人間への長い道。

1st GIG “エンカウンター”

 タクシーから降りてくる商業目的ではない種類の冊子が底の抜けそうなほどぎっしり詰まった紙袋を両脇に抱えた小太りの男。タクシーの窓から両耳にボール紙で作成した奇ッ怪な飾りをつけ髪の毛を緑に染めた人外の顔面を有する婦女子が手をふっている。露骨な嫌悪の表情をみせる運転手。タクシーが走り去る。小太りの男、マンション入口の人影に気づく。合金製の街灯がはた目にわかるほどひしゃげる非常識なデブっぷりでもたれかかりながら、金髪というよりむしろ黄色の髪をし女物の服に身を包んだ男がたたずんでいる。
 「マルチのコスプレか。なかなか洒落た女とつきあってるじゃないか」
 「誰だ、おまえ」
 「今日の即売会、見せてもらったぜ(男の足元に異様にデフォルメされた人体の掲載された商業目的ではない冊子を投げ出す)」
 「(マンション脇の繁みから異様にレンズの突出したカメラとともに出現して)すげえよ、おまえのエロ絵はサイコーだ」
 「(男の背後のマンホールから汚水にまみれて出現して)だが、惜しいことに奴らではおまえのエロ絵を生かしきれていない」
 「(マンションの屋上から自由落下、アスファルトの路面で二三度バウンドしてから立ち上がり)おまえのエロ絵には俺たちのシナリオがベストだ」
 「そういうことだ。(無酸素運動を数十分も続けたような荒い息をしながら体のあちこちの部位から若干みどり色がかった煙を絶えず噴出しながら歩みより、男の上着のポケットにフロッピーディスクをねじこむ)よかったら読んでみてくれ。俺たちの作品だ」
 「……(小太りの男、そのまま四人の脇を通り過ぎマンションへと入っていく。と、玄関ホールに設置されたゴミ箱にフロッピーディスクを投げ捨てる)」
 「おい、待てよ、てめえ!(激昂して駆け寄り、男の胸ぐらをつかむ)」
 「残念だが俺の愛機はマックなんでね。それに、俺は遊びでおたくをやっているわけじゃない」
 「なんだと。俺たちのおたくライフが遊びだとでもいうのかよ!(握りしめた右こぶしをふりあげる)」
 「(後ろからそのこぶしをつかんで)やめとけ」
 「でもよォ!」
 「(小太りの男を見ながら)ひとつだけ言っておく。俺たちはちょっと自意識の高い時間あまりの学生や無職の人間が自身の精神的疾患に気のつかないまま手なぐさみにやるような、職を得るなどして社会に許容された瞬間に卒業できてしまうような、そんな中途半端なおたくっぷりじゃないつもりだ。俺たちは真剣なんだ。だからおまえも真剣に考えてみてくれ」
 「フッ。(きびすを返し歩み去ろうとする。が、振り返り)そうそう、さっきのあの女だがな。あれはマルチじゃないぜ。パーマン四号だ(男が言い終わると同時にエレベーターの扉が閉まる)」
 「なんだって? あれはパーやんだったっていうのか!? バカな…!!」
 茫然とたちつくす異様な臭気を発する非常識なデブっぷりの四人の青年たち。様々の事件で過敏になった近所住人たちの不審のまなざし。遠くから近づくパトカーのサイレン。都会のネオンサイン。

to be continued

2nd GIG “パッション・ハリケーン”

 ファミリーレストラン奥の一角を我がもの顔に占拠する非人間的なデブっぷりの一団。テーブルの上には気弱そうな青年がほとんど奇形ともいうべきグラマラスな姿態の婦女子の集団に取り囲まれ困惑の表情を浮かべている図の掲載された雑誌や、その他さまざまの一般性に欠ける品々がところ狭しと広げられている。レジの裏で両手に顔をうずめて泣くアルバイトらしいウェイトレスと、それを慰める口髭の雇われ店長。
 「(公共の場でするには不適切な大声で)しっかしよォ、こないだはホント大変だったよなぁ」
 「(どこか均衡の崩れた奇怪な抑揚で)ああ。署長がエロ同人好きじゃなかったら俺たちは今頃どうなっていたことか。ラッキーだったな」
 「(対面に座る肉厚の人物を見ながら)ラッキーと言えば……まったく、どういう心境の変化なんだか」
 「(テーブルの上においた紙に覆いかぶさるように数センチの距離まで顔を近づけてペン走らせながら)別におまえたちのことを認めたわけじゃない。ただ前の連中が気にくわなくなっただけさ」
 「(羽根をむしられたニワトリのように無様に両手を広げて)これだよ!」
 「プルルッ、プルルッ」
 「(非人間的なデブっぷりにオレンジジュースのコップを口元に持っていくのを妨げられて痙攣しながら表面上は平静を装って)電話鳴ってんぜ」
 「プルルッ、プルルッ」
 「(非人間的なデブっぷりに何度も足を組もうとしてできず痙攣しながら表面上は平静を装って)おい、おまえのケータイだよ」
 「(紙の上に覆いかぶさったままで)小学生の乳首の隆起をトーンを使わずに自然かつ官能的に表現するのにいそがしいんだよ……(鳴り続ける携帯電話に手をのばし)もしもし。…ああ、あんたか。ああ。…わかった。それじゃ」
 「プッ」
 「さあってと、(大きくのびをしつつ身体の後ろで手を組もうとしてできず必死の形相で痙攣しながら平静を装って)そろそろ移動しようや」
 「あ、俺つぎはカラオケがいいな。もちろんFourSeasonsの”北へ。”が入ってるとこじゃなきゃイヤだぜ」
 「(無言で立ち上がり)俺はここで抜けさせてもらう」
 「おい、待てよ!(激しく立ち上がり肩をつかむ)」
 「悪いがカードキャプターさくらは本放送をリアルタイムで見ることに決めてるんだ(手を払いのけて店の入り口へと歩き出す)」
 「待てったら! なぁ、CHINPO(本名:上田保椿【うえだやすはる】の名前を逆から訓読みにしたもの。あだ名)からもなんとか言ってやってくれよ」
 「仕方ないさ。あれがヤツの流儀だ(両脇下の黒ずんだTシャツにジーンズの両脇から肉をはみださせて出ていく後ろ姿を見送る)」
 「チッ。まったくつきあいの悪いヤローだぜ…(ひょいとおがむように片手をあげて)ほんじゃ、ごちそうさん」
 「待てよ。誰がおごるって言ったよ」
 「あれ、今日の集まりはCHINPOのおごりじゃないの?」
 「まさか。それに俺は今日一銭も持ってないぜ」
 「なんだって! それじゃ、ここの支払いはいったい…」
 茫然とたちつくし互いに顔を見あわせる非人間的なデブっぷりの四人の青年たち。店内でこれまでの数時間に行われた様々の無意識的反社会活動に業を煮やしたアルバイトのウェイトレスと雇われ店長。遠くから近づくパトカーのサイレン。都会のネオンサイン。

to be continued

3rd GIG “レボルーション”

 政府のする少子化対策として、男女の即時的な発情を促しいつでも交尾にうつれるように薄暗く隠微にあつらえられた店内。軽快な音楽にあわせて響く地鳴りのような騒音。
 「どうしたの。いいじゃない、同人即売会なんてどうせ遊びなんでしょ。同じ遊びなら、ほら、こっちのほうが……」
 巨大な画面に表示される矢印に反応して足下に散弾銃を打ち込まれたかのように飛び跳ねる屠殺場の畜生を連想させるデブっぷりの幾人もの青年たち。彼らの顔に浮かぶ粘着質の汗に恍惚とした見苦しい表情。一切の客観性を喪失したその有様はむしろ新興宗教にも似て――


 マンションの一室。窓はビデオテープの山にふさがれ、昼間だというのに室内は薄暗い。様々の一般人には意味をなさない物体に場所を取られ、部屋の中央に身を寄せ合う五人の黙示録的なデブっぷりの青年たち。シューシューという排気音にも似た耳ざわりな呼吸の音。彼らが取り囲む台の上にはすべての男性が持つ願望的な性犯罪を発現させることを目的にしているとしか思えない破廉恥なポーズをとったこの地球上に存在するあらゆる人種を検証しても決して見いだせないだろう種類の髪の色をした婦女子の模型が置かれている。
 「(手垢にまみれた大学ノートに鉛筆を走らせながら)しかし先週は本当に大変だったな」
 「(わかりもしないのに鉛筆を立てて構図をためすがめつしながら)ああ。ヒゲの雇われ店長がエロ同人好きで、学生アルバイトのウェイトレスがデブ専やおい好きだったからよかったようなものの…」
 「(突然立ち上がりさえぎって)やめろ! その話はもうするんじゃねえ!」
 「(涙ぐみながら)ひどいよ…本当にひどい…」
 「(なんとなく二人から目をそらして)すまない。俺たちにはああするしかなかったんだ」
 「(室内に流れる気まずい空気をうち消すようにわざとらしく)さぁ、できたぞ! 見てくれよ(と、大学ノートをみなに向けて広げる。そこには元の題材と似ていなくもないが、奇妙な根本的ゆがみを感じさせる絵が描かれている)」
 「(顔の表面の垢が溶けだして黒く染まった涙をぬぐいながら)わぁ、すごいや、CHINPO! もうトゥハートについてはどのキャラクターも完璧だね!」
 「(大橋巨泉を想起させる黒縁メガネを人差し指でわずかに上下させて)フン…」
 「おい、おまえいま鼻で笑わなかったか?(肉厚の腰を浮かせる)」
 「(二人のあいだに転がるように割って入って)やめとけ!」
 「(腰を浮かせるだけのアクションにフーフー息をきらせながら)いや、言わせてくれ。こいつはこないだの即売会をブッちぎりやがったんだぜ」
 「(大学ノートに描かれた美少女の乳房の下を指でしきりとこすって陰影をつけながら)急な約束が入ったって言ったろう」
 「(素人がする相撲取りのものまねそっくりの声で)ああ。だがその約束の内容については教えてもらってないぜ」
 「(大学ノートに描かれた美少女の股間を指でしきりとこすって陰毛をつけながら)あんたたちには関係ないだろう」
 「大アリなんだよ! なぜならおまえはうちのサークルのエロ絵担当だからだ! おまえは成人指定同人誌からエロ絵を脱落させるという人間として最低のことをやらかしちまったんだ!」
 「やれやれ…(立ち上がろうとするも胴周りにへばりついた肉に邪魔されて何度もスッ転びながら)このさいだから言っておく。あんたらがどう思っているかは知らんが、俺は真剣に同人活動をやる気はまったくない。俺はただマスをかきたいから描く。(へばりついた肉で完全にまっすぐには伸ばすことのできない芋虫のような指で指さして)オーケー?(部屋から出ていく)」
 「あいつめ!(壁を拳で殴りつけようとするも、地肌が見えないほど貼ってあるポスターに気づきあわててひっこめる)」
 「(顔をしかめだんごッ鼻をひくひくさせて)おい、なんだか焦げ臭くないか?」
 「ああ、悪い。たぶん俺の煙草だ」
 「バカヤロウ! 俺のグッズにヤニがついたらどうすんだ! それにこの部屋には引火しやすいものがたくさん…」
 平和そのものを象徴する昼間の住宅街に鳴り響く爆発音。無邪気に遊ぶ子どもたちの上に降り注ぐガラスの破片。母親たちの身も世もない痛切な悲鳴。遠くから近づく消防車と救急車のサイレン。

to be continued

4th GIG “なんて世の中だ!オナニー好きほど腎虚で早死にをする……!!”

 逃げまどう普通人の三倍程度の肉を常時輸送しなければならない体質の男女たち。その群れの動きにあわせて生ゴミの袋から染みだす汁の臭いをしたもはや視認できるみどり色の大気がゆっくりと移動しはじめる。電線で元気にさえずっていたスズメたちがその大気に巻き込まれたとたんに硬直してまっさかさまに落下、アスファルトの地面に叩きつけられる。
 「キャーッ!」「た、助けてくれぇ!」
 「(1メートルもあるアリクイのような舌で手にしたフィギュアをべろべろとなめまわしながら)ヒャーッハッハ! このブースは占拠した! たった今からここにあるすべてのアイテムは俺たち牙一族のものだ!」
 「(環境団体は真っ先にここを攻撃するべきだといった風情でうずだかく積み上げられた商業向けのキャラクターの裸体やその交接を取り扱った商業目的でない冊子に両手をあわせて高飛び込みの要領で飛び込みながら)うひょぉッ! なんて豊富なせんずりネタなんだ! アニキの見立ては間違いじゃなかったぜ!」
 「(ブースの売り子が着ている破廉恥極まる薄布をはぎとりながら)たりめえよォ! これで当分は俺たちのオナニーライフは安泰だぜ!」
 「(遠くからシルエットで)YOUはCOCK! 俺のチンポ、固くなるゥ」
 「な、なんだありゃ」
 「(夕日をバックに徐々に接近しながら)YOUはCOCK! 愛で――主に二次元を対象とした――チンポ、固くなるゥ」
 「(ブースの売り子が着ていた破廉恥極まる薄布に肉厚のボディをぎゅうぎゅうと押し込みながら)へ、変態だ! 公衆の面前であんな恥ずかしい単語を臆面もなくしゃべるなんてこれはもう最悪の変態に違いないぜ」
 「(顔面の上部と下部をいったん分離したのち、くの字型に誤って再結合させてしまったような歪んだデッサンで)それ以上の狼藉はやめておけ」
 「なんだとこの七曲がりチンポめ! (男の脂肪みなぎるボディを殴りつけるもその弾力に大きくはじきとばされ男子と男子の肛門性愛を主題とした商業目的ではない冊子の山につっこむ)ひィィィ! 肛門を拡張されるゥ! アニキ、アニキぃ!(水に溺れた人のリアクションをする)」
 「(男性のさきばしりを象徴する涙を滝のように流しながら)うぉぉぉぉぉッ! おまえの肛門だけを狸穴やもぐら穴のように惨めに拡張させはしない! 今行くぞ!(後を追って飛び込む)」
 「アニキぃぃぃぃ!(両手を広げる。飛び込んできた兄の先端と待ちかまえる弟の先端がスローモーションで接触する)」
 「あっ…」「あっ…」
 「(二人が薔薇を背負い頬を乙女のように赤らめつつ熱い抱擁をかわしながら男子と男子の肛門性愛を主題とした冊子の海の中へと消えていくのを見ながら)ば、ばかな! あの無敵の殺人兄弟を手玉にとるなんて…!! おまえはいったい何者だ!?」
 「(男に肉厚のボディをしきりと押しつけながら)ただの人間だよ」
 「ひぃッ! た、たのむ、殺さないでくれ」
 「(二重アゴにおたく特有の根拠のない優越感をみなぎらせながら)遅かったようだな。このデブっ腹をはなすと同時におまえの視力はうばわれる」
 「い、いやだ、そんな…!! 現存するすべての女性性を凌駕して俺たち男性自身を三次元的に膨張させるあの隠微な二次元踊りをもう見ることがかなわないなんて、そんなのひどすぎる! これから俺はどうやってオナニーすればいいんだ…(むせび泣く)」
 「オナニーとはイマジネーションだ。それを忘れ二次元美少女の破廉恥踊りを記録した様々の電気的媒体などを優先して購入・使用した自身の愚かさを発射できない欲求不満の中でもだえなげくがいい(男、ゆっくりとデブっ腹を引きはなす)」
 「あひゃぁぁぁぁぁぁッ!(溶暗)」


 「(ケンシロウというよりはむしろ小太りのアミバといった容貌で小鼻をぷくぷくとふくらませながら包帯ぐるぐる巻きの両手を振り回して)…というわけさ」
 「(両足のギプスを天井からつり下げられた養豚場の出荷前の肉を連想させる格好で)なんだか嘘っぽいなぁ。そんな行動力のあるヤツがおたくやってるわけないじゃん。だいたい牙一族ってなんだよ。パクりすぎだよ」
 「(顔全体を石膏で固められくぐもった声で)まぁまぁ、いいじゃないか。それにしても先週はたいへんだったな」
 「(下半身の肉の谷間からブツを探り出し尿瓶につっこむ作業に四苦八苦しながら)まったく。一歩間違えば全員オダブツってところだったからな」
 「(手のひらに拳を打ちつけようとするもデブっ腹に妨げられてできず酸欠の太りすぎた金魚のようにバタバタ暴れながら)しっかしあの野郎め、一度も見舞いに来ないってのはどういうつもりなんだろうな!」
 「まだ俺たちのことを本当の仲間だとは認めていないのさ。…俺たちはあいつにエロを押しつけすぎていたのかもしれない。エロ無しの自己満足的なストーリーもので同人をやるってのも、アリなはずなのにな(なんとなく黙り込む一同)」
 「(小さな金具を手に)ところでこれ、何かな」
 「バカヤロウ! それはベッドの角度を調整するための…」
 中央で突然二つに折れて勢いよく上方向へはねあがるベッド。肉の潰れるにぶい音。サンドイッチ状に屹立するベッドだった物体から流れだす赤い液体。にわかにあわただしさを増す病棟内。”手術中”のランプが暗闇に赤く点灯する。都会のネオンサイン。

to be continued

5th GIG “ジ・エンド”

 電気街のとある量販店の周囲を十重二十重に取り囲む無数の人々。その尋常とはちがう光景の中でさらに異彩をはなつ四人の肉厚のボディの青年たち。照りつける陽光。青年たちの身体の肉という肉のすき間から汗が音をたてて流れおち、その足下に子どもならば泳ぐことが可能なほどの水たまりをつくっている。痩せこけてあばらを浮かせた猫が一匹ふらふらと歩いて来、水たまりに舌をつける。直後、激しい痙攣とともに白い泡をふきながらひっくり返る。
 「(両手で肩を抱き、歯をがちがちいわせながら)ダメです、隊長。私は、私はもう…」
 「弱音を吐くな、二等兵! こみパ(Leaveの新作エロゲー『こみゅにてぃパーキンソン氏病』の略称。大学卒業後も定職につかないまま遊びほうけていた主人公が、パ病の患者を身内に持つ美少女と出会い、肉体の不自由なパ病患者の中に高い神性を見いだし彼らを導く新しい社会集団の創造を決意する。苦難、挫折、希望、そして裏切り――様々の魂の遍歴を経て、ついに主人公はこの世界に人間存在をかくあらしめる絶望のシステムの正体を知り、より高い唯一無二の実存として覚醒してゆく。特に物語のクライマックス、ハレルヤをバックミュージックに主人公の恋人の身体を依り代として降臨した大宇宙にあまねく普遍在するすべての生命の大母とするセックスシーンは圧巻。「なんという神々しさ! なんという地獄のようなエロさ! そしてヌケない! これはもはや犯罪だ!」とエロゲー業界すべてとその追従者たちに激震をまきおこすことになる)はもう目の前じゃないか。脱落することは許さん。これは命令だ。我が隊の全員が生きて、こみパを持ち帰るのだ!」
 「た、隊長どのォッ!」
 「(片手をひらひらさせて顔面に風を送りながらふたりのかたわらで白けて)ねえ、もうやめたら? 見てるほうが暑いし」
 「(途端に興を失って座り込み)ああ、やめだやめだ。少しは退屈しのぎになると思ったんだけどな……それにしても先週はたいへんだったな」
 「(急に泣き出し)ぼくだ、ぼくのせいなんだよ、ぼくがすべて悪いんだ」
 「確かにいまCHINPOは集中治療室で生死の境をさまよっている。だが医者もまったく絶望的だとは言わなかったじゃないか。CHINPOの魂がまだあきらめていないなら、CHINPOが本当にチンポを持っているなら、平面美少女がそのバストを破廉恥に揺らすことによって創りだす疑似三次元空間を見せつけられて帰ってこないはずがないじゃないか。そのために、いま俺達はここにいるんだ」
 「(眼鏡を人差し指で上下させ)フン…」
 「(鼻息荒くつかみかかろうとしながら)おい、おまえ鼻で笑わなかったか?」
 「(日本国土を蹂躙・占有する犯罪的なデブっぷりで二人のあいだに割り込みながら)やめとけ! アイツのおかげでこみパを正規の発売日より一日早く販売する量販店の存在を知ることができたんじゃないか。いまは一刻を争うときだ。この一日がCHIINPOにとってどれだけ重いかおまえにもわかるだろう…アイツはアイツなりのやり方でCHINPOのことを心配しているのさ。ただ、少し不器用なだけで」
 「(照れ隠しのように邪険にふりはらって)どうだかね」
 「(シャッターが半分開き、中から店員が出てくる)お待ちのお客様方に連絡申し上げます」
 「おい、出てきたぜ」
 「いよいよだな」
 「俺はいま、はじめてエロゲーをプレイした中学生の小僧ッ子のように胸を高鳴らせているぜ!」
 「フン…」
 「(拡声器で)大変申し訳ございません。ただいま通達がありまして、Leaveの新作『こみゅにてぃパーキンソン氏病』は更なるクオリティアップのため、発売延期となりました。(騒然となる周囲の人々)ご安心下さい! ご安心下さい! お待ちのみなさまにはただいまより予約券をお配りいたしますので…」
 「なんだって!? 延期だって! それじゃ、それじゃCHINPOの命はいったい……」
 茫然と立ちつくす四人のエロゲー購入希望者たち。場所は変わって、都内の病院。集中治療室の中でベッドをふたつ並べた上に寝かされた犯罪的なデブっぷりの青年。青年につながれた計器のひとつに表示された矩形が徐々に勢いを弱め、ついにはまったく水平となる。医者と看護婦が駆け込んでくる。脈を取り、ペンライトで瞳孔に光を当てる医者。首を振り、重々しく口を開く「記録してくれたまえ」。都会のネオンサイン。

to be continued

6th GIG “クレイドル”

 販売目的ではない漫画を大量に陳列・賃貸することで利潤を追求する図書館でない店。見た瞬間にこれは尋常の社会生活を営む種類の人間ではないと理解されるものや、背広姿など風体はまともだがあまりの目の輝きの無さやあまりの目の輝きに異常を認められるものが大量にたむろしてその精神的負の質量にもかかわらず不気味なまでの整然さで漫画を閲覧している。その中でもひときわ異彩を放つ一人の青年。椅子を三つならべ腰掛けなお左右に肉をあまらせるほどのデブっぷりで「一人一度に五冊までにお願いします」の張り紙が隠れるほどにうず高く漫画本を積み上げて本を大事にするものが見たならば発狂するようなやり方で製本部分が負荷に耐えかね分解するほどに本を左右へ押し広げ棟方志功もかくやという勢いでぺージに5センチの距離まで顔を接近させギンギンに冷房の効いた店内でなお粘着質の汗をだらだらと垂れ流しながらかれをすべての社会集団から遠ざけてきたのだろうと想像させる異常な虚構への没入力でもって周囲の哀れみの視線や店員の再三の注意も気づかずに漫画をむさぼり読んでいる。
 「(一人の男が背後から歩み寄ってくる。一見普通だが頭の”リカさま命”と書かれたバンダナがその最初の印象を致命的に裏切っている)よぉ。久しぶりだな」
 「(クリーチャーという形容がもっとも正しい動きで顔をあげ)ああ、ご無沙汰してます」
 「(積み上げられた本を見て)『キン肉マン』『スクラップ三太夫』『キックボクサーマモル』…おいおい、ずいぶんとレトロじゃないか」
 「へへ、ジャンプ黄金期の終焉とほぼ同時にその才能の斜陽を迎えた一漫画家の悲劇的な運命を自分の少年時代にフィードバックさせつつ追体験していたんですよ」
 「(肩をすくめて)酔狂なこった。最近見かけなかったが、どうしてたんだい」
 「ようやく同人活動のほうが軌道に乗り始めて、そっちのほうがちょいと忙しくなってきたんで」
 「そうかい。そりゃよかった…せいぜいがんばってこの店の歴史に最後の花をそえてくれ(立ち去ろうとする)」
 「(周囲の数名を大質量の脇腹でなぎ倒しながら身体をひねって)ちょっと待って下さい。そりゃいったいどういう意味で」
 「(振り返り)知らなかったのかい。今月で潰れるんだよ、ここ」


 「(薬の匂いがしみついた四枚の壁に切り取られた部屋で)…というわけさ」
 「(パイプ椅子を蹴って激しく立ち上がり)なんだって! それじゃ、読むデイが潰れてしまうっていうのか!」
 「(ブリキ製のバスのおもちゃを床に走らせながら知性の宿らない笑顔で)ぶーぶー」
 「(全員が会話を止めそちらを向く。この上なく優しい顔でほほえみながら)そうか、ブーブーかっこいいな、よかったな、CHINPO」
 「(何事も起こらなかったかのように向き直り)読むデイは俺たちの思い出の場所だ。(目を潤ませながら)俺たちが初めて出会ったのもあそこだった」
 「(目を潤ませながら)サラリーマン金太郎の全巻イッキ読みを俺たち四人が同時に思いつき、書棚の前で凄惨なにらみあいになったところへ『まァまァ、そんなに怖い顔しないで。本宮ひろ志はどの作品も絵柄・テーマ・面白さにおいて変わるところが無いから、サラリーマン金太郎にこだわって喧嘩をするのはまったく馬鹿げているよ』と穏やかに仲介してくれたのは読むデイの店長だった」
 「そうそう。(目を潤ませながら)『又、本宮ひろ志の廉価版として宮下あきらを挙げることができるがそちらを利用しても読了後に得るものは何ら差が無いよ』と店長が教えてくれたおかげで、僕たち四人は衝突を避けてゆっくりと漫画を楽しむことができたんだ」
 「(室内に転がっていた美少女フィギュアを取り上げて)だーだー」
 「(全員が会話を止めそちらを向く。この上なく優しい顔でほほえみながら)そうか、CHINPOは委員長がお気に入りか。よかったな、CHINPO」
 「(何事も起こらなかったかのように向き直り)そして俺たちは本宮ひろ志と宮下あきらへの不満をぶちまけお互いの漫画への情熱を語り合い、いまの俺たちとして歩みだしたんだ」
 「(突然手にしていたフィギュアをテレビに向かって投げつける。テレビには紫色のロボットが巨大な怪獣の身体を引き裂くシーンが写っている)びぇぇぇぇぇぇ」
 「(全員が会話を止めそちらを向く。あわててテレビにかけよってスイッチを消す。泣きじゃくるCHINPOの頭をなでながら)よし、よし。怖かったな、いけないよな、こんな残酷なのつくっちゃいけないよな、CHINPO」
 「(鼻水を垂らしてしゃくりあげながら)ぶえ、ぶえ、ぶえぇ」
 「……」
 降りた沈黙にうながされるように一人、また一人と部屋から出ていく。看護婦に手を引かれて出ていく幸せそうな顔のCHINPO。リノリウムの床にブリキのおもちゃだけがぽつんと残される。残酷に照らす真昼の陽光。

to be continued

Last GIG “エバーラスティング”

 シャッターの閉じる音がビルの谷間へかすかに響く。”漫画喫茶YOMYOM”と書かれた電飾の明かりが消える。のび放題にのびたあご髭に優しい顔の輪郭をまぎらせ、大きなサングラスに繊細すぎる少年の瞳を隠したその人は、数メートル毎に振り返り、人柄をしのばせる丁寧なおじぎを何度も何度もくりかえしながら、ついにはけぶる朝靄の中に遠く見えなくなった。
 「終わったな」
 「ああ、本当に」
 早朝のオフィス街はおどろくほどに閑散としており、人の気配をまったく感じさせない。
 「――有島と太田は?」
 かれらが最後によこしたハガキにあった、初めて知るその名前に、ぼくは他人のようなよそよそしさを感じたものだった。
 「ふたりとも昨日発ったよ。有島は田舎に帰って農家を継ぐんだそうだ。いま有機野菜が大当たりしてて、人手足りないんだって言ってた」
 かれはいつものくせでポケットに手をつっこんだまま続ける。
 「太田は両親の口ききで地元の市役所に就職が決まったんだってさ。幼なじみと来春結婚するんだそうだよ。『ついにつかまっちまった。墓場行きだ。俺の人生はもう終わったも同然だ』って、すごく嬉しそうに話してた」
 「へえ、二人ともそんな、全然知らなかったな。全然知らなかった――」
 ぼくはなんとなくうつむいて黙りこむ。かれはおりた沈黙にうながされるように煙草を取り出すと、火をつけた。
 「そうだ、CHINPOだ。CHINPOはまだいるんだろ、こっちに」
 変わっていく現実に逆らうように、すがるように、ぼくは云った。
 けれど現実はいつもぼくを先回りして裏切る。
 「CHINPO…いや、上田はどこか東北のほうの山奥にある療養所に移送されちまった。あいつの家に電話して名乗ったらさ、『保椿さんにそのような友人はおりません』だとさ。おれはあいつの友人じゃなかったんだそうだ。ずっと、いっしょにいたのにな。――知ってたか、あいつの両親、そろって大学教授なんだぜ! ちょっと笑えるよな。笑えるじゃないか――」
 ビルの谷間を吹く風が小さな渦を巻いて、歩道の上にゴミを舞わせている。
 「『友だちは…友だちと呼べる人はみんないなくなってしまった…誰も』」
 「――シェイクスピアかい」
 「いや」
 向かいの歩道を何におびえるのか、一匹の野良猫が猛然と駆け抜けていく。
 「エヴァさ」
 かれは皮肉に口元をゆがめた。
 「さてと」
 ほとんど口をつけないままに短くなった煙草を放り投げると、かれはもたれかかっていたガードレールから身を離した。
 「もう、行くわ」
 そう云って、かれはYOMYOMのマスターが去っていったのとは逆の方向にゆっくりと歩き出した。ぼくはたまらなくなってその背中に声をかける。
 「どうするんだい、これから。いったいどうするつもりなんだい」
 かれは立ち止まると、ポケットから手を出した。
 そしてかれは口を開いた。
 「おれはずっとおたくだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた。自分の正体さえわからないまま、世界の美しさだけは知りたくて、現実の似姿、うつろな鏡、虚構の中に溺れつづけた。それはひとえにおれが生まれながら喪失させられていたものを取り戻したかったからだ。だが、それでいながら当の現実を引き受けるだけの強さは、おれにはなかった」
 かれはこれまでの演技をやめて、驚くほど素直な表情で、威圧するようでも、おびえるようでもなく、ただ静かにとつとつと話す。
 「――おれが『世界、世界』と声高に、問題ありげに、さも重大そうに呼ばわるとき、それはけれど観念にすぎなかった。経済や政治や時代の病を負って苦悩する同朋たちのことでは全くなく、ただ自分だけを取り巻く違和感と不快感を意味していた。本当に、あきれるほど個人的なことだったんだよ! おれは、間違っていた」
 かれはいま、初めて誰かに伝えようとしていた。届こうとしていた。
 「おれは今日このまま部屋へ戻って、LDやビデオやCDや、ためこんだ様々のグッズをすべて破棄するつもりだ。それで何かが変わるなんて期待しちゃいないさ。結局また同じことを繰り返すだけのかもしれない。これはおれの中での、そう、儀式なんだ」
 ぼくは微笑んだ。この数瞬に、これまでの長い長い時間より多くかれを理解したからだ。
 そしてぼくは口を開いた。
 「君の言うとおり、ぼくたちにとっての世界とはまったく個人的で脆弱な感覚に過ぎないと思う。――他人の物語というフィルターを通じて垣間見た世界の感じは、分厚い布ごしに物を触るようなもどかしさだった。渇いた者が海水を与えられるように、ぼくはますます渇いた。ぼくはもうあがくことはやめて、ぼくにとってリアルでない世界に他人を通じて連絡を持とうとする努力はやめて、ただ自分のことだけを物語ろうと思う。物語るという個人的な営為が、世界に対して普遍性を持つ瞬間がきっとあるとぼくは思うんだ。個人的な意味が世界的な意味を超克する瞬間がきっとあるとぼくは信じる。だから、ぼくはもう傷ついた人のようにふるまうことをしない。ぼくは物語ることで明け渡してしまった自分を取り返す。『たとえ他人の言葉に取り込まれても』、ね」
 かれは大きく目を開いて、いまはじめて出会ったかのようにぼくを見た。
 「――ゲーテかい」
 「いや」
 ぼくは答える。
 「エヴァだよ」
 ぼくたちは声をあげて、心の底から笑った。

 やがてかれはしゃべりすぎたことを恥じるように顔をひきしめ、ポケットに両手をつっこむと、再び歩き出した。
 ぼくはその背中に別れを言おうとして、ふと気がつく。
 「待ってくれ! ぼくは、君の本当の名前をまだ知らない」
 「おれの名前かい」
 かれは最後に一度だけふりかえり、歌うように云った。
 「おれの名前は――」


 ビルのつくりだす峰から遅い都会の朝日がのぼる。誰もいなくなった店のシャッターに揺れる貼り紙。
 “長らくご愛顧いただきました当店ですが、誠に勝手ながら本日(7/25)をもちまして閉店いたします。今まで本当にありがとうございました。”

 Never seen a bluer sky.

渚にて(1)

 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手さぐりつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう……

  かくて世の終わり来たりぬ
   かくて世の終わり来たりぬ
   かくて世の終わり来たりぬ
  地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに  (T・S・エリオット)


 新潟県珍垢寺――
 ある程度の規模を有する水族館にしか無いだろう、マナティかゾウアザラシを収めて輸送するようなサイズの巨大棺桶と、葬儀屋はさぞや写真加工に苦労しただろう、精一杯の望遠になお入りきらぬ巨顔の遺影を前に、私はまだ信じられぬ思いだった。白黒の垂れ幕や数々の花輪、線香にけぶる部屋の大気――周囲を埋める葬式にありがちの様々の表装は、人の死の厳粛さを虚構として演出する役割をこそ果たせど、その死の持つ意味を説明するものでは、全くなかった。私は棺桶にすえつけらえた梯子を登ると、たっぷり5メートルほどもその上を膝行して、うがたれた窓より中をのぞき込んだ。
 ――ああ。
 思わず漏れる嘆息。あれから2年が経つが、その顔はもう見間違えようがなかった。それはまさしく、上田保椿の――
 CHINPOの暑苦しい巨顔だった。


 私は釈然としない、どこか落ち着かない気持ちで何本目かの煙草を苛立たしくもみ消した。この部屋に通されてから、もう4時間にはなるだろうか。私は真新しい畳の上へ横になると天井を見上げながら、自分がなぜこんなところで待たされるはめになったのかを、ぼんやりと思い返した。
 焼香に棺桶をよじ登ろうとした親族の何人かが足をすべらせ真っ逆様に墜落し、重軽傷を負ったことをのぞけば、全く他のどれともかわりばえのしない、そしてその退屈な劇的で無さが残されたものにとっての救いでもある葬式が終わり、私は無言でその場を離れた。私のような半端な元おたくが挨拶に現れたとて、親族は困惑するだけだろう。長いおたく人生で得た様々の経験則から、私はそれを痛いほど知っていた。
 長い苔むした石段を下り、呼んでおいたタクシーの扉に手をかけたとき、私は突然背後から呼び止められた。明らかに常人とは異なったあのオーラを持ったケミカルウォッシュのジーンズと黄ばんだTシャツの男が、こちらを直視しているようでいながら、そのくせ微妙に視線をずらしたまま、素養の無いものならヒアリングの不可能なほどの喉の奥にこもった早口で、私に告げた。――これより故人上田保椿を忍んでの通夜式を執り行う手筈となっております、お忙しい中ではございましょうが、故人の遺志を尊重して、あなた様にはどうぞお残り願いたく存じます――。私はやはり、昔の戻ってきたような感覚に後ろ髪引かれるところがあったのだろう、男の申し出になんとなくうなづいてしまっていた。
 私は体を起こして頭を振ると、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。しかし、通夜とは普通葬式の前にするものなのではないのだろうか。CHINPOの死に顔を見たときからぬぐえないかすかな違和感。人の死などというものは残された者たちにとってそういうものなのかもしれないが、この葬儀のすべてがどこか茶番めいていて、それでいながらその理由をはっきりと言葉にすることはできなくて、その状況がますます私を苛立たせた。
 私がちょうど十五本目の煙草に火をつけようとしたところ、快い擦過音とともに背後の障子が引き開けられ、私を石段で呼び止めた男が糸の数本切れたパペットのような動きで入って来、喪主が通夜の会場へ案内致します、と意志疎通を放棄しているとしか思えない早口で告げた。
 喪主、CHINPOの両親だろうか。確か大学教授をやっていると聞いたことがある。遠くから聞こえる耳障りな呼吸音と、畳を通して伝わるかすかな振動。障子と梁を漫画状の型に打ち抜きながら、何かの確たる意志を持っているかのようにふるえる肉を腹の両脇に大量に輸送しながら部屋へ入ってきたその人は、果たして――
 「CHINPO! やっぱり、CHINPOじゃないか!」
 その、ほ乳類ではクジラ以外が持ち得ないような巨躯を陸上で保持したおたくな有様は、CHINPO以外の何者かであるはずがなかった。私は、やはり照れくさかったのだろう、再会の喜びを怒りにまぎらせて詰め寄った。
 「これはいったい、どういう悪い冗談なんだ。説明してくれるんだろうな」
 「フフ、まぁ、それは道々話すとしよう」
 CHINPOはあの頃のような、他者への優越を感じるためだけにどんなにつまらない事象であっても、それが自分だけの知っているものである限り、もったいぶって教えようとしないあのやり方をかすかに漂わせた。だが、2年という歳月はやはりCHINPOの上にも流れたのだろうか、持たざる者のする深刻な自己存在肯定のための切り取り合戦の様子を呈することは、ついになかった。CHINPOは廊下の床板を漫画状の型に打ち抜きながら、こちらを振り返ろうともせずに歩き出した。左足を前に出しながら大きく、見ているこちらがはらはらするほど左に傾ぎ、今度は右足を前に出しながら大きく右へと傾ぐ。軽トラ程度なら前方から近づいてきていても後ろに歩く者は全く気がつかないだろうその膨大な背中に、私はめまいのするような既視感を覚えた。同時に、こんな最悪のおたくであるはずの、全世界の嫌悪の対象であるはずのCHINPOの後ろ姿に、涙が出そうな慕わしさを感じている自分に気がついた。では、私も、やはり年をとったということなのだろうか。
 と、CHINPOは廊下の隅に落ちている”小学生の顔にプレイメイトのボディ”をしたアニメキャラのポスターの横を、まるでそこに何もないかのように素通りした。私はいぶかんで、その背中に声をかける。
 「CHINPO…?」
 CHINPOはいま気づいたというふうにアニメポスターに視線をやると、奇跡のようなバランスで体を右へ大きく傾がせて床に落ちているそれを拾いあげ、ケミカルウォッシュのジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
 「どういう按配かな…?」
 庭の築山へ目線をやりながら、CHINPOは静かに言った。
 「記号の集合を有機的な連なりとして認識し、欲情するおたく的約束の部分が頭から三分の一ほどトンじまって、見えてねえ」
 CHINPOの意味するところは全くわからなかったにもかかわらず、その奇妙に静かな――まるで死者のような――達観した言い様に、私の心臓は早鐘の如く打ち始めた。
 「CHINPO、話してくれるって言ったよな。今日のこれはいったいどういうことなんだ。まさか、からかってるんじゃないだろうな」
 「どうもこうもねえさ。おまえが見てきたとおり、今日は俺の葬式なんだ…!」
 CHINPOは太りすぎた皇帝ペンギンのように滑稽に、肉に埋もれた肩を無理矢理すくめてみせた。
 「それはつまり、生前葬みたいな…?」
 「似ているが少し違うな、あと数時間後、俺は本当に死ぬ手筈になっている」
 「死ぬ手筈ってのは、いったいどういう…?」
 私はじりじりと歩み寄る不安に押し潰されそうになっていた。
 「まあまあそこから先はこれから行く部屋の連中に聞いてくれ。聞く方は初めてでも、俺は今日何回も同じことを話していて、いささか食傷気味なんだ。頼むよ…」
 「し、しかし」
 CHINPOが言いつのろうとする私を手で制す。廊下の突き当たりにある部屋の障子が、先ほどのおたく男により静かに開かれる。
 「さあ、着いた。懐かしい顔がお待ちかねだぞ」


 「みんな…!」
 そこには果たして、あの思い返すだにじめじめといじましい、日の射さぬ四畳半に放置された悪臭放つ牛乳雑巾、持たざる者たちの持たざるゆえによる黄金の蜜月を共に過ごした、忘れたい過去ナンバーワンの同人仲間たちがいた。本来ならそれぞれが何らかの形での社会性を手に入れたいま、二度と会いたくない、積極的に連絡を持とうなどとは毛ほども思わないだろうあの面々が一同に会するこの異常な空間を前にして、さすがに私も事の重大さを理解しはじめた。
 「CHINPOがさ、なんかおかしなこと言うんだよ――昔っからだけど、CHINPOが」
 問いかけに、ネクタイの締め方を致命的に間違えている、着慣れぬ喪服にぎこちなく逆緊縛されているといったふうの有島が、重々しく口を開いた。ああ、有島! なんという懐かしさ、そしてなんという嫌悪感だろう!
 「残念だが、その言葉の通りだ。これを見てくれ」
 有島は病院名の書かれた茶封筒から一枚の写真を取りだした。菌糸類としか言いようのないものが周囲を埋めた薄暗い部屋で、どうやってそんな小さな部屋に入ったのかと疑うような巨躯の男がこちらに背中を向けて写っている。男は下半身丸出しで、どうやらオナニーをしている最中らしい。青白く発光するテレビ画面には、名の知れた巨乳AV女優の出演するごく普通のアダルトビデオが映っていた。
 「これが、いったい……?」
 一瞬、私はなぜ有島がそんな写真を見せるのかわからなかったが、恐ろしい呪いの託宣のように、徐々にその意味するところが私の胸に染みわたり始めた。
 「ま、まさか、そんな…もしかして」
 この世で一番あり得ないことを聞いた人のように、私は自分が馬鹿のように首を振っているのを感じていた。
 「そのまさかだよ。この写真の男、これが、CHINPOのいまの姿なのさ…!」
 「バカなっ、信じられるか、そんなこと!」
 「事実よ。受け止めなさい」
 太田が脇から、かつての十八番の声まねで、目を合わさないまま言った。ああ、太田よ。言った自分を、あとで呪い殺したくなるだろうに。
 「しかも、進行の早い早発性だ。通常2、3年でアニメ絵に勃起できなくなり、ついにはおたく廃人かおたく死を迎えることになる。CHINPOはその事実を知り、決した。本当に更正してしまう前に、エロゲーに欲情できなくなる前に、己が人生を自ら閉じようと…!」
 「バカなっ! どうして…どうしてっ…! あの、最悪の2次元コンプレックスが、なぜそんなことに…!?」
 やはり、2年に渡るサナトリウム生活ではあの事故の傷を治癒できず、それはCHINPOの脳髄を見えないところで侵していったというのだろうか。私が言いかけるのを、有島はわかっているといったふうにうなづいた。
 「それは誰にもわからないし、そのことを考える時間はもう残されていない。こうしている間にもCHINPOはどんどん…そうだな、どういうべきか、良くなってきているんだ。受け止めよう。これ以上言葉を積み重ねることは無意味じゃないか。言葉を重ねることの無意味さに、言葉の無力さに一番気づいている俺たちじゃないか。人と人との熱心な話し合いや、心うち解けたやりとりが何かを生み出すなんて、そんな偽善がイヤでイヤでおたくを始めた俺たちじゃないか。そして、それが俺たちの唯一の美点だったはずだ。これから、それぞれがCHINPOとともに最後の面会を済ませる。俺たちはおたくだ。これまでだって、社会に冷遇されるものとして、曳かれ者同士の肩を寄せ合う集まりではあったが、本当の意味でお互いがお互いを必要だと思ったことなんて一度もなかったはずだ。話し合いなんてガラじゃねえ、それぞれが自分の思うようにCHINPOと15分か20分の最後の時を過ごしてくれ。無言で見送るもよし、引き留めるもよし。――俺たちはここでまた集まったが、明日にはきっと別の場所へと、2度と触れあわない別の世界へと逆戻りだ。寂しいなんて言わない、それがおたくだった罪で受ける相応の罰だ。それに、人間なんてもともとひとりぼっちだし、寂しいもんじゃないか……ともあれ、俺たちは俺たちの同類を見送る義務だけは果たそう。俺たちがずっと自分自身のものとして想像し続けてきた、おたくという人種のぞっとするような末路のひとつがいまここに、目の前にあるのだから…!」
 早い風が雲を押し流してゆく。誰に促されるでもなく太田が立ち上がった。後ろ手に障子を閉めるその後ろ姿を、そちらに視線をやらないまま、皆が無言で見送った。
 そう、有島は正しい。これは戦いなのだ。俺たち、更正してしまった元おたくたちが、過去の自分ではなくて本当に現在の自分の有様を肯定できるかどうか、CHINPOにつくりごとの世界よりも現実の世界の方が素晴らしいと説得することができるか、という――


 「(芋虫と表現するも芋虫に失礼な、たこ糸で縛ったボンレスハムのような指でマウスのボタンを圧迫しながら)やはり最初は太田、いや、ハンドルネーム”まみりんLOVE”と呼んだ方がいいかな」
 「フフ、懐かしい名前だ。(様々のアニメポスターが元の壁面の見えないほど貼られる中、唯一ある巨乳アイドルの水着グラビアがその調和を致命的に崩している部屋を見回しながら)ふ~ん。なるほど、なるほど。そうか…ここか。ここで死ぬんか?」
 「(モニターに映し出された18歳の小学生という矛盾を体現する美少女キャラの痴態に垂らした涎を服の袖でぬぐいながら)ククク…」
 「(床から足を上げる度に粘りけのある糸状のものが数本ついてくるのをズボンのすそでぬぐい取りながら)いいとこじゃねえか。死を迎える部屋としては最高さ。(床に散乱する歴代の家庭用ゲーム機を足で払いのけてスペースを作りながら)こざっぱりしてて…」
 「(巨乳アイドルの水着グラビアに大きな嫌悪と、かすかな欲情の入り交じった複雑な視線を向けて)そうかもしれねえ。言われるまで、考えてもみなかったな」
 「(机の上に並べられた無数の美少女フィギュアのひとつを手に取り)ひとつ、もらうぜ。(床にできたスペースに座り込み、美少女フィギュアをもてあそびながら、唐突に)特別なことじゃねえ。おたくは、決して特別なことじゃない。そう、思ってんだろ?」
 「(美少女フィギュアのスカートの中を机の下からのぞきこもうとしながら)まあ、おおむねそんなとこさ」
 「おたくは特別じゃない。皆…おたくを忌み嫌いすぎる。おたくであることは時に、救いですらある…! 本当に、羨ましい。一切の社会性を持たない、様々のグッズやおたく的人間関係だけを後生大事にためこんできた、夏にはコミケ、冬にはコミケの骨がらみの職業おたくには、決してたどりつけない境地…! だから本当にめでたく、羨ましい。(美少女フィギュアから顔を上げて、真正面から直視して)しかし、それでも、CHINPO、怖かねえか? おたくであることは? どんな気分だ? おたくのまま死ぬってのは」
 「(あきれたふうに、完全に隆起の埋没してしまった肩をすくめようと痙攣しながら)おいおい」
 「だって心配じゃねえのかよ! 美少女ゲーのキャラに操を捧げたまま、素人童貞として死んじまうんだぞっ…! もうすぐ…」
 「(フーフーと平静でも常人の数倍する風圧の鼻息を吹き散らしながら)……おたくは、おたくになる前はなんだったんだろうな」
 「(いぶかしげに)前?」
 「(半眼で)動物として生まれ、動物としての本能を通じて世界を感じていた俺たちは、名付け、定義することで、新しく生まれた知恵という機構の中での、世界に存在する万物の配置を決定しなおさなければればならなかった」
 「CHINPO…?」
 「ちょうど小さな紙にスケッチを描くようなもので、どんなにうまく描こうとも、描かれる対象と描かれたものとは、どこか致命的に違ってしまっている。知恵によって、世界は本来よりも矮小な形で切り取られ、その切り取られた世界の残骸が、人間の持つ”意識”だ。このプロセスがつまり俺たちの”虚構”と呼ぶもので、この意味においてすべての人類はおたくであると言える。――おたくというのは、自らがさげすまれ、おとしめられることで、自己存在の鬼子的発生理由に気がつきたくない一般人たちを、社会という綿々と続くより巨大な虚構に同化させてやるための、そうだな、いわばスプリングボードなんだ。人が、個人であるということの次のステージ”社会”へ進むための、すべての汚れ役を引き受けているんだよ、俺たちおたくは」
 「CHINPO…!」
 「世界を世界のまま、現実を現実のまま受け入れるのを拒否したことが知恵の始まりの本質なのだとしたら、現実すべての脱構築・再構成を促すおたくの持つ虚構力・虚構没入力は、知恵のはるか延長線上にある”超知恵”とでも形容するべき知恵の正当なる後継者であり――そして、すべての人間の自然がおたくに嫌悪をしか感じないのだとしたら、それは人の選んだ知恵という選択肢そのものが”間違って”いたことの証明に他ならない。だから、最初のおたくがリン・ミンメイの無重力シャワーに目尻と鈴口から随喜の涙を流したのが罪だと、皆が石もて俺たちを追うのだとしたら、俺は甘んじてそれを受けようと思うのさ。(照れたように笑って)ハハハ、まぁ、それがおたくだわな」
 「(下唇を噛み、涙をこらえながら)……そんな話をもっとしてくれ…もっと……! この間再発して…結婚してから2年間はなんともなかったんだが、おたく生活からはすっかり足を洗って、子どももできて…もうすっかり完治したと思ってたんだ。それが、そう思っていたのが、この間…ついに転移した。今度はペニスに……わしは、末期の童女趣味でっ…!! CHINPO、怖いんだ、これで妻子とするまっとうな社会生活もすべて終わりかと思うと…もうすぐ、幼女ポルノを備蓄した咎で社会から石もて放逐されるかと思うと…!!」
 「(穏やかに目を細めて)まみりんLOVE」
 「(涙で目をうるませ、おこりのように震えながら)わしは…」
 「(限りなく優しく)大丈夫…おっかなくなんかねえんだよ。俺が死ぬ前に、先に行われたような幼女誘拐・監禁を犯してやるっ…! だから、まみりんLOVE、おまえはおまえの童女趣味を受け入れてやれ。出来る限り温かく、本来なら恥じ入るべきその性癖による露悪的なキャラクター作りで集客をしていたおまえのHPを、大人との軋轢に疲れ果てた哀れなおまえの自我を迎え入れてやれ。俺の感触じゃ、童女趣味者たちは、そう悪いヤツじゃない。出来るさ、おまえにも出来る。俺が見てきた限りじゃ、最悪の童女趣味者は、かなりの年月裁かれないまま、幼女が幼女でなくなるほど長い間、幼女とともに暮らしていけるんだ。おっかなくなんかねえんだよ…!」
 「(もはや隠しようもなくボロボロと号泣しながら)CHINPO…、CHINPOッ……!」


 もはや、月は出ていなかった。夜は、静かに流れていくように思われた。うら若い乙女の狭すぎる膣へ無理矢理するように、私たちの心を内側より圧迫し、胸苦しい痛みを引き起こすのは、ただ一つの言葉だった。
 ――チンポ。

to be continued

渚にて(2)

 「世界にとって本質的に無意味であるという絶望的な確信から逃れるために、人間は資本主義を創り出した。それはカネという明快な価値基準にのっとり、勝者と敗者を分かち、勝者イコール有意味・敗者イコール無意味の図式を、神のいない荒野に打ち捨てられ、存在の価値を求めて発狂する人間の心の部分にぴったりと当てはめるシステムである。このシステムの中で勝者が勝利において意味性を得るためには、必ず敗者が存在しなければならない。一昔前の日本においてそれは明らかな生活破綻者を指し、社会において勝者の意味性を強調するコントラスト足り得たが、現代社会においては余剰の富がすみずみまで漏れ広がり、敗者の破綻が彼らの社会生活の終焉に直結しないことが勝利者たちにとって不満を抱かせる要因となっている。明確な、システムに迎合しないものの断罪の様子を市中に見つけ出すことのできなくなった資本主義社会の勝利者たちの求めた新たな敗北の有様、新たな有り得べき必然、それが我々おたくであると言えよう。そしておたくは、資本主義社会においてしか生まれ得ない存在である。なぜならおたくとは、世界という際限のない無意味性の広がりから、同族内に比較対象を設定することでかろうじての意味性を切り取る絶望のシステムの内に、あらかじめ組み込まれた予定調和的劣等因子であるからであり……」


 ちがう、と叫びたかった。
 かれの目は私を通りぬけて、私ではないどこか遠くを見ていた。言葉をさしはさむ隙も与えず、その意味もわからないまま、絵本に書かれた文字を目で追って読み上げる小さな子どものように、かれの言葉は私の上を滑っていった。テレビモニターの中の人のように、かれは私に関係が無く、そして私はかれに関係が無かった。それがかれの望む交わりだったのか。
 ちがう、と私は叫びたかった。だが、心が拒否するとき、言葉に何の意味があるというのだろう。
 それまで誰にも気づかれないまま、ひっそりと部屋の隅に座っていた小太りの男が立ち上がった。薄くなった頭頂部に、突き出た腹を抱えて、その男は奇妙に存在感を漂わせない歩き方で部屋から出ていった。最初、私はこの男のことを寺の関係者なのだろうと勝手にひとり決めしてしまっていた。だが、閉じられる障子の隙間からのぞいた背中に、私は突然思い当たった。
 私はあの男を知っている。


 誰かが何の気持ちもない論理を打ち壊してくれるのではないかと、どこかで期待していた。自分がいつも自分のもののようではなくて、自分の発する言葉の意味も重さもわからなくて、誰かの泣き顔や、ひどく傷ついた表情を見るときにだけ、ぼくは自分の言葉の持つ力と、自分の中にある漠然としたものの形を知ることができた。
 ほんとうは、ぼくには誰かを傷つける価値なんてなかったのに。
 遠くから泣き声混じりの悲鳴が聞こえ、気がつくとぼくはあの病院のベッドの上にいる。うす濁りした白い膜にすべてが閉じこめられたようなその場所で、ぼくはただベッドにひとり横たわっている。指ひとつ動かすことさえできない深い虚脱の中で、ぼくを作った人たちのののしりあいが、かすかにぼくの鼓膜を揺らした。
 かれらの中にぼくはいない。ぼくの中にかれらはいない。
 傷つかないための無感動の上へ、受け入れられるためにする偽りの感情を永遠へと向かって積み上げ続ける煉獄。わけ知り顔な多くの理屈。ぼくを受け入れないための論理。表情を浮かべることを忘れた頬に、知らず流れ落ちる涙の温度を、ぼくは感じていた。
 そうだ。あのときはじめて、ぼくは孤独の意味を知ったのだ。


 気がつくと、目の前には小太りの中年男が座っていた。男はただ座って、こちらを見ていた。急速に現実へ焦点が戻ってくる。私はあわててわずかに顔を伏せた。自分はいま、どんなに無防備な表情をしていたろうか。
 「毎晩のビールがうまい」
 大きすぎず、小さすぎず、まったく主張のない声音で、男はそう言った。私は不安になった。私が知っている世界の言葉とはとても違って響いたからだ。人が、こんなに相手を脅かさずにしゃべれるものなのか。
 「ずっと特別でありたかった。誰も文句を言えないような何かでありたかった」
 それは不思議な、空気のようなしゃべり方だった。いったい自分が話しているのか、相手が話しているのか、ついにはわからなくなってしまうような、そんなしゃべり方だった。
 「妻の顔を見て、子どもたちの顔を見て、それから、自分の突き出た腹を見て、おれは少しも自分が特別じゃないってようやくわかった。うれしいんだ」
 目尻に深いしわを刻みながら、笑うと目の無くなる、人なつっこい笑い方で男は笑った。笑い声が途絶えると、部屋には沈黙が降りた。しかしそれは、あの狂躁的な、次の言葉を無理にも促す不安な沈黙ではなかった。それまで相手の言葉に身構えて硬直していた全身の筋肉から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じた。誰かと向かうとき、私はこんなにも緊張していたのか。私は眠りこむ寸前のような、あの安堵を覚える。
 「おれはどんどんみにくく、つまらなく、そしてやさしくなってゆく」
 男は私の目を正面から見た。それは、まるで私の一番奥を見ているようだった。いままで、誰も私をそんなふうに見たことはなかった。
 「戻ってこいよ。ここは、思ってたほど、怖い場所じゃないみたいだ」
 やがて、薄くなった頭頂部に手をやりながら、男は最初からそこにいなかったかのようにひっそりと、部屋を出ていった。
 突然、苦痛が全身を包んだ。心から死ぬつもりだったのに、あの男は、悪魔か何かのように忍びより、ささやきかけ、静謐な末期の悟りに迷いを生じさせたのだ。私は卓上に置いてあった赤い小箱を取り上げ、なかの小瓶をあけて、白い錠剤を手のひらの上にのせた。また、胸に痛みが起こった。それは遠くなつかしい、子どもの頃ような哀切な痛みだった。胸を押さえてうずくまると、ちょうど視線の先に大きな姿見があった。あばた面にじっとりと脂汗を浮かべた、ぼさぼさの髪の太った男が、痛ましい澄んだ目でこちらを見返していた。私が眉をしかめると、姿見の太った男は泣きそうな顔になった。「今度こそ、みにくいおまえを退治してやれると思ったのに」
 無意識のうちに強く握りしめてしまっていた手のひらを開く。ぼんやりと発光しているかのように見える白い錠剤。これを嚥下しさえすれば、数分のうちに安らかに死へと至ることができるだろう。私はかぶりを振ると、生じた迷いに時間を与えるため、錠剤を卓上へと置いた。私は椅子に背をもたせかけ、その錠剤をじっと見つめる。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 心に浮かんだその言葉は、ずっと長い長いあいだ押し込められてきた、初源の問いであるような気がした。生まれて初めて、自分の手を自分の手のように感じながら私はゆっくりと卓上へ手をのばし、純白の錠剤をひろいあげる。
 そして――

祈りの海

 点々と反吐をまき散らしながら、外へ出た。
 ほとんど一歩ごとにつまづき転倒し、全身に擦り傷をつくりながら、のめるように石段を降りる。
 薬の効果か、意識がだまし絵のように伸び縮みを繰り返し、ひとつに焦点を結ばない。これがついには致命的なことへつながるのかどうか、それすらもいまはわからなかった。
 突如、これまでになかった強烈な嘔吐が胸を灼く。私はたまらず足をもつれさせ、もんどりうって、ほとんど棒立ちのまま前へと倒れ込む。
 幸い、もう石段は続いていなかった。全身を波打たせるようにして、吐いた。そのまま大の字に裏返ると、長い長い石段の先に、私の葬儀をとり行った寺の全容が見えた。かたわらの反吐の臭気が鼻をつく。
 結局、何ひとつ自分で決めることができなかった。わずかこの身の始末すら。伸縮を繰り返す意識がその限界まで広がり、はじける。
 あれは、何の言葉だったろう。籐椅子の中の午睡から目覚めた男が、側にひかえる召使いに言う。『私は傷ついてしまったんだよ、本当に。そしてもう二度と癒されることはない』。たとえ近親殺しであったとしてさえ、それが人の営為であるならば、人は共感に涙を流すことができるだろう。世界に悪は存在しない。つまり人の関係とは、客体化された現象に集約してゆくからだ。けれど、心の神性の中には、純粋な悪が存在し得る。その悪の純粋さは、人間の魂を本当の意味で破壊する。純粋な悪に一度魂を触れられてしまったら、二度ともう元のようには戻れない。かれは、それを知った。おのれの魂が不可逆に傷つけられ、もう二度と癒される日が来ないだろうことを、知った。恐ろしい。あれらの悪の様相は、人間の手に負える、人間の触れていいものではなかった。あれらの甘い砂糖菓子の口あたりは、純粋な悪だけが持つことのできる真の安堵に満ちていた。私は、あそこから逃げなくてはいけない。もう、ここにいてはいけない。
 指先が砂を掻き、海面へと浮上するように、意識が覚醒する。身を起こそうとすると、再び強烈な嘔吐がやって来た。かたく目をつむり、全身を硬直させて、私を嘔吐が蹂躙するにまかせる。眼球が小刻みに回転して、意識が浮遊する。血が滲むまで、唇に歯を立てた。すんでのところで、自我の消失から我が身をもぎはなすことに成功する。膝をついて、立ち上がった。萎えた足はぶるぶると震えたが、それでも私の身体を無理にも先へと押しやろうとした。しかし、それは私の中にあるというのに、いったいどうやって逃げだそうというのだろう。ほとんど這うようにして私の身体が坂道を下ってゆくのを、私の意識ははるか高見から眺める。人ごとのように? 遠のき、眼下に矮小化してゆく私の身体。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 万華鏡のような自失。次の瞬間、私の意識は私の身体と合致していた。
 三たび、強烈な嘔吐。視界の端から溶暗が始まる。私は今度こそ本当に打ちのめされ、意識から手を離してしまう。


 ふいに強い衝撃を受けて、目を開く。白い金属のつらなりが視界に入る。護岸道路のガードレールを乗り越えて、私は転落したらしい。身体を起こそうと手をついて、そこが砂地であることを知る。大気には、重たい湿気が混じっている。私は立ち上がった。
 陽光がすべてを漂白してゆく。足下を泡立った波がすくう。波間に億もの反射光が同時にきらめく。
 嘔吐は、どこかに消えていた。
 自分が薄く、涙ぐんでいるのに気がついた。左右に首をふる。このような世界への親和は、私にふさわしくないだろう。魂は、感情という因子に影響を受けて、いくらでもその形を変容させる粘土細工のようなものだ。平板な舞台装置による突発的センチメンタリズムと、世界への悟りを混同してはいけない。こんなふうな安易さで、世界を理解してしまってはいけない。私は、何からも、少しも救われてなどいない。
 腰がひたるまで海中に歩を進める。高い波が近くではじけ、全身にできた擦り傷を洗った。わずかに遅れて、じわりと痛みが広がる。ほとんど美しいとさえ言える海が、眼前へパノラマ状に広がっている。波間に浮かぶ錆の浮いた空き缶が、私の身体へと流れついて、止まった。空き缶の周囲には、油膜が形成されていた。それは、まるで老婆のような染みだった。
 背後で声が聞こえた。振り返ると、数人の若者の群れがこちらを指さして、けたたましい笑い声をあげているのが見えた。あるいは、私に向けられたものではなかったのかもしれない。きっかけは何でも良かったのだ。いまは、それだった。だから、不意に染み出した感情を私は止める気にならなかった。染み出た感情はいっぱいに広がると、次にしたたり落ち、ついにはすさまじい勢いで噴出した。私は波をかきわけ絶叫し、砂地に足をとられながら絶叫し、若者のひとりに飛びかかりながら、私にはあり得ないような絶叫を絶叫していた。
 ぎざぎざした分厚い靴底が私の顔面をとらえた。首を支点に身体を前へと投げ出され、背中から墜落する。倒れたところへ、続けざまにみぞおちへ鈍い衝撃が走った。呼吸が止まる。感覚はなぜか、人間の意識と微妙に同期を外している。激しい痛みが来た。そして次の衝撃と、その次の衝撃が同時に来た。私は申し訳のように、のろのろと身体を丸める。繰り返し重ねられる無数の痛みが境界を無くし、やがてぼんやりとした大きなひとつに感じられるようになったとき、横倒しのカメラからのような視界が、何の劇的効果をねらったものか溶暗する。


 まばたきほどの時間でしかなかったと、私は感じた。
 目を開くと、陽光はすでに力を失っていた。意識が焦点を結ぶ直前の、あの数瞬の自失の後、髪を赤と黄のまだらに染めた若い男が、私をのぞきこんでいるのに気がつく。とっさに両手で顔をかばって、身体を硬直させる。いくら待っても何も起こらなかった。どうやら、先ほどの若者たちではないようだ。愛想のよい笑顔で手をさしのべてくる。沈黙をどう解釈したのか、男は肩をかして私を立ち上がらせると、どこかへ連れてゆこうとする。私は、わずかに身をよじってみせた。だが、声も出せないほどに口腔は腫れ上がり、全身は痛み以外の感覚を持った場所を見つけだすのが難しいほどだった。結局私はこうやって、いつも何ひとつ自分で決めることができないのだ。そのまま男の示す先についていったのは、受け入れるという怠惰さをすら意味していなかった。
 一歩ごとに、足の裏で砂がきしむのが感じられる。世界は動いてゆく。保留は停止を意味しない。男の横顔に、なつかしい面々の面影が次々に重なる。かれらとは最も似ていないはずのこの男に、いったいどうしたことだろう。私は、あの頃を思い出す。そして、私がかれらとの日々に少しなりとも心地よさを感じることができたのは、かれらが決定できないほど弱かったからだと気づく。かれらはまるで、私の鏡写しのようだった。その弱さを憎むことで、私は自分を傷つけないまま、自分と対峙するふりをすることができた。永遠の保留の無解決の中で、穏やかに遊ぶことができた。
 私は深く息を吐くと、大きく男に寄りかかった。足をひきずりながら、そのまましばらくいっしょに砂浜沿いを歩いた。一言も話さなかった。水平線に漂う陽光の残滓が、徐々に光を失っていくのが見えた。


 手当をしてくれた若い女の皮膚の柔らかさが、自然と反芻される。別のひとりが、紙コップに入った生ぬるいビールを手渡してくれた。打ち上げられた流木の上に腰掛ける。数匹のフナムシが両足の隙間をすり抜けていった。私は気取られぬようズボンに片手を突っ込み、軽く勃起して座りの悪くなったペニスの位置を正す。
 口の中がずたずたに裂けているので、ひとすすりほども飲むことはできなかったが、大勢の人間が集まった場所の空気は、どこかアルコールと同じような効果があるらしい。たき火の周囲を十数人の若い男女が踊り、歌い、笑いさざめいている。砂浜に置かれたラジカセから流れる音楽はひどく割れていて、炎の喧噪ごしには、いったい何の曲なのかも判然としない。私はほとんど放心して、その様子を眺める。大勢の人間の中にいるときに必ず感じるあの所在の無さを、私はなぜか感じていなかった。そして、何のきっかけを得たのだろう、かれらの誰ひとりとして、他の誰かと同じようではないことに、私はふと気がつく。その理解のあきれるような素朴さに、私は愕然とする。
 背の高い者、背の低い者、痩せた者、太った者、あけすけな者、はにかんだ者、髪を染めている者、髪を染めていない者、俊敏な者、のろまな者、顔立ちの整った者、ひどく不器量な者、声の高い者、声の低い者、輪の中心にいる者、輪を遠巻きにする者、うまく歌う者、調子外れな者――それらのすべてが、そして対立する極端から極端を埋めるグラデーションが、ひとりの中にいくつもあって、かれらをかれらがいまあるようにしていた。感動とも違う、それは当たり前の何かが、はるかな遠回りの果てに初めて、私の胸の欠落に落ちた瞬間だった。
 長髪の男が、身を投げ出すようにして私の横に座った。かなり酔っているらしい。私の肩に手をまわしながら、大きな声でまくしたててくる。脇の下のじっとりとした汗の感触が、衣類越しに伝わってきた。胃腸を悪くしているのだろうか、男の吐く息には、アルコール以外に腐ったような匂いが混じっていた。私は、不快を感じた。だがそれらは、私がこの男を拒絶したり、愛さなかったりする理由には、もはやならなかった。不思議ないとおしさに突かれて、ぎこちなく、同じ流儀で男の肩に手をまわそうとする。男の横顔に視線をやると、長髪の隙間からひどく奇妙な形をした耳が見えた。かれが長く髪を伸ばしているのは、不格好なこの耳を隠すためなのだろうと、私は理解した。そのことを口にすると、かれは一瞬びっくりしたような目で私を見た。それから、照れたように笑った。私は、笑い返した。
 やがて男は踊りの輪の中へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら私は、ああ、こういうことなのか、と思った。それは、不思議な感覚だった。しかし、悟りのようではなかったから、ずっと続くだろうと信じることができた。


 祭りは、いつか終わる。
 ひとりまたひとりと、帰る場所のある者たちは帰り、そうして、夜の浜辺に私だけが残された。
 泡立つ波が足下をさらってゆく。
 ふと見上げると、どういう大気の影響か、月の周囲におぼろな白い光の輪が浮かんでいた。
 目の前に広がる夜の海は、幻想的で、広大で、限りなく清らかだった。身をかがめて、海水を手のひらにすくってみる。そこにあるのは油じみた、卑小で、汚れた水に過ぎなかった。
 手のひらを返すと、水はまた、夜の海の一部になった。
 私は波間に立ちつくしながら、そっと口の中につぶやいてみる。
 「しかし、それではあまりに生きることがつらくありませんか?」
 驚いたことに、答えが返ってきた。あるいは、波音に聞いた幻聴だったか。
 「なに、四六時中ってわけじゃないさ」