鳴りやまぬ拍手。

弱い者たちの夕暮れ

 五感のすべてが麻痺してくるような、白だけで構成された建物の内部。長い廊下の消失点の奥へと消えていく無数のドアにそれぞれ掲げられた無機質なネームプレート。そのうちのひとつに『666号室 田痔痢 殺屠死』とある。突如部屋の中から廊下へと響きわたる魂消る絶叫。666号室では一人の男が数人の看護士に押さえつけられ、リノリウムの床に額をすりつけている。
 「田痔痢さん、今月に入って何度目だと思ってるんです。いい加減にして下さいよ」
 「(浅黒い顔で明らかに病的に落ち窪んだ眼窩から見上げてあえぐように)放せ、放せよッ! おれを誰だと思ってんだ! 田痔痢だぞ! ボケモンの、おまえたちのガキも見てるあのボケモンの、田痔痢殺屠死様だぞ! 自分が何やってるかわかってんだろうな! いつまでおれをこんなところに閉じこめておく気だ!」
 「(医師たちの間から突然ひょいと姿を現す崩れたスーツ姿の中年男)そりゃ、おまえ、この契約書にサインするまでや。ボケモンと、ボケモンに発生するすべての権利は懐妊堂に委譲しますいうてな。そんなことはとおの昔にわかっとんのやろ、センセ」
 「(激烈な薬品と薬品の反応を思わせる荒々しさで)宮友ォッ! キサマぁッッ! ハメやがったな! おれの才能を妬んで、ハメやがったんだ! どのツラ下げて現れやがったぁッッッ!」
 「(尖った革靴のつま先で無表情のまま男の横顔をしたたかに蹴りつける)あほ、みっともない。いきがるんやないわ。(両脇に立つ付き人が差し出す煙草をやくざにくわえ、火をつけさせる)ええ加減自分の立場をわきまえや。ここはあの漫画界の大御所T…も入っとったことのある由緒正しいキチガイ病棟やで。どんだけおまえが暴れたところで逃げられへんし、たとえ万々が一逃げおおせたところで、どこのまっとうな社会に生きる人間がヤク中のラリったうわごとを真面目に受けとめて聞いてくれる言うねん。どこに逃げたって結局またここに戻されるのがオチや。まだわかってないみたいやからはっきり言うたるけど、おまえはいままったく孤立無援なんやで。ホンマそろそろ潮時なんとちゃいまっか、センセ。のォ?(顔を近づけて煙草の煙を吹きかける)」
 「(眉をしかめ、口から床に血と歯の欠片を吐き出しながら)お、おれのボケモンはおまえらみたいな汚い商売人にだけは絶対に渡さねえ…絶対に渡さねえぞ!」
 「(無言で病室内に据えられているテレビに近寄るとリモコンを取り上げる)まったくセンセのおっしゃるとおり、ボケモンいうのんは大した商売ですわ。けどな、私らほどこのゲームの真価をわかっとるもんはおりゃしませんのやで。(宮友と呼ばれた男、テレビの電源を入れる)」
 「…では、ご覧いただきましょう。(テレビ画面に写ったテレビ画面にはカッターナイフを片手に持った、別段何の外見的特徴を持たないアニメの少年が写っている。カッターナイフの刃をチキチキと音を立てて出し入れしながら、『ピカ獣(ピカヂュウ)、君に決めた!』。叫ぶやいなや、気のおかしくなりそうな黄色い表皮をしたひとかかえもある巨大なドブネズミののどにカッターナイフの刃を走らせる。瞬間吹き出す大量の緑色をした血液。黄色い齧歯類は切られたのどを奇形なほどに短い手で掻きむしろうとしながら、エイリアンそっくりの断末魔の鳴き声を上げつつ、右へ左へ大地をのたうちまわる。やがて黄色い齧歯類は完全に動かなくなる。思いきや、齧歯類、切られた傷口も生々しく突然二足歩行で立ち上がり、何事もなかったかのように主人公に緑色の粘液の大量に付着した身体をすりよせる)…ごらんいただいたのが、小学生を中心にいま爆発的なブームを巻き起こしている人気ゲーム”ぼっけえ悶!スタア(訳:とてもいやらしい女アイドル)”、略して”ボケモン”を原作とするアニメーション作品です。この非常に執拗で残虐な描写が子どもの精神に悪影響を与えるとして、PTAと各教育界に波紋を呼んでいます。このゲームの販売元である懐妊堂は先日行われた記者会見で、『ボケモンがテーマとしているのは”生と再生”である。それはゲーム中にも最初に明確に述べられていることである。主人公の少年にカッターナイフを使われることで、登場する多種多様のモンスターたちは主人公と出会うまでに生きていた生をいったん終わらせ、』――ここでは抗議団体が指摘する”死”という表現は一切使われていません――『そうしてこれまでの生を終わることで新たに主人公と歩む第二の生を”再生”できるのである。この概念は作品そのものの根幹に関わる部分であり、これを覆すことは作品世界そのものの崩壊を招きかねない。それはまた、表現者が自由に表現をする権利への侵害でもあるだろう。我々懐妊堂はこの件に関してまったく譲歩の余地は無いと考えている』と述べており、あくまで強硬な姿勢を崩していません…(チャンネルが切り替わる。『ドブネズミみたいに美しくなりたい』で始まる曲をバックミュージックに、遺伝子レベルで問題を抱えていそうな婦女子がおそろしく内省的でないほとんど悲鳴のような声と風変わりに聞こえることをねらいすぎたためかえって単調なイントネーションで早口にまくしたてている)…え~、この愛らしいキャラクター、実はいま女子高生の間で大人気の”ピカ獣(ピカヂュウ)”のライバルとして作られたものなんだそうです! (レポーターの持つフリップが画面に大写しになる。そこには逆さまにした牛乳瓶に四枚の羽根をつけたような形状の灰色の物体を横抱きに抱えた、気のおかしくなりそうな黄色とひどくグロテスクで肉々しい赤が表皮をまだらにおおったドブネズミが描かれている)このキャラクター、名前は”ピカどん”と言いまして、ここ広島市では銘菓”原爆まんじゅう”以来のキラー商品となるのではないかと現地の人たちから早くも大きな期待が寄せられています…(テレビ消える)」
 「(宮友と呼ばれた男、スーツの懐から丸めた雑誌を取り出し)大したもんですわ。ほれ、これは今日発売された週刊誌や。見てみい(広げられたページには見開きで”清廉の都、京都に潜む汚濁!『どうして懐妊堂だけピカ税(非課税)なんでヂュウか?』”と書かれている)。もうこりゃちょっとゲームっちゅう範疇やあらへんわ。(男に背を向けて窓の外を眺め、声の調子をかえて)おまえの言いたいこともわかるけどな、サトシ、たとえおまえが創ったからゆうて、おまえが好き勝手してええようなレベルともうちゃうねや。わかるやろ。ボケモンの作者がこんな病院に入らなアカン人間やゆうのが世間様にバレてみい、ボケモンをよく思てないやつらに格好の糾弾の先鋒を与えることになるんやぞ。このままおまえのスキャンダルといっしょにボケモンをこの世から抹殺してしまいたいんか。はよ、おれに全部まかせてしまえや。悪いようにはせえへんて」
 「(先ほどまでとはうってかわって弱々しい様子でさめざめと泣きながら)なんでや…シゲやんはなんでも持ってるやないか。”毬藻兄弟”があるやないか。”ジェルだ!”があるやないか。これ以上ぼくから取り上げんとってえや。ぼくの、最初で最後の大切な宝物を取り上げんとってえや…」
 「(わずかに首を振って)ええか、サトシ。ゲームっちゅうのは他のメディア――例えば小説とかな――とは違うて、ある一人の才能に訪れた奇跡的な一瞬の瞬間最大風速的ひらめきが形になりにくいのや。クリエイターの創造性の前に企業への経済的保証が必要な世界やからな。それはゲームウォッチの昔やのうて、ゲームをつくるいうことが肥大化しすぎて、ひとつの作品を作り上げるのにあまりに多くの異なった才能と多くの機材、ひいてはそれらを作品が完成するまでのある程度の長期に渡って維持し続けるだけの莫大なカネが必要不可欠の前提になってしもたいうことなんや。ほれ、これがおまえが嫌てる商売人の理屈ゆうやつや。使たカネは最低でも使た分は回収されなアカンし、そうなってくると海のものとも山のものとも知れん企画には誰もカネを出したがらへんのは当たり前やな。そんな企画が当たることも可能性としてはまったく無いとは言わんが――今回のおまえのようにな。しかし5年もかけて一本のゲーム創る馬鹿がどこにおるねん。当たったからええようなものの、ゲームに同人はありえへんねんぞ。その一事だけでおまえはゲーム作家の資格を喪失してるわ――、宝くじの幸福を期待して多額のカネとマンパワーをただ浪費させてしまうに終わるかもしれない賭けを試みることは、経済効率を最優先する企業体にとってあまりにリスキーや。だから、すでに当たることを半ば約束された、何らかのヒット作品を世に送り出したことのある人間のアイデアにカネをつぎこむのが、一番冒険が少なくて効率がええとゆうことになる。その意味からして、空手の人間が自力でこの業界に切り込むのはほとんど不可能に近いし、逆にいったん成功してしもうたらその後は何か本当に致命的な失敗で放逐されるまで、経営者の考える経済効率をもっともソロバンの誤差なく達成してくれるコマとして使われ続けなければならんのや。逃げることもでけへん。立ち止まることもでけへん。いったん企業的信頼を勝ち得てしまった瞬間から、多くの人間の生活や人生をそのまま丸抱えに抱え込んで歩き続けなアカン、それがゲーム作家であるゆうことの業や。自分の創り出す作品に携わる人々の名付け親になって家族同様に、いや、それ以上の絆でかれらの生に対してずっと責任を負い続けていくいうことや。サトシ、なるほどおまえは一瞬のすばらしいひらめきで、どこが誰の地所かあらかじめすべて決まってしまった業界に切り込んで、自分の場所を得ることには確かに成功したかもしれん。でもな、それは終わりやのうて、永遠に続く次のステージのほんの始まりにすぎんかったっちゅうことや。おまえは企業からの期待と重責に堪えきれず、おまえのゲームを形にしてくれた人々への責任に耐えきれず、女に逃げ、酒に溺れ、しまいにはクスリにまで手ぇ出して、こんなどん底のどん底まで墜ちて墜ちて墜ちてきてもうた。しまいや、サトシ。おまえはとうていゲーム作家ではありえへん。おまえはおまえが手に入れる勝利の裏にあるものを知らないまま無邪気に夢を追いかけて、そうしてええ気分にしとったら、急に見たくない現実にぶつかってしもて、あわてて逃げ出したただの臆病者や。最初からゲーム作家になることの意味も知らず、覚悟もなく、おまえについてきてくれたみんなの信頼を手ひどく裏切ったんや。子どものように泣きじゃくることで裏切ったんや。どや、違うんか。なんか言うてみんかい」
 「(身も世もなく泣きじゃくりながら)そんなん、そんなつもりやなかったんや。ぼくはぼくの見たきれいなもんを子どもたちに、みんなに見せてあげたかっただけなんや。なんでみんなぼくのことを責めるんや。ぼくはこんなにがんばったやないか。なんでみんなもっと優しゅうしてくれへんねや…」
 「(哀れみを含んだ目で見下ろして)サトシ、おまえは地方の同人で童話でもやってたほうがなんぼか幸せやったろうな。おまえの不幸はゲームを選んでしまったことや。(目を厳しくして)だがそうなった以上、おれは容赦せえへん。知らんかったとは言わせへん。おれはおまえのようにならんために、おまえからボケモンを奪う。名付け親になりながらおまえが見捨てた人々の生活も、おまえが背負いかけてそのあまりの重さに怖くなって放り出したその人生たちもすべておれの背中に乗せてかれらを迷わせないために、おれはおまえからボケモンを奪う。おまえは他人におまえの持つ屋根裏の夢を共有させたいという子どものわがままのために何十人、何百人もの人生を狂わせておいて、なおボケモンは自分だけの持ち物やと主張するんか? ボケモンはまだおまえの上にあると言うんか?」
 「(真っ赤に泣きはらした目で見上げて)ぼく、ぼくは、ただシゲやんみたいになりたかったんや。シゲやんみたいな英雄になりたかった。だからゲームを選んだんや。でもアカンかったんやな。シゲやんみたいにはなられへんのやな。それやったらもう、ぼくはこの世界にいる意味はないねんな。シゲやん、ボケモンのこと、ぼくの大切な屋根裏の宝物のこと…(のどに言葉がつかえたように一瞬黙る)…よろしゅうたのみます。ぼくはもう、こんなん疲れた。疲れたわ…(力を失ってぐったりとなる)」
 「(後ろの付き人に小声で)今の録音したな? (向き直り)…わかった。あとはおれがみんなええようにしたる。だからサトシはゆっくり休めや。(もはや何も聞こえなくなったかのように目を閉じて動かない男にむかって何か声をかけようと口を開きかけるが、唇を引き結んできびすを返す。戸口に立っていた医師の肩に手を置き、その白衣のポケットに札束をすべりこませて)できるだけ、苦しまんようにしてやってください、先生(宮友、最後に一度病室内を振り返る。医師の一人が男の左腕に注射器をあてがおうとしている。顔をわずかに歪めるとそこから目をそらし、後ろ手にドアを閉める)」


 スモークシールドの車窓越しに外を眺める宮友。すでに暗い冬の大気には、うっすらと粉雪が舞いはじめている。
 「(十年も一度に老いてしまったかのような疲れた表情で独り言のように)…神様はどうして時々こんな残酷を人間の上になさるのやろうな。ボケモンという破格のゲームを受け入れるのに、サトシ、おまえの器はあんまり小さすぎたわ。おれはあと何年ここにいられるんかわからん。でもいまはまだこんなセンチに振り返るわけにはいかんのや。おれの振り捨ててきたものたちを、おれの殺してきたものたちをいまはまだ振り返るわけにはいかんのや。明日からおれはまたおれの戦場に戻る。サトシ、おまえはどうかゆっくりと休んでくれ…(流れる車のヘッドライトから顔を隠すようにサングラスをはめる)」

  「ひさしぶりに カントーへ
   きて ください!
   ずいぶん さまがわり したので
   おどろくと おもいますよ!
   ジョウトでは すがたを みせない
   ボケモンも たくさん います
          …… プロデューサー へ」

パパ ハズ ネバー トールドミー

『 題・お父さんの紙ぶくろ
                      A組 魔賭場痴性(まとばちせ)

    わたしのお父さんの仕事は、おたくをすることです。
    だからふつーのお父さんよりずっと家にいることが多いのです。
    でも出かけることもあります。それは「同人誌即売会」です。
    「同人誌即売会」は毎年たくさんあります。
    商業ベースの市場より「同人誌即売会」のほうが
    大きいんじゃないかと思えるくらいです。
    1人でるすばんをしている時
    わたしはお父さんが持って帰ってくる紙ぶくろの
    中身を想像してげんなりします。
    お父さんはいっぱい紙ぶくろを かかえて帰ってくるのに
    ろくなものが入っていません(間違いなく)。
    だから
    一つにまとめて大きくしてカンガルーのふくろみたいにすれば、
    わたしくらいははいることができるよと目を
    かがやかせてつめよるお父さんのことがわたしは
    ときどきとてもこわくなります。
    もし いつも紙ぶくろの中にいてお父さんの話してることを
    聞いていたら 気がおかしくなってしまうだろうなと思います。
    お父さんはみかけ通りのひどいおたくなんですよ。
    先生                                  』


 「(すべての引き出しが開けられ、下着や小物類の床に散乱した自室に飛び込んできて)あーっ。なに読んでるのよっ。ダメだよっっ」
 「(いかなる理由にか布地の厚くなっている下着の部分を鼻腔にあてがい、両足の出る穴から両目をのぞかせるやり方で娘のパンティをかむりながら)いいだろ。とかく早い段階に若い娘たちの処女性が喪われがちなこの日本社会においてそれを断固固持させるために父性の本来が持つ家族組織への検閲機構を執行しているだけに過ぎないんだよ。しかし如何なるの無意識下の精神の働きを象徴するものか、日々欲求不満な公立小学校女教員によって真っ赤なペンで大胆に描かれており、花弁と肉芯を若い男性の心へいたずらに想起させて早期に性犯罪へと誘う淫猥な風情のハナマルじゃないか」
 「(父の手から作文をとりかえそうとしながら)ダメなのぉっ。どこで見つけたの」
 「(むしゃぶりついてくる幼い娘のやわらかなふくらみを多く感じようと過剰に体を押しつけながら)おまえの持つ世の男たちを狂乱させる甘い部分を日々触れただけでも妊娠しそうな男たちの欲望に満ちた都会の大気より防護する布地の実際的な強度を鼻を突っ込むの言葉通りに、お父さんが自前の鼻で以て執拗の誹りを免れない入念さで幾度も幾度も実践的に試験していたところ、――この場合鼻はやはり皆様の期待通りチンポと解釈されねばなりますまいて――おまえの愛らしい両のふとももを日々通過させている想像するだに悩ましい二つ穴より通じて得た視界の隅に、目眩のするほど不埒な赤色をした鎮座ましますランドセル――ランドセルが古来なぜこれほどまでに数々の成人男子を魅了し、時にその莫大な時間の労働により築き上げた社会的地位を一瞬に放逐してまでの行動へと連れ去り続けてきたのかについては様々の研究があるが、それらのすべてを語るにはあまりに時間が足りない。よってそれらを般若心経の如く要約するならば、その箱形の形状は夢分析の語るように女性器を意味しており、その色合いは月の血と破瓜の血を同時に象徴しておるにもはや相違あるまいて――を捕らえたんだ。お父さんは辛抱たまらずそれにむしゃぶりつき、おまえ自身の女性器の具現とお父さんの生殖器の具現とが象徴的近親相姦ともはや誤解の無い強さでもって形容できる様子で接触を果たしたところの、『学級通信』にはさんであった」
 「(顔を真っ赤にして無意識の幼獣の媚びで身をくねらせつつ)これほんとのことじゃないのよ。作文用のフィクションですからね」
 「(ぎらぎらした目で下着をかむったまま明らかに商業用のものではあり得ない、著しい著作権の侵害を感じさせる類の性的ニュアンスにあふれた枕カバーに包まれた枕を小脇に大事そうにかかえて娘の部屋から退出しつつ)ほー、そうかね。やはりおたくの子はおたく、お父さんがすでに精通しているところの生理用ナプキンの使い方もわからぬ頭でもう虚構を語るのか。だが、おまえの虚構力は厳然たる日常へ新たな世界を現前させるほど強くはない――例えば大人の経済力やそれを傘に着た肉親の欲棒によって倫理の名の下に醸成されてきた家族構成員間の守られるべき聖域という虚構の破壊に物理的に対抗できるほどには。そしてお父さんは実の娘だからといって生まれた欲情を躊躇してしまえるような生半可な幼女趣味者ではない(突如突き上げる感情に耐えかねたように、ぎらぎらした目はそのままに振り返る)」
 「(一種異様な様子に気づいて後ずさりしながら)お父さぁーん(脱兎の如く駆け出す)」
 「(後ろから飛びついて腕を捕まえて)ちせ! どうしたんだい。どこに行くんだい、今ごろ。男の狩猟本能に強く訴え、いたずらにその欲望を促進させるためだけの、狩られるべく存在する幼獣の媚びを含んだ、助けを呼ぶには遠く及ばない甘い悲鳴を上げて。お父さんをこのようなまでに猛らせるなんて、おまえはおまえのキャラクターに通底するテーマとしてインセストを深く内包しているに違いあるまい(両手を広げて廊下の端へと追いつめていく)」
 「(逃げ出そうとしてならず、廊下の突き当たりの壁をむなしく爪でひっかきながら)せ、1960年代に青春を送った人は自分のファッションセンスを信じてはいけないって」
 「(奇妙な確信に満ちた断定で)ゆりこが言ったんだろ。1980年代に青春を送ったガンダム世代のお父さんはその限りではない。それを証拠に万年洗いさらさぬ同じジーンズという、比類無きファッションセンスだろう。相手に危害を与えることも、自分を守ることさえもできない幼い娘の人格を性的に蹂躙するのは、男親に与えられた無上の権利だと明記された民法の条項をお父さんは見た記憶がある(前傾姿勢でしきりと涎をぬぐいながら、じりじりと距離を狭める)」
 「(首を左右に激しくふりながら)で、でもちょっとヘンでも許してあげる。お父さんだから」
 「(娘を雲助のやる要領で肩に抱え上げながら)それはどーも。だが、お父さんは少しもヘンではない。なぜなら西洋文化の流入によって価値観の切断的明確化が行われ、曖昧さの完全に喪失した現代の日本社会においては性道徳もその例外ではないと言えるからだ。家族はかつてのようにはあることができずもはやバラバラに分断され、その構成員はそれぞれの役割をフィクションとして演じることでフィクションとしての疑似家族とも表現すべきヴァーチャルな集団を社会上に仮設するしか、もはや方法がない。それが構成員の誰にとっても心地よくないものであるにしても。そうして出来た形骸をかろうじて空中分解させないつながりとして保持できるのは、母と息子・父と娘といったような身の毛もよだつ近親相姦的接触がそこに存在するからだ」
 「(肩にかつがれたまま逃れようと手足をバタつかせながら)重くない? お父さん。重かったらそう言ってね、無理しなくていいからね。(顔を引き歪め、泣きじゃくりながら)私、平気だからね(父、娘を肩にかついだまま後ろ手に激しく部屋の扉を閉める。”ちせの部屋”と書かれた小さな木製の看板がむなしく揺れる)」

 ――時々
 私以外の男が娘の膣内に挿入しているんじゃないかと思う。そしてその不安はたぶん本当なのだ。父親に性的虐待を受けた娘が、実際自分の受けた行為は全然大したことなんかではなかったのだと自分に言い聞かせるために、最初のほとんど生きていけないような衝撃を隠蔽するために、成長してから幾人もの男に行きずりに身を任せることがある。それは濃い何かの溶液に水を足してどんどん薄めていくようなもので、最初の体験の彼女にとっての致死的な意味性を、かろうじて生きていける程度に希釈するために無意識裏に行われている。しかし、どれだけ薄めたところで、元の溶液が完全に無くなってしまうことは決してないのだ。

『(身をよじって必死に逃れようとしながら)重かったら無理しなくていいからね』

風の歌を聴け

 その日、鼠はひどく荒れていた。どうやらじめじめと鬱陶しい気候のせいばかりというわけでは、ないようだった。
 「もう一年が過ぎようとしているのに、二百? 二百だと? 街の売女だって一年ありゃ、これくらいの人間とは寝るだろうぜ!」
 鼠は苛立ちを隠そうともせず、力まかせに部屋の薄い壁を殴りつけた。
 薄暗い室内へ切り取られたように四角く浮かび上がるモニターには、便所の落書きとしか形容できない稚拙さで描かれた女が、こちらにむけて大きく股を開いている。肌色とは名ばかりの、のっぺりとした無機的な色で塗られたその女は、喪失した四肢のバランスから、奇妙な陋劣さを醸し出していた。
 女の絵は下手であればあるほど猥褻だ、と言ったのは誰だったろう。
 女の股間のちょうど中心部にピンクのひし形が、GIFアニメで形を変えながら、明滅を繰り返している。じっと見ていると平衡感覚が奪われ、奇妙に現実感の無い吐き気が襲ってくるような気がする。
 ぼくは自分のペニスが軽く勃起しているのに気がつき、眉をしかめた。
 「どいつもこいつもわかってねえ!」
 鼠が叫んだ。
 ぼくはマウスに手をのばし、ピンクのひし形をクリックした。”毒日記”と銘打たれた別のウィンドウがポップアップする。そこには不必要なまでの巨大なフォントで、『選挙に行かないヤツは死刑にするべきですよね!!!!!』と書かれていた。
 「最高にクールでデッドリーなサイトだってのによ!」
 デッドサイト以上の何者でもないガラクタを前に、鼠の声はほとんど悲鳴のようだった。
 ぼくは座っていた椅子をゆっくりと回転させ、鼠のほうへ向き直った。
 「ここで居心地の良さを感じることのできるような連中は、現実の現実らしく無さに飽いて、緻密かつ劇的に演出されたつくりごとの、ほとんど殴り合いめいた人間関係をこそ求めているんだ。これじゃ、無理もないさ。」
 ぼくは後ろ手に、モニターの表面を軽く小突いた。
 「真実であるかどうかは問題じゃない。ただ現実よりも現実らしい過剰な演技が必要なのさ。防御を考えず繰り出したこぶしの風圧に、裂けた玉袋から転がり出たてらてらと光る真っ赤な片玉へ、パラリと塩をまぶすような、想像するだに魂の一部が心底削り取られてしまうような、そんな人間関係をこそ、みんな見たいと思っているんだよ。」
 鼠の顔は、いまやほとんど紙のように蒼白だった。
 「誰もおまえの、商業的バックボーンという価値の証明を持たない、不思議と既視感を誘う創作や、完全におまえ自身の中だけに閉じた日々の繰り言に、時間を割きたいとは思わないのさ。リアリティのある、その一方で全く現実感の無い他者との関係性を、完璧に演出できなければ、それはもう、なんというか――失敗。」
 鼠は両手で顔を覆うと、悲痛なうめき声を上げた。
 「そんなことは、わかってるんだ。」
 丸めた鼠の背中が、細かくふるえていた。
 「わかってたけど、わかりたくなかったのに。それを、あんたは全部言葉にしちまうんだ。おれが薄々気づきながら目をそむけてきたことを言葉にして、あんたはおれをどこにも逃げられないようにするんだ。」
 鼠は、歯を食いしばって嗚咽を殺していた。
 鼠は、おたくだった。社会との深刻な関係性の断絶を周囲から、そして何より自分自身から隠蔽するために、投票日には殊更な大声で選挙についての攻撃的な発言をネットにアップロードするような種類の、重篤なおたくだった。
 「でも、さみしいじゃないかよ。あんまりさみしいじゃないかよ…。」
 ぼくも、以前は間違いなく鼠のようなおたくだった。自身の欠落した人間性の部分を完全に盲点の中に押し込めて、自分が何も見えていないことも見えないまま、幸福な無知に安住する哀れな一人のおたくだった。
 ぼくは、椅子を回転させると、再びモニターへと向き直った。
 キーを叩く音に、鼠が顔を上げた。鼠の目にはいま、かれがこれまで想像もしたこともないような、莫大な数字のカウンターが写っているはずだ。
 「あんた、まさか」
 「深夜ラジオの人気漫才コンビに、ハガキを書く要領でやるんだ。軽くて、無知で、非常識に。アナーキーで、けれど政治には一切ふれない。それがコツさ」
 肩越しに振り返り、ぼくは鼠にウインクした。

ラブレター

 「夏のはじめには必ず深刻な様子で『今年はセミが鳴かない…』などと自分だけのものに過ぎない絶望と閉塞感とトラウマを図々しくも世界に押しつける発言でちょっと意識のある繊細さを御開示なさってしたり顔のみなさま、コンバンワ~」
 「あっ。小鳥猊下がネットに特有の誰かに語りかけているようでその実どこにも対象の無い過激で挑発的な発言を繰り返しているぞ」
 「かれの内なる両親を間接的に攻撃しているのよ。心の奥底からいつも響いてくるあの恐ろしい声を聞かないように、本当は何の興味も無い空虚な言辞で毎日の時間を埋めざるを得ないんだわ。もしかして、まだ自分の言葉に何かの意味があると思っているのかしら」
 「(黒目をトーンで貼った茫然自失を表現する漫画的な記号の目で)フリーセックス! フリーセックス! 全国六千万の売女のみなさま、コンバンワ~」

 思い出せない悲しい夢に目が覚めたら、身体が子どもみたいに熱くなっていた。
 傷つけられた知恵は報復する。ぼくは醜く治癒した傷跡の起こすひきつれに、それと気がつかないまま幾度もつまづき転ぶ、哀れな小虫だ。それはぼくの盲点を巧みに突いてくる。どんなに気をつけたって、ぼくはやっぱりそこで転ぶんだ。ふと気がつくと、洗ったばかりのハンカチを気にくわず、小一時間も折り畳みなおしていた。どんな熱狂の瞬間にさえ、人生の貴重な時間を空費していると感じる自分がいる。誰かが眼鏡の位置を中指でキザっぽく直しながら無表情で言う。強迫観念。その誰かとは、もちろんぼくのことでもある。最近わかったけど、対象に共感できないとき、人は分析を始めるんだ。無数の分析屋たちの韜晦に、ぼくの心は気がつかないうちに、とても疲れていった。情報が受け手を選ばなくなり、ぼくは残らずこの世界の何でも知っているような気分で、知っているからもう何も知りたくなくなった。無気力と倦怠感だけが日々深まっていった。性の知識だけは豊富にある不潔で淫乱な処女のように、もはやどんな秘事でさえ、ぼくに何の関心も新鮮さも与えなくなった。ただすべての事象は平坦に、ぼくの心を波立たせることすらなく、通り過ぎていく。とても近いはずの人の死でさえ、ぼくには何の感興も与えることができなかった。ぼくの心には、喪失感が喪失している。だから今まで、どんなことにでも耐えられたのだろう。でもそれは、充たされたことがなかったから、喪失がいったいどんなものであるのかわからなかっただけなんだ。知らない人間にとっての知識は奇跡だ。そして、いまやぼくは何でも知っている。だから、ぼくの上には決してキリストがしたような奇跡も、救済も訪れないだろう。聖書の神は知ることを禁じるけれど、それはぼくがする訳知り顔の分析のような、両親が子どもに対して絶対の権威を維持するための寓話では実はなくて、多く知ることにより喪失してしまう人間存在の尊厳を保持するためだったのではないかといまになって思った。もう、すべて遅すぎるにしても、そこに気がつけたのは、よかった。
 キリストの魂は、完全な愛だったんじゃないだろうか。かれは、数千年の人類の自我の歴史の中にあって最初の――そして、おそらく最後の――どこにも傷のない全き魂の持ち主だったんじゃないか。あのとき、ぼくは自分の中にとても純粋な、悲しみにも似た切なさが生まれているのを突然知った。それはまるで、愛のようだった。こんな気持ちがずっと続くことができるのなら、世界そのものだって救うことができるだろう。発露した愛はその自然のように、間違うことなく人間存在へと向かうだろう。そして、すべてをあますところなく癒すだろう。
 キリストが、たったひとりでしたように。


 窓を開ければ、ほら、世界はこんなにも美しい。