MMGF!(3)

 三年に一度の学科大移動はいつも混迷を極め、刃傷沙汰が発生することも決して珍しくはない。メンターの資格を持つ人間ごと、研究室の配置を丸々変えてしまうというのだから、たいへんだ。大がかりな研究設備を所有する学科などは、その移動だけでも膨大な労力である。過去に幾度も廃止が叫ばれ、実際に議題になることも多いのだが、なぜか最後には存続の方向で話がまとまってしまうという不思議な行事だ。
 学科長会議において可決されたはずの原案は、実際の移動が始まると落書き程度の意味しか持たなくなる。あとは、学科の総力をあげた陣取り合戦だ。移動のための休講期間は一週間と定められており、逆に言えばこの期間を越えての移動は許可されない。最後の一昼夜に行われる学科間の攻防は、凄絶の一言に尽きる。しかし、誰もが結果としての落ち着き先を妥当と考えるようになるのは、不思議な点だ。
 力を出し尽くした後に訪れる人知を超えた調和を体感できるという意味で、ぼくは存続派である。反対派の急先鋒が誰なのかは言うまでもない。沈殿した何かをかきまぜて活性化する、祝祭のような効果は確かにあると思う。事実、この学科大移動を通じて生まれたカップルや、新たな学際的研究なども少なくない。責任を持った個人ではなく、無責任な全員が等分に参加することで、誰もがお互いの存在を前提とした妥協と落としどころを見つける。
 難しい言い方をすれば、集合無意識レベルでの暗黙知を伝えあっているのだろう。
 統計的なデータがあるわけではないが、学科大移動を経てしばらくは会議にせよ何にせよ、非常にスムースに運ぶようだ。
 この一大ページェントにあって、比較的おだやかな時間を過ごす学科がふたつある。体技科と史学科だ。
 体技科のメンターたちは、いずれもヒグマのような大男である。そんな彼らがお互いを全力でぶちのめす演習(おそろしいことに、例え話ではない)を屋内で実行した場合、破壊をまぬがれる建築物は今のところ(たぶん古代にも)存在しない。そして何より、体技科が本気で陣地取りに参加したならば、一両日中に学園は制圧されてしまうだろう。学科大移動初日に体技科の若いメンターたちが更衣室兼物置と学科長のための部屋を二つほどおさえると、そこは暗黙の了解として大移動の対象では無くなるのだった。体技科の研究室は、屋根におおわれていない部分すべてである。
 史学科の研究室をのぞいてみると、想像を裏切る整然とした見かけに驚くはずだ。床には遺物が散乱するどころか、塵ひとつ落ちていない。壁面へしつらえられた棚に奇妙なオブジェが並ぶ様子は、港湾に構えられた貿易商の事務所のようでもある。しかし、人の気配は無い。組んだ両手にアゴを乗せた史学科長が思索深げにうつむいているのを見ても、声をかけてはいけない。たいていが午睡の只中にいるからである。
 窓から目をやれば、旧棟から少し離れた学園の敷地と遺跡との境界が不分明な地帯に、石造りのドームが見える。狭い入り口をくぐれば、中央のくろぐろとした穴から鉄製のハシゴがのぞいている。遠ざかってゆく外の光と手元さえ見えない薄暗さに感じる原初的な不安を飲み込んで降りてゆけば、やがて、天然の岩肌と古代遺跡の壁面が混ざりあった莫大な空間にたどりつくはずだ。
 木で組んだ足場の上をモッコが走り、硬い岩肌に叩きつけられたツルハシが火花を散らす。壁に埋めこまれ、等間隔に照らすのはグラン・ラングによる人造の光だ。けれどそれは古代の遺産ではなく現代のあとづけで、周囲を照らすに十分な明るさとは言いがたい。そんな薄闇の中、各人が腰につけた角灯が幻想的にゆらめく。
 『学園は、そのものが巨大な遺跡であり、地上に突き出した建物は氷山の一角に過ぎない』
 それが史学科の主張だ。涙ぐましい有言実行の結果、史学科の研究室は太陽の照らさない部分すべてである。
 「おーい、ユウド、こっちや」
 空中に浮かんだ目と歯が上下にゆれながら接近してくる。角灯のシェードが上がると、目と歯をとりかこむ輪郭があきらかになった。キブだ。
 「すまんかったな、呼び出して」
 あいもかわらず夜のように黒い。
 「上のほうはだいじょうぶかいな」
 「ボスさえいなけりゃ、おだやかなものさ。研究内容はぜんぶここに入ってるからね」
 ぼくは人差し指でこめかみをさして、うそぶいてみせる。きざな言い方を許してもらうなら、言語学科の研究室は脳内のすべてだ。
 ボス、つまりぼくの直属の上司である言語学科長は、目下のところ世界各地を遊学中である。ここ最近、年の半分くらいはいないんじゃないか。今回の学科大移動とその期間が重なったのは、学園にとって大いなる僥倖だったと言える。うちのボスのお祭り好きは、度を越えているから。偽情報をリークして学科間の争いを誘発したり、劣勢に加勢したり、優勢の尻馬に乗ったり、なんでもありだ。一貫しているのは、騒ぎを収束させるのと真反対へ動くベクトルだけ。
 ボスのことを考えるときはいつも、喉元をしめつけられるような、中間管理職の悲哀が肩口から全身へ物理的な重さとしてのしかかるような、そんな感覚にぼくはさいなまれるのである。
 「それはそうと、きょうは斬新な襟巻きをしとるな」
 ぼくの首に巻かれた白いものへ黒い指先が伸びると、それを食いちぎらんばかりの勢いで野獣の犬歯ががちり音をたてた。mmgf3.jpg
 「ひいッ」
 情けない悲鳴とともに、キブがとびすさる。ぼくの背中ごしにのびあがったマアナが、剣呑な空気を発散している。もしかすると、襟巻き呼ばわりされたことを気配で察して、抗議を示したのかもしれない。角灯のシェードを下ろし、両目をつぶったキブが口をへの字に曲げれば、もうどこにいるのかわからない。
 がちがちと虚空に歯を噛みならす野獣を頭ごと押さえつけると、おんぶから前へと抱きなおす。
 「ほら、もうだいじょうぶだよ」
 空中に一つ目が浮かび上がる。キブが片目を開いたのだ。
 「心臓に悪いわ。ペットの管理は飼い主の責任やで」
 マアナは歯をみせてぐるぐるとうなっている。こめかみから敵意がいなづま状にとびだすような、凶悪な視線だ。
 どうもこの二人は折り合いが悪い。キブは半ば以上本気でマアナを史学科の研究材料と考えていて、それが伝わるのかもしれない。非言語コミュニケーションって、むずかしいよな。
 「ちょっと噛みぐせがあるけど、最近ではだいぶましになったからさ」
 とたん、肩を噛まれる。犬歯が痛い。
 「きょうは仕事の話やろ。スウに預けてくればよかったやん」
 口をとがらせて愚痴る様子が、大人げない。うちのプロテジェは託児所の保母さんじゃないぞ。
 「おばあさんのところへ帰ってるよ。ここ最近、ずっと世話をしてもらってたから、今日ぐらいはね」
 おばあさんのところ、という下りでキブは軽く鼻をならす。
 「ふうん。そら、うちの若いのが残念がるわ。じゃ、立ち話もなんやし、奥いこか」
 話題の打ち切り方に若干の不自然さがふくまれているような気がしたが、ぼくにとってもそれは望むところだった。
 応接とは名ばかりの、天井の低い横穴へと案内される。卓上に置かれた角灯が室内をおぼろに照らし、影は長く伸びる。自然石から切りだしたという椅子は、まるで身体の曲線にあわせたような、不思議な丸みを持っている。古代人の住居から拝借してきたにちがいないが、そのせいか、いつもむずがるマアナがおとなしく座ってくれているのはありがたかった。
 飲み物を両手で包み、ちょんと椅子の端に腰掛けている様子は、さきほどまでの猛犬ぶりとは正反対の愛らしさだ。目を細めている自分に気づいて、ハッと我に返る。これじゃまるで、孫を見る好々爺じゃないか。
 それから、何人ものプロテジェたちがお茶を持ってきましただの、何か不都合はありませんかだの、不自然なほどの出入りを繰り返して話の腰を折りまくったが、スウの不在を知るとがっくり肩を落とし、一様に入室の際の慇懃さを喪失して退室していった。
 「さて――」
 拝借品のカップをこれまた拝借品にちがいないテーブルへもどしながら、キブが身を乗りだす。
 「これが今日の本題や」
 かつん。豊満な胸元から取り出した小瓶が、カップの横へならべられる。瓶の底には、黒い煤状のものがこびりついていた。
 「史学科で保管する膨大な史料と相互参照を行い、当たれる文献にはほぼすべて当たらせてもらった」
 ぼくは目を見張る。
 「この短期間で、よくそこまでできたね」
 あの事件から、一週間と経過していないはずだ。キブはすまし顔でせきばらいをすると、
 「もちろん、ウチの戦略的な視点が大きく解析を早めたことは、強調しても強調しすぎることはないな。言語学科に在籍する、とあるプロテジェからの依頼やとうちの若いモンにあらかじめゆうといたんや」
 「ただの人海戦術じゃないか!」
 あきれて、思わず大きな声を出してしまう。驚いたのか、マアナがぼくを見る。
 「ちっちっちっ」
 キブは得意げに、人差し指を左右にふる。
 「あいかわらず、器の小さい発言やな。最適の解が得られるんやったら、道筋にはこだわらへん。それがウチの大きいやり方や」
 同期のせいか、ときどき妙に対抗意識を感じるなあ。どうりでさっきからプロテジェたちの表情が暗かったわけだ。依頼主から直接お褒めの言葉がもらえると思ってたんだろう。頭痛がきそうだ。
 「それでさ、肝心の解析結果はどうなってるんだい」
 「結果か。うん、結果な」
 どうも歯切れが悪い。
 「該当ゼロ、や。衣類の残骸も材質から調べたんやけどな。やっぱりゼロやったわ」
 マアナは退屈そうに足をぶらぶらさせはじめた。こんなとき、暴れださないことは大きな進歩かな。
 「そうか、ゼロか」
 「あれ、あんま驚いてへんな。ウチはけっこうショックやねんけど」
 ペルガナ市国は発掘と研究を国家の柱としている。他国からの留学も多く受け入れ、学術交流も盛んだ。全体的にストイックとはほどとおい、ユルい空気のこの学園だが、数百年の長きを存続しているという一点においてだけは、他の研究機関の後塵を拝すことはない。伝統による知の集積が、ハンパではないのだ。この学園で該当する対象がないということは、世界の他の場所でそれが見つかる可能性は極めて低いといえるだろう。
 「出どころは伏せて生物学科にも回してみたんやけど、からぶりやったわ」
 あの怪人と向きあったとき、すでに予感はあった。ぼくたちの周囲に、この穏やかなペルガナ市国の日常に、何か決定的な異物が入りこんだのだという感じ。ぼくが平静な気持ちでキブの報告を聞いたのも、やはりどこかであらかじめそれを予想していたからだ。
 「まあ、人がやることやし、見落としがなかったとは言いきれへんわ。時間もそんなあらへんかったしな。アンタが納得いかんのやったら、よその研究機関に調査を依頼することもできるけど」
 「学園でダメなんだろ。どこに第二の意見を求めるっていうんだよ」
 「ダン共和国のセイニ学院くらいやろな、うちに匹敵する精度の解析が期待できるのは」
 「へえ、初耳だな」
 「言語学科はないらしいから、ユウドには畑違いってとこやな。まあ、ひとつ大きな問題はあんねんけど……」
 視線をそらしたキブの語尾が、空中へと消える。
 「どうしたんだよ。歯切れが悪いな」
 マアナの首が小刻みにゆれはじめた。いまにも眠りそうだ。ここの薄暗さに影響されているのかもしれない。
 まるで誰かに聞かれるのを恐れるように、キブは姿勢を低くして声をひそめた。
 「セイニ学院な、アンタのとこのボスがいま遊学してる先や」
 「ほんとかよ!」
 驚きのあまり、ぼくは二の句が継げなくなる。そこへすかさず、
 「わからないけどなっ!」
 豊満な胸をそらしながら、キブが声色を作って叫んだ。マアナがびくりと身を震わせ、椅子からずり落ちる。
 「冗談でもそれ、やめてくれよ」
 弱々しく言うと、ぼくは頭を抱えて卓上へつっぷした。頭痛がきた。
 わからないけどなっ。これは、うちのボスの口ぐせだ。若いメンターたちをさんざんに論破したあとや、ほとんど奇跡のようなグラン・ラングの施術を見せたあとに、決まって言う台詞。
 わからないけどなっ。身をもって未熟さや才能の欠如を理解させられているところへ、この追いうちである。完全無欠の言語学科長でさえ、この世界にまだ習得するべき余地があるという宣言は、具現化した永遠として研究の徒をうちのめす。
 そういえば、以前ボスに聞いたことがある。グラン・ラングについて、どのくらいわかっているんですか、と。いま考えれば、愚かしい問いかけだ。前後の文脈は忘れたけれど、おそらく、くってかかったんだろう。そのときの答えがふるってる。顎をつまんでしばらく考えたあと、
 「まあ、半分くらいかな?」
 ボスが言明するのなら、間違いない。この人は、本当に永遠の半ばまでを踏破しているのだ。ぼくはその後、三日間寝こんだ。
 キブはにやにやと、なんだかぼくの狼狽ぶりに楽しげだ。
 「どないする? セイニ学院。アンタが依頼主やからな。アンタ次第やで」
 わからないけどなっ!
 すぐそばでボスの声が聞こえたような気がして、背筋に寒いものが走った。
 「メンター・キブ。この案件に関する最後のオプションとして、それはとっておこう」
 いつにない果断さで、ぼくは返答する。
 「まあ、妥当な判断やな。ウチも同感や」
 強い同意を表すかのように、ふかぶかとうなずくキブ。数多くの検証を乗り越えて、ぼくとキブの予感(悪いほうだ)が一致したときの的中率はほぼ100%である。
 「まあ、せやけど――」
 髪を手櫛でかきあげながら、キブが長く息を吐き出す。
 「アンタもうすうすは疑ってるんやろ?」
 床にずり落ちたまま、マアナは寝息をたてていた。意味ありげな視線がその金色の髪に投げられている。
 「まあ、ね」
 ときに直感とは、未来を予言するような働きをすることがある。こと、グラン・ラングの研究で大きな進展を迎えるとき、いつもそれがあった。
 ゴールや結論だけが見えてしまう状態。自分以外の誰にも客観的には説明できないのに、思いついた内容が何の説明も不要なほどに、妥当だと感じる瞬間。そうなれば、あとは自分以外を説得するために言葉とデータを積むだけだ。そして、最初の直感は完全に証明される。もちろん、いつもというわけじゃない。ボスと違って、ぼくは天才ではないから。
 「発掘品のリストのうち、ひとつだけ照合できてないのがあるな」
 キブがゆっくりとあごをさする。
 「髪の毛の一本でも、もらわれへんか?」
 マアナと出会ったとき、ぼくはすべてを予期していたのではないか。
 一連の事件が、この少女から始まっているのではないかという直感。
 「それは賢明とは言えないな」
 あの怪人に覚えた既視感の正体、もしかするとそれは――
 ぼくは思考を停止し、表情を作ろうと努める。
 「髪の毛をひっこぬいたりしたら、寝起きですごく暴れそうだ」
 冗談めいた口調を装う。
 「あんまり思い入れをしすぎんほうがええな」
 キブは真顔のまま、目を細めた。ぼくは肩をすくめてみせる。
 「研究者として、観察対象への距離だけは保っているつもりだけど」
 「とぼけな。いまのは友人としての忠告や」
 長いつきあいだけに、どうやらぼくの韜晦は通じなかったらしい。
 「いろいろとありがとう。まあ、なんとかやってみるよ」
 言いながら、眠っているマアナの両脇に手をさしいれて、抱き上げる。ひどく重かった。感謝の言葉は、拒絶のようには響かなかっただろうか。
 「アンタはときどき、妙に意固地なとこがあるさかいにな」
 キブは両膝に手をうちつけると、大きくため息をついた。
 「子ども抱いたまま、ハシゴはのぼりにくいやろ。ついといで」
 卓上の角灯をとりあげると、不機嫌をよそおって、ずんずんと歩き出す。
 ああ――
 この黒い人影は、いつでもぼくを先導してくれる味方なのだ。
 キブの背中を追いながら、天井の低い通路を這い入り(身長が気になる)、狭い石壁の隙間へ横にした身体をねじ込み(体重が気になる)、底の見えない淵へ渡された丸太の一本橋をわたり(臆病が気になる)、土の地肌がむきだしになったトンネルを延々と進む頃には、薄暗さも相まって、もう上っているのやら下っているのやら、方向感覚は完全に失われていた。不安になって、思わず尋ねる。
 「ずいぶん歩くんだね」
 「ここや」
 袋小路に立ち止まったキブが天井の石肌を押すと、暗闇へしみこむように光があふれた。
 小さな穴から顔を出せば、しなびたお尻が目の前にある。旧棟内の史学科研究室だ。
 「こんなところにつながってるなんて」
 石板をもどすと、それは他の床とまったく見分けがつかなくなる。
 「な、便利やろ」
 キブは我が手がらのごとく、得意げだ。
 「あのさ」
 史学科長の規則的な寝息が聞こえる。
 「こないだ、局所的な地盤沈下で芸術学科の倉庫が埋まったことがあったよな」
 「ユウド」
 キブが完全な無表情になった。
 「あれってもしかして――」
 一転して、不自然なほど自然な笑顔を浮かべる。
 「ユウド、学究の徒とは思われへん発言やな。猫をけっとばしたプロテジェが事故にあったとして、猫キックと事故の因果関係を真剣には考えへんやろ。人の心っちゅうのは、体験したことがらを意味のあるものとして結びつけたがるようにできとんのや。それを探るのは、神学とか民俗学の領域やろ。客観的なデータの積みあげで迷信を越えるのが、ウチらの研究やないか」
 言いつつ、痛いほどにぼくの肩をどやす。ぼくは、ずり落ちたマアナを抱えなおした。こりゃ、まちがいないな。
 「これは借りというより、貸しだよな」
 「ゆうとる意味はわからんが了解した」
 ぼくたちは固い握手をかわし、再び地下と地上へお別れをした。


 暗闇に慣れた目に光が痛む。両目をしょぼつかせながら廊下へ出ると、右肩と左肩を振り子のようにゆさぶる歩き方で、誰かが猛然とこちらへやってくるのが見えた。頬はこけ、ひどく痩せているが、身体の末端にまで鋭いものをめぐらせているような印象がある。
 背中に大量の汗がにじむ。いちばんマアナのことを知られたくない人物だ。眉間に深くきざまれた皺がゆるんだことを見れば、もうこちらのことは認識されている。廊下の隅に放置された用具入れとマアナへかわるがわる視線を走らせ、自分が相当にうろたえていることに気づいた。いやいや、いまさら何をやったって疑惑をかきたてるだけじゃないか。
 先手必勝。ぼくは精一杯の愛想笑いで話しかける。
 「やあ、メンター・スリッド。数秘学科の移動はもう終わったのかい?」
 「まったくこの騒ぎは馬鹿げている。とんだ労力の無駄づかいだ。君もそう思うだろう?」
 手のひらを秀でた額にうちつけ、慨嘆する。発言だけではなく、アクションも大がかりなのだ。ぼくは微笑んだまま、あいまいに首を傾ける。続きをうながされたと思ったのか、相手は誰でもよかったのか、スリッドはまくしたてた。
 「伝統の旗印を盾にして無批判に続けられる、こういった前時代的な決まりごとははやく廃止にするべきだ。知っているかい? この移動で学園の所蔵する備品のうち、じつに一割が破損もしくは紛失するという調査がある。私は次の学科長会議で、大移動の廃止を求める原案を提出するつもりだ。当然、旧勢力の抵抗は予想されるが、投票にさえ持ち込めば、我々若手の票を集めて勝てる。メンター・ユウド、当然、君の協力は期待できると考えていいんだろうね?」
 スリッドは論理的だし、ぼくなんかよりずっと学園のことを考えていると思う。しかし、なぜか老若男女を問わず、人気がないのだ。すべての議案に関して、対立軸をつくる彼の論法が受け入れられないのかもしれない。論理的であるためにすべてを二元論へと帰着させることが失う多くのものに、ぼくは思いをはせる。
 しかし、スリッドと口論したところで勝てるはずはない。このとき、ぼくの浮かべた表情は、不自然なほど自然な笑顔だったにちがいない。そしてその笑顔は、スリッドの雄弁を留める役には立たなかったようだ。
 「何より、直接民主政を剽窃した会議のあり方そのものが問題だと思わないか。議論にあれだけの時間をかけておきながら、議決がすべて投票で行われることは矛盾している。学園長の諮問機関であるはずが、いまや意思決定機関と変わらぬ権限を持たされている。本来、学園長が決裁するべき規模の事項に、投票がなじむとは思えない。全員が決定に参加したという事実は一見、公平の見かけを醸成するが、決定された内容が学園の利益に反した場合、誰もその責任を問われない。責任を分散し、分散することで放棄している。さらに二つ、看過できない大きな問題がある。一つは、それぞれの議題に対する理解の深度が、会議の構成員によって統一されていないということだ。なにしろ、会議の最中に眠っている者にさえ叱責はなく、優しく揺り起こした後に投票用紙が渡されるのだから、学園の情け深さは底なしだ。一票の格差という言葉では語りつくせない義憤を感じるよ。そしてもう一つは学科という壁が作り出す、セクト主義だ。上下を作らぬ、ぬるま湯の雰囲気の会議から離れれば、学科内には極めて厳密な徒弟制度が待ち構えている。学科長の命に従わぬ者は、昇進の序列から外され、研究を発表する場所すら危うくなる現状だ。すなわち、学科長が動員できる票数は、学科を構成するメンターの人数とイコールになる。例えば数だけを頼みの体技科のように、学科の人数がそのまま会議での物理的な発言力と影響力につながっている。零細の数秘学科が何を主張したとして、どれだけ正しい対案を提示したとして、数の暴力の前に蹂躙される。これらの問題点を放置して、なお得られた議決が公平だと言えるだろうか。私には、まったくそう思えない」
 若いメンターで票田を形成しようとする先の発言と、完全に矛盾しているなあ。
 それを指摘したところで、戻ってくる反論も「旧来的なセクト主義に対抗するための、やむをえない一時的な戦術」という論旨であることは予測できる。まあ、傍観者に徹すれば、いくらでも批判的な視点は保てるわけで、ぼくの考えもその意味でスリッドに対して公平ではない。この状況でぼくが返すことのできる最も適切な対応は、イエスでもノーでもない曖昧なあいづちだけだ。スリッドが求めているのは従順な聴衆であり、ぼくはその役割を演じることで穏便に場を収束させようとしている。だから、話が終わるまでを耐えるしか方法は残されていない。
 しかし、助け舟はやはり廊下の向こうから、地響きとともにやってきた。
 「よぉ、おめえたちが仲良しだとは知らなかったぜ」
 身体の倍ほどもある巨大な石像を右肩に抱えて現れたのは、体技科長だ。まるで重さがないかのように石像を床へおろす。
 「まったくこの時期はたいへんだぜ。どいつもこいつもおれたちを引っ越し屋くらいに思ってんだよ」
 おそろしく太い指で、がりがりと頭をかきながら、ぼやく。その底抜けに陽気な雰囲気に、なんだかこっちまで楽しくなってくる。ぼくの隣に立つ陰気な気配のメンターは決して同意しないだろうけど。
 吸引力、とでも言うのだろうか、ぼくはすっかりそれに釣りこまれてしまって、尋ねる。
 「そういうわりに、うれしそうじゃないですか」
 「おうよ。みんなタコツボから出てきやがるからな。知らねェ顔を見れるのは、うれしいわな」
 黙りこんだスリッドが、燃えるような視線で体技科長をにらみつけている。
 気づいた体技科長は、肩をすくめてそれをいなす。
 「怖いねえ。俺ァ、おまえさんの敵じゃねえんだ。まさか、廊下で会議をおッぱじめようってんじゃねえだろうな」
 「メンター・ユウド、さっきの件については考えておいてくれ」
 スリッドはぼくの肩を抱き、耳元でささやくことで、ことさらに親密さを印象づけようとする。体技科への対抗意識がさせているとは言え(そう願う)、気味が悪いことに変わりはない。ぼくの笑顔は、目の前の石像よりも石像らしく見えただろう。
 「では、私はこれで失礼する」
 体技科長へするどい一瞥を投げると、スリッドは大股に歩み去った。ぼくは内心、胸をなでおろす。どうやらマアナのことには気が向かなかったようだ。
 「まったく最近の若い連中は、同僚を敵と味方にわけてみたり、ぜんぶ抱えこんで隠しちまったり、面倒なこったぜ」
 軽口をかえそうとして、体技科長を見る。満面の笑みの中で、目だけが笑っていなかった。
 「魔物じゃねえ。最近、妙なのが学園のまわりをうろつくようになった。こないだとっちめたら、煤みてえに消えちまいやがった」
 石像をなでながら、声をひそめる。
 「ここンとこ、妙なことばかりだ。何かがおかしい。おかしいと思うんだが、それが何なのかわからねえ」
 体技科長がほんの軽いしぐさで、石像をひっかく。指の軌跡そのままの形に表面が削りとられ、廊下に粉塵が散る。あの手につかまれたら、ぼくなんてひとたまりもないだろう。
 「俺ァ、バカだから、考えるのは仕事じゃねえ」
 頭をがりがりとかきまわす。
 「ユウド、おめえの仕事がぶん殴ることじゃねえようにだ」
 先ほどと変わらない、ほとんど親愛と呼べるような雰囲気のはずだ。唯一、感情の温度が極めて押さえられた両目が、観察するように細められる以外は。
 言葉にされない圧力。ぼくは全身の毛穴から細かい汗がふくのを感じた。
 「俺っちにできる仕事があったら、何でも言ってくれ。できれば、手遅れにならないうちにな」
 「肝に銘じておきます」
 平静をよそおうのにすべての力を使いはたし、ぼくはそう答えることしかできなかった。
 「いい返事だ」
 大笑すると石像をかつぎかけて、また床へ下ろす。
 「おっと、おめえらのせいで忘れるところだ。俺ァ、史学科長サマに用があったんだ」
 おそろしく太い指を戸口にかけたところで、体技科長はふとマアナに視線を留めた。
 「やっぱり、知らねェ顔を見れるのは、貴重だわな」
 老獪な両目は、そのとき何を考えているのか読みとらせることはなかった。
 大きな背中が室内へ消えるのを見届けると、ぼくは足早にその場を離れる。
 いろいろなものが符号しはじめている。ぼくひとりの手には余る規模のできごとが、同時にぼくの手の中に収まっているような、奇妙な感じ。体技科長がどこまでを見抜いているのかはわからないが、異変に気づいていることだけは確かだ。
 いや、確証がないではないか。先行する直感が、後から来る客観的データの裏付けに反証されることだって、ままあることだ。いくつかの現象が符号するからといって、まちがっているかもしれない予断を頼みに行動することで、とりかえしのつかない過誤を生みはしないか。
 「おまえはいつも頭で考えすぎなんだよ。グラン・ラングは現実とつながってるんだ」
 ボスの、いつかの言葉が脳裏をよぎった。思えば、グラン・ラングの研究とは奇妙なものだ。思考と行動の合一をそのまま言語が体現しているのだから、研究という言葉にこれほどなじまないものもない。
 しかし、ぼくがこの分野に足を踏みいれることになったのも、元はと言えば、考えることと目の前にあることを切り離して生きてきたからではなかったか。このふたつがつながるのを、どこかで嫌がっている。それが人の心が不可侵の聖域であることを否定するような気がするから? 言い訳だ。
 ボスにとっては何気ない一言だったのかもしれないが、ぼくはひどくショックを受けた。生まれもった性格が、グラン・ラングの研究にむいていないと言われた気がしたのだ。うすうすどこかで気づいていた事実を改めて言葉にされたことが、ひどくこたえた。
 ボスのふるまいは融通無碍だ。考えること、話すこと、動くこと、すべてがぶれなく一致している。ぼくはと言えば、この三つの間に矛盾が生じないようにするだけで手一杯だ。器の大きさとでも言えばいいのか。表面を同じようにつくろったとしても、やはりどこかでスケール感に欠けるのだ。
 “魂=駆動系への付与行為について”、と題した論文を発表するときもそうだった。
 「ペルガナ学園には、ひとりの研究者しかいないと思われるだろ。いっそ、連名じゃなくていいくらいだ」
 ボスの助言なしには、アイデアを完成させる最後のジャンプはなかった。結局、連名で提出したのは、ぼくがそうしてほしいと希望したからだ。
 思考と行動が一致する瞬間を避けようとし、ぼくの功績がぼくからではない形で世界に寄与すればと思う。きっと、主人公でありたくないのだろう。常に、より適切な人物が身近にいるはずだ。例えば、うちのボスのような。
 だが、いまぼくが直面しているのは、転変する現実の事象である。客観的データの蓄積を待つ時間は許されていない。そして学園をとりまく異変に、おそらくいちばん深い形で関わってしまっている。この事件へもっとも適切に対処するだろうボスはいない。
 いっそ体技科長にすべてを打ち明けて、預けてしまえばという誘惑にかられる。
 ぼくの考えていることがわかるかのように、腕の中で柔らかく小さなものが身じろぎする。結論が出るはずもなかった。
 「助かった、ユウドだ! ユウドが来てくれたぞ!」
 名前を呼ばれて、思考の堂々巡りから我に返る。助かったのはこっちのほうだ。
 見れば、機甲学科の面々が鉄でできた巨大な何かを、なんと人力で移動させているところだった。その周縁は大人が三人で手を回してやっと届くほど、高さは大人が肩車したくらいある。旧棟の外縁をどうにか引きずるように運んできて、最後の最後でほんのわずかの段差にスタックしたようだった。
 「あれ、今日はあの子はいないのかい?」
 言いながら、腰から刀を抜くマネをする。ニコイチみたいな扱いだな。いい加減、あちこちで知られているスウだが、こういう形で悪名をはせているのは、正直どうかと思う。
 「いや、今日はちょっと親戚のところに行ってるんだ」
 「残念だな。彼女なら、ひと押しでこんな段差、乗りこえられるのに」
 表情を見ると、どうやら本気で言っているみたいだ。スウの腕力に対する一般的な評価は、体技科のメンターと同等らしい。学園祭で演じた『恐るべき怪力女』が、相当に強力な刷り込みとなったのだろう。
 ぼくのプロテジェたちに乞われて、仕方なく舞台裏の付与役として協力したのだが、どうも悪ノリが過ぎた。細身の少女が体技科の大男を手玉にとるという筋立てで、ぼくの役目はスウが片手で相手の巨体を持ち上げる場面をサポートすることだった。結果、まるで演技ではないかのような迫真の格闘で大男を殴りたおした上に、観覧席を飛びこしたはるか場外へと放り投げてしまった。
 ぼくがいたずらでやった部分もあれば、そうでない部分もある。正確な区分けは、うら若い乙女の名誉のために伏せておくとしよう。しかしながら、万雷の拍手の中、舞台袖のぼくをにらみつけたスウの湿った半眼とその後のよしなしごとは、今でも生々しい戦慄とともによみがえるのであった。
 閑話休題。
 「まあ、ぼくひとりでもだいじょうぶさ」
 沈みこんでいた重苦しい悲観を楽観で塗りつぶしてしまおうと、つとめて陽気に宣言する。
 やることは簡単だ。遺跡で風をまとわりつかせたのと同じに、空気のごく薄い膜をこの下へすべりこませる。即席の手押し車だ。
 マアナを左腕だけで抱えなおす。鉄塊に手をかけ、意識を集中する。
 グラン・ラングの効果は、ぼくたちの言葉に比べれば極めて限られた、元となる音素が意味を許容する範囲を正確にトレースできるかどうかにかかっていて、発生する物理現象は完全に予測の範囲に収まる。
 このときまでは、そう思っていた。
 音素が大気に命令を下し、形成された目に見えない薄膜が巨大な塊をほんのわずかに浮揚させ――
 視界が二重写しのようになって、切り替わった。
 無辺大の広がりを持つ上下のない空間。
 奔流のごとく満たす形象を伴わない力。
 ぼくを出口としていたが、それはぼくをはるかに越えていた。
 空気の膜がゆっくりと回転しながら、次第に速度をあげる。ちょうど水桶の底から水を抜くように、大気が渦を巻いて鉄塊の周辺をとりまきはじめる。やがてそれは細長い竜巻へと変化し、うねりながら学園上空の雲を貫く。その暴威の向こう側で、機甲学科の装置は目的を失ったオブジェへと圧壊した。
 時間にしてみれば、一瞬のこと――
 ある者は雲の穴に新たな白いものが満ちてゆくのを見上げ、ある者は巨人につかまれたような鉄塊を呆然と眺めた。
 その奇妙な沈黙の中、くすくすと笑い声がひびく。
 目をつむったまま口元に笑みを浮かべて、マアナが笑っている。
 楽しい夢をさまよう赤子のように、細かく身を震わせてマアナが笑っている。
 歯ぎしりに漏れた奥歯の音がキチチと、まるで昆虫の羽音のように、鳴った。