに限られた。上田保春はもう何度目だろうか、確かにCDや萌えゲーのグッズをすべて自室に置いてきたはずだという確認を反芻し、信号で停車する毎に自然な素振りを装って車内の隅々へと視線を走らせる。横目でちらりと助手席に座る母を見、上田保春は子宮の中に母がいるというメビウスの輪のような裏返しの目眩に襲われかけ、そっと首を振った。母が自分の車に乗っているという感覚は、何度経験しても慣れることはない。バックミラーをのぞくと、そこには祖母がいる。祖母はシートベルトをつけたまま正座をして、ただ真っ直ぐに正面を見据えていた。皺に埋もれたその目をのぞきこんでも、祖母が本当に正気を取り戻しているのかどうか、上田保春には判断できなかった。施設で車に乗り込んでからというもの、母の言葉に相づちを返すばかりで、祖母は自分から一言も口をきいていない。祖母は自身の感慨へと深くとらわれているようであり、後部座席という近くにいながら上田保春の焦燥や期待とははるかに遠い場所で正座をしているのだった。
まるで姥捨てのようで、と母は表現した。優しさや思いやりの気持ちが他者の生に干渉し得ると信じているようなところが母にはあった。おそらくこの発言も、祖母を翻心させられなかった自分を悔いてのものに違いない。恍惚から醒めた祖母は母の説得に最後まで私が死ぬ場所はあそこしかないと言って譲らなかったのだそうである。またいつ元のような忘却と過去の住人へと引き戻されてしまうのか、誰にも知ることはできない。祖母の中で何かが改善したのを信じられるほど、上田保春は楽観的であれなかった。もしかすれば、死の直前の人間に訪れる明晰さというものなのかも知れない。医者は母に、昔馴染んだ場所での生活はむしろ良い刺激を与えるだろうとアドバイスをした。百歳をとうに越えた人間への良い刺激という言葉、それが母の精神に与える善の効果をねらったのではなく、本当に祖母のことを考えてのものだとしたら、いったいその中身は何だというのだろう。上田保春には全く見当もつかなかった。幹線道路をそれ、蛇のようにうねった山道を車はゆっくりと登ってゆく。ときどきやってくる対向車へ舗装の無い脇道に待避しなければならないほど、山あいを行く道路は狭かった。ひとつカーブを抜けるたびに、車外にたちこめる白い霧は濃度を増していくようだ。視界が開け、突然現れたガードレールの先に眼下を一望することができる。霧は通り抜けてきた山の底へ渦を巻いて溜まってゆくようだ。やがて霧と陽光との境界を背後に走り抜けると、山の斜面へ張りつくように点々と民家の群れが見えた。ゆるゆると速度を落とし、藁葺き屋根の一軒家をのぞむ道路脇へと停車する。その前庭へと土を踏み固めただけの細い道が続いていた。母と祖母を車からおろし、荷物を抱えて道を下る。きしむ玄関の引き戸をこじ開けると、入り口部分は土間になっていた。薄暗い室内に、締め切られた雨戸を順に引き開ける。すると眼前へ、少年時代に見た懐かしい光景が広がった。
 山の頂上付近から降りてきて、屋内にまでわんわんと反響する蝉の声の連なりは、上田保春に蝉時雨という言葉を思い出させた。ふと眼をやった先、庭に自生するほおずきの葉の裏側に蝉の抜け殻が見えた。上田保春はなぜか胸の奥に痛みを感じた。振り返ると、陽光に照らされた室内は想像していた荒廃とは遠い様子だった。祖母の荷をほどきながら母が言うには、田舎暮らしを求める都会からの移住者に去年の暮れまで貸し出していたとのことだった。もっとも、こんな山間での暮らしが合わなかったのか、一年ほどですぐに出ていったらしい。祖母はしばらくの間、何かを確かめるように一部屋一部屋を見て回っていたが、やがて小さくうなずくと寝具を屋根裏へ上げて欲しいと上田保春に求めた。押入れから取りだした布団は冷たく固くなっており、日干しが必要ではないかと尋ねるが、祖母は再び強い調子で彼を促した。梯子とも階段ともつかぬ傾斜を登り、天井にはめられた板を押し上げて覗いた屋根裏はひんやりとしており、隅には行李のようなものが積み上げられている。壁の合わせ目と、明かりとり目的だろうか、窓とも呼べぬ木枠の隙間から陽光がこぼれてきているだけで、周囲は薄暗かった。祖母は四つん這いになりながら上田保春の後ろに従うと、屋根裏の中央に老人のするゆるやかさで布団を敷き、ようやくといった感じで満足げに腰を下ろした。母は階下で家の様子を調べ、どうやら買い物のリストを作成しているようだった。上田保春は村の中を巡りながら少年時代の記憶を追体験することも考えたが、それは真実に目を向けたくないがゆえの怯懦、逃避に過ぎぬと思い直し、祖母の前へ決然と座り込んだ。目の前に小さく、小さく、内側へと固まってゆくように思える祖母の身体がある。久しぶりに会うのに、今日は私のことだけでこんな迷惑をかけてすまない、という意味のことを祖母は昔人の語彙で言った。その様子からすれば、施設で会ったことはどうやら祖母の記憶に残っていないようだった。上田保春は内心胸をなでおろす。そのとき彼が抱いた感情は、良質な萌えゲーをプレイするときに感じるのと同じ、ただちにこのキャラクターと性交をしたい、より正確に言うなら彼女のする痴態を眺めながら自慰をしたいが、永遠に射精の昂ぶりを先送りにしてもいたいという、あの理に合わぬ逡巡だった。
 ふいに蝉時雨が途切れる。木枠の外へのぞく景色へ向けた視線を戻すと、皺の底で祖母が大きく目を見開いている。祖母の目は理性の色を宿しており、いまこそ彼女の意識は完全に現在と一致しているように見えた。上田保春は、その時が何者かの手によってここに用意されたのだと知った。中学生だった頃、私はあなたにひどく怒られたことがあった。あのときのことを覚えているだろうか。祖母は、為された問いの意味が身体の底へ降りてゆくのをじっと待っているように見えた。そして、歯の無い口腔にのぞく黒い奈落の底から、震える祖母の唇は驚くほど明瞭に言葉を紡ぎだし始めた。上田保春は全身を固く緊張させ、息を詰めて聞き入る。もはや、みじろぎすることさえかなわぬ。現実とつながった祖母の回廊が真実の瞬間を迎える前に、またどこか遠くへ離れていってしまうことを彼はただひたすら恐れたのである。上田保春は自分が求め続けてきた究極の真相に、もはや紙一枚の距離で肉迫しているのを感じていた。なぜ、二次元を愛好する我々への人々の嫌悪は自動的なのか。なぜ、自分は萌えゲーおたくであるのか。余人から見れば何をつまらぬと鼻で笑われるのかも知れぬ。例えば飢えた子どもの苦しみの前で、全く有効ではない言辞に過ぎないのかも知れぬ。人類全体にとっては何を成すこともない戯れ言の類なのかも知れぬ。だが、総論が個人を救うことはない。救済は常に個別的に行われなければならないものであり、これは上田保春が求める救済であった。
 祖母がしたのは、ある昔語りだった。あるいは物語に寄せた、彼女自身の罪の告白だったのか。ほとんど廃村のような有り様になっているが、かつては多くの人々が生活したこの村にある兄妹がいた。二人は血こそつながっていたが、本来の意味での兄妹ではなかった。互いに、男と女のように想いを寄せ合っていたのである。愛する相手と一番近い場所で生活を共にするという幸福。彼と彼女の一挙手一投足、そして笑顔は言うまでもない、悲しみや怒りさえもが、喜びへと変わるふしぎ。しかし二人しか知らぬ密やかな蜜月は、やがて終わりを迎える。ある夜、兄は無理やりに、妹へ妹自身の秘した想いを認めさせたのだ。妹は兄の行為に恐怖したが、それを上回る強い衝動に気づかされる。そして気づいてしまうと、もう止めることはできなくなった。毎夜のように同じ屋根の下に繰り返される逢瀬。しかし、二人の関係が両親へと露見するのに、長い時間はかからなかった。生活を相互依存によってしか成立させることのできない山あいに隔離された村は、強力な観念共同体である。同質性を維持することこそが、最も確率の高い生物学的存続の可能性であることを、構成員全員が暗黙知として了解しているのだ。二人はただちに引き離され、不貞の妹は屋根裏へと閉じこめられた。それでもなお、兄は何度か周囲の目を盗んで妹を訪れた。しかし、ある日を境に兄はやってこなくなる。妹が屋根裏から出ることを許されたのは、その直後だった。兄は村からいなくなっていた。誰にその消息を尋ねても、答えは得られなかった。おそらく村人の手によって始末されたのだろうと上田保春は思う。祖母がその可能性を考えなかったわけはない。しかし目の前の、少女のように細く年老いた老婆は、夢見るようなまなざしで言うのだ。ここで待ってさえいれば、兄はきっとあそこから私の元へ会いに来てくれる。ゆっくりと震える手をあげた祖母の指さす先には、木枠の狭い隙間が開いていた。死人が深夜、あの隙間から身をよじり入れて逢い引きに寝屋を訪れる。その想像はまるでホラー映画のようで、上田保春は背筋に寒気を生じた。けれど、それを狂った老人の妄念と断ずることはできなかった。上田保春が希求する、この世にはいないはずの萌えゲーの少女を現実に見る破滅も祖母の願いと同じことなのではないか。もし兄を現実に見ることができたのなら、祖母の魂は幸福のうちに終わることができるのかも知れぬ。一世紀に渡る歳月を生き、その途方もない魂の摩耗の果て、最後に祖母の中へ残ったのはただひとつ、実の兄への恋慕だけだった。上田保春は孫としてこの話を聞かされているのではないような気がした。祖母は誰に話しかけているのだろう。神へか、懺悔の聴聞僧へか、それとも兄へか。しかし祖母のする告白を聴き、上田保春の心へ何よりも先に浮かんだのは、「どこかで聞いたことのある、ありきたりのプロットだな」という、自分の体験してきた膨大な萌えゲーのシナリオと比較しての白けた感慨であった。次に生じたのは、妹、強姦、近親相姦という脳内へほとんど自動的に形成する現実の記号化から刺激を受けた、男性のかすかな勃起である。上田保春は脳内へ言語化された心の動きと股間の隆起に一瞬遅れて気づき、なめらかな表面を持ったその異形の正体に寒気を感じた。自分の全身全霊、自分の全存在の基調がそのまま、完膚無きまでに祖母の人生を侮辱していることを悟ったのである。萌えゲーおたくの存在は社会の枠外で永遠に保留されるべきである。例外的に観察を必要とする異常として、常に監視下に置かれるべきなのだ。彼は脳頂に石を打ちつけたいような思いに駆られる。しかし、まだ謎は残っていた。祖母はあのアダルトゲームのパッケージの何に、あそこまで激烈な反応を見せたのか。上田保春はおずおずとその疑問を口に出す。昔人の言葉でする、祖母の答えはこうだった。
 あのとき兄の瞳の中に見た私の姿が、はるかな時を経て、不義密通という言葉で非難されていることに動揺したのだ。本当に個人的な、自分の感情だけのことだった。それを腹いせに、あのときのお前には本当に悪いことをした。恨んでいるだろう。本当に、すまなかった……
 上田保春の足下に、巨大な空洞が開いた。
 ああ、なんてことだ! 自分の不幸は、萌えゲー愛好から来ているのではなかったのだ!
 脳内に閃光がひらめき、視界が星に似たまたたきに満ちる。突如、眼前へ縦横に無辺大の地平が開いた。そこには何の制約も無かった。思いこみは存在せず、あらゆる偏見は排除され、すべてが完全に明晰な思考の中にあった。萌えゲーおたくという、かつて自分が居た枠組みが見えた。しかしそれは、その内側から壁の隙間を通じて外をのぞく、あの馴染んだ外界の様相としてではなく、はるか上空より俯瞰した崩れかけの廃墟として視界に入ったのだった。上田保春は瞬間、すべてを理解した。人の持つ社会という制約は、この莫大な神を抑制するために存在したのだ。因習、慣習、文化、その名付けは何だって構わない、社会という拘束を失えば、人はたちまちその本来である神に到達してしまう。神に到達すれば、その究極の自由の中で悪魔のように人間を陵辱し、あるいは殺戮するしかない。人間が作り出す社会・文化の形態の本質は内なる神を抑制することであり、萌えゲーが例外的に特異なのではなく、あらゆる人の営為はこの同じ目的に苦闘するがゆえに、どれだけ相互に異なって見えようとも同朋であり盟友なのだった。かつて自分が馴染んだ廃墟を俯瞰する視点からさらに上空へと飛翔し、上田保春は彼にとって絶対無謬の価値基準であった萌えゲーが、人類の歴史の流れの中に相対化され、ぴったりと当てはまるのを見た。そして、かつて上田保春だった一個の孤独は、ずっとすべてとつながっていたことを知った。しかし、その理解は彼を安らわせはしなかった。なぜなら上田保春はいまやすべてのつながりから切り離された、それぞれが完全に重なるところを持たない神々のうちの一柱となったからだ。上田保春は真の孤独に戦慄した。彼は大きく振り返り、中空に投射された自分の姿をまざまざと見る。それはまるで人のようだったが、もはや人とは全く異なる本質を備えていた。皆が特別な存在でありたいと願い、この地獄へとたどりつくのか。上田保春の内なる神を抑制し続けていたのは、あらゆる社会規範が強度を失ってゆく中で、唯一残された萌えゲーだったのだ。そして、上田保春は巫女の託宣により、その最後の枷をさえ喪失させられた。周囲は完全な真空で視界は何にも疎外されることなく、あまねくすべての方向へ広がっていた。上田保春を制約するものは、何も存在しなかった。神である彼は今や、誰を殺すこともできた。上田保春は恐怖した。そのあまりに明確な変革の実感に、酔うよりも、驚くよりも、真っ先に恐怖したのである。自分はずっと、萌えゲーおたくという枷をはめ、それによって生を狭窄させることで、世界の真相を手に負える範囲に押しとどめることで、かろうじて存在を長らえてきたのだ。彼は少しも革命を喜ばなかった。思考と認識の完全な自由をすべて受け止めるのに、上田保春はあまりに弱すぎた。「人は自由の刑に処せられている」――その本当の意味での自由、神の享受する自由をいまや彼は持っていた。しかし、生物としての制約によって、神の自然の発露である殺戮と陵辱が完全な形で発現することを許されず、神と化した人間の精神はついには自重に耐えきれない巨大な恒星のように内へと圧壊するのだ。裸の自分が膝を抱えてすすり泣くイメージが見える。なぜ、私を萌えゲーの中へ放っておいてくれなかったのか。偽りも悪も存在しない世界の様相を直視させられるような、こんな暴虐に値する何を自分がしたというのか。無論、いらえは無かった。誰も神が発する問いに答えることはできないからである。涙はただ流れた。上田保春は、この世の底を垣間見たのだった。
 しかし、世界の色と輪郭が視界へ戻ってくると、その圧倒的な感覚は次第に消滅した。側頭葉てんかんが見せる神の幻影、あるいはその残滓だったのやも知れぬ。あの無限地平はどこかへ去り、薄暗い屋根裏の底で祖母がむせび泣いている。両手へ顔を埋めて、肩をふるわせ、愛しい人を得られずに泣く乙女のように、祖母が嗚咽を漏らしている。年月にすり減った薄い皮膚のすぐ下に、エメラルド色の静脈が走っているのが見えた。Worn out at Eternity's gate、永遠の門を前に倦み果てて。人間に見る永遠とは何なのだろうか。それは不死ではない。それは死だ。死が生を規定する。突如、上田保春は知った。精神はきっと永遠を耐えられないだろう。透明な悲しみに促されて、彼は祖母の肩へと手を回そうとした。それは孫がするいたわりのようでなく、同じくこの生に倦み疲れた者としての共感を伝えるための抱擁となるはずだった。しかし、上田保春の指先がその肩に触れるか触れないかの瞬間、祖母は怪鳥のような悲鳴を上げた。そして上田保春の肩口を蹴りつけるようにして、いざり離れて行こうとする。わけもわからず追いすがろうとする上田保春が見た祖母の目には、深甚な恐怖だけがあった。祖母の意識を現実へとつないでいた細い小道が閉ざされ、彼女は今また彼女の罪の場所にいるのだ。決死で逃れることを試みようと、何度も何度も、祖母は兄との契り、彼女の罪の場所へと押し戻されてゆく。裁かれぬ魂の彷徨う煉獄、それがこの世界だった。神を罵倒しようとして、上田保春は気づく。神とは自分のことだ。創造は偶発的な自然発生を待つ他にはなく、破壊だけが神の意志を伴うことができる。祖母に救済が訪れることはない。上田保春は悲鳴をあげつづける祖母の両肩を激しく突いて押し倒し、その首を背後から片手で押さえつけた。親指と人差し指を回せばそれぞれの先端が触れてしまいそうなほど細い首。そう、破壊だけが意志を伴うことができる。知らぬうちに、祖母の生死を選択する分岐点に上田保春は立たされていた。手のひらの下に、血管が脈動しているのを感じる。祖母は泣きやみ、荒い息の下で裁きを待つようだ。薄く差す陽光の中に、細かな埃が舞うのが見える。だが、その永遠のような逡巡を破るように背後で階段のきしむ音がし、階下から悲鳴を聞きつけたのだろう母が上田保春の背中へするどい声をかける。弾かれるように手を離し、彼は呆然とその場に座り込む。額と腋下にびっしりと汗の粒が溜まっていた。駆け寄る母の胸に祖母はすがりつき、抱きとめられるまま少女のようにわあわあ声をあげて泣いた。祖母の薄くなった白い髪の毛をゆっくりと撫でながら、こちらを見た母の表情に一瞬、「まさか」という疑惑の色が浮かぶのを彼は見逃さなかった。みなが孤独な場所にいる。誰も誰かを理解することはできない。もしかするとそれは私たちがみな、一柱の神であるからなのか。全身を脱力感が包んでいる。上田保春は母が抱いたのだろう憶測へ、何か釈明を加える気力を持たなかった。
 二人に背を向けると、ゆっくりと階段を下りる。頬にはすでに涙が伝い落ちていた。萌えゲーおたくだった上田保春がずっと探し求めていたのは、無条件で自分を肯定してくれる場所だった。母の目の中によぎった、実の息子へ向ける明白な疑惑。それを見て、上田保春の中でずっと母につながっていた何かが、もやい綱のようにほどけた。おたくたちが我が身を人から遠く堕としてゆくのも、世界に対して無条件の肯定を問いかけるためなのかも知れぬ。肯定されたい。肯定されたい。私が音を発するただの肉塊であったとしても、あなたに肯定して欲しい。しかしそれは、隔絶された場所にいる人々の上へ与えられた回答のように思えた。その回答はいまや上田保春とは関係が無かった。庭に自生するほおずきの葉の裏側に、蝉の抜け殻が見える。先刻見たのと同じものであったにも関わらず、蝉の抜け殻はもはや完全に別の意味を備えていた。それはまるで、異星人の知覚を与えられたかのような抜本的な変化だった。上田保春は両手を持ち上げると、弱々しく顔をおおった。彼の人生においてこれまで起こった出来事のすべてが脱構築と再構築を繰り返し、いまやあまりにはっきりと意味を理解できた。だから、もうこの世界とは一秒たりとも触れあっていたくなかった。――少年に会いたい。上田保春は、切実にそう思った。自分の人生をずっと規定し続けていたものは、萌えゲーではなかった。萌えゲーという観点から自らを束縛し続けることで、おたくという名付けですべてとの関わりを説明づけることで、上田保春は人生がばらばらに分解しないようにこれまでを生き延びてきた。しかし、彼の苦しみは実のところそこからやって来るものではなかったのだ。萌えゲーを取り上げられ、この神の意識の内側で、自分はどう生きればいいのだろう。
 本当は、自分はどうありたいのだろう。

生きながら萌えゲーに葬られ(10)

 少年の死。矮小な死。歴史は彼の名前を残そうと思わないだろう。少年の存在がこの世界から完全に消え去るまで、そう長くはかかるまい。少年の死因はわからない。孤独ゆえの自死なのか、死と他者との関係性を引き替えにするという誘惑に耐えられなかったのか――
 結局のところ、上田保春の中で重大になりゆくその存在の比重は、彼が外界からの逃避先として少年に自己憐憫を投影していただけの一方的なつながりに過ぎず、現実では二度ばかり、一日にも満たない時間を過ごしただけのただの他人に過ぎなかった。上田保春は少年のことを何も知らず、少年も上田保春のことを何も知らなかった。それはお互いの真相を知らぬゆえに可能な、自己愛と他者愛が渾然となった恋に落ちる寸前のあの時期に似ていたのだろう。
 少年の死はこの世界から何かを永遠に奪っているはずだった。それは、もしかすると魂と呼ばれるものなのかも知れない。しかし、自分の中からは何も失われていないのを上田保春は知る。彼はこの世界の主人公ではなく、少年は彼にとっての欠けた片割れではなかった。現実に接点を失った他人の存在が人生から消えるのに、一週間とはかかるまい。萌えゲーの少女たちが稲妻のように輝きを放ち、上田保春の心へ永遠に消えぬ火傷を残すようには、少年が彼に何かを残すことは無い。だとすれば、あれは生の内包する錯覚だったのか。孤島に取り残された男女ふたりの間には、やがて間違いなくお互いを強く求める気持ちが生まれるだろう。彼と彼女が物語の主人公であるからではない。そこにカメラが回っているかどうかは関係が無い。身体の奥底に普段は気づかれないよう眠っている動物が、ふたりを否応なく引き合わせるのだ。上田保春と少年との関係は、孤島の男女に生じた愛の錯覚に過ぎないものだったのだろう。しかし、上田保春と少年のようではない関係が、存在し得るのだろうか。この世界を無数に分割する泡のような隔たりの内側に、何の意志も伴わぬ偶然によって集められた人々が、他の泡の中身を知らないまま、それでも同じ泡に住まう人々を、友人であるとか、恋人であるとか、家族であるとか、それが必然を伴う特別な関係性であると名指しできるのも、内なる動物が我々の人間を操作しているからではないのか。誰も上田保春を笑えまい。萌えゲーおたくだった彼の抱き続けた疎外感は、動物への屈服を自ら拒絶した、誰よりも人間であろうとしたがゆえに生じたものなのかもしれないのだから。
 屋根裏から降りてきた母が、落ち着いたみたい、と上田保春に告げる。母は先ほど目にしたはずの事件には触れず、まるで何も無かったかのように振舞っている。母はダチョウのように砂地に首を埋め、物理的な結果を残さないのならば見えなかったようにふるまうことで、彼女の息子の異様な性癖になんとか辻褄を合わせてきたのだということが、ふいにわかった。おそらく血塗れの遺体を眼前につきつけるまで、母は息子に対して盲目であろうとするだろう。その理解に悲しみはなかった。あきらめもなかった。こうなっているのだから、誰にも仕方が無いという受容だけがあった。上田保春は母とほとんど何も話さぬまま、手渡されたメモを頼りに買い物を済ませた。一緒に夕食をという申し出を辞して、祖母の生家を後にする。アクセルを踏み込むと、景色はたちまち背後へと飛び去った。陽光と霧の境目を越えさえすれば、もはや上田保春は母とも祖母とも違う、別の泡の中にいた。山を下り、国道へ合流する。ふと視線を上げると車内から、山々の稜線を輝かせながらゆっくりと沈みゆく太陽が見えた。陽光の最後の残滓が稜線の上空へ浮かぶ雲の腹を茜色に輝かせ、上田保春はあまりのぞっとするような美しさに息を呑んだ。エンジンの振動の外に草と草が擦れるわずかな音が聞こえ、昼間の蝉の声の残響が聞こえ、昼と夜の狭間を吹き抜ける風の音が聞こえ、そして静寂の音が聞こえた。その瞬間に存在したすべての要素はお互いを邪魔にせぬよう、清澄な調和を基に統一されており、上田保春と人工物である彼の車さえ、交通の少ない田舎の道路の上で世界そのものと何もぶれることなく合一しているのだった。喉の奥に悲しみのようなものが溜まるのを感じ、かつて味わったことのない心臓を直につかまれるような恐怖に彼は身震いした。窓をすべて閉め切ると、チューニングの決まらぬFMラジオの音量を最大限にまで上げる。名前を知らない男性シンガーのポップミュージックがひどい雑音と共に車内を騒音で満たした。全身を緊張で強ばらせた上田保春は、わずかに安堵の吐息をつく。一刻も早く自室のパソコンの前へ座り、萌えゲーをプレイしなければならなかった。
 上田保春は幾度も振り返りながら、わずかに開けた扉の隙間から身をすべりこませた。扉の内側に上下二箇所ついた鍵を閉め、何かが入り込むことを恐れるかのように、さらにチェーンをかけた。靴を脱いで椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れる。萌えゲーの起動アイコンがぎっしり詰まったフォルダを開き、マウスのカーソルが小刻みに揺れて定まらぬのを左手で押さえつけるようにして、そのうちのひとつをダブルクリックする。企業ロゴが現れ、回転し、消え、巨大な眼をしたパステルカラーの少女がタイトルとともに画面を占有すると、上田保春はようやく人心地ついた表情を見せた。少女が画面上で微笑むのを注視したまま後ずさりをし、手探りでコーヒーメーカーをセットする。そのとき、胸元の携帯電話が二回振動し、メールの着信を彼に知らせた。レトルト食品の紙箱を乱暴に破ってレンジに乗せながら、履歴を確認する。それは少年のアドレスから送信されたものだった。そのタイトルには、「息子が死にました」と書かれていた。
 ――先日、息子が死にました。お恥ずかしいことですが、私たちは息子の交友関係を全く把握していませんでした。息子の携帯電話の履歴に残された方々に同じ文面のメールを送信させて頂いています。息子の名前にお心当たりの無い場合、どうぞこのメールは削除下さい。もし、生前の息子をお知りになられているなら、葬儀にご参列下さればと思います――
続いて葬儀場所と時間が記され、お手数をおかけしますと締めくくられている。無論、上田保春が真っ先に考えたのは悪戯メールの類である可能性だった。しかし同時に、ひどく納得するような気持ちもある。少年の年頃に少年が話すように話したとしたら、自分はきっと死ぬことを選んだと思う。水泡がはじける音とともに、コーヒーの香りが室内に漂いはじめる。鈍くなった感受性、醜く凡庸に墜してゆく自分を嫌悪しながら、どこか心の深い部分でほとんど慈愛のような感情が、その弱さを許してさえいる現実。
 少年はきっと、死んだのだろう。
 週があけて、職場へ出る。見慣れたすべてはまるで違うように感じられたが、それは上田保春自身の変容によるものだった。いままではあえて触れようとも思わなかった人々の仕草ややりとりが、驚くほどその内側に存在する意味を主張して迫ってくるのがわかった。小心な萌えゲーおたくだった上田保春は、細大もらさぬ注意を配って職場でのふるまいを自己規定してきたはずだが、その大部分は彼自身にとってしか意味をなさない因習のようなものだったことが理解された。誰も上田保春に対して、彼が思うほどには興味も関心も抱いていない様子だった。上田保春が腐心してきたのは、相手に何も与えないようにすることだった。愛が不在ならばそれが彼に悪意をもたらすことはあり得なかった。田尻仁美と廊下ですれちがう。他にも社員の姿があったせいか、彼女は意味ありげな視線を上田保春に向けたのみだったが、彼はただ誰に対してもする微笑を浮かべて会釈すると、その傍らを無関心に通り過ぎた。田尻仁美との一夜のことは上田保春の中で、もう無いのと同じになっていたからだ。相手に何も与えないようにすること、それは人間関係における蓄積を拒否することである。田尻仁美が上田保春のことを本当に愛しているのでなければ、悪意は発生しないはずだった。廊下を曲がる際、視界の端にこちらを凝視している彼女の姿が目に入った。再構築された上田保春の意識はまるで赤子のように考える。ゴシップ的な興味で近づきながら、田尻仁美はいまや自分のことを愛しているのか。偶然に触れ合った二人の間に起こったことを、なぜ彼女は愛と信じることができるのだろう。
 少年の葬儀の当日、喪服を用意するほどの思い切りも無いまま、濃い色合いのスーツに身を包んだ上田保春はメールに記されていた葬儀会館の入り口に立った。奥からは読経の声が聞こえてくる。狭い敷地で多くの外来者をさばくためかもしれない、入り口部分は扉や壁を取り払って完全に戸外へ向けて開けており、前を通り過ぎるだけで中の様子をくまなくうかがうことができた。ここに来るまでにあった誘導の看板と、遠くに掲げられた遺影を見るに、どうやらこれは本当に少年の葬儀であるらしかった。
 事前にメールを転送しておいたのだが、太田総司と有島浩二は姿を現さなかった。彼らはまたいつものようにマンションの一室で自分自身をのぞきこむ作業に没頭しているのかも知れぬ。死者の弔いに参列する意味など、本当は何も無いのかもしれない。彼らのやり方が正しいのだろう。少年は死に、その意識はこの世界から消滅した。残されたものたちが日常の連続の中で彼の存在に決着をつけるためだけの儀式に、確かに意味などというものは何も無いのかもしれない。しかし、そうやって世界の意味は順に消滅していくのではないか。すべての尊厳や、目に見えない何かは、そうやって消えてしまうのではないのか。上田保春は怒りを覚えた。それは義憤と表現してもいいものだった。しかし、結局のところその感情でさえも、彼らの無関心の前では嘲笑され、貶められ、無化されてしまうのだろう。萌えゲーおたくの前ではすべての価値が無化される。自分の中に何か少しでも大切なもの、人生への意味を抱いている者たちは、あえて彼らの前に立とうとは思わぬだろう。嘲笑と無力感は表裏一体の感情である。子ども時代の無力を追体験して、それが実際大したことではなかったと自分に繰り返すために、上田保春は萌えゲーを愛好したのかも知れぬ。そして気づく。萌えゲーおたくであることの無力感と、子ども時代の無力感は酷似していた。人間は幸福を反芻することはできない。それは泡のように、生まれた瞬間に壊れて消える。しかし、人間は不幸を反芻することができる。それは魂の内側に深く根ざし、そこへ意味づけすることで、あるいは消せぬまま否定か肯定を繰り返すことで、人間は充分に一生という時間を消費することができる。
 関係者ではないふうを装って、葬儀会館の表を幾度が往復したが、ついに焼香に立つことはできなかった。遠くから確認した少年の遺影に何かの感情を刺激されたような気になって、上田保春はコンクリートの壁面をなぐりつけようと拳を振り上げる。しかし、結局はそれをしなかった。なぜなら、以前映画で友人の死に主人公が壁を殴りつける場面を見たことを思い出したからだ。拳を振り上げたのは自分の判断ではない。この場面に適切な行動が膨大な虚構の蓄積から自動的にソートされた結果だろう。また、コンクリートの壁を殴りつけようものなら、拳を骨折するだろうと冷静に考えた。彼は自分が傷つくというリアルな想像に眉をしかめて、右拳をやわらかく左手で覆った。結局のところ上田保春は、事前に想像していたほどには悲しみを感じなかった。少年の死を眼前に彼が感じた哀切は、最良の萌えゲーのシナリオが提出した哀切よりも、はるかに感動的でも影響を与えるようでもなかった。なので、記帳し焼香を上げ、お悔やみの言葉を言う際に少年との関係を彼の両親にどのように説明するのかを考えたとき、真っ先に浮かび上がってきた感情は「面倒くさい」というものでしかなかった。いったん芽生えるとその感情は、たちまちずっと感じてきた本来であったかのように彼の心全体の雰囲気を決定し、支配した。上田保春はいとおしいものを抱くように右拳を胸元に引き寄せると、少年の遺影へ背中を向けた。それが少年との最後の別れだった。少年の存在は、彼の外側で無化された。
 照明を消した室内で、上田保春はモニターの前にほおづえをつく。萌えゲーの少女を映し出したモニターの前で、萎えた男性はいっこうに昂揚を見せようとしない。ズボンを引き上げると、彼は車のキーをつかんで玄関を出た。階段を下りる途中に、同じ階で一人住まいをしている老人とすれ違う。いつもは不機嫌そうにしているばかりだが、今日は上田保春の会釈に笑顔さえ見せた。頬を上気させ、何か嬉しいことでもあったのかもしれない。老人を見る上田保春の視野が倍率を上げ、その顔に刻まれた皺をクローズアップして映した。無秩序に引かれたように思えるその一本一本の線は、幾何学模様のように全体として意味をなしていることを彼は理解した。その皺のうちの一つとして意味を持たないものは無かった。それは老人の来歴を、人生を余すところなく表現しているのだった。上田保春は自身の没入に気づき、あわてて首を振る。そうだ、瑕疵だ、瑕疵を探すのだ。この完全さの中にたった一つ瑕疵を探すことさえできれば、老人の全存在を否定することができる。これまでも、自分はそうやって生きてきたではないか。狂おしく視線を動かせば、老人がパチンコ店のビニル袋を手提げにしているのが目に入る。この老人の機嫌は要するに、パチンコで勝ったという事実にだけ依拠しているのだった。上田保春は口元に嘲笑を浮かべようとして、気づく。パチンコをすることと萌えゲーをすることの間にはもはや何の優劣も存在しなくなっていたのだ。なぜ萌えゲーを愛好する自分が老人よりも上に位置づけられるのか、かつて確かに存在したはずの確信はすべて消失してしまっていた。その考えが浮かぶか浮かばないかのうちに脳内で猥褻な単語を連呼し、老人に挨拶を返すいとまもあればこそ、彼は足早にその場を歩み去る。
 外に出ると昨日までのようではなく、大気はわずかに冷気を含んでいるようだった。季節が移り始めているのか。空気中に含まれた湿気が肌の表面を撫でながら、ゆっくりと地面へと移動してゆくのを感じた。ふと空を見上げると、月が大きく出ている。それは原色のような黄色で、三日月の分だけ上弦を切り取られていた。ふいに思考が訪れる。それは上田保春の内側からではなく、どこか遠い外からやってきたように感じられた。地球と月が引き合うように、この地上に住まう我々は引き合い、例えその結果として生まれたものが殺人であろうと、この世界にとって悪ではなかった。上田保春は、月のさらに向こうを見た。世界は極大へと広がっていた。その底で上田保春は極小に過ぎなかった。彼は点描画の上の一つの点だった。極小の上田保春は極大へとつながっており、極大の世界は極小の彼へと収斂している。生命という円環を形成するために極大と極小のお互いは分かちがたく結びついていた。この森羅万象にある人間を含めたあらゆる事象は、その存在の基底に抜きがたく善を内包しているのがわかった。読経にも似た大きなうなりが渦のように巻いて周囲から迫ってくるのを感じ、上田保春は恐怖する。彼は逃げ出すように駐車スペースへと向けて駆け出した。車に飛び乗り、萌えゲーのテーマソングを最大ボリュームで流すとアクセルを踏み込む。急激なタイヤの空転の後、焦げたゴムの匂いを残して車は発進した。
 深夜の高速道路を上田保春の車が疾走する。危険な追い越しにクラクションが鳴らされるが、その音さえすぐに後方へ流れて消えてゆく。死んだ、殺された、少年が、自分が。あんなにも生きたがっていた彼らの、すべては中絶してしまった。死にたい、殺したい。いや、藤川愛美の前に自分は何人も殺してきたではないか。新作萌えゲーの画像をネットや雑誌で目にする度に、ネット商店から送付されてきた真新しいパッケージを取り上げる度に、その瞬間まで愛情を注ぎ続けてきたはずの少女を忘却してきたではないか。少女を殺害し続けてきたではないか。深夜に手ずから穴を掘り、自分にさえ気づかれぬよう穴を掘り、その墓穴へ冷えた少女たちの遺体を埋葬し続けてきたではないか。あの初恋の少女は今頃どこにいるのだろう。おかっぱ頭に着物姿のあの少女は、何をしているのだろう。あの頃は、彼女なしには日も暮れなかった。どこまでいっても逃げられない薄汚さに自分を殺したいようだったあの日々に、彼女の慈愛に満ちた微笑みが救いを与えてくれた。誰も触れえない彼女の清潔さは、現実に触れえない彼女の清潔さは、いつもこの世の汚れから自分を救い上げてくれた。あんなに焦がれたはずなのに、あんなに愛したはずなのに、今はその顔もはっきりとは思い出せない。彼女はまだあの頃のように自分を愛してくれているのだろうか。誰もが眉をひそめるような汚れを身にまとってみせることで、その奥にある清潔さを誰にも気づかれないようふるまう卑怯な自分を、彼女は許してくれるのだろうか。いや、それは不可能だ。あの美しかった少女はいまや皺深い老女へと変じ、山奥の一軒家で自分ではない男のことを待っている。意識が現実と虚妄の間を行き来し、気が付けば眼前には蛍光色の三角が並んだカーブが迫っていた。死ぬべきだ。上田保春の意識は明確にそう考え、アクセルを踏み続けることを命じたが、彼の両手はハンドルを逆へと切った。次瞬、視界はレースゲームのように横倒しになり、強い遠心力に身体が持っていかれるのを感じる。死にたくないのか。ここまで来て、まだ死にたくないのか! 強い衝撃に上田保春は意識を失う。しかし、それはほんの数瞬のことだった。気がつけば、歪んだ車体のフレームを額縁のようにして、粉々に砕けた窓ガラスの散乱する地面が逆さに見えた。右足に強い圧迫を感じ、身体を動かそうにもかなわない。右半身に熱いものを感じる。それはどうやら血が流れ落ちているせいらしかった。カーステレオからは、萌えゲーのテーマソングが大音量で流れ続けている。パトカーか救急車のものらしいサイレンが遠くに聞こえ、周囲には天井に張りつくコウモリのように何本かの人の足が見えた。上田保春は悲鳴を上げる。止めてくれ! お願いだから、誰かこの歌を止めてくれ! 彼の抱いたすべての想いは、ただその一点へ収束した。
 結局、上田保春は死ななかった。気がつけば彼は病院のベッドの上にいた。何度か田尻仁美からメールが来た。返信はもちろん、読むこともしなかった。一度、彼女は病室にまでやってきた。上田保春は薬で眠っているふうを装った。しかし、田尻仁美はきっとその無言の拒絶に気づいたはずだ。あとは断片的な白い映像をしか、思い出すことができない。
 一ヶ月の入院を終えて職場に戻ると、周囲によそよそしい壁のようなものを感じた。どうやらそれは彼に向けられた悪意によるものらしかった。だとすれば、やはり田尻仁美は自分のことを愛しているのだろう。仕事の引継ぎと久しぶりの外回りを終えてオフィスに戻ると、机上に備えたクリップボードに雑誌から切り抜いたのだろう、藤川愛美の画像の切り抜きがピン止めしてあった。それはまるで葬儀の際に用いられる生前の写真のように、上田保春の目に映った。それぞれが仕事の手を休めないまま、しかし周囲の意識が彼の動向に集中するのがわかる。上田保春の胸に訪れた感情は、悲しみだった。二度死ぬという苦しみは、いかばかりだろう。これ以上の陵辱を彼女に与えるわけにはいかない。丁寧にピンを外すと切り抜きを背広の内ポケットへとしまい、右手でそっと押さえる。この胸の内ならば、誰にも藤川愛美を傷つけることはできない。瞬間、声にされぬ悪意と嘲笑が周囲に膨満するのが感じられた。藤川愛美は上田保春だった。心の奥深いところにある処女地、そこを土足で汚させぬため、余人の手に触れることから永遠に遠ざけておくため、彼は全身全霊で立ちはだかりつづけてきた。自己愛を投影し、守るべき可視の何かとして具現した存在、それが上田保春にとっての藤川愛美だった。午後の業務のためにファイルを取り出しながら、彼はただ田尻仁美に謝りたいと思った。彼女のせいではなかった。萌えゲーおたくであることを知られたくないという自己愛のためだけに、彼女の誘いを断ることができなかった。田尻仁美のことを、他人のことを大切に感じるのならば、その結果が何を生もうと断るべきだったのだ。あの夜のことをまるで無かったかのようにふるまう自分に、彼女はひどく傷つけられたのに違いない。いずれを選んだにせよ、結局は同じこの場所にたどりついてしまった。田尻仁美に期待させ、その期待を裏切ることで手ひどく傷つけてしまう方のバッドエンドにたどりついた。人の中で存在することを選択した以上、自分自身の本質を隠し続けて生きることなど、誰にもできはしない。その人間性に対する侮辱が死の瞬間まで看過され続けるほど、この世の善は盲目ではない。すべて、生身の人間を愛することのできない上田保春が、人生に負うべき負債だった。
 その晩遅く、上田保春は大田総司のマンションを訪れた。合鍵を使って扉を開けるとまっさきに、人体から排出されたものが外気と触れることで生じた悪臭が鼻をついた。床には相変わらずビールの空き缶が散乱し、奥のテレビにはなじみのロボットアニメの軍人将棋ゲームが映し出されているのが見えた。腰に分厚く巻いた肉に上体を預けるようにしてまどろんでいた太田総司だったが、気配を感じたのか億劫そうに顔を上げた。コンビニで買ってきたビールを横抱きに奪っていこうとするのに、上田保春はわずかにビニルの手提げを持ち上げてそれをかわす。バランスを崩した太田総司は片腕を宙に泳がせながらたまらず床へ倒れ込み、うらめしそうな視線を投げかける。その様子を見て、彼の心に悪意が生じた。この萌えゲーおたくをひどく傷つけてやりたかった。しばし思考をめぐらすとこれまでのようではなく、自分の中に太田総司を的確に傷つけることのできる力が生まれているのを知った。彼の弱さ、彼の執着がまるで可視の実在であるかのように上田保春には見えた。ただその言葉を言えば、太田総司は永遠に呪われるだろう。彼はいったいここで何を待っているのか。誰を愛する代わりに、自分を愛しているのか。上田保春は大田総司の目を見ながら、ゆっくりと言った。「少女はもう、君を迎えにこない」
 個人的な腹いせに過ぎないことはわかっていた。殴らせるつもりだった。自分が人を傷つけることができるのを確認するために彼を利用したのだ。それは同時に、この陰鬱な会合からの訣別の宣言でもあった。だから上田保春は殴られるべきだった。しかし、太田総司は一瞬驚いたような表情を見せると、赤子がいやいやをするように首を振り、床に額を押しつけてさめざめと泣き出した。この苛烈な世界にかろうじて生き残った最後の少女たちは、自らの苦しみに耐えることだけで精一杯だ。少女が迎えに来ることを待ち続ける萌えゲーおたくたち。そして、自らの苦しみにうずくまる少女たち。いったい、誰が救われるのだろう。大田総司のすすり泣く声と、ゲームの効果音だけが室内に流れている。やがてゲームに没頭しているようだった有島浩二が、画面からは目を離さないままぽつりと言った。「少女は俺を迎えに来るよ」その声はかすかに震えているようだった。「少女がいつか俺を助けに来る。俺にはそれがわかっているんだ」
 テレビ画面の明滅が眼鏡に映り込み、有島浩二の表情はうかがえなかった。しかし、その後ろ姿はひどく弱々しく、ほとんど泣いているようにさえ見えた。その指は彼から切り離された何かのようにゲームのコントローラーを操作し続けている。上田保春の前では露悪的にふるまい、エキセントリックな態度をとり続けていた有島浩二。それは複雑に屈折した劣等感の表出だったことがいまならばわかる。彼が発する本当の声を上田保春は初めて聞いたように思った。到底理解のできぬ不気味な、位相の違う存在だと考えていた彼のことをこれまでの長い年月をかけてよりも、その一言でより多く理解することができた。上田保春は自分の行為をひどく後悔した。
 「本当に、迎えに来るといいな」
 なぐさめや償いの気持ちからではなく、心の底から、祈りにも似た感情に突き動かされて彼は言った。祈り――それは力ある大きな存在に向けてするのではない。かなえられたいと思ったり、救われたいと思って人は祈るのではない。自分以外の誰かの存在を認め、その幸福を本当に信じたいとき、人は祈るのだ。本当に、いつか少女が迎えに来るといい。
 「ああ、迎えに来るといいな」
 有島浩二が答える。それは彼らの間に成立したおそらく初めての意思疎通であり――そして、最後の会話となった。
 現代の成人年齢は以前に比べて二十歳ほども高いのだという。だとすれば、いつまでも老人たちが枯れぬのは当たり前のことである。老人たちの年齢から二十ほどを引いてみるがよい。それが彼らの実年齢なのだ。つまり、彼らが枯れて、かつての老人たちが果たした賢者の役目にたどりつくのは、寿命をはるかに越えた先となる。確かに医学は進歩し、女性は四十を越えても子どもを産めるのかも知れぬ。情けない男たちは一回りも年上のそういった女性の子宮に注ぎ、人類は滅亡を回避できるのかも知れぬ。しかし、孤絶した魂を全へと返し、生と死の間の橋渡しをするあの賢者たちはすべて歴史のかなたへと消え、現世にはただ生に関わり続け、とどまり続けたいという欲求を捨て切れぬ者たちだけがあふれる。そして誰もが誰かを導かぬまま、自分という存在を放棄することのかなわぬまま、完全な個として消滅してゆくのだ。あの少年のように救いをもとめながら、けれど救うべき誰かは自分だけにとらわれて、そうしてみんな孤絶のうちに死んでゆくのだ。自分が聖者でありさえすれば、少なくともあの少年だけは救われたのかも知れない――上田保春は痛恨の思いで振り返る。しかし、すべては繰り言に過ぎなかった。少年への後悔の気持ちを心の中に繰り返すことも、それは結局その繰り返しの果てに疲弊して、少年の死そのものが風化して意味を無くすためにそうしているのに過ぎず、どこまでいってもやはり上田保春という意識から、その意味の重大さから離れられないままなのだ。世界の意味をすべて無いものにしながら、彼の内側にある動物が彼自身の意味を無化してしまうことを許さない。だから、我々は醜悪なのだ。世界に優先する自分、何よりも大切な自分。絶望は存在しない。なぜなら絶望は我々の外側にあり、それはすでに我々にとって無化されている。上田保春の賢者にはなれなかった祖母。彼の精神に起こった変容から一ヶ月後、祖母は元いた施設へと戻された。朝食の膳を運ぶために母が屋根裏へと上がると、木枠に身をもたせかけたまま、差し込む陽光に横顔を照らされて、祖母の精神は完全にこの世界の住人では無くなっていた。ただ微笑みを浮かべ、すべての働きかけに力を失った祖母。彼女は兄に会えたのだろうか。その瞬間の祖母が幸せだったことを、上田保春は祈らずにはおれない。彼もまた、誰かにとっての老賢者、生と死を橋渡しする存在になることはかなうまい。きっとすべての社会的な制約が消えた先、自分に残るのは萌えゲーの少女への恋慕だけに違いないから。
 退勤間際に、年間の有給休暇すべてを明日よりまとめて取得したい旨の書類を上田保春は提出した。制度が存在するからといってそれらが額面通りすべて利用可能なものであると信じるような社員は、組織の中で長生きできまい。書類と上田保春へ交互に視線をやり、呆気に取られる上司の次の言葉を待たないまま、彼は足早にオフィスを後にする。何か起こったようだと感じた同僚だが、その内心の疑いも「お疲れ様でした」という言葉に集約されるだけである。萌えゲー愛好を知られたところで何かが変わるわけではなかった。一人の人間の性癖で業務を停止させるほど、組織は感受性に満ちた場所ではない。組織からの要請を満たし続ける限り、個人は全く平等に扱われるのだった。結局のところ、萌えゲー愛好は、彼がずっと想像してきたような破滅とは関係が無かった。ただ上田保春は、破滅の一日を身近に感じることでこの人生という永遠が作り出す虚無への防戦に必死で持ちこたえていたのだ。そう思い至り、彼はひとり微笑みを浮かべた。ようやく心の底から気づくことができた。萌えゲーは真の意味で、上田保春の生きる上でのすべてだった。萌えゲーおたくであった自分がいとおしい。あんなにも苦しみながら、何も投げ出さずにこの世界に踏みとどまることを選び続けた一人のおたくが、ただいとおしい。そしていまや、この永遠の中で彼を現実に留めおく理由は一つとして無かった。
 上田保春は自宅にこもり、一切外部との接触を断って萌えゲーをプレイし続けた。ネット商店から新たな萌えゲーが配達されるのと宅配ピザが炭酸飲料とピザを届ける他には、誰とも連絡を持たなかった。意識が途絶えるまでパソコンに向かい、食べたいときに食べたいだけ詰め込む。全裸で萌えゲーに耽溺する上田保春の腹部は、日に日に厚みを増していく。いまこそ太田総司の気持ちが分かる。その姿はイコンのように、萌えゲーおたくなるものの象徴として上田保春の中に存在していた。彼はずっと太田総司のようになりたかったのだ。
 いったい何日その生活が続いたのだろう。モニターの前に座したまま眠り、覚醒すればただちに萌えゲーを継続する。特に眠りから覚めた直後には現実認識が混濁し、会社に提出した有給休暇の日付はいつまでだったかなどと反射的に考えてしまう。いまさらそんなことにこだわる自分がいるのが可笑しく感じられた。携帯の電源はオフにし、家の電話も宅配ピザを注文するとき以外はコードを抜いてある。締め切られた雨戸とカーテンは、昼と夜との区別をすら教えない。視線を落とせば、ずっと萎えたままの男性が目に入る。上田保春は苦笑した。こんなにも恋い焦がれているのに、自分の身体はそれを否定する。吐息とともに顔を上げると、モニター上の少女が二重写しになっていた。モニターの見つめすぎで視野がかすんでいるのだろうと思い、卓上の目薬を差して両目をこする。しかし、再びのぞき込んだモニターの少女は、やはり二重写しのように見えた。いや、待て。モニターの内側には少女はひとりしかいない。もう一人は、そう、モニターの表面に鏡のように映し出されているのだった。二重写しの少女の後ろには、見慣れた冷蔵庫があった。この部屋だ。理解が腑に落ちると背筋に寒気が走った。確かに、背後に誰かが立っている気配を感じる。上田保春はモニターに映った少女の顔を見る。その表情から何らかのメッセージを読みとれるのではないかと思ったからだ。しかしそこにあるのは、頬を薄紅に染めた恍惚の表情でしかなかった。それは祖母と同じ、無表情と何ら変わるところがなかった。椅子の背もたれへゆっくりと身を預けると、かすかにきしむ音が聞こえた。振り返るべきなのだろうか――上田保春は逡巡する。萌えゲーの少女たちへの募る恋慕を身体が否定し、もはや彼女たちを見ての自慰もかなわぬのに、こんな馬鹿げた萌えゲー耽溺に身をやつしているのは、少年や祖母への哀悼の気持ちからか。このあまりに平等で美しい現実の中で自分の意識がもう耐えられない、耐えたくないと感じているのを知ったからではないか。振り返ればきっと、この上田保春という名前の下に統御された一個の人格は崩壊し、終わりを迎えることができるに違いない。
 本当は、自分はどうありたいのだろう。
 太田総司のような肉の塊に墜ちて、人の愛を――なぜか田尻仁美の顔が浮かぶ――再び試したいのだろうか。突き出た腹部の上に両手を組んで、生じた迷いにしばし逡巡するための時間を与える。立ちつくす少女は、相も変わらぬ恍惚の無表情でこちらを見つめるばかりだ。やがて決然と顔を上げた上田保春は、ゆっくりと背後を振り返る。その両目の端に涙が盛り上がる。その表情が安堵とも喜悦とも言えないものにゆるんでゆく――
 確かに目の前に見たと思った少女は、しかしモニターに映しだされた画像が彼の網膜に焼きつけた残滓に過ぎなかった。上田保春が振り返る一瞬の間に、少女は消えてしまっていた。彼の表情は笑顔のまま張りつき、永遠に感情を無くしてしまったかのようだ。少女は最後の最後で、上田保春を迎え入れることを拒絶した。「少女は迎えに来ない」――彼は自分自身の言葉によって復讐されるのだ。
 結局、自死しか救われる道は残されていないのか。罪悪感や虚無感が存在するのは、魂の本来が善を希求するからだ。それはあまりに自動的に行われているため、その動きを自覚することはほとんど不可能である。善の達成が許されぬ世界に住む住人は、その苦痛から逃れるために善を汚し、冒涜するしか方法が無い。そして、本質的に善であれないことを知った個人の生に残るのは、ただ身を焼くような苦しみだけなのか。  <了>