七月は終末の月。

廣井王子(3)

 「近年青少年の間に広がる異性への無関心。小子化の一因であるとも取り沙汰されるこの現象、その裏に潜む現実とはいったい何なのでしょうか。我々nWoのスタッフはその真相に迫りました」

 nWoのロゴが回転する。サブタイトルに”青少年の現在”とある。暗い部屋。様々のグッズが積み上げられ、生活空間と呼べる場所はほとんど残されていない。ちょうどその谷間になる中央のモニターの前に座ってマウスをしきりとクリックしている小太りの青年。ただ座っているだけだというのにその息は荒い。画面には西洋人の成人女性の身体を持ち、東洋人の幼女の顔面を有した、この地球上のどの人種にもない髪の色の、女性存在の戯画とも言うべきキャラクターが、バスケットボール大の目玉にその容姿との異常なアンバランスさで男を誘う腐りおちる寸前の爛熟した果実を思わせる媚びを浮かべている。
 「(顔にモザイクがかかり甲高い変換された声で)ねえ、これ瑠璃子ちゃん。可愛いでしょ。え。ああ。うん。どうなんだろう。なんでかな。いいじゃないの、そんなこと。ほら、瑠璃子ちゃん。可愛いでしょ。(カチカチというクリックの音が室内に響きわたる)え。違うって。ムカつくなぁ。そんなのね、いくらでもできるのよ。みんな低脳だし。だいいちブスばっかじゃん。そうよ、いくらでも。めんどくさいだけだって。おれ自身を分け与えてやる気にもならないって感じだね。みんな低脳だし。何より鈍感だよ。(カチカチというクリックの音が室内に響きわたる。青年、しばらくモニターを凝視していたかと思うと目を潤ませ鼻をすすりあげる。感きわまったという吐息をつき)ああ! けなげだなぁ! 純愛だなぁ! 大丈夫、どんなつらい現実からもぼくが守ってあげるからね。だから君は泣かなくていいんだよ。瑠璃子ちゃぁん瑠璃子ちゃぁん瑠璃子ちゃぁん(画面の明滅にひきつけをおこし唇の端から泡をふいて後ろ向きに倒れる)」
 モニターにカメラが寄り、ゲーム画面を詳細に映し出す。nWoのロゴが回転する。

 「さて、ご覧いただきましたただいまの映像ですが、社会評論家の物議醸造さんにコメントを頂きましょう」
 「(黒縁眼鏡に出っ歯の中年男性がしきりと手を揉みながら)うぅん、なんと言いますやろか、ひっじょぉに言いにくいんやけれど、誤解を恐れずあえて言うなら、低脳なのはおまえたちのほうじゃボケェ、死にさらせって感じやね。あいつらは女のやらかいパイオツをもみしだいてそれが手のひらの中でもうたまらんようにひしゃげるのを感じたことがあらへんのや。それに、まぁこれが一番の理由なんやろうけど、わしみたいに東大出てへんやろうしね。(やくざな姿勢で煙草に火をつけて吐き出す)わしくらいやからできるんやけど、あんたたちにもわかるように簡単に言うとやね、人間ちうもんは何かの価値を社会に認めてもらわな生きていけへんわけよ。人間ちうのは社会生物やからね。そやから認めてもらうための何の才能も持ってへん、おまけにそれをカバーする蟻のようなしみったれた勤勉さをさえ持ち合わせてへんいうことになるとこれはもう社会構造そのものを否定しはじめるしかなくなってしまうわけやね。まぁ、否定という具合にあからさまな反抗になるとまだええんやけど、もっと消極的な無関心という形をとる場合もあんのや。その、社会を無視した引きこもりが今の連中やろうね。田舎で百姓やって土くさい地味な娘を見合い結婚で嫁にもろてさかりのついた犬コロみたくヤりまくって十何人も子どもつくってある日腎虚で死ぬような人生を送るていどの質の低い脳味噌しか持ってへんヤツがわしみたいのと同じ価値観の土俵でやりあわなアカン今の社会は確かにきついわな。知性に不相応な感受性、この言葉が彼らのすべてをあらわしとる思います。こいつらよりアタマ悪いかもしれへん金髪のにいちゃんねえちゃんかて街頭で人目はばからずずこばこ気持ちよぉやっとるっちゅうのにホンマ心の底からかわいそうや思いますわ。憐れみを感じますわ。かれらに幸あれかし、嗚呼、幸あれかし(大仰に天をあおぎ悲劇的な表情で両手を顔の前にあわせる)」
 「ありがとうございました。それでは次に認知心理学の権威でありまた同時に一流のマンドリン奏者でもある虎威三朗氏、の妻である虎威狩子さんにご意見をいただきます」
 「(目の前に置かれたジュースを完全に飲み干してなおストローでずるずると音を立てているところをカメラが写す)がふっ。ごほっ。げほん。え、何。何なのよ、いきなり」
 「申し訳ありません。先ほどの映像についてご意見をうかがいたいのですが」
 「(服装を正して)ああ~、ええっとねえ。まぁクズです。そう、クズよ、クズ。うちの主人みたく教授でもないし、だいいち女性を見ても勃起しないんでしょう。勃起しないのよね。あまつさえ射精しないんでしょう。射精しないのよね。そんな脳に欠陥のある変態はいつどんな陰湿な犯罪を引き起こすかもしれないからどこか一カ所に閉じこめて厳重に監視しておくべきだと思うわ。と、大学教授であるうちの主人なら言ったでしょうね……ってそこのあなた、聞いてるの!? 認知心理学の世界的な権威でありまた同時に一流のマンドリン奏者でもある主人を持つところのこの私に対してなんて無礼な!」
 「(顔に帽子をのせテーブルに両足を投げだした姿勢でいびきをかいている。目を覚ましサングラスをはめ)ん。ああ、ちょっとねむっちまってたみたいだ。すまねえな、オバハン。あんまりチンポな話なんでよォ」
 「(顔をどす黒く染めて立ち上がり)ちちちちちちチンポとは何事か! 認知心理学の世界的な権威でありまた同時に一流のマンドリン奏者でもある主人を持つ私に、チンポな、チンポが」
 「そんなに怒んなよ。俺ァ”陳腐”って言ったんだぜ。溜まってんじゃねえのか、オバハン。(隣に座っている人物に)陳腐って言ったよなぁ、おれ?」
 「(車椅子に乗り苦しげにあえぎつつ何事か言う)……(取り出したボンベを吸引する)」
 「そうだっけか? 悪ィ悪ィ、昨日の酒がまだ残ってるみてえだな(馬鹿笑いする)」
 「あ。が。ぐ。つ。つまみだしなさい! こ、この無礼な男をつまみだしなさい! 認知心理学の世界的な権威でありまた同時に一流のマンドリン奏者でもある主人を持つこの」
 「(さえぎって)まぁまぁそうむきにならんと。で、このお二方はどなたです?」
 「株式会社赤い王国のゲームプロデューサー・廣井王子氏です。お隣の方は廣井氏の同行者です」
 「(からかい口調で)赤い王国総帥の廣井王子でぇす。んで、こいつはうちのシナリオライターの疋田くん。よろしくね」
 「(あえぎながら何事か言う)……」
 「先ほどのVTRに写されていたゲームをお作りになったのはこのお二方です。議論に公平を期すためにゲーム制作者側代表としてお呼びしました」
 「(大げさにうなずいて)なるほどなるほど。現場の意見を聞こうちうわけやね」
 「(乱れた息を整えながら吐き捨てるように)あんた低劣なものを文化と称して垂れ流すような連中に弁解を許すことはないわ」
 「(わずかに身を乗り出して穏やかに)いま低劣とおっしゃったが、あのような物語でも必要としている人間が多くいることは確かなんですよ。ここにいる我々ふたりを含めてね」
 「はん! 気が知れないわね。こんな出てきた女がすべて股を開くようなおまんこゲームに物語も糞もあるもんですか。若者たちはうちの旦那みたいにもっと高尚な文学を読むべきよ、(皮肉っぽく口まねで)あなたたちを含めてね」
 「(スタジオの空気を切り裂く大音声で)だまらっしゃい! (皆が気圧された中、静かに)物語はそれの持つ寓話性自体が世界への批判なのだ。その批判を批判するというあなたの行為はナンセンス極まりない。我々は物語が必要であると言った。より正確には物語を物語ることが、だ。(疋田を指さし)この男は心臓に先天的疾患を持っている。医者は両親に三歳までは生きないだろうと言ったんだそうだ。幸いにしてその予言は外れたんだが、子供時代のほとんどを病室で寝たままに過ごしたためにこいつの手足は充分に育たず虚弱で自身の重さを支えることもままならない。度重なる高熱のために睾丸は機能しなくなった。この男は生物学的に見れば完全に劣等だ。種を残すことが生あるものの使命だとするならばかれの存在は無意味ですらあるだろう。だがそれでもなお、こいつは生きていたいと望んだ。物語ることを望んだ。自分をこのようにした世界という不条理に批判を与えるために。自分をこのようにしなければならなかった世界という不条理を理解するために。自己の再生産のかなわない存在として自分が確かにあったことの痕跡を世界に残すために。そして何より、自分の意にそわず断絶してしまった世界とのつながりを取り戻すために。知恵とは壊れた本能の代替物であると言った人間がいた。本能とは個が世界という全体へつながるため、神が与えた装置だ。本能の明らかな下位装置である知性は、しかし世界につながりたいという意志において、つまり物語ることによって本能がした本来の機能を回復し得る。物語ることで人間は神の正道へと立ち返ることができるとさえ言えるかもしれない。その意味においてかれの物語はどんな文学にも負けず純粋だ。そこには語りたいという意志以外何も存在しない。ただ世界へとつながりたいという強烈な願望だけがかれを唯一物語らせる。(虎威狩子を指さし)あんたはただの一時的な感情からくる押しつけで一人の人間から世界を取り上げる残酷をすることができるのか? (静まり返るスタジオ)…おっと、悪ィ悪ィ。こんな完全に反論を封じてしまうようなやり方をとるつもりじゃなかったんだ。しかしあなたがた古い世代の人間たちが全く認識しようとしない、それこそワイドショー的な興味でしか目を向けない、それがあることさえときには忘れてしまっている現代の問題についての血肉をそなえたあまりにも具体的な象徴としてかれから話をはじめることは重要だった。唐突に響くことを恐れずに結論から言おう、我々はすでに滅びてしまっている。これは電波を通してセンセーショナルに響くことや、弁論術として最初に聞き手の興味をひくための手管ではない。おれが言うのはまったく、完全に文字通りの意味だ。我々はすでに滅びてしまっている。滅びとは世間に噂されるような恐怖の大王による大騒ぎの結果ではなく、我々の内側から忍びよって気がついたときには手遅れになっている、そんな性質のものなのだ。滅びとは最終的な結果のみをあらわすものではなく、すべての死滅に至るその道程をあますことなくしめす言葉なのだ。我々の歩いているこの道の先には確実な無がある。我々はもう致命的な――文字通り致命的な――引き返せないところに来てしまっている。あなたたち古い世代の人間たちが取るに足らないものと楽観視している間に、あなたたちの子どもたちは引き返せないはるかな場所にまで人類を連れて来てしまっている。これを滅びと言わずして何と言おうか。そして我々の滅びは決して威厳に満ちたキリスト教的殉教者のそれではない。惨めで、崇高さをかけらも持たず、良心を持つものならば誰もが目を覆うような、少しの潔さも感じられない、醜悪極まるものなのだということをあなたたちに断っておきたい。(独白めいたささやき)おれたちの運命は決まっていた。ただセルの上に盛られた絵の具にすぎないはずの無垢な少女が魂をとろかすような微笑みで微笑むのを見たその日から、四角いドットの集積に過ぎないキャラクターが神性を勝ち得て信仰となったその日から、モニターに踊るテキストの構築する脆弱な虚構を現実がわずかも凌駕できなくなったその日から、おれたちの運命は滅んでいくと決まってしまっていたんだ。おれたちはもう一秒たりともそれなしではやっていけない。投影された自己愛の鏡の迷宮に迷い込み、おれたちはもう一瞬たりともそれなしではやっていけないのだ。天才の自我の中、白痴の盲目さでアニメの少女に心の底からの恋をして、モニターに映し出された妖艶な美女にこの上なく興奮してオナニーする。誰も他人を愛さない、憎むべき自分を再生産することはさらに望まない。それらが真に意味するところもわからないままにかれらは歩み続ける。ただ確実なのは、みなさん、これは、我々の世代がいま作りだしているものどもはすべて人類という種の終焉を暗示しているということなのです。地球上に残された最後の人々は、そのときにもっともかれらの魂を捕らえているアニメやゲームの登場人物の名前を連呼しながらビデオの前を離れようとせず、そのキャラクターをかたどった等身大の人形とともにベッドに横たわるでしょう。そこにはどんな威厳もありません。ただ人類の積み重ねてきたこれまでの歴史を、尊厳を、粉々に破砕せしめる低劣さがあるだけなのです。(両手で胸元を激しくかきむしる。破れた皮膚の下から吹き出す血)おれはなんという未来を予見しなければならないのか! おれにどんな罪があったというのだ! おれが荷担したからか! おれはただ…おれが救われたかっただけなのに! この滅びは、おれたちの迎えるこの運命はなんと醜怪であることか!(テーブルの上に立ち上がる)」
 「(滂沱と涙を流しながら何事か言う)……」
 「おお! 不快なり!」
 廣井王子、テーブルの上に仁王立ちの姿勢で絶命する。

ペニスの王子様

 「(煙草の煙で黄色くなった壁にかかる時計に目をやって)しかし遅いですね」
 「(コーヒーのしぼりかすが盛られた灰皿に半分も吸っていない煙草を神経そうにつきたてて)なァに、いつものことさ。自分に箔をつけるために必ず約束より二時間ばかり遅れてくるんだ、あの人。気長に待とうや(ソファにのけぞり天井をあおいだまま動かなくなる)」
 「(しばらく組んだ両手を見つめているが沈黙に耐えきれず)ねえ、松岡さん」
 「(気のないポーズで)なんだ」
 「ぼく、一度もお会いしたことないんですけど、許斐先生ってどんな人なんですか」
 「(目に宿る光の種類が明らかに変わる。だが表面上は気のないポーズを崩さず)まァ、簡単に言っちまえばどうしようもない俗物だな」
 「(怪訝そうに)俗物、ですか。お金の支払いにうるさいとか、そういう?」
 「おまえね、(上体を起こして)そもそも漫画なんか書こうってやつがそんなわかりやすい屈折の仕方してるはずないだろ。うまく行かない現実の差分を自分で作った物語で、それも漫画なんていう(唇の端をふるえるように歪ませながら)低劣な物語で埋め合わせようってんだ。この職場でまともな人間に遭遇できるなんて期待はハナっから捨てたほうがいいぜ…(身を乗り出す)で、許斐のことだがな、放送禁止用語だとか世間一般でタブー視されている言葉を公衆の面前でことさらな大声を張り上げて口に出してみせることで無頼きどり、自分は破格の革命者だとふんぞりかえれるようなおそろしいまでの単純な精神の持ち主の類だ。先日も許斐とふたりで満員電車に乗り合わせる機会があったんだが――接待の帰りでな、おれはタクシーを使おうって言ったんだぜ。今の時間は混んでますからってな。だがやつは経費節減だとかもっともらしいことを言って、そもそもあれが伏線だったんだな…へぼネーム書きめ!――文字通り寿司詰め状態の車内でやつはこう切り出してきやがった『なあ、松岡くん。先日おれは儒人症の女と寝る機会を持ったんだが、そいつのヴァギナはどうなってたと思う?』。おれはそのあまりの無神経さにぎょっとなってそんなことを言う意図がわからず許斐の顔を見返したんだが、やっこさん、にやにや笑ってやがるんだ。それがうちの五歳になる息子が”うんこ”とか”ちんぽ”とか言うときとまったく同じ笑顔なんだよ! おれはもうぞっとして一刻も早く許斐のそばから離れたかったが、無視するわけにもいかない、わずかに許斐の顔から視線をそらして極力くちびるを動かさないように適当に相づちを打っていたんだ、同類だと思われたくねえからな。そうしたら許斐のやつ、またニヤーッと笑ってさ、『なぁんだ、松岡くん、ビビッちゃったの? 案外××社の編集者もだらしがないんだねえ!』と大声で言いやがった! おれはよっぽどぶんなぐってやろうかと思ったし、事実ぶんなぐりかけたんだが、そうならなかったのは満員電車が災いしてか幸いしてか両手とも動かせない状態にあっただけのことだ。(徐々に息があらくなる)そのあとも許斐の野郎、”目盲滅法”やら”片手落ち”やら”おし黙る”やら”カントン型”やら”雲竜型”などの単語をやつの降車駅まで連発し続けた。自分の駅に降りて窓越しにおれを見送るやつの心底楽しむような表情といったら! そのあとおれが電車内にどんな心持ちでどんな顔をして残ったかわかるか!? 許斐の野郎め!(両手でテーブルの上を思いきり叩く。灰皿がはねあがり、ひっくり返る)」
 「(どう返答してよいかわからず視線を宙にさまよわせる)あっ、先輩、あれは(立ち上がり部屋の入り口を指さす。おそろしいせむしの小男が肉感的な西洋美女ふたりを両手に抱き、ほとんどぶらさがるようにしてやってくる)」
 「(床に唾を吐いて)許斐だよ。見間違いようもなく許斐だ」
 「あの女性たちは許斐先生の恋人なんでしょうか?」
 「タレント事務所に金払って雇ってんだよ。あの顔面見てものを言え」
 「(作られた鷹揚さで周囲を眺めながら、二人のそばでいまようやく気づいたという演技で)おや! そこにいるのは松岡くんじゃないか!」
 「(ぴょんと跳ねあがりソファの横に直立不動で)先日は先生との夢のようなひととき、本当に楽しゅうございました。そしてまた今日先生にわざわざお運びいただけるなんて、不肖松岡正、随喜の涙を禁じ得ません(スーツの袖に顔をうずめて泣くまねをする)」
 「(後ろを振り返り二人の西洋美女にひらひらと手を振って)あ、君たち帰っていいよ。ヴァギナ、バック、アヌス、エレクト、オーケー?(二人の西洋美女、顔を見合わせ肩をすくめて立ち去る)」
 「(手のひらで額を打ち)いやぁ、さすが許斐先生! 英語もご堪能でいらっしゃる!」
 「(気にしたふうもなくソファに横柄に身を投げ出して)あいかわらずうっとおしいね、君は。(片方の眉をつりあげて)で、この子だれなの。見ない顔だけど」
 「ばばば馬鹿っ。(青年の後頭部をひっつかまえるとテーブルの上にがんがん叩きつける)聞かれる前にちゃんと自己紹介しないか! (床に頭をすりつけ平伏して)申し訳ございません、すべては私の不徳の致すところ。こやつめは今度うちに入社しました新人でございます。許斐先生に是非お顔を覚えて頂こうと同席させた次第でして。ははっ」
 「あっ、そう。どうでもいいけど。(片手をあげて)許斐です、よろしく。それじゃ、さっそく次回連載の打ち合わせを始めようじゃないの」
 「はっ。それでは先生の御企画、拝見いたします(両手を前にうやうやしく突き出す)」
 「馬鹿か、おまえは(テーブルの上にあったガラス製の大きな灰皿を取り上げて松岡の額へとしたたかに打ち付ける)」
 「(額が割れ、血が噴き出す)ぎゃっ。(傷を押さえながら)せ、先生。何かお気にめさないことでも」
 「(とたんにやさぐれた口調で)何年編集やってんだよ。新人の持ち込みじゃねえんだから、おれくらいの大家がわざわざしこしこアイデアを紙にしたためて持ってくるとでも思ってんのかよ、ああ?」
 「(とめどなく流れる血に視界をふさがれながら)申し訳ありません、申し訳ありません。(揉み手で)先生のお言葉は常に私の上に天啓のように響きますです」
 「わかりゃいいんだ、わかりゃ。今からしゃべるぜ。おい、チンポ面のおまえ」
 「ぼ、ぼくのことでしょうか」
 「他に誰がいるってんだよ、ボケが。学校の授業じゃねえんだ、二回は言わねえからちゃんと書きとめとけよ」
 「(大慌てで机をひっくり返して)か、紙、え、鉛筆」
 「(その様を尻目に土足のままテーブルの上に両脚を投げだす)さぁて、どこから話すか。まず今回の主人公はだな、精力絶倫の中学生だ。物語は電車の中で下半身を剥き出しにチンポの握りかたについて熱く議論している高校生に取り巻かれた女子中学生の顔のアップのコマから始まる。『あっはっはっ!! お前ら自分のチンポの握りも知らねぇのかよ!』、飛び散る男性の飛沫に困惑気味に顔をしかめる女子中学生。さすがに鈍いおまえらでも気がつくと思うが、この女子中学生が今回のヒロインだ。おれはこの女子中学生を『きゃん』という擬音をハートマークつきで臆面もなく公衆の面前に発話できるようなメンタリティの持ち主に設定するつもりにしてる。中学生の性を知らないままにやる無意識的な媚び、こいつはたまらなくおッ立つぜえ!(コーヒーを運んできたアルバイトの女子に人差し指と中指の腹で挟み込んだ親指を出し入れするのをにやにや笑いながらことさらに誇示してみせる。小さく悲鳴をあげ真っ赤にした顔を盆で隠しながら小走りに逃げていく女子アルバイト)全国の男子学生とサラリーマンのチンポわしづかみにしてやんぜ!」
 「(ハンカチで額をぬぐいながら)先生、なにぶんうちは少年誌ですので、どうぞお手柔らかに。(許斐の顔が不機嫌に曇るのをみてあわてて)あいや、しかし! アイデアのすばらしさについては数年来まれにみるものではないかと! さすが許斐先生、わかってらっしゃる!」
 「(自尊心をくすぐられた顔で小鼻をふくらませて)当たり前じゃねえか。で、続きなんだが、その窮地にさっそうと一人の少年が助けに入るわけさ! 台詞は例えばこうだ、『ピーンポーン、勃起したチンポを上から掴むように両手で持つのが正しいチンポの持ちかたさ。よくいるんだよね、利き手でつかんで根本からチンポ湾曲させてるヤツ』。主人公の名前は疥癬スペルマ、ちょっとしたレトリックをおれはネーミングで楽しんでみた…まぁ、低劣な知性の持ち主の○○○○読者になどは気づかれようはずもないからまったく無意味な遊びに過ぎないんだが、おれのプロとしてのちょっとした美意識というやつだ。(ことさらに声を張り上げて)まぁ、海賊漫画なんかに興味を示すような低劣な知性の○○○○読者になどはおれの漫画がわかろうはずもないんだが! (徐々に声がうわずり、ふるえ、それが全身に伝播する)海賊だって!? 馬鹿にするんじゃねえ! 海賊物語なんてのはスティーブンソンの昔にとうに終わってんだよ! 白痴が、おれの真価を理解もできない白痴めらがッ!(すぐそばに置いてあったパイプ椅子を取り上げ編集の窓ガラスをすべて破砕しにかかる)」
 「(後ろから飛びついて羽交い締めにし)先生、落ち着いて下さい、落ち着いて下さい!」
 「(血の混じった唾を床に吐いて)それもこれも松岡、てめえが無能なのが悪いんだよ。まぁいい。これが当たりゃ、それでチャラにしてやる。(椅子を放り投げて)そういやまだタイトルを言ってなかったな。タイトルはずばり”ペニスの王子様”だ。おまえたちの手間をはぶいてやるために表紙のアオリまで考えてきてやったぜ。『生意気。クール。失礼な奴。でもめちゃくちゃセックスが強い! いじわる。皮肉屋。あまのじゃく。だけどもめちゃくちゃセックスが強い! 無愛想。性悪。とっつきにくい。それでもやっぱりめちゃくちゃセックスが強い! 大胆。不適。負けず嫌い!だから めちゃくちゃセックスが強い! めちゃくちゃセックスが強い!”ペニスの王子様”』。どうだい。まったく作家にここまでさせやがって、おまえたち本当に楽なメシ食ってやがるよな、ええ?」
 「はっ。(ハンカチで額をぬぐいながら)まったく汗顔のいたりでございます」
 「けっ。ほんとに反省してんのかよ。ま、いい。でよ、これが今作品のイメージ画だ。いいアシスタント使えよ(取り出したくちゃくちゃのスーパーのちらしの裏にミミズがのたくったという形容が寸分たがわず当てはまるような筆致で身長の倍ほどもある魔羅をかかえた人物の絵が描かれており、その鈴口から直にのびた吹き出しには『イクイクー』という文字が踊っている。そのかたわらには縮尺のまったく正しくない髪型でかろうじて女性だとわかる人物がおり、不自然な位置からのびる吹き出しにはかろうじて『あぁん、エッチだよぅ』と判別できる殴り書きがある)」
 「(メモを取っていた手を止めて)あの、質問よろしいでしょうか」
 「(不機嫌に)なんだよ」
 「(ちらしに表記された二人のキャラクターのさらに後ろに立つ男とも女とも赤ん坊とも老人ともつかぬ、『さすがだね、スペルマ』という吹き出しを持つ不気味なクリーチャーをおそるおそる指さして)こ、これ、なんなんでしょう」
 「(ちらしを取り上げしばし凝視する。が、やがて放りだし)知るかよ。言ってみりゃ、それはおれの無意識の抽出だ。そこに凡人にも理解できるよう意味づけをして世界と天才との橋渡しをするのがおまえら編集者の役目だろうが。ガキの使いじゃねえんだ、いちいちおれに解釈を求めるんじゃねえよ」
 「しかし! たとえそうだとしてもこんな至極平凡なシナリオの断片と、便所の落書きみたいな紙ッきれ一枚でいったい何を作れっていうんですか! (興奮して立ち上がり)ぼ、ぼくはあんたみたいな漫画文化を喰い物にする芸術家気取りの高卒キチガイの尻をふくために青春のすべて捧げて有名国立大学に入学したんじゃないんだ! 血のにじむような、魂を削るような就職活動の末に××社に入社したわけじゃないんだ!」
 「ンだと、この野郎ッ! (激昂して鼻血を吹き、そばにあったパイプ椅子をひっつかむと止める間もあらばこそ、青年の頭頂部にむけて振り下ろす)てめえみたいなプライドだけは人一倍の受験社会の申し子みてえなのが作家の持つ狂気の自分たちが経てきたものとは違うおそろしいまでの独自性に嫉妬するあまり、それをなんのかんのと理屈をつけて希釈してチンポ抜かれた去勢漫画を世に送り出すんだよ! 自分大事の最低のビチクソがっ!(最初の一撃でぐったりとなった青年の倒れた後頭部に何度も何度もパイプ椅子を振り下ろす)」
 「先生、先生ッ!(後ろからとびついて羽交い締めにする)」
 「止めんなよ、松岡、止めんな!」
 「先生、もう死んでます。死んでますから!」
 「(肩で荒い息をしながらパイプ椅子を放り投げる。間。突如青年の割れた後頭部より流れ出すどろりと白濁した脳漿を指さしてげらげら笑いながら)見ろよ! こいつ、頭の中まで精液がつまってやがるぜ! 自分の想像の中の世間にしか興奮できないオナニー野郎め! 真実、世界と交わったこともないくせに理屈だけは一人前の無精子症め!(青年の側頭部を蹴りつける)」
 「(青年の血が付着したちらしを拾い上げて冷静に)アシスタントは一両日中には用意させていただきます。先生はいまある構想と思想をさらにお深めになって下さい。死体の始末はいつも通りこちらでやりますのでご心配なく」
 「(毒気の消えた顔で)悪いな」
 「いえ、それが編集者の仕事ですから。先生は我々ぐらいの生死ことなど気にとめず、ただよいお仕事をなさってくれればよいのです(指を鳴らすと全身白い服に身を包んだ男が数人やってきて青年の死体をかつぎあげ、いずこへかと持ち去る)」
 「(その後ろ姿をぼんやりと見送ってから、おもむろに片手をひょいと挙げて)それじゃ、今日はもう帰るわ。あとよろしくな」
 「(最敬礼で)お気をつけてお帰り下さいませ」
 「(先の乱闘でくじいたのか、片方の足をひきひき編集部を出ていく)…むか~しむかし、隣のびっこひきのバアチャンがよォ…」

風雲! 変態ペニスマン

 スモッグが雲を形成する都会の曇天にのぼる広告用アドバルーン。それの見下ろす休日の電気街を足早に行きかう人々。かれらのうちの長身猫背に周辺部に汚れのこびりついたブ厚い眼鏡の青年が振り返り、長年コミュニケーションをまともに行わなかった者の持つ特有の生理的嫌悪感を誘う聞き取りにくいくぐもった声で、
 「ははは、HP? ヒューレットパッカードの略ですか?」
 突然まきおこる一陣の風。と、ともに現れた一人の大男の回転胴回し蹴りが青年の頸部を的確にとらえる。その威力に引きちぎられた首は唇の上にもはや顔の造作の一部となってしまっている皮肉なひきつれを残したまま焼けたアスファルトと平行に飛んで近くに停車していたゴミ収集車の後部に濡れた音をたてて着地する。残された身体は切断面から突き出た管やら神経やら肉そのものからとめどなく血を噴出しながら二三歩首を探すようによろよろと歩き、ちょうど向かいから来ていた思い詰めた表情の小太りの女性に衝突してひっくり返る。女性、数秒ののちに事態を把握し怪鳥のごとき悲鳴をあげながら腰をぬかし小便をもらして路上へとあとずさる。そこに大型ダンプが走り込んでくる。金属と肉のぶつかるにぶい音。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、振り返りもせずに走り去る。収集車のゴミを裁断する刃物が回転しはじめる。透明のゴミ袋の上に乗っていた眼鏡の青年の首は一寸刻み五分刻み、やぶれたゴミ袋から出る腐った汁とまみれて野菜炒め状のものへと形をかえていく。刃が眼鏡のフレームを噛んだのだろう高い音がまったく静かになってしまった休日の電気街に響きわたる。

 アパートの一室。壁一面にもはや地肌が見えないほどポスターが貼られており天井もその例外ではない。ベッドの上には大きな子どもほどもある枕が置かれており、枕カバーには素養のないものが見たらぎょっとなり後ずさるような身体的特徴を備えた幼児とも成人ともつかない女性の絵柄がプリントされていて、唇・胸元・足のつけ根のそれぞれに明らかに性質のよくないものとわかる染みがべっとりと広がっている。灯りのない部屋に唯一ぼんやりとまたたくモニター。それをのぞきこむ青年の顔は光源の具合かどこかのっぺりとして魚類じみて見える。ひっきりなしに続くクリック音。
 「ああッ! ジョセフィーヌちゃん(キャラクター名。生まれつき色素の少ない白子の美少女という設定。肉体的に虚弱であった生い立ちからか知性に優れ感情をめったに表に出さず世の中をはすにかまえて見ている。だが実は寂しがり屋で主人公にだけ心を開いた微笑みをみせる。男の精を定期的に経口摂取しなければ死に至る奇病の持ち主というエロゲー的御都合裏設定あり)が大ピンチだよ! …うへへ、ラヴ度(各女性キャラクターの持つパラメータの一つ。戦闘中に敵の攻撃からかばうなどのオプションで上昇し、MAX状態で愛の交歓シーンへと突入することが可能となる。余談だが、このゲームの宣伝コピーは『マックスでセックス!』だった)をあげるチャンスだぜ! よぉし、ヒットポイント回復の呪文ゼツリーンをジョセフィーヌへ…ん、なんだ…?」
 突然モニター中央にひずみが生じる。ジョセフィーヌのステータス画面に表示された顔グラフィックが次第に歪みはじめその歪みが頂点に達したときモニターの映像が暗転、まったく消滅する。次の瞬間、爆発音とともにモニターの画面が破裂し無数のガラス片をはじけさせる。壊れたモニターの中から一人の大男が身を乗り出して出現する。ことさらに顔を接近させていた青年の顔面はガラス片でずたずたに切り裂かれる。中でも特別大きく先のとがった破片が青年のとっさに閉じた瞼を貫通し網膜を破り水晶体にまで達する。両手で顔面を押さえながらごろごろと転げ回り二度とその恩恵にあずかることのない視覚に偏重して発展したおたく文化の粋である様々のアイテムをなぎ倒しながら獣のような悲鳴をあげる。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」」
 大男、ポスターの貼りめぐらされた薄い壁にディズニー的な人型の穴を開けて隣の部屋へと移動する。隣の部屋に一人留守番していた小さな男の子、突然の闖入者に驚きその進路上に硬直して動けないでいる。大男、気にとめたふうもなく進み小さな男の子の頭の上からゆっくりと足をふりおろす。数分後、室内には少量の血にまみれた肉塊から四本の手足が垂直に突出した奇怪なオブジェがただ残される。

 照りつける真夏の陽光。興奮極まり手にしたビールを高々と頭上に振り上げ観客席に足を打ちならす人々。怒号がうねりとなってスタジアムの中央に底流する。グランドには、精神の尋常さを疑わせる絶えることのない笑顔で、異様に等身の高い選手たちが立っている。試合中であるというのに頻繁に体力を消費する目的であるとしか思えない大声で『…バサくん!』『ミ…キくん!』などと呼ばわりあっている。その日本的ホモセクシャリティの表出を見ながらぎりぎりと歯がみをして短く刈り込んだ金髪頭の青年が仲間に向かって大声を張り上げる。
 「いいか! 名門ハンブルグ・ファランクスが日本などというサッカー後進国の一チームに敗北するわけにはいかないんだ! わかって…アアッ!?」
 突然まきおこる一陣の風。太陽を背景にあらわれた現れた人影がまたたくまにボールをうばうと信じられないような速度で日本のゴールへ突進する。『12人目だ! 反則だ!』『かまいはしないさ! 誰であろうとグランドに立つ者は俺たちのライバルだ!』『よく言った、…バサ!』『おおっと、審判もこの反則を流しています! 試合の流れを重視するためのまさに名ジャッジでと言えましょう!』などという勢いにまかせた不合理なやりとりが現実時間を無視した劇中時間で瞬間的になされる。『顔面ブロックだ!』ラグビーでもないのに下半身に上半身で当たるマゾヒスティックなブロックをいがぐり頭の少年が試みるも、かれは永遠にブロックするための顔面を喪失することになる。赤く染まる芝生。眼前にくりひろげられる非日常に熱狂をましてゆく観客。打ちならされる足の音はもはや地鳴りである。口角泡とばし連呼される言葉は、『殺せ! 殺せ!』。『ワシが相手タイ!』キャラクター書き分けのために与えられたもはやどこの方言なのかわからない言葉を発話しながら巨漢がたちふさがる。大男のボールを保持してないほうの足がゆっくりとあがり前向きに突き出される。巨漢の腹に漫画的な五本の指がすべて数えられる向こうまで見通せる足形がぽっかりと空く。しばしの空白の後、その穴に臓物と血液が殺到し勢いよく噴出をはじめる。はじめて根拠のない自信に満ちた笑顔を失い泣きじゃくりながら流れ出る自らの臓物をかきあつめて元へ戻そうとする巨漢の背中をさらにふみつけにし、ゴールへの行進を再開する大男。もはやボールをうばう気概もなく泣きながら観客席へと逃げ込もうとする主人公格のふたり。熱狂した観客はしかしそれをゆるさない。ビール瓶で殴打され、小便をかけられ、二人はグランドへと押し戻される。キーパーが気丈にもゴールのまえから離れずにいるのはただ腰を抜かしているだけだ。キーパーの前に生まれる黒い影。見上げるその先には果たして例の大男が立っている。鼻水とよだれを垂らした白痴的な恩情哀願の笑顔はもはやそれまでの笑顔とは性質を異にしている。大男の振り上げた足がキーパーの顔面をとらえ、振りぬく。眼球や上顎の骨などキーパーの顔面だった破片がゴールネットにこびりつく。主人公格の二人、泣きに泣きながら互いに互いを大男のほうへと押しやり少しでも長く自分が助かろうとする。大男、悠然と近づき暴れまわる二人の後頭部にてのひらをあてがうと観客席直下の壁面へと押しつける。短い、風船のはぜるような音。
 そして壁面に残された無意識のアート。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、観客席によじのぼると熱狂しとびかかってくる観客たちを片ッ端から撲殺しながら歩み去る。グランドに残されたハンブルグ・ファランクスの面々。死屍累々たるスタジアムにチームの中の一人が発作的に笑いはじめる。伝播する狂気の波動。夕闇に浮かび上がるいくつかのシルエットと耳を聾せんばかりにふくれあがっていく奇声。

となりの高畑くん

 「(こわばった表情で)おい、ちょっとこれ見てみろよ」
 「(鉛筆を走らせる手を休めずに)なんだよ。あとにしてくれないか。いまちょうどノッてきたとこなんだ」
 「(声を荒げて)いいから!」
 「(びくりと肩をふるわせて)ちぇっ! 主線が歪んじまった! …なんだよ、いったい。(無言で差し出された紙束を受け取って)なんだっていうのさ、これが…(目を通す)お、おい、こりゃ」
 「さっき高畠さんの作業机で摩耶子ちゃんが発見したんだ」
 「(両手で口を押さえて泣きながら)もう見れません。見たくありません」
 「(青ざめて)確かにこいつはひどいな…どういうつもりなんだろう、監督」
 「(摩耶子の背中をさすってなぐさめながら)いずれにせよ確かめる必要があるな」
 「(人差し指と小指をつきだした両手を身体の両脇にくねくねと動かしながら戸口より登場する)みなさぁん、おはようございまぁす。(やたらにフリルのついたその衣装をひらめかせつつ小指を軽く噛みながら)今日もはりきって絵、書きましょうねぇん(ウインクする)」
 「(勢いこんでつめよる)監督ッ!」
 「(大仰に肩をすくめて)どうしたの、そんな怖い顔しちゃって…そう、わかってるわ。アタシが遅刻したのを怒ってるのね。昨日はランボオの詩を翻訳していたらつい興がのっちゃって遅くまで…ごめんなさいね?(小首をかしげて斜め下から見上げる)」
 「そんなスタローンがどうなろうとおれたちの知ったことじゃないです! 高畠さん、これはいった…うわっ」
 「ビキッビキビキッ」
 「(地の底から響くような低い声で)…スタローン、だと?」
 「ザワッザワザワッ」
 「(内側から盛り上がる大胸筋の力で洋服をはじけさせて)ふざッけるなぁッ!(気迫が渦巻く波動となりスタッフ全員を吹きとばす)」
 「うわあああっ」「きゃあああっ」
 「スタローンだと、てめえ、怒りの脱出か、怒りのアフガンか、ああ!? (目から光線がほとばしり机の上のセルが熱に溶解する)この低能の、文学音痴の、ビチグソどもがぁ~~ッ! ハリウッド映画に興奮して思わず徹夜か、ビデオキャプションで楽しく英語のお勉強か、ああ!? (倒れている一人の襟首をつかんで高々と持ち上げて)どうなんだ、そのニラレバを喰う口で言ってみろ、言ってみろよ、斉藤ォォッ!」
 「か、監督、た、高畠さん、苦しい」
 「(高畠の足にすがりついて)やめて下さい、監督、死んでしまいます! 作画チーフが死んでしまったらこの作品を期日どおりに仕上げることはできません、監督、高畠さん!」
 「(持ち上げたスタッフが青い顔で白目を剥いて泡を吹いているのをみて手を離す)けっ。そもそもおまえらがつまんねえこと言うからだ。脳みその入ってないやつが書いた絵にどうやったら思想が込められるってんだよ(ソファに身を投げ出す)。おい、なんか上に着るもん持ってこい」
 「は、はい、ただいま!(部屋から飛び出していく)」
 「(自分で自分の肩を揉みながら)あ~あ、疲れた。今日はなんだかもう仕事する気分じゃねえな」
 「(おずおずと)高畠監督」
 「(不機嫌に)ンだよ。俺ァ今日はもう仕事しねえぞ」
 「(真剣な表情で)このことだけは今日聞いておきたいのです…(紙束を差し出して)これはいったいどういうことでしょう?」
 「なんだよ(紙束を手にとる)…ああ、これか。シーンの追加分だよ」
 「(全身をぶるぶるとふるわせて)こ、今回の作品は、”となりの山田くん”はホームコメディなんですよ! いったいどこをひっくりかえしたらこんな、こんな、(泣きそうな声で)こんな異常な場面が出てくるっていうんですか!(机の上に広げられた紙にはスキンヘッドの暴走族に鉄パイプで頭蓋が変形するほど激しくなぐられ眼窩からカニのように両目と様々の体液を噴出している山田家の父の姿やスキンヘッドの大男にのしかかられ首をしめられて苦しさに泣きながら舌を突き出す全裸の山田家の娘の姿が尋常でないリアルさをもって精神病患者の執拗さで細部まで克明に描かれている)」
 「(悠然と煙草を取り出して火をつけると深々と吸い込む)…わかってんだよ、もうな。見に来る連中の層が。この原作だって時点で。世界の変容を知らずに旧態依然とした家族という幻想に我利我利亡者、みっともなくすがり続けるようなやつらだよ。自分の息子が二階の部屋でヤクきめて幼児ポルノビデオ見てオナッてんのを知らず一階のリビングでPTAの奥様方と午後の紅茶を楽しみながらクソほどの役にも立たねえ自己満足の教育談義に花さかせてるようなやつらだよ。やつらが欲しがってんのは自分がいまいる位置への保証だ。自身の現実を揺るがすことなく楽しめる表層的なエンターテイメントだ。(両手を広げて)いいともさ、おれの技術でめいっぱい楽しませてやるぜ、快楽の声をあげさせてやるぜ! だがな、おまえたちが最後に手に入れるのはおまえたちがもっとも見たくないと、見まいとして目をそむけ続けている現実だ! そうさご名答、だらしなく与えられる愛撫を受け入れて精神を完全に弛緩させきったところにいきなりこいつをブチこんでやるのさ(紙束を取り上げて手の甲で叩く)! ひひひ、恐慌に陥る観客どもの姿が目に浮かぶぜ! 小市民どもめ、誰がおまえらに迎合する作品なんかつくるかよ! やつらの近視的な小市民性からくる根拠のない安定と対象のない優越を縮み上がらせてやるぜ! ちょうど交尾の真っ最中の犬ッころに水をぶっかけるようにな!(ソファごとうしろにひっくりかえってげらげら大笑いする)」
 「(握りしめた拳をわななかせながら)ぼくは、そうは思いません」
 「あ?」
 「みんな、みんなそんなことはわかってるんだ。みんなわかっていながら、自分の無力を感じて、それでもなんとか自分の力で対処しようと毎日必死に生きてるんだ! へとへとに疲れてそれでも明日はなんとかなるだろうと必死に生きてるんですよ! なんでこんな最悪の戯画をわざわざかれらに見せつけなくちゃならないんですか! みんなの心を休らわせるのが、一瞬でもいい、過酷な現実を忘れさせてやるのが、ぼくたちの仕事なんじゃないですか! こんなのは違う! 違います!」
 「(目を細めて)若けぇ…若けぇな。(肩越しに後ろに)おまえたちも同じ意見かい?(後ろには幾人ものスタッフが取り囲んでいる。みな、無言でうなずく)やれやれ、万国の労働者よ立て、だ。(机の上の紙束を手にして)わかった、こいつは引き上げるとしよう(スタッフの間をすりぬけ部屋を出ようとする)。おっと、最後に……おれは、まだおまえたちにとって監督、だな?」
 「そんな…当たり前じゃないですか!」
 「(微笑んで)そうか。ならいい…ちょっとちらかっちまったが、かたづけといてくれ。(引き締まった顔で)明日から本格的に作業に入るから、そのつもりでな」
 「(全員顔を見合わせて涙ぐんで)はいッ、監督ッ!(高畠、その声を背に部屋から出ていく)」


 『(略)…とたんに細密になる背景。ぐっとあがる頭身。不安定なカメラアングル。そこはこれまでの”山田くん”の世界ではない。そこは我々の世界だ。誰も特別でない、人間が不条理に死ぬ世界だ。人の死が意味性を持たない世界だ。誰もが不条理に殺される、我々のよく知っている空間だ。家庭というファンタジーの中でさえ精一杯の虚勢でかろうじて成立していた父の権威は、その残酷な現実においてもはやまったく力を持たず無力を露わにしてしまっている。家庭を守る存在として家庭から送り出されたかれは、自分の力が現実世界においてまったく役立たずなことを知りながら、なおすべてを放逐して戻ることを自らの矜持によって許されず、蟷螂の鎌、よろよろ立ち向かわねばならないのだ。すでに腐りかけている自分が権威であるという家族からの認識を少しでも長持ちさせるために。我々と同じ頭身の人物が工事用のヘルメットをもうしわけにかぶり、少しでも現実との対決を先延ばしにしようと立ち止まったり後ろ手に両手を組んでみせたりし、その心の動きのあまりに惨めな矮小さが、何よりそれを我々があまりによく理解できてしまうことが、我々の上に目を覆いたくなるような、耳をふさぎたくなるような、現実以上に生々しいリアリティをつきつける。暴走族のヘッドライトが山田家の父という失墜した権威の真実を無惨にも照らし出したとき、確かに目に見えてある残酷に対してまったく無防備な山田家の母と祖母が無知極まる様子でフライパンと鍋をおたまで打ちならしながら街路の向こうから登場したとき、私はかれらが確実に惨殺されるのだと覚悟した。”山田くん”の中にあるそら恐ろしいまでの脳天気さ、現実対処への眉をしかめるような甘えは、つくられた虚構の空間であるからこそ通用し、我々にも安堵と優越の笑いを起こさせたのであるが、結局のところそれは現代の現実とあまりにも――山田家の母と祖母が緊迫した人が死ぬ状況の中におたま片手に現れたときの悲しいまでの滑稽さ、自分たちを世界の中心にすえ自分たちがそういう状況において殺されることはないと思い上がった、あるいは想像力を欠如させた様子にはやりきれない気分にさせられる――あまりにもかけはなれてしまったものである。もはや主役という位置から引きずり下ろされたかれらが平凡な一家庭の構成員という立場で現実の危険と直面しその緊迫感が絶頂にまで高まったとき、暴走族の握りしめる鉄パイプが父の権威を喪失したただのくたびれた中年男の頭蓋を砕くその直前、かれらの頭身は2頭身へと変化し、カメラアングルはこれまで通りの安定したものに戻される。かれらは再び誰も死なない安全な虚構の中へと戻ったのだ。観客は緊張を解き安堵のため息をつく。高畠勲は”山田くん”の家族を現実に放り込み、さんざんっぱらその認識の甘さと現代の世相とかけ離れてしまった滑稽さをからかったあとに、ひょいとかれらにかれらの虚構の中での特権性を返却することであり得べき破局を回避させる。これはなんという皮肉だろう! この挿話が”となりの山田くん”全体に及ぼしている効果は激甚であり、物語すべての解釈を反転させるものですらある。この挿話の機能により山田家の脳天気さで切り抜けたそれまでのすべての状況の語り直しが行われるのである。つまり、”山田くん”の世界に、我々の現実という選択肢が新たに発生するのだ――たとえばデパートではぐれたのの子が最悪の変質者につかまり惨殺死体として山奥で発見される、といったような。この挿話の存在により”となりの山田くん”はまったく別の物語になってしまっていると言っていいだろう。(略)…高畠勲は人々の凡庸な小市民性を満足させるために”となりの山田くん”を作ったのではないということだ。変わってしまった世界を見ようともしないまま、もはや現代において無意味どころか有害ですらある旧態依然とした皆の安住するところの現実認識に冷水をあびせかけるためにこそ”山田くん”を作ったのだ。しかも、その批判気がつかない人間は自分が見たもののこの上ない皮肉さに気がつかないまま劇場を出て、かれらの行動によりさらに現実そのものが批判されるといった複雑きわまる構造で。ある意味では悪人・高畠勲の面目躍如と言えるのかもしれない。(略)…最後のシーンで今晩の夕食について好き勝手に言い合いをする家族にむかって山田家の父が言う『うるさい! おれが決める』という台詞、これは前時代の不器用な父権の生き残りを意味するのではない。現代において喪失された父権の回復を意味するのではさらにない。家族を社会という現実から物理的にも精神的にも庇護するという役割をもはや果たせなくなった――それは現実が苛烈になりすぎ、もはや個人の手にあまるということでもある――ひとりの疲れた男が、もはや何の特権も持つことのできない集団へ対して発したまったくニュートラルな一個人の苛立ちの言葉である過ぎないのだ。(略)…夜の公園でブランコに腰掛け、自分が月光仮面であったらと夢想する…そこにはたどりついてしまった大人の切なさがある。かつてそうありたいと願っていた物語のヒーローのようではなく、家族を守ることすらかなわない、現実に倦み疲れた自分。その心の空漠さはいかほどのものだろう。でも、私は家族を持つひとりの父親として山田家の父親に言ってやりたいのだ。確かに私たちは無力で、家族を守ってやることもできないつまらぬ存在かもしれない。しかし、それでも私たちは生きているんだ。生きているんだよ、と』

(アニメムンディ誌八月号 『チンポ大帝のアニメ丸かじり!』より抜粋)

Last GIG “エバーラスティング”

 シャッターの閉じる音がビルの谷間へかすかに響く。”漫画喫茶YOMYOM”と書かれた電飾の明かりが消える。のび放題にのびたあご髭に優しい顔の輪郭をまぎらせ、大きなサングラスに繊細すぎる少年の瞳を隠したその人は、数メートル毎に振り返り、人柄をしのばせる丁寧なおじぎを何度も何度もくりかえしながら、ついにはけぶる朝靄の中に遠く見えなくなった。
 「終わったな」
 「ああ、本当に」
 早朝のオフィス街はおどろくほどに閑散としており、人の気配をまったく感じさせない。
 「――有島と太田は?」
 かれらが最後によこしたハガキにあった、初めて知るその名前に、ぼくは他人のようなよそよそしさを感じたものだった。
 「ふたりとも昨日発ったよ。有島は田舎に帰って農家を継ぐんだそうだ。いま有機野菜が大当たりしてて、人手足りないんだって言ってた」
 かれはいつものくせでポケットに手をつっこんだまま続ける。
 「太田は両親の口ききで地元の市役所に就職が決まったんだってさ。幼なじみと来春結婚するんだそうだよ。『ついにつかまっちまった。墓場行きだ。俺の人生はもう終わったも同然だ』って、すごく嬉しそうに話してた」
 「へえ、二人ともそんな、全然知らなかったな。全然知らなかった――」
 ぼくはなんとなくうつむいて黙りこむ。かれはおりた沈黙にうながされるように煙草を取り出すと、火をつけた。
 「そうだ、CHINPOだ。CHINPOはまだいるんだろ、こっちに」
 変わっていく現実に逆らうように、すがるように、ぼくは云った。
 けれど現実はいつもぼくを先回りして裏切る。
 「CHINPO…いや、上田はどこか東北のほうの山奥にある療養所に移送されちまった。あいつの家に電話して名乗ったらさ、『保椿さんにそのような友人はおりません』だとさ。おれはあいつの友人じゃなかったんだそうだ。ずっと、いっしょにいたのにな。――知ってたか、あいつの両親、そろって大学教授なんだぜ! ちょっと笑えるよな。笑えるじゃないか――」
 ビルの谷間を吹く風が小さな渦を巻いて、歩道の上にゴミを舞わせている。
 「『友だちは…友だちと呼べる人はみんないなくなってしまった…誰も』」
 「――シェイクスピアかい」
 「いや」
 向かいの歩道を何におびえるのか、一匹の野良猫が猛然と駆け抜けていく。
 「エヴァさ」
 かれは皮肉に口元をゆがめた。
 「さてと」
 ほとんど口をつけないままに短くなった煙草を放り投げると、かれはもたれかかっていたガードレールから身を離した。
 「もう、行くわ」
 そう云って、かれはYOMYOMのマスターが去っていったのとは逆の方向にゆっくりと歩き出した。ぼくはたまらなくなってその背中に声をかける。
 「どうするんだい、これから。いったいどうするつもりなんだい」
 かれは立ち止まると、ポケットから手を出した。
 そしてかれは口を開いた。
 「おれはずっとおたくだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた。自分の正体さえわからないまま、世界の美しさだけは知りたくて、現実の似姿、うつろな鏡、虚構の中に溺れつづけた。それはひとえにおれが生まれながら喪失させられていたものを取り戻したかったからだ。だが、それでいながら当の現実を引き受けるだけの強さは、おれにはなかった」
 かれはこれまでの演技をやめて、驚くほど素直な表情で、威圧するようでも、おびえるようでもなく、ただ静かにとつとつと話す。
 「――おれが『世界、世界』と声高に、問題ありげに、さも重大そうに呼ばわるとき、それはけれど観念にすぎなかった。経済や政治や時代の病を負って苦悩する同朋たちのことでは全くなく、ただ自分だけを取り巻く違和感と不快感を意味していた。本当に、あきれるほど個人的なことだったんだよ! おれは、間違っていた」
 かれはいま、初めて誰かに伝えようとしていた。届こうとしていた。
 「おれは今日このまま部屋へ戻って、LDやビデオやCDや、ためこんだ様々のグッズをすべて破棄するつもりだ。それで何かが変わるなんて期待しちゃいないさ。結局また同じことを繰り返すだけのかもしれない。これはおれの中での、そう、儀式なんだ」
 ぼくは微笑んだ。この数瞬に、これまでの長い長い時間より多くかれを理解したからだ。
 そしてぼくは口を開いた。
 「君の言うとおり、ぼくたちにとっての世界とはまったく個人的で脆弱な感覚に過ぎないと思う。――他人の物語というフィルターを通じて垣間見た世界の感じは、分厚い布ごしに物を触るようなもどかしさだった。渇いた者が海水を与えられるように、ぼくはますます渇いた。ぼくはもうあがくことはやめて、ぼくにとってリアルでない世界に他人を通じて連絡を持とうとする努力はやめて、ただ自分のことだけを物語ろうと思う。物語るという個人的な営為が、世界に対して普遍性を持つ瞬間がきっとあるとぼくは思うんだ。個人的な意味が世界的な意味を超克する瞬間がきっとあるとぼくは信じる。だから、ぼくはもう傷ついた人のようにふるまうことをしない。ぼくは物語ることで明け渡してしまった自分を取り返す。『たとえ他人の言葉に取り込まれても』、ね」
 かれは大きく目を開いて、いまはじめて出会ったかのようにぼくを見た。
 「――ゲーテかい」
 「いや」
 ぼくは答える。
 「エヴァだよ」
 ぼくたちは声をあげて、心の底から笑った。

 やがてかれはしゃべりすぎたことを恥じるように顔をひきしめ、ポケットに両手をつっこむと、再び歩き出した。
 ぼくはその背中に別れを言おうとして、ふと気がつく。
 「待ってくれ! ぼくは、君の本当の名前をまだ知らない」
 「おれの名前かい」
 かれは最後に一度だけふりかえり、歌うように云った。
 「おれの名前は――」


 ビルのつくりだす峰から遅い都会の朝日がのぼる。誰もいなくなった店のシャッターに揺れる貼り紙。
 “長らくご愛顧いただきました当店ですが、誠に勝手ながら本日(7/25)をもちまして閉店いたします。今まで本当にありがとうございました。”

 Never seen a bluer sky.