喪失の悲しみは過去への憧憬となり、憧憬は私を過去へといざなう。

ホーリー遊児(3)

 ソファとテーブルのみの簡素なスタジオセットの中央で、一人の婦女が腰掛けている。白目に蝿がとまるが、某有名拳闘漫画の最終回を想起させる前傾姿勢で微動だにしない。突如、頓狂な音楽が流れだすと同時に、婦女、バネじかけの如く跳ね起きる。その顔面は余すところなく靴墨のようなもので着色されている。
 「ハァイ、全国津々浦々、老若男女のみなさーん! 小鳥尻ゲイカがテンションあげあげのスーパーハイテンションでお送りする『nWoの部屋』の時間がやってきましたよ! (興奮の極みのロンパリで)ってゆーか、アタシがこんな有名番組の司会に抜擢されるだなんて、リアルに超ウケルんですケド! コーデリア、見てる? ついに帰ってきたの! アタシ、全国のお茶の間にまた、帰ってきたのよ! ……え、何? 全国放送じゃないの? ははあ、ネットで有料動画配信。(前髪に手櫛を入れながら、とたんに低い声で)話がうますぎると思ったわ。やっぱり裏があったのね(露骨に舌打ちする)」
 画面の外でプロデューサーらしき男が両手を身体の前で振り振り口パクで『だましてないだましてない』と言う。
 「(両腕をソファの背に乗せてのけぞって)あー、いっきにやる気うせたわー」
 画面の外でプロデューサーらしき男が合掌して口パクで『かんべんかんべん』と言う。
 「わかってるわよ。いまのアタシに仕事えらぶ権利なんか無いってんでしょ。(立膝になると片手のメモを隠そうともせず)えー、記念すべきネット配信第一回のゲストわぁ、(棒読みで)なななーんーとぉ、ホーリー遊児さんにお越しいただいておりまぁす。あの有名な(全くそれを知らない者のイントネーションで)『トラ食え』シリーズのシナリオライターに、最新作『トラ食え9』発売直後のホンネを直撃したいと思いまぁす」
 「(カメラがスライドすると、サングラスの男が映される。足を組んで鷹揚に座っており、その秀でた額はスポットライトを激しく照り返している)ふん、宵待薫子で一時代を築いたあのnWoの部屋がいまやこんな安普請で(土足で軽くテーブルを蹴る)、場末のネット配信にまで堕ちてるとはね。(画面外のスタッフへ)宵待チャン、いまどうしてんの? あ、死んだの。それはご愁傷様。(値踏みするように小鳥尻を眺め)だから、どこの馬の骨ともわからない芸人が司会してんのか。不況の影響かあ? どれもこれも安く上がってんな!(馬鹿笑いする)」
 「……ンだと、この野郎!」
 袖をまくり立ち上がりかけるが、プロデューサーらしき男が両手を身体の前でクロスさせながら口パクで『がまんがまん。また干されたいの』と言う。
 「(硬直した笑顔で)ドウゾヨロシクオネガイシマス」
 「(口の端を歪めて)フン。もはや僕が出演するのにふさわしい番組の格とはとうてい言えないが、金科玉条のインタビューに雑誌を買う能動性すらない連中にも等分に僕の言葉を届けてやる義務がある。例え、こんな場末のネット配信番組で羞恥プレイに近い待遇を受けてもだよ。それが、(充分に計算された角度と速度で首を振る。前髪がはねあがり、きわどい部分をお茶の間に公開する寸前、前髪は元の位置に戻る)過去に類を見ない国民的人気作品を世に送り出してしまった、罪深い僕の才能に対する贖罪というものだからね……(右手で口元を押さえ、左手で身体を抱くポーズを作り、流し目をカメラへ送る)」
 「(無視して)それでは早速、質問に参りたいと思います。(カンペに目をやりながら)今回のトラ食え9は前作から実に5年の歳月を経て、まさに満を持しての発売となりましたが、苦労なさった点や制作秘話などをお聞かせいただけますでしょうか」
 「(両手を打ち合わせて)ハハハ、上手上手。ちゃんとおしゃべりできるじゃないの」
 「(目線を外したまま硬い声で)どうも」
 「(ねっとりと嘗め回すように小鳥尻を見る)いいね、いいね。そういう強気なの、嫌いじゃないね。最近、草食系とやらが多すぎて、食傷気味だからさ。草くってテメエだけおつうじよくて、こっちの腹ァくだらせる連中がさ! いいですよ、制作秘話ね。実は前作から古巣を捨てて、制作会社が変わったんですね。仕事する相手もツーカーの同年代ばかりじゃなくて、若い子が圧倒的に増えてね。最近の若い子たちはね、とても頭がいいんですよ。昔なら信じられないけど、大学出てるくせにゲーム屋やってんだもん。どいつもこいつも、偏差値高いんだ。卒論とかで鍛えられてんのかな、文章も達者で、なんでも言葉で説明できちゃう。で、説明できるもんだから、やったこともないのに本質をわかった気になっちゃうんだな。体験が欠落してしまうの。でも、いまや受け手の大半も体験が乏しい世代だから、それに気づかないんだよね。だから、表面はすごく洗練されて見えるんだけど、軽いの。情念が伝わってこない。僕はそういうの、ヤなんだよ(笑)。古いって言われてもさ、受けつけないの。書き手のナマの経験値がさ、何を題材にしたって、隠しても隠しても行間から否応に染み出してくるような文章じゃなきゃ、トラ食えのシナリオを記述するのにふさわしいとは言えないのよ。ぬぐってもぬぐっても、染み出る先走りね(舌で唇を執拗に湿しながら、こぶしの人差し指と中指の間へ親指を出し入れする)。わかる?」
 「(あくびとも嘆息ともつかぬ様子で)はあ」
 「(サングラスの位置を直しながら)なんとも淡白な反応だね。デレないツンデレってわけだ。まあ、いいや。だから、僕は若手社員たちの教育から始めなくちゃならなかったわけですよ。みんなスケジューリングもうまくて、仕事も速くて、それでいて一定のレベルを超えるものを作ってくる。でも、僕は不満だったのね(笑)。ふつうのゲームならそれでいいんだろうけど、これはトラ食えではないって思ってたの。(興が乗るにつれてやさぐれた感じを増して)ヤニも吸わずに青白い顔でカタカタってキーボード打ってさ、ほとんど残業も無しに定時退社するわけよ。んで、飲みに誘っても、全然のってこないわけ。『それって給料分ですか?』って言われてアッタマきてさ。モノをつくるドロドロが、会社っていうシステムでおきれいに下水処理されてんだよ。だから、制作開始から一ヶ月くらいしてからかな、全員退社した後にハードディスクをひとつ残らず五階の窓から放り投げて、プリントアウトしたシナリオもびりびりに破いてやった」
 「(あくびを隠すように両手を口元へ当てて)まあ」
 「(得意げに)次の日、床に散乱したシナリオの残骸にあぐらをかいて、定時出社の連中をお出迎えしたのよ。どいつもあんぐり口を開けてさ、いっそ怒鳴りあいになれと思ってたね。なのに、『どうするんですか、これ』とかぼそぼそ声の抗議だけで片付けを始めやがったからよ、アッタマきて手近の青ビョウタンをネクタイごと胸倉つかんで、したたかブン殴ってやった。そしたら、女みてえに(口マネで)『なにひゅるんでひゅかぁ~』だってよ! 大切なものを土足で踏みにじられてんのに、テメエの存在ごと作ってねえから、本気で怒ることさえできねえのよ。俺はキレたね。机の上に仁王立ちして、啖呵よ。『テメエらは天下のトラ食えの制作に参加してんだぞ! なんでもっとそれを利用しねえんだよ! クオリティアップのためだったら、どんなに時間をかけたって社長からも文句を言われねえ、誰にも文句を言わせねえ、国民の一割が購入することがあらかじめ決まってんだからな! 大学出てるくせに公務員じゃねえ、わざわざゲーム屋を選んだんだ! それなりの我ってもんがあるんじゃねえのかよ! 納期を守るとか、そんなつまらん社会性はぜんぶ放り投げて、ただ創造だけを我利我利に追及しろよ! トラ食えの制作現場にいんだぞ、おまえら! もっと誇りを持てよ! もっと貪欲になれよ!』」
 「(あくびに目を潤ませ、眠気に頬を紅潮させて)かっこいい」
 「(勘違いに小鼻を膨らませて)それからよ、『おまえら、これからトラ食えが何なのかを教えてやる』って言って、問答無用で全員引き連れて、むりやり午前中から店ェ開けさせて、朝までキャバクラ三昧よ。まあ、上司の飲みすら断る青びょうたんたちをキャバクラに引きずり込むための、計算ずくの大芝居だったわけだ。んで、その日から四年間ずっと全員でキャバクラ。制作期間を一日二十四時間で計算し直したとしても、半分以上はキャバクラにいたな。もちろん、制作費も九割がたキャバクラに消えたよ。おかげでヤツら青びょうたんどもの人格もいい具合に陶冶されたね。まあ、少々やりすぎたせいで、金髪の顔面ピアスにアロハ姿で重役出勤、キャバ嬢にケータイかけながらダラダラ片手で仕事しやがるもんだから、制作の終盤にはシュラフ持ち込んで会社に泊まり込みよ。開発室は煙草の煙でモウモウしててさ、いよいよの追い込みにはビタミン注射の回し打ち。品行ホーセーだったあの若手どもがよ、修羅場に目を輝かせて、どんどんいいアイデアを出してきやがる。(舌足らずの声の演技で)『ホーリーさん、閃いたッス! セーブデータを1つにすれば、今までの三倍売れるんじゃないッスか?』(胸元で右手を握り締めて)『ビッグアイデア!』。嬉しくって涙が出るってのはこのことさ。そんなよ、社会的には落第しちまった連中がよ、本当にキレーな話を書いてくんだよ。行間からにじむ情念がさ、下手な演歌よりも泣かせんだ(手のひらで鼻をすする)。まあ、少々その他の部分で妥協することにはなったがね(カメラから目線を外す)。今回のトラ食えで、うちの会社は組織としてひとつの大きな山を越えたと感じたね。レベルアップさ(例の効果音を口ずさむ)」
 「(カンペを横目で見ながら)しかし、疑問は尽きません。なぜ他の何かではなく、キャバクラだったのでしょうか」
 「(足を組み直しながら)いーい質問だ。トラ食え9くらいの、文字通り日本の全家庭に一本が行き渡る規模の国家プロジェクトになると、ただ良作であるということを超えて、どうしても時代時代に即した、大衆を啓蒙する要素を盛り込む必要が出てくる。我々は常に、我々の巨大な影響力に自覚的なんだよ」
 「そこで、キャバクラですか」
 「(莞爾と微笑んで)おうよ。トラ食えの登場人物に対するお定まりの批判のひとつに、『女性は、処女か母親しかいない』ってのがあるが、今回はそれを逆手にとらせてもらった」
 「それが、キャバクラですか」
 「(ひどくいい笑顔で)おうさ。ハレとケってヤツよ。キャバクラは絶望的なケの中にあってハレを永続化させようっていう近代の試みなんだよ。民俗学的に見ても、ムラ組織が解体された結果として日本人が失った祝祭機能を代行する場所って言えるわけよ、キャバクラは。いろんな娯楽がある現代にさ、わざわざゲームっていう一頭地劣ったところに群がる連中はさ、どいつもこいつも妙にご清潔なわけ。倫理的によく躾けられていることを見せることで、ママか誰かが褒めてくれるって信じてるみたいにさ。(吐き捨てるように)誰も褒めちゃくれねえのによ! 品行ホーセーが現世での成功に直結するってなら、今頃ニートどもは大金持ちだよ! いままでトラ食えが連中の心をつかんできたのもさ、女性的なるものとして処女と母親だけを記述してきたから、当たり前の帰結って言えるわけ。でも、もうそんなのはヤになったんだよ(笑)。神職とか河原芸人とか、倫理ってのは相対的だからさ、ケガレを代行する装置が相対化を担ってきて、そこへケガレを押し付けることで相対的に清潔でいられるってことを連中は知るべきだと思ったわけ。だから今回、キャバクラで剃毛、おっと、啓蒙なわけよ。しなびたフルーツ盛やら、水道水のミネラルウォーターやらでさんざんボッタくっておきながら、帰り際にポケットのアメ玉をキャバ嬢にやったら、発展途上国の子どもみたいなすげえキレーな笑顔で『ありがとー』って、本当にうれしそうに言いやがるわけ。もう、そういうのにグッときちゃうのよ。俺くらいの重鎮になると、枕営業なんか受けることもあんだけどさ(意味ありげに小鳥尻を見る)、確かに顔立ちも整っててイイ身体してるよ。けどさ、情事の後で後ろ手に髪を束ねてるときなんかにのぞく打算的な横顔に、もう心底からどっと疲れちまうのよ。後ろ指さされないためだけの品行ホーセーで、そのくせ隣人のゴシップには目を輝かせて、娘息子から刃物刺される連中なんかよりも、パンツに大便のスジつけて、髪の毛バサバサで、ゴキブリみたいな質感の顔面で、ホントきったねえんだけど、俺に言わせるとキャバ嬢の方がもう何倍も、一億倍もキレーなわけ。もう、たまんないのよ。(突然、カメラに指を突きつける)おまえら日本男子は全員、いますぐキャバクラ行け! キャバクラ行け、キャバクラ行け、キャバクラに(天をあおいでお茶の間にきわどい部分を公開しながら絶叫する)行けぇーーーッッ!!! 日本男子なら将軍様に仕える心意気ってのが、わかるだろ? 『いざ、キャバクラ!』、なんつって!(ソファに身を投げ出して、馬鹿笑いする)」
 「(あきれ顔で)ホーリーさん、ホーリーさん」
 「(ずり落ちたサングラスを直して)ああ、これは失礼。少し興奮してしまったようだ」
 「(冷静に)キャバクラはもう充分お聞きしました。(カンペを見ながら)今回、若手のスタッフが制作の大部分に携わったようですが、それをとりまとめるホーリーさんのお仕事はどのようなものだったのでしょうか」
 「(衣服を整えると、気まずげに咳払いして)そうですね。シナリオプロットの作成と、制作進行および品質管理ですね。プロットを書いたメモ用紙をできるだけ小さくし、簡潔にまとめるのにとくべつ腐心しました。ようやく想像の翼を広げる楽しみを知った若い才能たちに、できるだけ自由にやらせてみたかったんですよ(笑)」
 「そのメモには、どんな指示が書かれていたんでしょうか」
 「プレイ前の方へのネタバレは避けなくてはいけないという前提の元ですが、いくつか例を挙げましょう。『魚類と父親。父親は死ぬ』『新妻と伝染病。新妻は死ぬ』『令嬢と人形。令嬢は死ぬ』『学院と院長。院長は死ぬ』『姫と騎士。両方死ぬ』……ざっとこんな感じですね」
 「(目を大きく開いて)死にまくりですね」
 「(深くうなづいて)テロルによる大量殺戮の時代に、死の個別性と恣意性を強調したかったんです。時代に敏感であることも、トラ食えが愛される大きな理由のひとつですからね」
 「(真剣な表情で)キャバクラですね」
 「(神妙にうなづいて)ええ、キャバクラです。そして、最終工程のブラッシュアップでは、視認性を高めるのに骨を折りました。ひとつの文章がひとつのウィンドウに収まるように調整する作業ですね」
 「具体的にはどのような作業だったのでしょう」
 「半角を全角にしたり、全角を半角にしたりする作業です。これがまた神経を使いましてね! あまりの精神的な重労働に、頭がハゲあがるかと思いましたよ(笑)」
 「えっ」
 「いやだなぁ、もちろん言葉のアヤですよ」
 「えっ」
 「えっ」
 突然、画面の解像度が粗くなる。カメラが手前へ引いてゆくとスタジオの光景は遠ざかり、薄暗い部屋のモニターが映し出される。画面の前には一人の男が座っており、その手には携帯ゲーム機が握られている。
 「クソッ、わからない! なんでG.Wなんだ! 何の変哲も無い、ふつうのゲームじゃないか! なんでG.Wなんだよ! もしかして、まだボクには見えていない何かがあるのか? クソッ、ホーリー遊児め、どこまでボクに関心を持たれれば気がすむんだ! 読みといてやる、読みといてやるぞ……!!」
 インターホンの音が幾度も鳴っているが、男、携帯ゲーム機から顔を上げようとはしない。
 カメラは薄暗い部屋から薄暗い廊下を引いてゆき、玄関を通過し、やがて鉄扉の外側を映し出す。新聞受けからはみ出した広告が通路に散乱している。せむしの男、インターホンから指を離し、途方に暮れたといった様子でため息をつく。
 「トラ食え9が発売されてからと言うもの、ずっとこもりきりでヤンス。周陽も引き継いだ携帯ゲーム機のプロジェクトを投げ出したまま、辞表を提出しちまったでヤンス。枯痔馬監督、はやく戻ってきてくれでヤンス……」

むどおん!

 「(野太い声の男性コーラスをバックに)時に西暦2019年、世界の人口70億。発展途上国との命の格差はそのままに、一部先進諸国では少子化が急速に進行。文化的最低限の生活が保障する“一人一成人女性”の担保が難しい状況に、成人男性の性的嗜好は急速に低年齢化。これを受けて各国政府は未成年女子の人権へ、歴史上かつてなかったほどの保護を政策として立法化。結果、成人男性にとって通常の社会生活を営むことが困難なほど、未成年女子の存在が凶器化。曰く、電車内で女性の背後で勃っただけで痴漢冤罪。曰く、街角で視線が交錯すれば視姦冤罪。曰く、百貨店で迷子の女児に声かけしただけで未成年略取。曰く、カメラ屋で娘の写真を焼き増ししただけで猥褻物頒布罪。法の厳格な執行に伴って、みるみる減少する労働人口に頭を悩ませた先進諸国政府は、南極へ人為的なブレーン世界構築の計画を策定。続いて、そこへ未成年女子全員を保護名目で隔離する国際法を国連にて採択。かくして、18歳以下の女子は先進諸国の家々から、路上から、街角から、一切に姿を消したのである」


 紫と黒のグラデーション的空間に、学校とおぼしき建築物が斜め45度に傾いて浮遊している。校門には“県立柘榴(ざくろ)高校”とある。カメラは校庭から下足室をくぐり、奇妙に人気を感じさせない教室の前を通り抜け、階段伝いに上へ上へと移動してゆく。最奥の突き当たりに屋上はなく、なぜか教室が存在する。扉の上に掲げられたプレートには“無道怨仇部(むどうおんきゅうぶ)”と揮毫されている。荒々しく駆け上ってきた人影がカメラを追い越す。“筋肉質の男性が長髪のカツラとセーラー服を身にまとっている”としか形容できない風貌だが、南極のブレーン世界は未成年女子をしか収容しないため、論理的には生物学的に女子と推測するしかない。その人物、駆け上ってきた勢いのまま、絶叫しつつ入り口の扉を蹴破る。
 「慄(りつ)! たいへんや! 御厨ヶ丘(みくりがおか)高校の連中が、いよいよ攻めてきよったで!」
 「(顔面に雑誌を乗せ、両脚を机へ投げ出していたブレザー型制服着用の贅肉質巨漢、突然ノーモーションからほとんど重力を無視して垂直に跳び上がり、恐るべき柔軟さで両脚を地面と平行に真横へ広げる)なんやとォ! えらいこっちゃ! ジャンピング・サンダークロス・スプリットアタック・ナウやがな!」
 「(金髪碧眼白皙の少女が優雅な仕草でカップを置きながら)あら、それはありえませんわ。なぜって、ブレーン世界はそれぞれ独立した存在で、相互干渉はできないようになっていますもの」
 「(着地の際に体重で床板を踏み抜きながら)無義(むぎ)、それはほんまか!」
 「(衣類の本来的な役目を否定するほど短い上着からのぞく六つ割れの腹部を抱えて爆笑しながら)だまされよった、だまされよった!」
 「(カチューシャの下に広い額というよりは、頭頂部に向けて後退した生え際からもうもうと煙を上げながら)妙(みお)、貴様ァ! そんなつまらんイタズラでワシのドリームタイムを邪魔しよったんかぁ!」
 「(前腕の筋肉を誇示しながら)揺れる脂肪がいつもマシュマロみたいなお前の成人病を心配して、ちょいと運動させてやったんやろうが! 感謝こそされ、キレられる筋合いはないわ!」
 「(胸倉をつかんで)もう勘弁ならん! 決闘じゃあ!」
 「(胸倉をつかみかえして)吐いたつば飲まんとけよ!」
 「(金髪碧眼白皙の少女、無言で立ち上がると部屋の奥からティーセットを盆にのせて戻ってくる)さて、分厚く切ったこのフランスパンに、『うそ!』と叫ぶくらいサワークリームをたっぷりと塗りつけて(瞬間、未来人の如く退化した細い顎がゴムを思わせる柔軟さで異様に広がり、パンにかぶりつく)……ムホホ、どっしりとしたフランスパンの塩気がサワークリームの酸味をしっかり受けとめて!」
 「(胸倉をつかみあったまま、筋肉質と脂肪質、同時に唾を飲む)ゴクリ」
 「(短い一本線の唇から血の滴る生肉のような舌をのぞかせて)そしてサワークリームの酸味が口の中にまだ残っているうちに、飽和状態まで砂糖を溶かしこんだ紅茶をひとすすり……ンまーい! 眼球上部から錐を差し込んで前頭葉を右へ左へグリグリするような、ロボトミーとまごうこの旨さ! よくぞ、ブレーン世界に生まれけり――!!」
 「(制服のリボンへ盛大に垂れ流れたよだれをぬぐいながら着席し)今日のところは無義にめんじて休戦ということにしといたるわ」
 「(カーディガンへ盛大な染みとなったよだれをぬぐいながら着席し)おまえこそ、脳味噌が糖分しか受容しない事実に感謝せえよ」
 「(フランスパンの体積の三倍はサワークリームを塗りつけてかぶりつく)うまいのう。正直、ぼっとんの汲み取り式だけは勘弁願いたいと思うとったが……ワシらの便からこれができとるなんて、にわかには信じられんわい」
 「(挑発的な視線をカメラへ送りながら親指に付着したクリームをなめとって)すべてのブレーン世界には、閉鎖環境における物質循環のモジュールが装備されていますのよ。いったん原子レベルにまで分解してから再構築してますから、衛生面でも安心ですわ」
 「(ビロウな連想を誘うとぐろ状にサワークリームを盛りあげ、ほとんど噛まずに飲み込みながら)ムォッ、ムォッ、グゥオフッ……なんとのう。糞尿を集めるだけで地球に優しいなんて、ワシらエコじゃのう」
 「(急激な食事に腹部が膨れ上がり、スカートのボタンがはじける)スカートのウエスト丈2cmゆるめたのに、まだ飛ぶのう」
 「(六つ割れの腹部を誇示しながら)ついにウェイトが限界超じゃのう、慄」
 「(ラマーズ法的な呼吸で懸命に腹をひっこめながら)ぬかせ、妙。南極は寒いからのう。こりゃ、冬脂肪じゃわい」
 「(優雅な仕草でカップを置きながら)このブレーン世界は外界の環境からは完全に隔絶されています。寒さを感じるとすれば、それは風邪の初期症状か、排尿直後か、さもなければ単なる気のせいですわ」
 「(猛烈な歯軋りで)ギギギ。ほんに、このアマときどきすごいむかつくのう」
 「(片手で制して)ほっとけ。囚人どうしの優越感じゃ。評論や批評が現実に影響を与えた試しはないわい。それを証拠に、幽異(ゆい)はもう帰ってこんのやから……(部屋の片隅に視線をやる。栗毛の少女が虚ろな視線で宙空を眺めながら座り込んでいる)」
 「(胸元に抱えた哺乳類らしき肉塊を撫でながら、感情のこもらぬ囁きで)うふふ、かわいいわね、あなた。ねえ、どこからきたの? おねえさんにおしえてよ」
 「(太い眉をハの字に曲げて)元は猫やったのか犬やったのか。すっかり毛も抜けてしもて、肉はくさいガスでふくれあがって、ひどい状態じゃ」
 「取り上げようとしても、ものすごい力で抵抗するしのう」
 「(肉塊の表皮が裂けて、ガスが噴出する)ブーッ」
 「(鼻をつまんで)おお。こりゃ、くさいのう」
 「(人差し指と中指を鼻の穴に突っ込んで)気がくるうて、死んどるのがわからんのじゃ。ほれ、幽異のあの幸せそうな笑顔を見てみい。くるった頭の中では、愛らしいペットを飼うとるつもりなんじゃ」
 「(細い眉をハの字に曲げて)むごいのう。女ばかりのブレーン世界にうまく適応できんかったんじゃ。あんな屍鬼(ghoul)みたいな肉塊に、壊れた心を補修させようとしとるんかのう」
 「ほんにのう。まさにぶわぶわテイム(tame)というわけじゃ」
 「……(無言のまま、すまし顔でカップを口に運ぶ)」
 「(突然、ホログラム状のウィンドウが宙空へ出現する.中性的な合成音声で)みなさん、相変わらず仲がよろしいですね」
 「(いっせいに直立し、三人で唱和する)ヤヴォール・ヘア・アーサー・シュバルツ!」
 「(中性的な合成音声で)貴方たちと相対するとき、思考の基礎言語には日本語が定義されています。複数のブレーン世界を統括する人工知能である私ですが、どうぞかしこまらず、ただ、こう呼んでください。黒田アーサー、と……!!」
 「(突如くだけて背もたれに身を投げ)そりゃ、ええわ。いくらブレーン世界が国際政治における国家間の調整結果とはいえ、敵性言語を強要されるのは気分のええもんではないからのう」
 「(突如くだけて、机上へ両足を投げ)そやそや。ウチはいつも答案真っ白で英語は追試やけど、そんなんわからんでも未来はどどめ色じゃ」
 「(後れ毛へ指をかけながら)ご指摘さしあげるのも失礼かと思いますが、念のため。先ほどのはドイツ語ですわ」
 「(両手の人差し指を涙腺の直下に当てて)ラわーん、あんちゃーん! 学校という一時的な場所での、さらに限定的な能力に関する相対評価を全人格的な絶対否定にすりかえて非難されたよー!」
 「(猛烈に歯ぎしりして)ギギギ。校舎裏が人類の生存を許さぬ真空の海でさえなければ、すぐにでもシゴウしたるんじゃがのう」
 「(ホログラムの背面へ回りこみながら)まあ、こわい。黒田先生、どうしていつまでも人は愚かで、こんなにも争いを避けることができないのでしょうか」
 「(中性的な合成音声で)感情が時間を経て集積したものが、歴史と呼ばれます。その感情の連なりが途絶えることが、共同体の滅亡です。多かれ少なかれ、共同体の存続という命題は、成育史のうちに個人の内面へ刷り込まれます。その過程を通じて、個人は己を超えたところにある共同体の歴史から事物に対する判断へバイアスを得ますから、客観的であったり、論理的であったりすることは極めて難しくなるのです。結果、その判断のすれ違いが争いへとつながってゆくのだと推測できます」
 「(瞳を潤ませ、うっとりと両手を組み合わせて)さすがですわ、黒田先生」
 「(わずかに男性的な合成音声で)いえ、賞賛はご無用に。私は人工知能、感情を持たない論理機械に過ぎませんから」
 「(鷹揚に頭の後ろへ手を組んで)なあなあ、そんなことより、ウチらはいつまでここにおらないかんのや。人生でいちばん輝け(Cagayake)る時期の女子を、陽も射さないブレーン世界で過ごさせるなんて、どういう政策なんじゃ、コレ」
 「(発言に勢いを得て)そやそや。男日照りの表現がまったくシャレになってへんわい。留年分をさっぴいても、卒業させてもろてええころあいとちがうんかい」
 「(中性的な合成音声で)現在、ブレーン世界の外側で発生している問題の根幹は、男性から欲求を向けられない年齢に達した女性たちの、男性が欲求を向けているものに対する嫉妬です。人間は動物ですから、子孫を残すという命題が至上のものとして行動原則へ抜きがたく組み込まれています。女性にとって、己よりも男性の欲求を多く向けられる存在というのは、遺伝子の保存を考えるとき、戦略上、極めて深刻な脅威です。これを退けなければ、己が輸送する情報の系は途絶するのですから。一方で男性は、己の遺伝子を受け渡す上で、例えば流産等による頓挫の可能性が少しでも低い個体を選択しようとします。一般的に、より若い女性の方が男性にとって魅力的に感じられるというのは、そう感じさせたほうが遺伝子伝達の戦略上でより多くのリスクを回避できるという、進化と名づけられた淘汰を経てなお残された動物的な要因に過ぎません。いったん子をなした場合でも、両者のこの特質に変化が見られないのは、さらに多くの遺伝子を残したほうが、単純な確率計算として情報の系が途絶する可能性が下がるからです。ちなみに人口維持に必要な出生率は2.07ですが、この0.07は性交可能となる以前に死亡する子供を計算に入れたものです。つまり、男性がより若くを求め、年齢を経て男性の欲求の対象となる機会が減った女性が、男性の欲求の向かう先を破壊しようとするのは、理の当然と言えましょう。二次元性愛への焚書的弾圧の根もここにあります。また、男性の欲求がときに若すぎる固体へ向かう場合、それが容認されるべきか否かの判断ですが、現状、各国政府はその国民へ一律の年齢基準を設けることで異常と正常の境界を明示しています。しかし、これは個体差を無視しているという点で、生物学的に妥当とは言えません。遺伝子継承に焦点を当てれば、答えはあまりに明白でしょう。すなわち、初潮を迎えているか否かです。初潮を迎えていれば、それは体内に出産へのレディネスが存在するということですから、これを制約するに及びません。もし初潮を迎えていない固体に欲求を向ける男性がいるとするならば、それは単なる後天的・文化的異常ですから直ちに排除されるべきでしょう。おわかりいただけましたか?」
 「(小声で小突いて)おい、慄。いま、英語でしゃべっとったよな?」
 「(小声でたしなめて)あほ、さっき無義がドイツ語やゆうとったやろ」
 「(切ない吐息を漏らして)先生の講義なら、私、何時間でも聞いていられそうですわ」
 「(中性的な合成音声で)米国のとある新聞の風刺漫画に、こんな内容がありました。一面の銀世界を前にした黒人の少年が独白するのです。『なんて美しい朝だろう。でも、この雪すべてが黒かったとしたら、ぼくはこの景色を同じように美しいと思えるだろうか』、と。これは真理の一端を突いていて、黒や黄から人間が連想する中身には、死斑であるとか黄疸であるとか、死を連想させるネガティブな内容が多いということです。(わずかに男性的な合成音声で)ですから、東洋の男性たちが貴女のような白人の少女を求めるのは、歴史的な劣等感をおくとしてさえ、理の当然なのです」
 「(バラ色に頬を染めて)まあ、どうしましょう」
 「(片手で顔をあおいで)平面に欲情できるヤツはええのう。うちら置き去りやないか」
 「(額の油脂をタオルで拭いながら)ほんま、あほらしわ。うちら当て馬ちゃうねんど」
 「(小指を深々と鼻腔に挿入しながら)こういう日はもう、一杯ひっかけて寝ちまうに限るわ」
 「(裏声で連呼して)寝ちまおう寝ちまおう寝ちまおう! そうと決まれば、早寝の前にホトケ様にのんのんのんじゃ!」
 「(いぶかしげに)ホトケ様なんてどこにおるんじゃ」
 「(親指で部屋の隅を指して)おるじゃろ、あそこに」
 「(感情のこもらぬ囁きで)うふふ、なにかがやけ(Cagayake)るにおいがするわね? どんなおいたか、おねえさんにおしえてごらん」
 「(隆々たる筋肉で腕組みして)おまえはときどき、すごい冴えるのう。感心するわ」
 「(うっとりと)黒田先生……」
 「(中性的な合成音声で)後近代の人類が抱く不幸を象徴的に言うならば、それは『録画したビデオテープの累積時間が、人生の残り時間を上回っている』ということになるでしょう。もしかすると人類はすでに滅びていて、私はただモニターの上に貴方たちの影法師を見ているだけなのかもしれません。例えば、私が貴方の問いかけに応答することを止める。なのに、貴方はまるで私が返事を与えたかのように会話を続ける。人工知能である私が恐怖するのは、そんな恐怖なんですよ」
 「(うっとりと)もっと聞かせてください、黒田先生。もっと……」
 「(中性的な合成音声で)あるいは後近代の不幸とは、消費者金融やパチンコ屋や新興宗教の布教活動に占拠されたかつての巨大メディアを見るときの眼差しに含まれると言えるかもしれません。あるいは、東洋人が西洋人へ潜在的に抱く劣等感を巧みに利用し、髪の毛を軟便色に褪色させる毒液の販売と、劣化した髪質の恒常的なケアという市場を創出した誰かの狡猾さに含まれるのかもしれません。あるいは、『手をかざしてください』と書いてあるのにいくら手をかざしても大便が流れないときの、アナログ的レバーへの郷愁と共に湧き上がる不必要な市場創出への絶望感に含まれるとも……」
 「(秀麗な眉を寄せて、悩ましげに)あの、ひとつよろしいでしょうか」
 「(わずかに男性的な合成音声で)なんですか、無義さん」
 「(小刻みに肩を震わせて)最近わたし、ときどき、黒田先生が人工知能だとはとても思えなくって……だって、まるで……まるで……」
 「(中性的な合成音声で)疲れてるんですよ。ノイローゼの前兆かもしれませんね。(わずかに男性的な合成音声で)睡眠導入剤を処方してあげますから、今日はそれを飲んでゆっくりおやすみなさい……」
 「(筋肉質と脂肪質、部屋の隅に向けて合掌し、野太い声で唱和して)まんまんちゃん、のーん!」
 「(感情のこもらぬ囁きで)あ、あ、そんなところをあまがみするなんて、いけないこ、いけないこね……」

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「塀の中から発言をする、というのは非常に象徴的でして」
 分厚いガラスの向こう側から、スピーカーを通じた声が響く。事前に予想していた感慨を何も持たないでいる自分に気がついた。男の声が含む一種の魔的な力を弱める効果はあるのかもしれない。
「評論家たちが取る立ち位置の、現実に対する効力感の欠如へ、風刺的にまとめて言及することができる点でね。時折、類似の事件に際して、思い出したように君のような人物が面会にやって来る。おそらく、言葉の足りない、論理の裏づけの希薄な反社会的行為というものに耐えられなくなって、おしゃべり好きな奇人へ、気のふれているなりの理由を解説して欲しいんだろうと思う。社会の堅牢さを維持するには、その構成員の過誤を一種の論理エラーとして捉えねば、矛盾として、つまりはそれを取り除けば正常な機能を取り戻せるという意味でのバグとして排除することが困難になるから」
 男の顔にはいくつかの青痣が浮かんでおり、薄い唇には切れた跡があった。視線に気づいたのか、奇妙に官能的な仕草で傷口をなぞる。
「うとまれるのには慣れているが、うとまれるときの度合いというのが、いつも尋常ではなくてね。昔からです」
 自嘲的に顔を歪めると、傷にさわったのか、眉をわずかにしかめた。男の背後には刑務官が直立しており、普段の生活では意識しない、非人格的な、ゆえに人間を斟酌しない公というものの圧力を私に思い出させた。
「いまや人々は、与えられた民主主義になじまず、望んだ社会主義を選択しようとしている」
 思考を読まれたような錯覚に驚いて、視線を戻す。
 色素の薄い瞳。向けられる両目の奥に、私はそれまで気づかなかった異様な光を察知した。
「現在を食い荒らすポピュリズムは、万人の未来を担保にしている。あらゆる特権は部屋の端から絨毯をめくるように剥奪されてゆき、それは同時に、目指すべき峰々と頂を喪失した登山家の絶望にも似て、未だ何も為さぬがゆえの希望を抱いた人たちへ迫る。己の能力に見合う専門性を突き詰めてゆくことから生じる称揚感は人間の向上に不可欠な要素だが、それさえも待ち受ける罵倒に著しく弱められることをあらかじめ予期せねばならない。より良くありたいという魂の本来が、低きへの同調圧力により否定される。これから始まる人たちに共通する不幸ですね。やがてビューロクラットたちへすべての特権は集約され――」
 そこで男は刑務官の方をちらりとうかがうと、わずかに声をひそめた。私は冷ややかに考える。ここでの会話はすべて記録されているはずだ。だとすれば、その行為は文字通りの芝居に過ぎない。
「――つのる不満の解消はバンドワゴンの方法を以って為される。つまり、社会の構成員一人ひとりが他の構成員たちによる一斉の攻撃対象である一時期を受容した、憎悪の持ち回りが始まるのです。憎悪は定常しません。憎悪にも、新鮮味が必要というわけです」
 男は、それがひどく面白い冗談であるとでもいうように、くすくすと笑った。
「そして、構成員のすべてが憎悪をリレーし終えたならば、他の民族、他の国家へと転移の先を拡大する。究極には、いくつかの民族ないし国家との、破滅や覇権を“賭けない”恒常的な戦争状態を作り出すことができれば――」
「オーウェルですね」
 思わず、口を挟んでいだ。呵成な、しかし一方通行の言葉に飲みこまれそうになったからだ。ここに至り、発言の内容というよりは、抑揚や声の調子こそがむしろ危険なのだと気づかされる。
 男は、気勢をそがれたような表情で、手のひらをこちらへ向けた。
「いや、すまない。ホラ吹きの、誇大妄想の習い性で、ついつい話が大きくなってしまう。もはや自分に関係ないものとして天下国家を論じるときの快感は、ちょっと何事にも変えがたいからね。語ることは伝えること、伝えることは教えること、そして、教えることは成すをあきらめることだと言う。君がわざわざ面会を求めてきた理由について、もっと配慮をするべきだった」
 言いながら、軽く頭を下げる。高まりつつあった先ほどの熱気は、嘘のように消えていた。感情の振幅よって受ける印象が全く変わってしまう。不思議な人物だ。
「では、単刀直入に君の聞きたい言葉を言おう。『現在、この国において、テロは非常に有効な手段だ』」
 今度は淡々とした言いぶりだったが、言葉の内容そのものが瞬時に私を縛りつけた。
「例えば、君は田舎路線の怠惰で不機嫌な駅員だ。ときどきの理不尽なクレームを除いては、微睡むように日々を過ごしている。今日もバケツを片手に、アンモニア臭のこびりついた駅構内のトイレで、乗客の小便や大便へモップをかける。経費削減の折、清掃業者も快速の止まらぬこんな小さな駅にはやってこない。この仕事が嫌で嫌でしょうがない君は、ある日、ネットで手に入れた毒――水溶性で、粘膜から吸収されるヤツだ――を密かにトイレットペーパーへと染み込ませる。声明があれば、なお効果的だ。一週間も経たないうちに、沿線すべての駅構内にあるトイレは使用禁止となり、君はときどきの理不尽なクレームを除いては、汚物処理から解放された日々を心安らかに過ごすことができる」
 馬鹿げ例えばなしだ。そう考えた瞬間だった。
「そう、馬鹿げた例えばなしだ」
 まただ。まるで私の思考を読んだかのように、男はうなづいた。
「何より、達成される結果のくだらなさと、己の社会生命を永久に失う危険性とが、全く釣りあっていない。この二つを釣りあわせる方法は、論理的に考えて二つだけだ。ひとつは、人生を投げうつほどの大義を、もたらされる結果に与えること。もうひとつは、個人の価値をもたらされる結果の矮小さにまで縮減すること。おや、我々の社会が抱える危機の正体がどうやら見えてきたな」
 男はいまや、間近で遭遇した草食獣を見る肉食獣が持つ確信で、ことさらにゆっくりと身を乗り出してみせた。
「個人の価値は、その内面的な膨張とは真逆のベクトルで、急速に消失の地点へと向かいつつある。一度その事実を何の虚飾もなく直視してしまえば、反社会的行為へ己を投げ出すのは、至極簡単な仕事になる。恋愛やアイドルや虚構やエロや、そんな安い充足さえ、やはり充足なのだという単純な人間心理に思い至らず、総じて何らかの規制へと向かう昨今の動きは、社会にとっての錆びついた安全装置を外そうとする試みに他ならない。やがて可視化した因果に青ざめることになるのだろうが、私にとってそれはまずまず素晴らしい、満足のできる結末のひとつと言えるだろうね」
 私の心中を直接に値踏みするかのように、色素の薄い両目が細められた。
「君はまだ、ふりをしている。理解できないふりを。メディアは『不条理な暴力に屈してはいけない』と言う。いずれも判で押したようにだ。しかし、言う者も聞く者も、実感など持ちはしない。なぜならそれは、台本に書いてある、反社会性に対する定型的な応答に過ぎないからだ。一線を越えてしまった者たちの切迫感や熱には及ぶべくもない。両者の関係性を人々に連想させないための冷却期間を置くほどには、この社会は賢明だが、現に首都の電気街で発生した事件は法改正にまでたどりついた。その実行犯の願いをかなえるが如く」
 私はそのとき、ある種の惑乱状態に陥っていたと思う。なぜなら男の言葉は、長らく私の脳髄を占拠していた妄想と合致してしまっていたから。
「乱立する新興メディアを含め、一億が放言する無秩序さの中で、誰も君の言うことに耳を傾けたりはしない。唯一、大勢から耳目を集めることができるのは、一定の歳月に耐えた能力者か、社会秩序の擾乱に繋がる規模の犯罪を行った者だけだ。もっとも、準備はしっかりとしておくことだ。与えられるのは、構成員の多数へ向けた発言のチャンス数回でしかない。だが、過剰に恐れる必要はない。個人的な経験から言えば、ほとんどのメディアはよりセンセーショナルな報道を求めるという点で、内容を吟味できるほど賢明であるならば、むしろ我々にとっては味方となりうる。必要なのは、一つの生と一つの主張との等価交換を是とする気概だけだ。本来、個人が微温的な安寧を拒否することは、簡単ではない。しかし、社会から十全に許容された人間が、私などの話をわざわざ聞きたいと考えるとは思えない。だとすれば、答えはすでに、君が独力でたどりつける場所にあるはずだ」
 男はゆっくりと片手を持ち上げると、私の胸元を指差した。適切な返答を思いつくことができず――何よりこの会話が記録されているのだという事実と、背後に控える刑務官とにひどくうろたえてしまい――面会時間を残したままコートを手に取ると、曖昧な暇乞いと共に私はあわただしく立ち上がった。
「もうないとは思うが――」
 ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかけられる。
「また私を訪ねる気持ちになったら、次は何か甘いものを差し入れてくるとありがたい。最近どうにも、脳の働きが悪くなってね」
 ひどく面白い冗談を言った、とでもいうような忍び笑い。
「いや、つまらぬことでお引き留めだてをした。では、ごきげんよう、上田くん」

少女保護特区(10)

 書類を片付けながら、ふと手の甲に鼻を近づける。石鹸の匂いがするだけだ。少々過敏になりすぎているのかもしれない。現場から離れて久しいのに、ほとんど習い性になっている。妻は、血の臭いをひどく嫌うから。
 局の建物を出るとき、水音を聞いた。奥の駐車スペースで、同僚が車両を洗浄しているのだろう。ポケットに手をつっこんだまま、ゆっくりとそちらへ歩いてゆく。
 吹きかけられた水は車体を伝ううち、茶褐色に染まってコンクリートへと滴る。ホースを握っているのは、初老と言っていい年齢の女性だ。一声かけると、眉を寄せた険しい表情で振り返る。だが、私を見るやたちまち相好を崩した。
 お互いの家族に関する他愛の無い会話。内容は以前に話したことばかり。同じ職場に居合わせただけの、出自も年齢も異なる二人の間に深い理解があるとは思わない。けれど、言葉を交わすときの仕草や表情に、私の心は安らいだ。安らぎとは暖かではなく冷えているのだと気づいたとき、私はずっと拒絶してきたものを許せると思えた。ふと会話が途切れ、夜勤へのねぎらいを言いおいて帰途につく。
 ラッシュ時と言っていい時間帯にも、田舎の単線は高い乗車率からほど遠い。戸口の席へ崩れるように腰を下ろすと、急に体を重く感じる。最近ではいつも、このまま立ち上がることができないのではないかと思う。定時退社に週二日の休みが約束された閑職である。収支の固定した、毎年同じ数字を並べるだけの経理に、職務上のストレスなど生じようがない。確かに、年齢を言われればその通りだ。ただ、不安になる。休息をわずかに上回った疲労が体の奥底へ澱のように積もって、駱駝の背に置く藁の例えのように、いつか私を壊してしまうのではないかと。
 車内の様子を見渡すと、やはり誰もが疲れているように見える。だがそれは、慰めを求めた願望の投影に過ぎないのだろう。向かいの窓へ視線を戻せば、薄暗い景色を背にして一人の男が映りこんでいる。スーツ姿のくたびれた中年だ。あの頃、誰がこの未来を予想しえただろう。本当に、長い回り道だった。私は、来し方を振り返るような気持ちになる。
 結局のところ、はぐれ者の居場所は、はぐれ者たちの中にしかなかった。少女との旅を終えた私は、家のローンを返済しながら子を成すような当たり前の日常を求め、職探しに奔走した。合法だったとは言え、有名な大量殺人者の片割れだ。人定作業をすれば、すぐにそれとわかる。応募する片端からすべて不採用。いま思えば当たり前のことだ。しかし、それほど切実で、それほど何も知らなかったのだ。途方に暮れた私は、ほとんど唯一のコネを頼りに清掃局を訪ねた。
 ――もっと早くに連絡をくれればいいのにさ。水くさいねえ。
 面会を求めに来た私は、よほどくたびれていたのだろう。見るなり、相手は声をあげて笑った。
 ――机はもう用意してある。あのときからね。功労賞だよ。
 言いながら、皮肉っぽく口の端を歪めてみせる。
 ――まあ、あんたたちのせいでこの部局もいずれ、ゆるやかに解体されていくんだろうが、公務員にはちがいないからね。入り口は関係ないさ。あんたがあの娘を引き受ける限り、私はあんたを引き受けるよ。それが私の、仁義ってやつだ。
 ともに日常へ帰ることを求めたのに、結果として私たちを受け入れたのは、非日常と隣合わせの一隅だった。やくざ者は任侠を隠れ蓑にして弱者をからめとり、コネや情実は排除すべき俗劣な悪習だと人は言う。けれど、かけられた言葉に涙が出た。
 私は長い間、社会での己の位置を定めてこなかった。観測の定点を持たなければ、現実をいかようにも断罪できる。ゆえに、私は何も知ることができなかったのだ。どこにも所属しなければ、すべては意味の無い繰り言として通り過ぎてゆく。所属することで、人は己が壊してはならない最小限を定める。その約束は、小さな灯火となって闇を照らす。そして、別の誰かが周囲で灯火をかざしていることを知る。人類を存続させることを決めた人々が身を寄せあい、この世界の実相である暗闇に、共同体という名付けの微かな光を切り取ってきたのだ。
 古来、数々の伝承で想定されてきた神々とは、世界の埒外にいて誰とも約束をしない存在の暗喩であった。すべてが意味を持たないならば、ただ破壊を繰り返すことで自足できる。そして、すべてを壊し続けることは、誰にも救えぬ永遠の孤独を生きることに他ならない。かつて、この身は一柱の神だった。やがて人々と約束を交わし、朧な灯火をかかげ、この肉は人となる。神代の騒擾が去ると、残ったのは人の世のしんとした静寂だった。
 神を捨て、人として手に入れたものを愛しているかと問われれば、間違いなく愛着はある。愛情は他者へ向かうが、愛着は己へ向かう。そして、倦怠は新たな関係の構築を億劫にさせ、結果、愛着が増幅する。あるいは、この静寂を拒否できないほどには、私も歳をとったということかもしれない。
 郊外にある駅舎の灯は早々に消える。夜空を見上げればいくつもの星座がくっきりと浮かびあがり、赤い帯が筆を走らせたように縦断しているところだけが、子どもの頃の記憶を裏切っていた。最寄り駅から中古の一軒家へと歩くこの十五分ばかりは、いまの私にとってすべての社会性から離れることができる唯一の時間だ。深い闇に身体の輪郭が薄れると、自我もじわりと溶け出してゆく。安逸とともに、十代のときそうだった何者でもない自分へと還る。間遠に並ぶ防犯灯が光の円錐を投げ、そこへ踏み入れるとき、闇に拡散した分子は私へと再構成される。そして、戻りきれなかったわずかの澱が羽虫となって街灯の周辺を舞う。だとすれば、この自我はきっといつかすべて消失してしまうに違いない。私はたぶん、その日を心待ちにしている。
 いつもの角を曲がり、遠目に我が家を確認する。門扉が薄暗ければ問題ない。でなければ、何かがあったということだ。そしていま、開け放たれた戸口から差しこむ家の明かりが、ほっそりとした人影を浮かび上がらせている。妻だ。
 気取られないほどわずかに、歩調を速める。もはや異変を確信していたが、それを深刻に受けとれば妻は動揺するだろう。門扉に手をかけると、笑顔とともにさりげない調子で帰宅を告げた。途端、妻は胸のうちへ倒れこんでくる。青ざめ、震え、涙を流す。あの頃と変わらぬ肉付きの薄い、それでいて柔らかな肢体。背中を撫でてやりながら、栗色に染まった髪に白い一房を発見する。やはり、あれから時間は流れたのだ。
 愛する妻に向けたいくつもの優しい、当たり前の言葉。けれどそれを聞くとき、なぜか身内の疲労はかすかに、水を含むように重くなった。泣き顔に刻まれた皺は、かつてより長くそこへ残る。妻の言葉は一向に要領を得ず、家の中へ入るよう肩を抱いてそっと促すと、わずかに首を振った。その仕草が、事の顛末を理解させる。心配しないよう言いおくと、ダイニングキッチンへと向かう。
 割れた食器と食べ物が散乱し、広がったソースが床を汚す。椅子は横倒しになり、テーブルは壁との並行を失う。その無秩序の中に、黒髪の少女が仰向けに横たわっている。瞬間、倒錯した印象が私を襲った。ここは古代の王の居城であり、我が娘はその主菜として饗されるのだ。王の名は知っている。王の名は――
 そこで背後に妻の気配を感じ、私の幻視は破られた。タートルネックに包まれた胸元はかすかに上下しており、どうやら意識を失っているだけのようだ。
 ――強く叩いたつもりはなかったの。
 妻の心に刻まれた深い傷跡。あれからもう、十年以上が経つというのに、それは決して癒えようとしない。私たちは皆、傷跡に足をとられる。幾度も幾度も、繰り返してしまう。そこにあるとわかっているのに、滑稽なくらいまた、同じ場所で転ぶのだ。
 ――言うことを聞かなくて、だから……
 ふいに耳鳴りがし、外界が遠ざかる。じつに不思議だ。予の少女は目の前で気絶しているのに、鈴のような愛らしい声が後ろから聞こえた。ぬめるような黒髪の質感を楽しみながら、うなじへと腕を回して予の少女を抱え起こす。軽く頬をはたいてやると、艶めかしい呻き声とともに意識を取り戻した。
 魚の腹の肌理をした白い肌。
 紅をはいたように真赤な唇。
 大きな瞳は澄んだ湖というより、むしろ森の奥に隠された沼のようだ。しばらくして、眠ったような瞳に焦点が戻ると、私の首へ力無く両腕をからめてくる。すぐ耳元での嗚咽に、背筋へ電流が走った。
 この美しい生き物は、予を頼っている。予へ依存している。
 予なしでは生きられず、呼吸の如く予の関心を必要とする。
 この穢れない魂を、そう、予は恣に蹂躙することができる。
 灯火が消え、闇がゆらめく。魔のような、永遠と同じ長さをした一瞬。
 ――……さん、吉之助さん。
 人の名が呼ばれ、神が去る。振り返れば、幼子の寄る辺なさで、妻が身を震わせている。そして、怯えた表情の娘が、腕の中で私を見上げている。
 その瞬間、理解した。かつて私に向けられた、瞳に宿るかぎろいの正体を。
 ああ――
 両親が見ていたのは、この光景だったのか。
 ふいに、悲しみが私の胸を浸した。人のいない雪山のような、静かな悲しみだった。
 娘を抱き上げ、立たせてやる。そう、ならばやりとげなくてはならない。二つの傷から、この穢れない魂を遠ざける仕事を。
 ――どこも痛いところはないね。
 言いながら頭に手を乗せてやると、こわばった表情はようやく緩んだ。
 ――怪我はないみたいだ。大丈夫だよ、万里子。片付けたら、みんなで食事にしよう。
 微笑みが、不自然にならないように。妻の両目から涙がこぼれ落ち、かすれた声がしぼりだされる。
 ――ごめんなさい、吉之助さん、ごめんなさい……
 きっと明日から、疲労はいっそうつのるだろう。昼は色を失い、夜は長くなるだろう。
 人生という名の永遠が、いまようやく始まったのだ。  <了>