うしなわれた片翼、わたしたちはひとりでは完成しない

少女保護特区(8)

 これはいつの記憶だろう。
 薄闇のむこうに、ロウソクの炎がゆらめいている。両親は誕生日を祝う歌を英語で歌い、兄はおどけて床を転がりまわる。うながされて息を吸いこむが、頬がこわばったようになって、どうにも吹きかけることができない。兄の目が一瞬、真剣なものを宿す。テーブルに身を乗り出すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで、兄はケーキのロウソクを吹き消した。母が兄の無作法を叱るうち、父が笑いはじめ、兄は上目づかいに私を見ながら頭をかく。電気が点くと、危うい瞬間はまるで嘘のように消えた。
 どうして私の頬はこわばったのだろう。幸福な家族の一場面が、私によって完成されることを拒んだのか。私はいつも外側に立って、幸福の像が小さな球の中で、まるでロウソクの炎のようにゆらめくのを見ていた。
 優しい人たちだったと思う。私といっしょに、幸福を手に入れようとしていた。いや、それはあらかじめあったのだ。幸福は所与のもの、不幸だけがこの世に新しい。人にできる努力は、与えられたものを壊さないようにすること。そこに関わる人たちすべての同意を前提としなければ、たちまち崩れてしまうような、もろいもの。いったん失われれば、神の御業を人の身で再生することは不可能なのだ。小さな私はただそれを壊さないように身を固くし、やがて埒外から眺めるようになった。
 何が悪かったかといえば、私の中にはあらかじめ与えられた幸福がなかったこと。だからといって、私に権利があったとは思わない。ただお互いを尊重し、別々のように生きることができればと望んでいた。死ぬことは論外だった。異物である私と、あの人たちの幸福は不可分なほど一体化していたから。
 私が望んだのは消滅。この世界のすべての記憶から抜け出し、何の痕跡も残さずにいなくなりたい。
 許可証の入ったパスケースを食卓に置いたときの気持ちは、おそらく悲しみだった。ただ内気だと信じられていた私のうちあけ話に、集まった人たちは目を輝かせていた。まるで、これまでの長い誤解とすれちがいが、今こそすべて解かれると信じるかのように。私が求めたのは、この小さな球からの離脱。ここにある幸福をそのままに、私だけがいなくなる。だとすれば、期待は正しくむかえられるはずだった。私が求めたのは法外な対価ではなく、ただ埒外にいる権利だけだったのだから。
 沈黙が降りる。幼い頃から、私とこの人たちが境界線の上にいるときにいつも響いた、身体になじんだ静寂だ。おどけた兄が軽口を言いながら、許可証に手を伸ばす。兄はほんの少しだけ、両親よりも私に近い場所にいるような気がしていた。決して自分のことを語らず、道化を演じつづけてくれた。ただ、私が遠くへ行かないように。
 慣れ親しんだ悲しみは、このとき私を突き抜けて、沸騰した怒りへと転じた。食卓へ、血に濡れた短刀を突き立てる。兄の人差し指がちょうどそこにあった。絶叫が響く。そして、私たち家族の時間は永久に停止した。
 絶叫は、今でも頭蓋の中に響き続けている。


 主に予の頭蓋の中に響くファンファーレとともに、より強い少女の殺害を企図する列島縦断の旅は幕を開けた。北加伊道では短刀を口に四足で襲いくる少女殺人者のこめかみへすれ違いに抜きつけ斬殺し、青森県ではねぷたを引き裂いて奇襲する少女殺人者をラッセラッセと浴衣姿で斬殺し、岩手県ではワカメに足をとられながらも南部鉄器で防護を固める少女殺人者を初太刀で斬殺し、仙台県では冷凍サンマを高速で射出する少女殺人者のホタテから水月へ切り込み斬殺し、秋田県では人喰いウグイス二羽を使役する刈目衣装の愛らしい少女殺人者の顔面へ柄当てして撲殺し、山形県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予があべスあべスと坂道を駆け上がり、若松県では合気柔術を駆使する少女殺人者に苦戦するも超々至近距離からの抜刀で斬殺し、茨城県では爆砕した畑の畝からセリとミツバを煙幕に襲い来る老齢の少女殺人者を二人の従者ごと心眼で斬殺し、栃木県では鬼怒川温泉に傷を癒す予の少女へてばたきしてランク上昇を告げにいぐ予のとうみぎがちゃぶれかけ、群馬県ではだるま状少女殺人者の正中線最下部内奥に鎮座した近代こけしへ刀を止められるもそのまま強引に斬殺し、埼玉県では美豆良に埴輪状の胴回りをした登校中の一般学生風少女殺人者三人を三方切りに斬殺し、千葉県では沖のクジラに手を振りながらフード付の灰色ジャージ上下で予が浜辺をランニングし、東京都では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、神奈川県では白人男性の外見をした少女殺人者を疾走するタクシーの屋根から金網越しに斬殺し、水原県では投擲した複数枚のフリスビーを足場に迫る犬状の耳をした少女殺人者を空中戦の末に斬殺し、相川県では周囲にかがり火を焚いた能舞台で金銀能面の少女殺人者姉妹を演武の如き極遅の面打ちで斬殺し、新川県では早稲の香の中でチンドン屋に扮するきときと少女殺人者の不意打ちを激突の一刀で斬殺し、金沢県では少女殺人者に霞ヶ池へと引きずりこまれるも予が水面へ投じた加賀友禅を足場に斬殺し、足羽県ではハープの音階を物理衝撃波として操る少女殺人者に衣類を裂かれるも予の期待空しく斬殺し、山梨県では青木ヶ原樹海の遊歩道付近で少女殺人者が首を吊って虫の息なのを発見して斬殺し、長野県では体操服にブルマーを着用した少女殺人者がその健康な足技を披露するも高まる世論に降参して斬殺し、岐阜県では赤いマスカレードマスクを装着した少女殺人者が忍者衣装で襲い来るのを檜ごと両断して斬殺し、安倍県では野宿の深更を焼き討ちされるも延焼を防ぐため草木へと繰り出した剣撃が匍匐前進の少女殺人者を偶然に斬殺し、愛知県では少女殺人者から先端に味噌を塗りつけたういろうを頬へ押し付けられ苦戦するも金太・マスカット・ナイフで切り斬殺し、三重県では真珠を射出するガトリング砲を装着したフォーミュラカーに搭乗する少女殺人者のヘルメットを面打ちでラッコ割りに斬殺し、滋賀県では琵琶湖から飛び出した雑食性の少女殺人者を飯の詰まった桶めがけ腹開きに内臓処理しながら斬殺し、京都府では祇園祭宵山巡行の死闘で実に十四基の山鉾を中大破しながらも牛頭全裸の少女殺人者を秘剣・大文字切りで斬殺し、大阪府では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、兵庫県では白鷺城の天守閣へ追い詰めたスーツ姿の男装麗人少女殺人者が突如歌い出すのを背後から斬殺し、和歌山県では紀州備長炭を頭上に紐でくくりつけた少女殺人者が炊事を開始するところを苦もなく斬殺し、鳥取県ではブロンズの肌理をした百二十人の少女殺人者を一昼夜におよぶ死闘の果てに砂丘の底へと斬殺し、島根県では宍道湖周辺で七人の少女殺人者から奇襲を受け水際へ押し込まれるも相撲の足腰で体を残して七方切りに斬殺し、岡山県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予が高病原性トリインフルエンザに感染し予の少女から看病を受け、広島県では歯軋りのひどい少女殺人者を平和記念公園でみね打ちしてから水没した鳥居まで電車で移動の後に斬殺し、山口県では宇部市小野地区の茶畑を横目にしながらフード付の灰色ジャージ上下で予がランニングし、名東県では襦袢・裾除け・手甲に網笠の少女殺人者が連から三味線を振りあげるのをヤットサヤットサと斬殺し、香川県では有名チェーン店の従業員少女殺人者に背後からコシの強い麺で喉を締め上げられるも所詮はうどんなので斬殺し、愛媛県ではなもしなもしと迫る着物姿の少女殺人者が二階から飛び降りて腰を抜かしたところを斬殺し、高知県では百キロ級の土佐闘犬にまたがる少女殺人者が興奮した飼い犬に逆襲されて死にかかるのを介錯の形で斬殺し、福岡県では便座より噴射する液体を浴びしとどに濡れるも左斜め後ろより迫る少女殺人者の水月を刺し貫いて斬殺し、佐賀県では玄海原子力発電所の3号機から4号機へ跳びうつる際にプルサーマル少女殺人者がキセノンオーバーライドで出力低下するところを斬殺し、長崎県ではアイパッチの海賊少女殺人者を平和祈念像の前からフロントネックロックで対馬海流上に引きずり出してから斬殺し、熊本県では五人を殺害した少女殺人者を「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」と唱えつつ裏腹に斬殺し、大分県ではひとり山肌に槌を打つ僧衣の少女殺人者のトンネルを背後から掘削しつつ恩讐の彼方に斬殺し、宮崎県では基礎体温による避妊法を連想させる元アイドル似の少女殺人者を人工の波うち寄せる閑散としたドーム内で斬殺し、鹿児島県では言葉だけでは表せない海苔巻きむすびの如き顔面の軍服少女殺人者をごめんなったもんしと斬殺し、沖縄県ではフード付の灰色ジャージ上下の予が子犬を足元にまとわりつかせながら首里城正殿めがけて階段を駆け上り達成の歓喜に諸手を挙げて振り向けば予の少女が繰り出される御殿手をかいくぐりつつ少女殺人者をちょうど斬殺するところだった。


 マフラーの下から白い息を長く吐くとわずかに身を沈め、身長の三倍はあろうかという門扉を助走なしで跳び越した。途端、赤いランプが回転し、警報が鳴りひびく。詰め所から警棒を振りかざし襲いくる警備員を瞬く間に大地へ切り伏せると、雨樋を利用した三角跳びで予の少女は三階の窓を蹴破り、施設内へ侵入を果たした。割れた硝子がリノリウムに跳ねる音が止むと、非常灯のみに照らされた廊下には完全な静寂が訪れた。
 列島の縦断は、予の少女をロリ板ランキング三位へと浮上させる。しかし、戦いは未だ終わりを見ず、まさに永遠へと続いていくようだった。一人殺しても、その間にまた次の少女が許可証を握っている。それは、たった一人で人類全体を殺害しようという天文学的な試みだったのだ。補給は断たれない。戦いの際に真っ先に叩くべき敵の輜重は無尽蔵のみならず、男を知らぬ少女にすればほとんど不可視でさえあった。だから、予の少女がここへたどりつくのは、もはや時間の問題でしかなかったと言える。幸いにして予は生まれながらにして自身の精神が持つ不可侵の貴族性にどこかで気づいていたし、その事実が単純に生育過程で経なければならない教育機関での時間を難しくしたとは言え、これまでの生涯を――あるいは、己が生きてある力を疑ったことは微塵も無かった。判断の基準は常に精神の内奥へとすえられていたからだ。しかし、例えば幼少期に得た養育者からの虐待が、現在の自分の上に依存とか、自己否定とか、不安感とか、自殺願望などを深刻に残していると悟ったとき、その原因となる人物と対話を試みようとすることは全く意味のない空転だろうか。予の少女の行為を馬鹿げた妄想だとか論理性に欠けるとか、非難の言葉はいくらでもあるに違いない。だが、世に満ちた、生命の与奪を伴わないがゆえに可能な99%の評論を乗り越えるには、1%の情熱あるいは狂気だけが原動力となり得るのである。その前進が新たな地平を押しあげれば常識を拡充した勇気として語られ、失敗すれば世界の埒外でする愚劣な人間の消費、すなわち狂気として地に落とされる。ただどちらも、ひとつの動機より発した結末の側面を違えたものであることは、覚えておかねばならぬ。予の少女にとってはおそらく、得られる結果というよりも対話という行為そのものが必要だったのだ。遺伝という名付けの消極的で薄弱な根拠をしか持てなかった両親はすでに互いの始末をつけ、他界している。予の少女を真にこの世界へ産みだした誰かが、この奈良県立政策科学研究所にいるはずなのだ。
 自らの呼吸音に苛立ちながら門扉をよじのぼり階段を駆けあがった予は、予の少女へと合流を果たす。膝に手をかけ肩で息をする予を一瞥し、スカートの埃を軽くはらうと、予の少女はゆっくりと右手を柄にかけた。奥の暗闇に、猛獣よりもなお危険な何かが息を潜めている。予は気配を殺しつつ伝令を発し、予の子飼いに斥候目的の暗視機能を解放させるよう命じる。耳障りなほど大きく響く作動音へ呼応したかのように、消失点の彼方から輝く金属片が床すれすれに飛来し、子飼いを通じた予の視界へ急速に拡大する。たちまち時間の観念が吹き飛び、己の正体を知らぬがゆえに泣き通しだった子ども時代の場面が驚くほどの鮮明さで、整然とした時系列に脳裏へ再生され始めた。もしや、これが走馬灯というものであろうか。中学時代を迎えてから自室のみで繰り返されるようになった現実の光景は、予の内側に展開されていた哲学的スペクタクルを伴わない物理的な事実の羅列だったので、そのあまりの変化の無さに予は思わず早送りボタンを探したりした。
 鋭い金属音が、予を走馬灯から現世へと引き戻す。リノリウムの床に突き刺さった短刀が、未だ余勢を残して蠕動している。予の少女の抜刀が、予を殺すはずのそれを鼻先で叩き落したのである。予の子飼いが提供したスロー再生で顛末を確認した予は、文字通り一髪差での攻防に全身の毛が太くなり、太くなった分だけ縮むのを感じた。
 ――誤算だった。
 廊下の暗闇を滲ませるように出現する和装の少女は、怪談の一場面を思わせる眺めである。だが、予に訪れた震えは、むしろ彼我の戦闘力が拮抗している事実に由来するものだった。予の少女は何者も寄せつけぬほどに強くなったはずだ。しかし、眼前の少女――老利政子をはたして殺せるかどうか、予は確信できない。予の少女は恐ろしい早業で抜き身を鞘へと返す。予の迷いを断ち切るかのような鍔鳴りは、澄んだ残響を伴って静寂にしばしの色を与える。
 ――いや、正確には私の中にあった破滅を求める性向が、あえてこの誤算を看過したと言うべきか。もはや、眼前の少女殺人者が老利政子と同じほど強いことに何の疑いもない。互いの生死が定まるのに刹那も必要あるまい。勝敗のわからぬ戦いを戦うのは、二度目である。自棄に近いこの感情は、実に心地よい。特に、老利政子にとっては。
 語られる内容とは裏腹に、老利政子の口調にほとんど抑揚の変化は感じられない。それが、生き人形のような人外の不気味さを醸成していた。
 ――この奥に、予の保護者と特区法を生んだ頭脳がある。もし私が殺されれば、老利政子はようやく敵に出会い、そして死んだと伝えて欲しい。
 己の死さえも陶酔を超越したところで計算に入っている。予の持つ生来の貴族性は、老利政子の示した高い精神性への場違いな共振に揺れた。時の経過と共に積もりゆく生の余剰に価値を見ないがゆえに、いつでもすべてを捨てて死の零地点へと帰ることができる。これが処女性Aランクの所以か。瞬間、ロリ板が奥行きを伴って立体化し、予は屹立する思想の中身にぞっとさせられる。
 ――もし眼前の少女殺人者が殺されれば、老利政子は誰に何を伝えればよいのか。
 予の少女は一瞬だけ予のほうをうかがうと、静かに首を振った。
 ――そうか、実にうらやましいことだ。
 言い終わらぬうち、老利政子は予の少女の前にいた。予の子飼いのスロー再生さえ、コマ送りの残滓をしかとらえぬ。日本刀三尺三寸を封じる九寸五分の間合い。しかし、翻る短刀より先に雁金抜きからの右袈裟が放たれている。若松県での死闘で見せた、超々至近距離からの抜刀である。鎖骨と肋骨を砕かれ、複数の動脈を切断された老利政子は、一瞬にして絶命した。噴出する血液と倒れこむ身体を、予の少女は半身でかわす。濡れたモップを床に叩きつけるような音が響いた。予の心に湧き上がるのは、畏敬である。本来、生命の喪失はひとつの哲学の終焉と同義なのだ。死が弛緩させた筋肉は老利政子の表情から険を奪い、その顔はほとんど笑っているようにさえ見えた。日本刀が音を上げて空を切り、血の飛沫が壁を汚す。続く鍔鳴りは、仏壇の鳴物の如く弔意を示して響いたように思った。
 研究所の中枢へ近づくにつれた激しい抵抗を予想していたが、もはや拍子抜けするほどに人の気配はない。もっとも、ランキング二位の老利政子を退けたいま、予の少女を止める手立てが他にあるとは思わない。猫足立ちに先を歩く予の少女がふと立ち止まる。廊下の突き当たり、わずか開いた扉の隙間からかすかな物音が聞こえてくる。予の少女は完全に気配を消して一足に歩み寄ると、回避に充分な距離をもって鋭くドアノブへ柄当てする。扉はしかし、ただ軋みを上げて開くのみであった。
 室内の光景は、まず予の内奥にかすかな不快感を生じさせた。続いて、その理由が既視感ゆえであることに気づく。だが、それが病室にも似た部屋の外装へ向けられたものか、片隅のベッドに横たわる老人へ向けられたものかは、判然としなかった。
 ――君たちがついに、君たちの旅のひとつ目の窮極であるここへ足を踏み入れたということは、あれは死んだのだな。
 生きているのが不思議なほど小さく皺がれ、弱々しく震えている。傍らの機械から数本のチューブが伸び、老人をベッドへと拘束していた。
 ――老利数寄衛門と言う。ずっと会いたいと思っていたが、いまはこれほどにも君たちの顔を見るのがつらい。なぜなら、あれを殺さなければ誰もこの部屋へたどり着けないことを知っているからだ。誰かの死を悼むには、私は年をとりすぎていると思っていた。若い死、老いた死――何より私たちの世代には、生命に意味付けをできないほど、死が多すぎたから。ともあれ、私を始末する前にしばらく時間が欲しい。勝者は敗者からすべてを聞く権利がある。
 濁り震える呼吸音に、ほとんどかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。しかし、それゆえに呪縛となる。圧倒的に蹂躙できると理解したときに生じる躊躇は、逆説的な人間の証明か。予と予の少女はあらゆる行動が眼前の老人を殺し得るという事実に、完全に制止させられた。
 ――青少年育成特区は民主政の生んだ鬼子だ。あまりに多くの意思がその成立に寄与したがゆえに、誰も確たる意図を同定できないほどに複雑化し、肥大化してしまった。私が語る内容さえ、青少年育成特区の持つひとつの側面に過ぎない。同じだけ深く関わりながら、私と全く別の見解を持つ者もいるだろう。
 言葉を切ると、老人は部屋の奥を見る。視線の先には、どっしりとした両開きの扉があった。どうやら、ここが研究所の最奥ではないようだ。
 ――老人がする童女への歪んだ情愛が、青少年育成特区を成立させたと揶揄される。醜聞としては、よく出来た部類の報道だ。私があれを愛したのは事実だからな。だが、最初の少女は老利政子ではない。仁科望美だ。
 ロリ板のトップに君臨し続ける少女殺人者の名である。それを口にするとき、老人は消え入りそうな声をさらに低めた。だが、充分ではなかったらしい。予と予の少女は何か人外の意識がこの場所をとらえ、まざまざと注視するのを感じた。
 ――ランキングは官僚的な形式だ。飾りに過ぎない。事実、仁科望美は過去に一度だってその座を明け渡しはしなかったのだから。最初の少女は、特区法成立以前から究極の治外法権として存在し続けてきた。法に縛られぬ埒外の実在を国家が許容することはできない。特区法とそれに付随するシステムは、すべて仁科望美を法の内側へと規定するための方便だ。書面やモニターの上ならば、膨大な文言と無意味な細則の積み重ねで、まるで仁科望美が青少年育成特区の一部であるかのように錯覚することができるだろう。しかし、あの少女だけは別なのだ。破格なのだ。一日数トンの動植物を摂取し、年間で二億トンの二酸化炭素を排出する怪物。集落ごと仁科望美の食餌と化した例さえある。その知能は狡猾極まり、日中は深山へ身を潜め、己を傷つける可能性を持つ大型兵器の前へは決して姿を現さぬ。個人が携行できる規模の銃器では、硬質化した肌をわずかも傷つけられない。極めて単純な物理的能力によって、最初の少女は法を超えている。
 予は甲殻類の心を持った少女が、両目を細める様を思い出していた。
 ――青少年育成特区の終焉を望むならば、仁科望美を殺すがいい。老利政子を殺した君には、権利と可能性がある。もっともそれは、未だ試みられていないという程度の意味合いに過ぎないにせよだ。君を規定しているすべては、仁科望美に付随した人間世界からの余剰だ。もし、目的を完遂することができれば、君は仁科望美に成り代わり、新たな王として君臨するという選択肢もある。もっとも、いずれを選ぶにせよ私には関係のないできごとだがね。
 老人は息を吐いた。細く、長く。室内は充分に暖かかったが、なぜかその息は白く見えた。
 ――いまの私にあるのは、君に対する憎しみだけだ。心の底から君を憎んでいる。血のつながりこそなかったとはいえ、あれはかけがえのない私の娘だったのだからな。できうることならばこの手で君を殺したいという気持ちだけが、最後に残った私の持ち物だ。しかし、少女殺人者を相手に老いさらばえた身体にこの復讐を完遂する力は無い。だが、あれの係累やあれを愛した者たちの誰かがいつかその宿願を果たすかも知れぬ。この希望を抱けば、私は死ぬことができる。覚えておくといい。君が殺してきたすべての少女殺人者の背後には、私がいたのだ。憎悪の種子はかように広く多く蒔かれ、そのどれひとつも萌芽しないなどということはありえぬ。仁科望美と同化する以外の道が、君に残されていることを祈るよ。
 注意していなければ見過ごしてしまうほどかすかに、老人は微笑んだ。
 ――さあ、私を殺し、君たちに残った最大のひとつを消しにゆけ。しかし、そのひとつは人類の憎悪を人類ごと抹消するという、大いなる救済を孕んだひとつであったことを覚えておいてくれ。仁科望美は強大だが、それでもなお人類が殺し得る。あの少女が全世界を殺害できるほど強くなれたならば、歴史の宿痾とも言うべき親から子、子から他者へと連鎖する憎悪の連なりを断ち切り、人類は新たな再生へと進むことができたものを。いや、これは過大な妄想と言うべきか。
 語り終えたことを示すように、老人は目をつむる。予の少女はうながされるように、のろのろと柄へ手をかける。だが、そこで動かなくなった。待てど訪れぬ死に、歳月に薄くなった目蓋が再び開かれる。
 ――この光景を目にするのは幾度目だろう。人の心とは不思議なものだな。多くの同胞たちを呵責なく殺し続けてきた誰かが、ひとつの無力を前に立往生するのだから。
 言うなり、老人は機械につながる管をまとめて引き抜いた。赤・黒・黄の体液がチューブを逆流して噴出し、皺がれた身体が痙攣する。
 ――うむ、快なり。
 ほどなく老人の両目は、生命を持つ者が宿す輝きを失った。予の少女の手が、放心したかのように柄から滑り落ちた。これまで殺してきた多くは、予の少女にとって単独の死に過ぎなかった。だが、二つの死が編んだ質感は、思いもかけぬ衝撃を与えたようである。なぐさめに肩を抱こうとする予の指先は、かつての拒絶を思い出し震える。布越しの感触は、その場で斬り捨てられたとて後悔せぬほどの甘美な柔らかさだった。しかし、わずかの抵抗さえ示さず、予の少女は俯いたまま睫毛を震わせるばかりである。はかなげな横顔が訴えるのは、殺戮を続けることへの倦怠か。だが、ここですべてを頓挫させるわけにはゆかぬ。途中で降りるには、意味なく殺しすぎた。予が指先へかすかに力をこめると予の少女は頭を軽く振って、おぼつかぬ足取りで一歩をふみだした。他に進むべき方向はない。引き返す道は、すでに少女たちの遺体で埋まってしまっているのだから。
 研究所の最奥へと続く扉は、厳重なセキュリティとは無縁の無防備さで、あっさりと侵入者を受け入れた。薄暗い部屋の中央には、楕円形の会議机が配置してある。異様なのは、すべての席に人形が置かれていることだ。和人形、磁器人形を初めとして、予の卓抜した知識でさえ出自を特定できないほど、多種多様である。それらは一様に眼前のラップトップ式パソコンを注視するようで、画面からの照り返しが与える不気味な陰影は、無機物であるはずのものどもを有機物のように見せていた。
 ――いいぞ、いいぞ。老利政子はずっと死に体だったからな。流動性が担保されるのは、実に結構なことだ。
 こちらに背を向けた白衣の男が、わずかに常軌を逸脱した激しさで頭上に手のひらを打ち鳴らしている。奥の壁面にはモニターがびっしりと並び、和装の少女が斬殺される瞬間が幾度も繰り返し流れていた。予の少女は、その悪趣味に顔をそむける。白衣の男は椅子ごと振り返ると、愉快そうに予の少女を眺めた。
 ――ついにたどり着いたか。ぼくのことを知るはずもないだろうが、ぼくにとって君たちはずっと特A級の観察対象だった。まるで、憧れていたアイドルに初めてに会うときの少年みたいな気持ちだよ。それにしても、あの日本列島殺人行脚は大ヒットだったね。あやうく公僕の立場を忘れて、大手旅行社と鉄道会社へタイアップ企画を持ち込むところさ。
 雑草のように無秩序な髪は白いものが多く混じっている。軽薄で軽躁的な話しぶりとは裏腹に神経な視線を銀縁眼鏡で覆い、内臓の虚弱を疑わせるほど頬は痩け、皮膚と同じ色をした唇は酷薄な印象を予に与えた。相反する印象が集積した外見は、老人のようでもあり青年のようでもある。
 ――ようこそ、少女審議委員会へ。委員長の五嶋啓吾だ。政策研究所の所長も兼務している。そして、ここに居並ぶのは、当委員会の錚々たる構成メンバーのみなさん方だ。会議に欠席する場合、あらかじめ代理人として人形を立てるよう決まっている。ご覧の通り、実在の名士なんてのはこういう輩ばかりさ。少審は委員長の諮問機関に過ぎず、決裁権は委員長であるぼくが握っているから、会議の運営はもはや他に類を見ないほど円滑だ。
 言いながら突然、手近の椅子を人形ごと床に蹴り倒す。磁気人形の頭髪が剥がれ、黒い空洞がのぞく。ひび割れて対象性を失った顔面は、ひどく既視感を刺激した。
 ――そして、罷免も任命もぼくの思いのまま。いつだって、ひとり分の席は空いている。必要なのは、永久に自我の形を変質させる一種の諦念だけだ。何も放棄せずに、何かが手に入るわけはないからね。
 異様な光を帯びた視線が予へと向けられた。瞳に込められた熱量次第で、年齢についての印象が全く変わる。だが、予の経歴に対する遠まわしの揶揄も予をひるませるには至らなかった。これまでの人生に後悔はあるか。いや、ない。予は毅然と胸をそらしたのである。
 ――君が少審にあげる動画や報告書は、実に興味深い。委員へ推挙したいくらいだ。魅力的な申し出とは思わないか。君の反社会的な本質をそのままに、君は確たる社会的な地位を得る。これがどれほど度外れた大逆転の可能性か、君ならばわかるはずだ。
 浮かされたような口調に釣りこまれそうになり、予は主導権を取り戻すべく老利数寄衛門の死を告げた。社会的地位は少女殺人者にとって何ら盾にならぬことを、五嶋啓吾に思い出させるためである。傍らに立つ少女殺人者は、居ながらにして脅迫と同じ効果を持っている。ただ、予の少女が今日の死に倦んでいることだけは、悟られてはならぬ。
 ――見ていたよ。残ったのは恋着した童女の行末を見たいという妄執だけで、実際あの老人は長い間ずっと死に続けていた。よくもった、と言うべきだろうな。ただ、青少年育成特区の設立に寄与したという一点でだけ、歴史に名を残す資格はある。政治屋にしてはまあまあ話せる人だったけど、いつだって容れ物を作ることが前提から目的へすりかわってしまう。何を納めるかはどうでもよかったんだろうね。フレームはなくても、実体はある。抽象概念だけが、この世の底とつながっている。老利数寄衛門との議論は平行線だったね。何を見せたいと思うかが政治だとすれば、青少年育成特区は世の人々に何を見せたかったのか。
 わずかに細めた目の下に皮がたるみ、その顔はたちまち時を刻んだ。年老いた分だけ口調の帯びるトーンに憂鬱さが加わり、人格の置換さえ疑わせる変容である。もっとも、青少年育成特区導入からの歳月を考えれば、設立に関わったというこの男が見かけほど若いはずはない。
 ――全体主義的な風合いに対するカウンターとして消極的に採用された民主政は、対立項への嫌悪ゆえに真逆の極端へと暴走していった。均質化と個性化は常にせめぎあい続けなければならず、どちらかへ完全に着地することこそ避けねばならなかったはずなのに。結果はご覧の通り、行き過ぎた個人主義が価値を拡散させてしまった。価値とは「何を是とするか」という命題に対する回答、すなわち善の様相を意味する。善は自由の名の下に組織、あるいは人間と同じ数にまで際限なく分割されていく。一方で、悪は変わらないままその版図を維持し続ける。悪は法により規定されるが、善は法により規定されないことを考えるといい。善が悪に勝利できなくなったのは、道理じゃないか。最初期段階で青少年育成特区が目指した理念とは、目指すべき社会システムの可視化にあった。個々人の戦争状態は恒常的に存在し続けるべきだ。不可視であるがゆえに、穏やかな天秤の例えで結論を次代へ先送りにする破滅への保留を廃し、少女殺人者たちは現状が常に戦争であるという事実を人々の前へ顕在化させる。さらに、青少年育成特区は舞台の主役である少女たちを抽象化した。ネットやテレビや新聞や、手の届かない場で繰り返される虚像には実在を薄める効果がある。哲学書や思想書の文言なら涙が浮かぶほど身に沁みるが、隣人や親族の小言は許容できないほど苛立たしいからね。形が無く、ほどよく遠いということが啓蒙には重要なんだ。……まあ、ここまでは建前だね。この国の政治に統計データは必要ない。つまり、小説を書くように政策を書けば、あとは人気投票次第で自動的に事が運ぶのさ。実のところね、ぼくはただ、少女が、大好きなだけなんだ。
 異様な光に目を輝かせながら、五嶋啓吾は爬虫類を思わせる長い舌で色の無い唇を湿した。大きく開かれた目が顔全体の皮膚を持ち上げ、劇的な若返りの印象を容貌へ与える。嗅ぎ取った臭いに全身は粟を生じ、想起した同族嫌悪という言葉に予は首を振った。
 ――ただの一瞥で男どもを蹂躙する少女たちが、陰惨な陵辱の末に社会の枠組みへと規定されてゆく過程にぼくは切歯扼腕してきた。青少年育成特区は、フェミニズムなんてメじゃない、国家の庇護の下に少女たちが他を圧倒し君臨し、暴力で世界をほしいままにするシステムだ。少女たちの神聖を守るためには、社会からの同調圧力を退けねばならぬ。万が一にも誰かの手に入ってしまうような可能性があってはならぬ。現世の誰からも触れられないよう少女たちの存在をエンターテイメント化し、つまりいったん実在から実存へと引き上げることで一時化し、外的・抽象的・遠隔的消費が可能な状態を作り出すことにこそ、青少年育成特区の真の目的がある。消費され尽くすということは、関心を完全に喪失することだからね。その先に少女たちは、路傍に苔むし、打ち捨てられた道祖神の持つ、何人もその由を遡れないがゆえの不可解の聖性を獲得することができる。
 じっと話を聞いていた予の少女は、そこで何かを言おうしたのか、わずかに唇をひらく。先ほどまでの虚脱の様子は消えており、予は傍らから漲る圧を感じる。しかし、五嶋啓吾はかぶせるように言葉を続けた。
――ぼくを狂っていると思うか。いや、正常と異常は時空において相対的だなんて、つまらない指摘はたくさんだ。自然とは異なった環境に置かれて壁に頭蓋を骨折させるマウスの発狂が固着したものが、人の持つ知性なのだろう。だから、カウンセリング的な、心理学的な救済に神を感じて心乱される。本当はただ発狂しているだけにすぎないのに。環境への適応が知性を作り出したのなら、皮肉にもそれは神の不在をそのまま証明しているじゃないか。いまや君たちは余人からの入力を受けつけず、外部からの刺激に殺す以外の応答を必要としなくなった。ぼくたちは一方的に君たちへ祈りを捧げ、愛と欲望を投影し、次の少女の到来を望むがために、君たちがただ消えてゆくのを傍観し、やがて完全に忘却する。君たちをこの世のものとも思われないよう神秘的に、蠱惑的にするために「殺し」を与えたが、言葉まで奪った覚えはない。君たちには、それを保持し続ける自由もあった。けど、殺人の享楽をさまよううちに、言葉を放棄したんだ。言葉は「殺さない」ためにあるものだからね。
 予の少女は、つまらなさそうに前髪へ手櫛を入れる。五嶋啓吾が一瞬、ひるんだように視線をそらす。続く一声はわずかにかすれていた。
 ――さあ、ぼくの話はここまでだ。仁科望美のところへ向かうといい。君が人がましく話すのを聞きたくはない。もっとも、少女殺人者に何かを強制できるとは思っていない。ぼくの存在と言葉を無化する手段は、すでに与えられている。
 予と予の少女への興味を失ったかのように、白衣の男は再び壁面のモニター群へと向き直った。しかし予は、肘掛からのぞく指先がかすかに震えているのを見逃さなかった。無頼と狂気を装った一世一代の大芝居は、ただ助かりたいがゆえだったのか。誰かに向ける最も冷酷な感情は失望である。はたして気がついているのか。いぶかった予が、端整な横顔をのぞきこんだ瞬間――
 一閃、予の少女は白衣の男を椅子ごと切り伏せた。

新宿オフ始末書

 「包茎チンポ?」
 ビールの中瓶を撫でさすりながら弱々しくつぶやいて右隣をうかがうも、ファンだと名乗ったはずの婦女子2名はベネズエラの描く春画に嬌声を挙げており、すでにこちらへ心を残していません。左隣ではぼくに対しては終始不機嫌だったガンジャが「ええッ、じゃあ“くろのだんしょう”(クロノ男娼? 時をかけるBL話と推測するも、詳細は不明)の作者なんですか!」と身を乗り出し、「いや、いまは猊下のいちファンとしてここにいますから」とまんざらでもない表情のオーツキが中指で眼鏡の位置を直しながらぷくぷくと小鼻を膨らませています。顔を上げると正面には小首をかしげた子鹿が子鹿のような黒目がちの瞳でこちらを見ており、ぼくはいたたまれなくなってそっと視線を外した。これは何の集まりでしょうか。小鳥猊下を歓待するオフ会ではなかったのでしょうか。十年という歳月に過去の失敗を忘れ、浮かれたネットハイで再びオフ会などを企画した一ヶ月前の自分を殺してやりたいです。いや、――うつむいて噛んだ臍から生暖かい血がアゴを伝うのを感じながら――その前にこいつらは全員まとめて呪殺だ。


◇登場人物紹介
 小鳥さん……テキストサイトというムラでは大いばり、最近ではほとんどの管理者が現世での成功を手に入れて卒業していったがゆえの長老的な位置に複雑な気分。もはや新規のファンを呼ぶ力も無く、流行りの炎上でアクセス数が回復することを夢見る過去の人物。

 オーツキ……プラズマとは関係ない。目の下に黒々と隈が浮いており、能条純一の某漫画に登場した「見える見えるおまえが見える」の人を想像すると近いかも知れぬ。蛍光色の頭髪にグラサンアロハ、体表はピアスで埋めつくされている、くらいを想像していたので逆にフツウで驚いた。

 ベネズエラ……南米からやってきたカポエラの達人で、日本語がひどく堪能。本邦での職業にはなぜか萌え系の春画描きを選択しており、nWoにトップ画像を寄贈するなど外見を裏切らぬ精力的な活動ぶりである。既婚者らしいので、おそらく特別帰化を申請したと推測される。

 黒子……ホクロではない方で読む。ブログ形式以降のnWo運営担当であり、俺が大臣なら事務次官に相当する。オフ会でさえ、事務方に徹した。「ニコニコ動画はワシが育てた」「酔わないと話ができない人もいるから」の2つを、彼がキャラクターの片鱗をうかがわせた台詞として記録したい。

 どどめ鬼……百目鬼ではない。手入れの行き届かないアゴヒゲにどどめ色の上着という、外見だけで正気を疑われる逸材。それを証拠に、ガンジャと職質談義で盛り上がっていた。つごう8時間、どこから金をもらったのかという勢いでnWoを褒めまくり、逆に俺の肛門を警戒で狭くさせた。

 BL学園……男子間肛門性愛話をこよなく愛するにも関わらず、nWoのファンだという矛盾を体現する謎の婦女子その1。男子と男子が正常位を行う際、肛門と男性器の位置関係はどうなっているのかという質問を準備して個人的に胸をワクつかせていたが、二次会の途中であっさり帰った。

 子鹿……思想系のブログを開設し、喧々諤々の議論を展開する人物。きっと俺のペニスをSuckせんばかりの勢いで議論をふっかけられると脅え、理論武装のため開いた思想書を顔面に乗せて睡眠しながら上京したが、その心配はたちまち霧消した。1時間しかいられないと言いつつ、結局8時間いた。

 県知事……似ているわけではないが、そのアクションがなぜか俺に宮崎県知事を想起させた。十年前の東京オフ会で参加を表明したにも関わらず、当日連絡なしに欠席した前回のA級戦犯。理由を尋ねると、「友だちと遊んでて、気がついたら時間を過ぎてました」。俺の怒りは有頂天である。

 マコリ……nWoをほとんど読んでいないにも関わらず参加を表明した謎の婦女子その2。指輪で人妻を偽装することで小鳥猊下との対話を性交なしで成功させるも、実は現在彼氏募集中とブログで表明しており、オフ会参加男子全員の性を著しく去勢した。俺の怒りはすでにヘヴン状態である。

 ガンジャ……某新興宗教の教祖にそっくりの麻薬密売人風デイトレーダー。終始不機嫌なのはリーマンショックの影響か。毛糸の帽子がお気に入りで、オーツキの大ファン。“生きながら萌えゲーに葬られ”のエンディングに対して批判的なメールを送信した人物であり、今回のA級戦犯。

 ちなみに、この並びはアイウエオ順ではない。nWoへの貢献度に基づいたもので、何の恣意も無く公明正大であることをあらかじめ付け加えておく。


 ぼくは極太マッキーでnWoと大書きした画用紙を掲げながら、新宿駅の東に位置する交番の前にひとり立ち尽くしていました。日はすでに暮れはじめており、都会の寒風は身を切るようにぼくへ吹きつけます。「アルタビル前は人が多いので」とのアドバイスを受けて設定した集合場所でしたが、駅からは続々と大量の人たちが吐き出されて続けています。おそらく人口過密地帯の東京では、このくらいの数は多いうちに入らないのでしょう。誰もがぼくの薄ら笑いに一瞥をくれると、足早に、まるで競歩のような速度で左右に分かれてゆきます。お笑い番組の企画か何かとでも考えているのでしょうか。あるいは、精神薄弱と思われているのかもしれません。交番を目の前にして、相当に奇矯な行為に及んでいるのではと恐れを抱いていましたが、この程度のエキセントリシティでは淫獣都市・新宿において少しでも己の存在を際立たせることはできないようです。
 集合時間のちょうど15分前に、ネット耽溺が形成した何かが顔面の多くを占拠している男たちが「猊下ですね」「猊下ですね」と双子のようなツープラトン攻撃で問いかけてきたので、すっかりうろたえたぼくは右手の小指と薬指と中指と人差し指を口の中に入れて「アワ、アワワ」といった音声で返事をしたが、意外に通じたみたいで安心した。よくよく見るとネット臭以外の共通点はそんなになかったので、落ち着きを取り戻したぼくは、宮崎県知事を思わせるほうへ「どちら様ですか」と質問したのですが、すごい早口で返事をされたので「え、何?」と言うとまたすごい早口で返事をしたので、その場では神妙にうなづいてなんかわかったふりをした。のちにこの男が前回のオフ会へ参加を表明し、表明してから懇切丁寧にブッちぎるという父殺し的行為で精神的愉悦を得た人物だと判明しますが、わかってたらその場で秀でた額にワンパンくれて「ひぎぃ」と声をあげさせていた。もう一人はnWoの管理者でドメイン名とか自腹でとってくれてるファビュラスな人材だったので、周囲には後光が差し両肩には裸の天使がとまっていた。ぼくは抱きしめてチュウしてやろうかと意気込みましたが、値踏みするかのような眼光がグラッスィーズの下で異様にするどかったのでぼくはブルッてしまい、チュウはやめることにした。いずれにせよ、15分前に到着したという事実はぼくのオフレポをきっちり読みこんできたという証拠なので、2名の偏差値は飛躍的に高まりぼくを1万とすると35くらいになった。
 いきなり耳元で「土日は案外ここも人が多いな」というつぶやきが聞こえたのでぼくがハリウッド・ジャンプで飛びすさると、肩ごしに振り返った視界に白いジャケットの不健康そうな男が立っていました。それは、メールでぼくが衆人環視のうちに幾度も辱められた遠因をつくった人物のオーツキだった。そして、銀のピアスがネオンを照り返してぼくの目はするどく射られたのです。両腕を上下並行にして顔面を守るポーズで「想像と違いました」と正直なぼくが言うと、眼鏡の位置を神経に中指で直しながら「いま人生で一番ファティな時期でして」と言うオーツキの様子は健康を誇示する言葉の内容とは裏腹の有様で、サラリーマン二人組がまじまじと彼を注視しながら、「どうしたンですか…御気分でも」「いえね、先日知人が交通事故で死んだんですが、それとそっくりですわ…膚の色が。あなた知ってます!? 死んだ人間って“白い”というより、蒼く透き通ってるンですわ」と言葉を交わしつつ通り過ぎてゆくほどです。なので、雑踏で強要されたすごい廉恥をレンチの顔面殴打で難詰しようとする気持ちは急速に冷え、ぼくは後ろ手に鈍器を隠してできるだけ刺激しないよう、「そ、そうなんですか」と保身にかすれた声であいづちをうつ他に方法がありませんでした。
 そこへ、公開の遅れている某福音漫画映画の監督にそっくりの風貌をした男が、ショッキングピンクのスウェットに身を包み、常軌を逸脱した者だけに許される確かな足取りでまっすぐにこちらへ向かって来るのが見えました。ぼくは「東京は怖いところじゃ」とつぶやいて視線を外しましたが、案の定その男はぼくの真ン前に立ち止まり、「小鳥猊下ですね」とすごく大きな声で言ったのです。ここはネットじゃないのに! ぼくはたぶん、殺される寸前の小動物が最期にあげる鳴き声と同じ弱々しさで「はい」と答えたのではなかったかと思います。
 ほどなく、手首切っちゃいました、意図的に、といった風情の女子と、はいからさんが通った後を踏みにじった、といった風情の女子が順ぐりに現れ、ぼくにあいさつをしたりいきなり触ったりしました。周囲のネット男子たちはことさらに無関心を装い、装うことが関心を裏書きするという、当人だけが看過されていないと信じるあの状態に陥っていた。ぼくは状況へ羞恥するあまり思わず下を向いた。初対面とはいえ、きっとすぐにファン同士の会話が始まり打ち解けるだろうと期待したが、ぼくを囲んで楕円形になった人々はお互いに一言も発さず寒空の下でびっくりするほど無言だった。すごい人ごみの中でネット臭のする人材たちが車座になり、その中心が自分であるという事実に悶絶しそうになりました。ぼくは沈黙に耐えられなくなって、手首を骨まで切った方の女子に「えっと、あのピンクの上着の人、実はエヴァンゲリオンの監督ですよ」と冗談めかしてどどめ鬼を指さすと、「ええッ、本当ですか!」と意外に大きな反応が返ってきたため、ぼくはいまさら嘘だと言えなくなってしまい、「破ではアスカを殺すんですよね、監督?」とノリツッコミをうったえる視線でかぶせると、桃色の関東人が怪訝な表情で首をかしげたので、ぼくは自分の家が大金持ちだと自慢した小学生が次第にエスカレートする己の嘘に追いつめられてゆくような絶望に身をよじったのです。
 そして、大きなラジカセをブレイクダンスの両足で蹴り上げながらやってきた明らかにDNAが南米の男により集りのグローバル感とサンバ感は強まり、唇を動かさないまま「ガンジャあるよガンジャあるよ」とつぶやきながらやってきた教祖風の男という加速装置を得て集りのアンダーグラウンド感とクライム感はいっそうに速まった。むしろ、ぼくがオフ会の実施を表明したことが早まっていた。
 あと一人こないなー、と思っていたらこの都会の雑踏の中で、ボクとカレだけが天然色で、他の全員はみんな灰色とでもいうようにからみあう二つの視線。それがオフ会参加者最後のひとり、子鹿とボクの出会いだった。
 ぼくがキリッとした表情と文体で「アングラサイトのオフ会なのだから、アングラ系の店で」とどどめ鬼に予約を依頼しておいたのに、案内されたのは極めて一般的な居酒屋だった。安普請に前後左右の音声は筒抜けであり、冒頭のような猥語を伝達するのに社会性の最高に高いぼくは小声になった。そこへ、場末の居酒屋特有の客層が織り成す低劣な雑音があいまって、ぼくの小声は最高に聞き取りにくい状態になって、ぼくは自己への嫌悪とどどめ鬼への憎悪で死にたいと殺したいが二重で同時に訪れたので目を白黒させました。
 死体遺棄現場の刑事たちのようにテーブルを眺めたまま誰も座ろうとしないので、わざとらしく「どこが上座かなー」などと発話しますも、ネット臭ふんぷんたるチェリーボーイどもは薄ら笑顔を崩さないまま、誰もぼくに席を勧めようとはしません。すると突然ベネズエラが流暢な日本語で「シャチョサンノセキハマンナカネ」と発話したので、ぼくは非常に驚きながらも「ソ、ソリー、アイシットダウン(表記:”So sorry, I shit down.” 和訳:「とてもすいません、私はうんこをします」)」と流暢な英語で発話して真ん中に座りました。するとマコリがぼくからいっこ空けて座り、すかさずガンジャが太いのをぼくとマコリの間にねじこもうとして、そんな太いの入らないと拒否られ、ぼくの反対の隣に不機嫌に座りました。現実では気を遣う性質のぼくが傷心のガンジャをなぐさめる意味でそのたくましい膝を撫でさすりながら「見てくれ。nWoをどう思う?」と尋ねたら、まるで街頭で宗教的なアンケートを求められた人のような、一種異様な素っ気なさで「いや、面白かったですよ」と過去形で返答したので、本当のことを指摘されると人は怒るの法則でぼくのブレイブハートは怒髪天を突いた。表向きは「ハハッ、ワロス」などと巨大掲示板から仕入れた今風ヤングの発話で平静を装い続けたが、ぼくのブロークンハートは血と涙にてらてらと濡れていました。
 いつのまにかぼくとマコリの間に細いのをねじこんだBL学園が、熱くたぎった密壺から良く煮えた貝を箸でつまんで「これ見て下さい」と言うので、相手の望むボケを裏切らない関西人のぼくは「イット、ルックスライク、膣」と流暢な英語で発話すると「共食いですね」と得意げに、金髪のわりには流暢な日本語で発話しました。そんな三次元世界から垂れ流される濃密な廃液、いわゆる萌えの原液にチェリーボーイどもで形成された戦線は乱れかけた。しかし、どどめ鬼だけが「きたない、さすが三次元の女きたない」と言わんばかりの心底不快そうな表情ひとつで戦線を維持してのけたので、ぼくは、こいつは本物だぜ、個人的に近寄りたくはないがな、と内心思った。
 ビールでのまばらな乾杯と散発的な発話があったのみで、気まずいまま宴は進行していった。最初に気つけで空にしたマイグラスの底はすでに渇き始めていたが、誰も積極的にそれを満たそうとはしませんでした。隣の婦女子たちはもはやケータイ遊びに夢中ですし、対面の子鹿は子鹿のように黒目がちな瞳で小首をかしげ、ただぼくを見つめるばかりです。個人主義の押し詰まった魔都・東京では、手酌が基本なのでしょうか。ぼくを歓待するオフ会のはずなのに! ぼくは一縷の望みをかけて、弱々しい声で「秒速5センチメートルでー」と発話しながらビール瓶へ極めてゆっくりと手を伸ばしたのですが、誰も気づいた様子はありません。絶望的な気持ちになりながら必死に声を張りあげて、「秒速5センチメートルでー」と再び発話しますと、どどめ鬼が「ああ、あれ最悪ですよね」と非常な早口でかぶせて来、己の意図が正確に伝わらない絶望へ拍車をかけたのです。たまらなくなってうつむいたぼくは、眼球からの体液でしっとり濡れた卓へ影が差すのを見ました。顔を上げると、ベネズエラが「シャチョサン、イッパイイクネ」と浅黒い肌へのコントラストのせいか、ひどく輝いて見える真白な歯を誇示しながら、いささか乱暴なやり方ながらマイグラスへビール瓶を傾けました。なんという如才の無いガイジン、あるいは婿養子でしょう。しかし他人を見下さずにはいられないぼくの高貴な性向はその酌を受けながら、ラベルを下に向けて片手でつぐような礼儀の無さは、ぼくの最高に高まった社会性とつりあわないなと考えさせた。
 県知事が時折、てんかん発作を疑わせる激しい仕草で笑いながら倒れこみ、周囲へ多大な迷惑となっており、BL学園とマコリの向ける視線は明らかな生理的嫌悪と侮蔑に満ちていた。県知事の笑い声は黒ベタ白ヌキで「ギャヒーッ!!」であり、熱湯風呂から飛び出して床を転げまわっていた頃の宮崎県知事を想起し微苦笑を浮かべていると、県知事は黒い何かに覆われた太くて固いものをぼくにしきりと押しつけて、「この処女雪のような純白を汚すんだ、お前自身の手でな」と強要しました。ぼくがごめんね、ごめんね、と言いながら純白の表皮をわずかに汚すと、特殊性癖の県知事の興奮は最高潮に高まり、一度汚れればあとはいくら汚れても同じと言わんばかりにみんないっせいにそれを汚しにかかったので、ぼくは素面でいることが辛くなって店員に赤ワインを注文すると、黒子と子鹿が無言のまま「わかります、ルネッサンスですね」という表情を見せたので、ぼくの表情はたぶん曇りました。
 そして、冒頭のやりとりに話は戻るのだった。加えて、ベネズエラがエルフと関わりがあった旨をさらに発話し、数名がどよめいて、わずかに漂っていたぼくへの関心の残滓は永久に虚空へと失われました。くやしいけど“かたあしだちょうのエルフ”は、ぼくも傑作だと認めています。三十年以上も前に亡くなった小野木学先生と面識があるなんて、嫉妬を通り越してむしろ羨望をしか感じません。詳しいことを聞きたかったのですが、瞬発力に欠けるぼくがおろおろしているうちに、ぼくの知らない小野木作品であるドウキウセイツウ(童貞精通? 同衾生活? 表記は不明)に話題が移動してしまっていたので、ぼくはただお得意の薄ら笑いを浮かべることしかできなかった。ぼくの大切なレゾンデートルはこの時点で死亡した。
 しかし、まだだ、まだ終わらんよ。このままでは何のためにオフ会を招集したのかわからない。そう考えたぼくは、極限まで追いつめられた上京もとい状況で、なお尽きせぬ己のパロディ気質に励まされながら、万勇を鼓して参加者全員に問いかけたのです。それはびっくりするほど甲高い、この陰鬱な集まりでぼくが発した数々のうめきの中からようやく意味のある大きな声となって、みなさん、ぼくの更新の中で印象に残ったフレーズを教えていただけませんか、と響きました。それぞれの会話に没頭中だった人々はびっくりしたようにぼくを見、これがぼくを囲むオフ会であることをいまようやく思い出したふうな表情をした。
 「あー、パーやんのエンディングの、『いつか愛が誕生するだろうか?』かな」
 それ、ぼくじゃなくてトーマス・マンです。あとタイトルが間違ってます。パアマンです。
 「祈りの海の最後の一節です。『それでは生きるのがあまりに辛くありませんか』」
 グレッグ・イーガンです。それはグレッグ・イーガンが書きました。
 「『君は激しく勃起したな』」
 ……大江健三郎からの引用ですね。
 「うーん、じつはあんまり読んでません」
 なんでここにいるんだ、オマエは。男あさりか。
 全員がうんざりした、もういいですか、という表情をしたので、ぼくはうつむくことで、もういいです、という気持ちを表現しました。うなだれたぼくの後頭部の真上でオーツキとベネズエラが名刺交換を始め、この集まりに意味づけをしようと必死だったぼくの方寸にどよもす騒擾は、ようやくにして止むを知ったのです。ああ、今回のオフ会はエロ業界に生息するこの二人を出会わせた触媒としてのみ、後の世に記憶されるのだな、と。残念、ジョショ(徐庶)の奇妙な冒険はここで終わってしまった!
 すっかり意気投合したみなさんが大盛りあがりで二次会へと移動していく後ろを、ぼくはとぼとぼとついてゆきます。二次会が提案されたのは、関西人的痩せ我慢のええかっこしいで、誰かが止めてくれると半ば期待しながら「ここはぼくが払います」と発話するとそれまでぼくの発話すべてを聞き流していた人々がいっせいに会話を中断して、「なに当たり前のこと言っちゃってんの?」という爬虫類のような視線をぼくへ向けたからです。もはやこれは「おい、猊下、ジュース買ってこいよ」の世界であり、求められたのは小銭と紙幣でみっしり充填されたぼくの蜜袋であることが痛感され、繁華街のネオンは水中から見るように滲んだのでした。
 ネット臭ふんぷんたる陰鬱な会合へ、終電のある時間帯に見切りをつけた婦女子2名が「じゃ、これからもがんばってね」「感想送るから」と心にもないお義理の発話をしながら退出すると、ほどなくベネズエラがそわそわし始め、「ソロソロカエラナクチャ。オクサンコワイネ。リコンサレタラ、ニホンイラレナクナッチャウ」と告げるが早いか上着をひっつかんで駆け出していきました。察しの良さだけで世渡りをしてきたぼくは、南米の血が持つ奔放な性への志向をうらやむと同時に、こんなアングラサイトのオフ会に参加を表明しておきながら、一瞬でも無事な貞操と共に帰宅できることを夢想した婦女子2名の愚かさが粉々に砕かれることへ、心中、喝采を送ったのです。ぼくはサイトの更新が示すようにエロゲー愛好なので、自分ではない剛直に秘貝が原形を失うことに何より興奮を覚える性質なので、沸騰した欲望にぼくの目は赤まった。なに、泣いてるの、とでも問いたげに子鹿が首をかしげてぼくを見ましたが、そんな猥劣な内心を悟らせることで子鹿の純情を汚すのははばかられたので、ぼくは長い睫毛をふかぶかと伏せた。
 そして、この陰鬱な宴も――もしそんな瞬間があったならばのことですが――たけなわを過ぎ、気がつけばぼくは一人で狂躁的にしゃべり続けていた。どどめ鬼がレンタルビデオ店(おそらくAVコーナー)で数名の警官に取り囲まれたときにそうだっただろうギラギラする眼差しでこちらを見ており、黒子が「この人物は果たして忠誠に足るや足らざるや」といった値踏みするグリコ犯の眼差しでこちらを見ており、子鹿が小首をかしげ何を考えているかわからぬ子鹿のような濡れた眼差しでこちらを見ており、秀でた額を脂で輝かせながら県知事がぼくの許可を得ないままぼくの動画撮影をはじめており、徹夜明けで月曜に締め切りが2本あると言っていたオーツキは腕組みしたままの半眼で涅槃に魂を浮遊させており、ガンジャは先ほどオーツキの隣で活き活きと話をしていたときの様子とはうってかわった倦怠ぶりで机につっぷしたまま動かなかったからです。話せども話せども場の空気は冷えてゆくばかりで、ぼくを歓待する会だったはずなのにぼくをエンターテインさせようとする人物はもはや一人もいませんでした。無理もありません。ここで行われているのは、対等の知性がする軽妙な会話のキャッチボールではなく、舞台の芸人が面白ければ笑い、面白くなければ席を蹴る、あの場末の演芸場のやりとりだったからです。それを証拠に、わずかの沈黙を縫うようにして、つっぷしていたガンジャが無言で上着を着始めたことが散会の合図となりました。小便というよりは涙を排泄するためのトイレを済ませて店を出ると、もはやそこには誰もいませんでした。地方在住の人間が深夜の歌舞伎町に取り残される気持ちがいかなるものか、説明してもきっとおわかりいただけないでしょう。恐怖と憤りがぼくを疾駆(sick)させました。すでに排泄を済ませたはずの涙袋から、再び止めようもなく涙が盛り上がり、そしてスローモーションで風に運ばれてゆきます。
 来るんじゃなかった、東京。やるんじゃなかった、オフ会。
 誰かがアテンドしてくれることを期待していた東京観光(興味が無いふうで連れ込まれる秋葉原のメイド喫茶、といった甘い夢想!)はもはや煙と消え、ぼくは始発の新幹線で頬袋をシュウマイに充填させつつ帰阪するのでした。
 諸君、ガンジャは2回、残りの連中は全員1回ずつ呪殺である旨をここに宣言する。





痴人への愛(2)

「いいお湯だったねえ、おまえさんっ」
 底抜けに無邪気な声音に、ふとつられてふりかえった。
「あんまりはしゃぐとあぶないよ」
 洗面器を小脇にかかえた女の子が、楽しそうにくるくると回る。苦笑しながらかたわらでいさめているのは、兄だろうか。両目が隠れるほどに前髪をおろしている。上着を脱ぐと、さりげない仕草で女の子の両肩へと乗せた。たちまち不満そうに口をとがらせるのが可笑しい。
「もう、保護者きどりなのね! そんなカッコじゃ、寒いでしょ」
 タンクトップから健康な二の腕がのぞいていた。春が近づいたとはいえ、夜の大気はまだ冷たい。
「このくらいなら、へいちゃらさ。大陸はもっと寒かったからね。それより、――に風邪をひかせて、あとでお父さんにしめあげられるほうがこわいよ」
 めずらしい名前だったが、一回では聞きとれなかった。とたん、ころころと鈴のような笑い声がひびく。
 もし、きょうだいでないとすれば、輝くばかりの桃色に染まった頬は、湯ばかりが理由ではあるまい。なつかしい、痛いような気持ちが喉元へこみあげた。なんとなく立ちつくしたまま、この幸せなやりとりをながめる。
 ふたりの後ろ姿が曲がり角に消えると、コーデリアは寒さを思い出したかのように襟元を寄せた。小鳥尻とのあいだにも、たしかに蜜月はあったのだと思う。また、あんなよろこびはやってくるのだろうか。
 問いかけるように顔を上げた先に、答えが見えた。カーブミラーに映るゆがんだ鏡像は、すでに百年もうみ疲れているようだった。
 そして、先ほどの女の子はもしかすると、じぶんとそれほど変わらぬ年齢かもしれないと思いいたり、コーデリアは身内に真冬のような底冷えを感じたのである。
 小鳥尻が一週間ぶりにもどるというその日、コーデリアは近所の銭湯へ出かけた。もともとあまり汗をかかない体質に質素な食生活があいまって、風呂の無いアパートでの暮らしは苦にならなかった。ときどき、小鳥尻が酒を割るさいあまらせた湯で身体をふいた。
 切りつめた生活のなか、正直かたちに残らない三百円の出費は痛い。しかし、久しぶりに帰宅する恋人に、最良の姿を見せたいという想いがまさった。つまるところ、失望されたくない、捨てられたくないという共依存が、ふたりの関係へ力学として作用しているのだが、幸いにもというべきか不幸にもというべきか、コーデリアはそれを言葉にできるほど賢明ではなかった。
 オレンジ色に射す西日の中で味噌を溶くと、鍋からふわりと暖かさが広がる。この、幸福に満たないぬくもりをコーデリアは愛した。むくわれて然るべきと感じられるこのささやかさが、願いのはかなさによくみあうからだろう。
 卓上の夕食はいつもより一品、菜が多かった。小鳥尻の帰宅は、すべてが冷えてからだった。案の定、ひどく酔っていて、そして舞台にいるときのように上機嫌だった。
「ごめんね、昔のファンが集まって、宴会になっちゃってさ……でもすごいのよ、もう大盛りあがりで、私ひさしぶりにすごく楽しくって」
 玄関でひさしくなかったような熱い口づけをすると、コーデリアに菓子袋を押しつけた。
「ファンのひとりにもらったの、すごく上等なお店のケーキなんだって」
 袋には、大量生産で有名なチェーン店のロゴが刻印されていた。だまされているのか、だまそうとしているのか、コーデリアにはわからなかった。気が高ぶらぬよう、声がかすれぬよう、ゆっくりと唾を飲みこんでから、言った。
「お水くんだげるから、座ってて」
 蛇口をひねると、白く濁った水道水がプラスチックのコップへ満たされてゆく。この上機嫌は良くない兆候だ。こころはまるで振り子のように、上がったぶんだけかならず下がる。なぜみんな、そっと静止させておいてくれないのだろう。
「もうすごいのよ……みんなずうっと私のことをほめてくれてね、アンタはすごい芸人だって、大好きだって、愛してるって……だから、うれしくなってね……みんな私のオゴリにしちゃった……」
 語尾をひそめてうかがい見るのは、やはりすこしは後ろめたいからか。おそらく酒が言わせたのだろう、ファンと名乗る人物たちの無責任な発言を、コーデリアは呪いたいような気持ちになった。ふだんは臆病で人嫌いの小鳥尻なのに、どういうわけか己を肯定してくれる言葉だけはびっくりするほど素直に信じこんでしまう。
 わずかばかりを節約したところで、破滅への秒読みはいつも大幅に繰り上げられる。コーデリアはじっさい視界が狭まるような錯角を感じ、わずかに首をふった。やさしくて純粋なこの人は、左右からふたりを圧しつぶそうと迫る絶望の壁へさしわたすつっかい棒が、この世に金銭しかないということがわからないのだ。いっしょにいられるなら死んでもいいと思ってついてたきたはずなのに、いざそれが現実的な結末として近づいてくると、なぜこんなにも悲しくてつらくて、胸が痛むのだろう。
 後れ毛をはねのけるふりで、そっと目尻をぬぐう。笑顔を作ってふりかえったところで足に力が入らなくなり、コップを抱えたまま膝からその場にへたりこんだ。
「怒ったの? ねえ、怒ってるの?」
 小鳥尻は台所の板敷きに正座する形のコーデリアへいざり寄ると、膝に顔を埋めて腰へ手をまわした。コーデリアは思う――この人がじぶんからやってくるのは、だれかにゆるしてほしいときだけだ。
「でも、聞いて! 集まりに局の人がいてね、十年も同じ芸でもつのがすごいって言ってくれて……で、私の芸はあんまりすごいから、いっしょに仕事してみたいって。だからきっと、またテレビに出られるわ……そうしたら、こんなアパートひきはらって、ふつうの人みたいに……」
 小鳥尻の声はそこで小さくなっていった。
「ねえ」
 ――落ちる。
 コーデリアには次の言葉がもうわかっていた。こぼさぬようコップをかたわらへ置くと、広い背中をさすってやる。
「死のっか」
 魅惑的な負の演技に引きこまれぬよう注意しながら、じゅうぶんな間をとって、言った。
「テレビ、出るんでしょ」
「出れるわけないじゃない」
 驚いたことに、小鳥尻は即答する。妙にきっぱりとした口調だった。
 しかし、続く言葉は夢見るようにかすんだ。
「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」
「うん、うん」
 小鳥尻の求める愛は、無条件の愛だ。赤子が母親に求めるような、本人にとっては生命の存続にかかわる重大な愛だ。けれど、この世のだれがその重さを引き受けてくれるというのか。
「でもね、私わかってるの。それは祈りみたいなものなの。いつもかならず、裏切られるの」
 コーデリアは黙って背中をさすり続けた。
「昔ね、みんなが私を見て笑ってるときにね、いま心臓マヒとかで死ねたらなって、よく思った。だれか、私の芸でみんながいちばん盛りあがってるときに、撃ち殺してくれないかな。みんなが私だけを見て笑ってるときに、うしろからぱぁんって」
 まばたきすればこぼれそうで、コーデリアはただやさしく目を細めた。
「じゃ、こんどテレビ出たとき、殺してあげる」
「うん、殺して。きっと殺してね」
 曖昧な、子どものような口調でそうつぶやくと、小鳥尻はそのまま眠りに落ちた。
 月光が照らすその横顔は、死人のように青白かった。きっと、小鳥尻という存在はとうの昔に死んでしまっているのだ。人工呼吸器につながれた脳死患者のように、むなしい希望を永らえさせているだけなのだ。
 だが、またひとつの危うい瞬間を乗りこえ、小鳥尻の生命を明日へとつないだことに、コーデリアはある種の満足を覚えているじぶんに気づいた。そしてそれは、ひとつの決意へと昇華する。
 この人の、最期の瞬間を看取る。できるだけ長く、小鳥尻を生かしてやろう。
 そう、まるでひとつの季節をしか生きない昆虫が、虫かごという牢獄で越冬するように。

少女保護特区(9)

 私のために殺すとき、心は痛まない。誰かのために殺すとき、心は痛む。
 黒く巨大な影がゆっくりと顔をあげた。誰かの――もしかすると自分の――悲鳴を聞いたように思ったからだ。それは、震える音叉の右と左が否応に伝えるような、剥き出しの、痛覚さえ伴う共鳴だった。
 近づいている。私の魂と同じ色をした魂が近づいている。あれは、私が喪失してしまった片翼だろうか。
 いや――
 あの色合いは似非だ。あれは煤の集積した黒に過ぎぬ。拭えばたちまち黄疸のような、濁った地金を晒すに違いない。一人や二人多く殺したところで何も変わらぬ。家族の血でさえ、私にとって特別ではなかったのだから。
 そこまで考えて、心臓と胃壁を細く刺し貫くような違和感に気づく。久しぶりの感覚だった。仁科望美はその正体を知っている。それは、孤独である。悲しみも痛みも超越し、恐怖を己がうつし身とした。しかし、最後に残るのは、やはり孤独なのか。
 孤独は心を惑わせる。どんな強靭な精神も孤独に迷う。だが、孤独が他者へと向かう感情ならば、己よりも劣った相手へは生じぬはずだ。人間すべてを殺害できるのならば、行き先を失った孤独は、きっと霧消するに違いない。
 最初の少女が殺し続けることに何か理由があるとするならば、まさにこの歪な哲学こそがそれであっただろう。
 近づいている、近づいている。
 知恵と本能が渾然となった仁科望美の意識は、愉悦をもって目蓋の無い瞳をぐるりと回転させた。
 あれを殺害せよ、必ず殺害せよ。あれが私よりも劣っていることを証明しながら、入念に殺害するのだ。


 ものを作ることはものを壊すことと同じである。無限のような繰り返しのうち、最初に生じた意味を消滅させることで、それは完成する。ものを作ることの終着にあるのは、完全な無化だ。
 ――これ以上は無理です!
 叫び声が、予を思索から現実へと引き戻した。
 ローター音の下で、操縦士の声はほとんど悲鳴である。無理からぬことか。ランキング二位の少女殺人者を一位の元へ同道する仕事なのだ。孕みきれず結露した死が眼前へ滴り落ち、複数の死を一時に求めえぬ人の身は、汚辱を伴った残虐さが支払いの代わりになることを否応に予期するのだろう。
 ――もう少し近づいてください。姿の見えるところまで。
 精気の無い声。振り返れば、予の少女が日本刀を膝へ横抱きにして座っていた。視線はまっすぐ前を見つめているが、その実どこにも焦点がない。
 しかし、操縦士に湧き上がった感情は、予とは異なるものであったらしい。とたんに背筋を張り、操縦桿を握る指の関節は白くなった。
 ヘリは、次第に密度を濃くするようにさえ思える大気を裂いて、大和川上空を通過する。一年前の予は、少女殺人者とこれに乗る未来を予想していただろうか。青少年育成特区における観察対象、すなわち少女殺人者の動向を探るために導入された対少女哨戒機である。特区の成立に際して国から格安で払い下げられたが、メンテナンスにかかる費用は地方自治体の収入でまかなわれており、いまや相当度に老朽化していた。
 仁科望美を殺し、青少年育成特区を終わらせる。予と予の少女が得た結論には、一種の高揚感があった。だが、その感情的な側面は一人の少女にとっての最善を曇らせてはしまわなかったか。そして、予は本当にこれを望んでいるのか。
 成体までの被支配の歳月が、自立というよりは支配を求める人間の基本的な性向を決定する。最良の支配者、究極の王政が常に民主政を上回るように思えるのは、初源の不可避的な無力状態に起因している。人類がイデオロギーの呪縛より逃れるためには、まず何より幼年期の時間を消滅させる必要があるのだが、生物学的な事実がそれを妨げる。ゆえに、社会は個人に先行できない。個人の世界観は幼少期の感情生活によって致命的に影響され、それは成長して以後の価値判断を予め決定してしまうからである。卵と鶏の議論よりも明白な結論だ。この意味で予は運命論者にならざるを得ない。
 しかし、これは人の歴史が抱え続けてきた大前提を確認するに過ぎず、改めて指摘すべき内容とも思われぬ。近代の抱える新しい問題とは、かつてなら養育する者とされる者の間へ侵入して運命をゆらがせた外的な要因が薄まり拡散してしまったことにある。幸福は家族に矮小化され、不幸は世界へと巨大化する。
 家族へ背をむけ、世界を破壊する。仁科望美の殺害は象徴なのだ。これは、時代に向けてする予の復讐である。
 たどりついた結論を打ち消すために、予はかぶりを振って窓の外を眺める。眼下の大和川に、以前仮居していた橋桁が見えた。河原では、やはり何者かが炊事の煙を上げている。あれは自分か、自分はあれか。視界が倍率を上げるような没入の感じがあり、続いて自己が二重になる錯覚が生じた。茫洋とした、特徴に乏しい人影が立ち上がり、こちらへ手をかざす。この距離で視線が交錯するはずはない。しかし一瞬、痛ましい輝きを宿す瞳を覗き込んだ気がした。
 現実を直接手触りするときのざらついた感じに嫌悪感を覚え、予はそれを避けるように予の子飼いを眼前へと掲げた。思えばビデオカメラとは、意識の不滅へ捧げる信仰に近い。対象が消滅した後も、己の意識は存続しているという確信がなければ、撮影を行う意味がない。現在という熱を過去へ冷却し、対象の実際を越えることを願う。すなわち、撮ることの本質とは対象の消滅を祈願することである。
 予はそれの消滅を強く願いながら、録画ボタンを押す。RECの赤い文字が点滅すると、炊事の煙だけを残して橋桁はすぐに無人となった。


 付近の山林より、それは出現する。予の認識は最初、縮尺が狂っているのだと判断した。前傾した姿勢で、すでに電線へ届くほどの大きさである。しかし、両手が膝頭の付近にまで垂れていることをのぞけば、滑らかな曲線で構成された肢体は、未成熟の少女そのものであった。最初にして最強の少女殺人者、青少年育成特区の生まれいづる処――仁科望美である。
 ヘリの接近に気づいたのか、ふいにこちらへと顔を向けた。柔らかな卵型の輪郭の内側で、目蓋と唇だけが無い。予にとってこれは二度目の邂逅になるが、前回は宵闇のうちであった。すべての魔術を解く真昼の陽光の下で、なお仁科望美の異様さは少しも減じるところがない。
 突然、操縦士が許可を得ぬまま、ヘリの高度を下げ始めた。真っ赤になった両目と青ざめた頬が絶望のコントラストを成す。もはや背後からの圧力よりも、眼前の怪物から来るほとんど有形の恐怖に屈したのである。予は予の不快を伝えようと操縦士へと向き直った。
 ――だいじょうぶです。もう、いけますから。
 だが、予の少女は静かに予を制止する。不快の正体は、操縦士の動物的な本能が予の少女よりも仁科望美の力を大きく見積もったところにある。予は不承不承うなづくと、足元の荷を接近する道路へと投げ下ろす。続いて、予と予の少女は、ホバリングに空中静止する哨戒機から共に飛び降りた。転倒する予を尻目に、予の少女は重さのない羽毛のように着地する。瞬間、足元が黒い影に覆われた。
 人の姿をした、人ではない何かが、上空より急速に予の視界へと迫る。目蓋の無い錆び色の瞳。甲殻類にも似た、生命からの共感を拒絶する濡れた質感。削げ落ちた唇は、赤黒い乱杭歯を隠さない。脳頂から差し込まれた恐怖が、すぐに諦念となって全身を呪縛する。狩られる者が狩る者に対して身を開くときの、あの麻痺だった。
 しかし、予の少女もまた、狩る者である。左手で荷をすくいあげながら、その勢いのまま予の腹へと右肩を差し入れ、跳躍する。巨大な少女は飛び立ちつつあった哨戒機を荒々しい陵辱のように両脚で挟み込むと、地面へと叩き伏せた。落下の衝撃と単純な質量へ耐えかねたフレームは、玩具のようにひしゃげる。
 一秒を引きのばす長い静止と、爆発。遅れてやってきた爆風が予の少女の陣幕をはためかせ、背後に吹き上がる炎は小柄なほっそりとしたシルエットを際立たせる。その表情はすでに、これから起こる殺害を疑わない少女殺人者の冷徹を湛えていた。予の少女は、何をすべきか迷わない。足元の荷を素早くほどくと、幾振りかの日本刀を取り出す。予の政治力が日本刀町に現存する業物のうちから最良の七本を蒐集したのだ。これらは、仁科望美を殺害するために準備された凶器である。
 予の少女は鞘を払うと、七本の刀を順に道路へと突き立ててゆく。少しも力を込めていないようなのに、抜き身はまるで熱したナイフのバタを裂くが如く、やすやすとアスファルトへ突き刺さる。やがて、予の少女の背を取り巻くように、刃の青白い半円が形成された。
 黒煙の中から現れた最強の少女が、天を仰いで咆哮する。火傷ひとつ無い。炎では、その肉を焼くのに冷たすぎたのだ。赤子の泣き声を逆回転でスロー再生したような、重く低い叫びが大気を震わせる。叫び声は音波となり、音波は物理的な衝撃波と転じて、左右に立ち並ぶ民家の窓ガラスを粉砕しながらこちらへと迫る。
 しかし、抜き身を片手にした予の少女は微動だにせぬ。まさか受け止めるつもりか。いや、背後に予が控えているせいで、回避できないのだ。正眼へ構えた日本刀が、衝撃波を左右に分かつ。予と予の少女が立脚するのは、さながら氾濫した激流の最中に残る中州だ。
 澄んだ音を立てて鋼鉄の刃が折れると同時に、激流は途絶える。四足に身を屈めた仁科望美が、長い前腕を地面に叩きつけて移動を開始したのだ。その速度は、見かけからは想像できぬほどに速い。
 予の少女が予を見、予はこめられた意図を感じとる。この戦いに、予は足手まといだ。だが、南北の街路へ東西に壁の如く差し渡す巨大な少女を前に、避ける場所などあるはずがない。予の思考は停止する。しかし、予の少女は判断を迷わなかった。新たな抜き身を口にくわえ、さらなる二本を左右へつかむと、東の民家へと駆け出す。目蓋の無い眼球が予の少女を追う。それは、フェイクだった。
 次瞬、ブロック塀を蹴って間逆へと跳躍した予の少女は、仁科望美に生じた死角へと身を投じた。二本の刀を交叉させると、右の手のひらをアスファルトへ縫いつける。突然に支点を得て、おそろしく巨大な臀部が回転しながら滑り、いくつかの家屋をなぎ払うように粉砕する。
 そこへ砂煙を裂いて、茶色に塗装された消防車が猛然と飛び出してくる。瞬間、予の身体は浮き上がった。軽い衝撃を感じた後、予はランブラーの屋根に横たわる己を発見したのである。傍らでは、死体処理用の手鉤をかつぎ、やくざに紫煙をくゆらすツナギ姿の妙齢女性が予を見下ろしている。
 ――やあ、アンタだったのかい。死体を釣り上げたかと思ったよ、あたしゃ。
 予が予の少女の観察員となって間もない頃、予の少女によって行われたいくつかの少女殺人に立ち会った清掃局の職員である。一年以上を経てなお、予を予と認識できたのは、よほど予の発する何かが特別であるのに違いない。
 ――まさか、二人とも生きてるとは思わなかった。まったく、あれから何人殺したのやら。
 家屋の残骸から、巨大な少女が立ち上がりつつある。左手から滴った血が下水へと流れこんでゆくのが見えた。殺せる。この生き物は、人類が殺せるのだ。
 仁科望美がうろうろと周囲を見回す。敵を見失ったのだろう。その背後に、抜き身を片手に電柱の上へ直立する予の少女がいる。半円を描くようにゆっくりと刀を正眼へと戻す。終わりだ。
 ――けどね、今回ばかりは相手が悪すぎるよ。
 吸い口を噛み潰しながら、清掃局員は厳しく目を細める。何を言っているのだ。いま、勝利は正に達成されつつあるではないか。
 音もなく宙に身を躍らせる予の少女。呼応するように、仁科望美が振り返った。唇の無い口腔が歪む。笑っている。知っていたのか。回避行動の取れない空中へ、狡猾な演技で標的を誘い出したのだ。
 頬が膨らみ、右腕が鞭のようにしなる。群がる蝿に牛の尻尾がするような、無造作な一撃。しかしそれは、蝿にとって致命的である。
 予の少女はたちまちアスファルトへと激突し、大きく跳ねた。そして、動かなくなる。予は、接触の瞬間に予の少女が身を屈めるのを見た。衝撃は吸収されたはずである。ただ、信じるのだ。殺戮の日々が積み上げた予の少女の強さを信じるのだ。
 ――あー、こりゃ死んだかもね。
 霊柩車にもたれかかりながら紫煙をくゆらせていた清掃局員は、煙を吐き出すのと同じような無感動でつぶやく。言葉に状況を確定させまいと息を潜めていた予にとって、その発言の無神経さは容認しがたかった。予は清掃局員をにらみつける。こめかみに白い切片を貼り付けた妙齢の女性は軽く首をかしげ、目を細めた。
 ――出歯亀ぐらいに観察員なんて名前をつけて、全く連中どもはいけすかないが、その目を見る限り、もしかするとあんたは少し違うのかもしれないね。増岡ってんだ。紀の川水系を担当してる。あと数分ばかりのつきあいだろうが、よろしく頼むよ。
 皺がれた片手が差し出された。予は無言のままとりあわず、予の少女へ向けて再びビデオカメラを構える。予の少女は地面に倒れ伏したまま、微動だにしない。
 ――嫌われたね、こりゃ。まあ、お互いにするべき仕事をするだけさ。
 増岡は、わざとらしくため息をつく。その間にも、仁科望美は腰を屈めるようにして、予の少女へと近づいてゆく。偽死を警戒しているのか。小柄な両肩はもはや上下しておらず、折れた刀をつかんだ右手は力なく垂れている。ノイズのような眩暈。撮影することは、対象の消滅を願うことである。ならばいったい、この行為が何を引き起こすことを望んでいるのだろう。
 ゆっくりと振り上げられた右足の影は、予の少女をすっぽり覆ってしまうほどに巨大だった。それが小さな身体を圧し潰さんとする正にその瞬間、予の少女は劇的に横回転して危地を脱する。そして、アスファルトを鞘にした抜刀術で、抜きざま右足へと斬りつける。しかし、狙いが充分ではなかった。分厚い爪に阻まれ、わずかばかり肉へ切り込んだところで刃はふたつに折れる。
 予の少女は新たに刀を引き抜くと、大きく後ろへと跳びすさった。仁科望美に訪れた変化が、次なる攻撃を躊躇わせたのだ。
 ――二度も傷つけられた。あの化け物の自己愛にゃ、充分すぎる打撃だろうね。
 つぶやいた増岡の横顔には、軽口の様子からは遠い深刻さが浮かんでいる。
 ――あの身体に肺呼吸じゃ、実際、動くのもままならんわね。ここからがアンタたちにとっての本番ってわけさ。
 それは、極めて生理的嫌悪に満ちた変化だった。肩口から背中の上面が波打ち、隆起する。少女が、少女の持つ柔らかさと滑らかさをそのままに、正体不明の皮膚病に侵されていくのを早回しにするような眺めである。
 ――さしずめ、エンジンを積み替えてるってところか。
 やがて仁科望美の上半身へフジツボ状の突起がびっしりと並んだ。外観とは似合わぬ柔軟さで、それらは収縮を繰り返している。肥大した上半身は細身の下半身と異様なバランスを成し、突起に押される形で首は地面と水平に曲がっている。これが、殺し続けてた者の本性なのか。それはもはや、人の戯画へと堕していた。
 かつて少女殺人者だったものの成れの果て――人類に仇為す巨獣である。
 その背中に、小型の竜巻のような気流が発生する。肩越しの景色が陽炎の如くゆらいだかと思うと、突起からゆらゆらと褐色の気体が立ち上り始める。清浄な吸気は、糜爛した呼気へ。緩と急、二つの動作をあわせて、それは呼吸しているのだ。予は息苦しさが増した気がして、思わず喉元へ手をやった。
 巨獣は突如、予の少女へと風を巻いて襲いかかる。小動物の敏捷性を備えた鯨を思わせる、ほとんど物理法則を無視するような動きだ。長い前腕を鞭の如くしならせる一撃が発する轟音は、それがもはや音の壁を越える速度へと達したことを知らせる。触れれば、この世のあらゆる形象は崩壊するだろう。
 だが、単純に速度を比べあうならば、予の少女が遅れをとるはずはない。巨獣の攻撃は、次々と紙一重にかわされる。同時に、予の少女を包む陣幕は次第に切り裂かれてゆく。
 大きく蜻蛉を切って距離を取ると、予の少女は引き剥ぐように陣幕を脱ぎ去った。その下には、極めて精緻に肌へと密着した体操着がある。予の政治力が日本刀町以外の場所で特注させた逸品である。達人同士の戦いでは、いかに肌へ近い位置で攻撃を見切るかが決め手となる。繰り出される攻撃にこそ、最大の隙が存在するからだ。陣幕を脱ぎ去る暇もあればこそ、追いすがる巨獣の追撃は予の少女へと突き刺さった。しかし、それは残像である。予の少女はすでに前腕の内側にいた。巨獣の肩にある突起物のひとつが逆袈裟に切り裂かれ、赤黒い粘液が噴出した。仁科望美と同じく、予の少女もまたエンジンを積み替えたのである。
 ふたりの攻防は、影を追うのも困難な高速の戦いへと変貌した。巨獣の攻撃は、もはや予の少女をつかまえることができない。だが、攻撃が引き戻される隙をついた予の少女の反撃も皮一枚を裂くのがやっとである。傍目には激しい攻防にうつるが、その実は互いに決め手を欠いた、極めて静的な消耗戦なのだ。
 そして、永遠に続くと思われた均衡は、思いもかけぬところから崩れた。巨獣のひと振りに破砕された電柱が、瓦礫ごとランブラーへと飛来したのである。電柱は無人の運転席を貫いたのみだったが、予の少女はなぜか動揺を見せる。視線がこちらへと逸れる瞬間を、仁科望美は見逃さなかった。
 嘲笑、そして一撃。
 咄嗟の防御に差し入れた刀の峰はやすやすと破壊される。予の少女は地面と平行に長く滑空し、家屋の壁へ叩きつけられた。予の子飼いが倍率を上げると、予の少女の口の端から赤い泡が吹き、鼻から血が流れるのを写した。どこかで不滅を信じていた。信じる強さが足りなかったのか。まさか、死ぬ。世界の中心であったはずの、予の少女が死ぬ。
 ――さあて、仕事の時間だ。
 増岡が手鉤をつかんだところへ、予は立ちはだかる。
 ――相手が違うんじゃないかね。
 苦笑しながら、その女性はまっすぐに予を見た。
 ――いいかい。いくら他人を殺したところで、一発殴り返されなきゃ、命が何かなんてわからないのさ。あんたの世界も、私の世界も、あの子たちの世界も、ぜんぶ自己愛から成り立っているからね。自分の命がどういう形をしてるかわからなけりゃ、他人なんざどこまでいってもただの書割りさ。一方的に殺してきたから、自分を生み出した長い営みの正体について、何ひとつ理解することができないでいる。どっちもね……ところでさ。
 鼻から細く煙を噴き出すと、吸いさしの煙草を人差し指で宙へはじいた。
 ――いつまでそこへ突っ立ってるつもりなんだい。いまならまだ、あの子の人生に関わることができるんじゃないのかい。
 関わる。ただ少女の語り部であることで、少女と世界を連絡させてきた一観察員が、少女の人生に関わる。突然に来たしたパラダイムの転換に、思わず掲げていたビデオカメラを下ろした。視界からノイズが消えると、鼻腔へ鉄錆のような血の匂いが混じった。
 ――この年になると、おせっかいが身上みたいになっちまう。まあ、いま動かなけりゃ、なんにもならないわね。
 殺害を確信した巨獣の吼え声が住宅街へこだまする。ビデオカメラが手のひらから滑り落ちる。レンズの割れる音が合図になって、駆け出した。あらゆる理性は頭から吹き飛び、ただ大の字に両手足を広げて、巨獣の前へ立ちはだかる。
 ――殺させないぞ、馬鹿野郎。やれるもんならやってみろ。
 歯の根が鳴り、涙が出る。
 家族や、社会や、歴史や、世界や、ぜんぶくそくらえだ。本当のことは、この手の届く範囲だけが大切で、他はみんな消えてしまって構わないということ。けど、なんでいまさらなんだ。
 曲がった首は相手の行動に対する不審を表明しているようにも見える。闘牛が地面を掻くのにも似た動作でアスファルトの感触を確かめると、巨獣は身を屈めた。まばたきひとつほどの時間だったに違いない。それは、爆発的な速度でぐんぐんと視界へ拡大した。
 皮肉なものだ。説き伏せるのに有効な言葉を持たず、殺すのに有効な暴力を持たず、長く体験し続けてきた世界との対峙の構図を、この状況は余すところなく体現している。
 がしゃん。
 粗なガラス細工が破裂する音が体の中から響き、視界がアクロバットのように回転する。家々の屋根と巨獣の背中が見えた。少女の姿はない。懐かしい感覚。そういえば、昔は落ちる夢ばかり見ていた。うつぶせとあおむけ、アスファルトへ二回、大きくバウンドする。
 私――の目の前に広がるのは広々とした青空だった。ひとつながりの熱が全身を包んでいる。指一本動かない。痛みは不思議と無かった。
 私は、内側にあった私より大きなものが、私と同じ大きさへ収縮してゆくのを感じた。二人の少女の顛末はどうなったろう。重力に身を預けて、ようよう首を転がす。
 敵を見失った巨獣の背面へ、蜻蛉を切る少女。その手にある刀は、最後の一振り。
 ああ――
 いまこそ、この世の真実に気づく。
 私は、私たちは、子どもたちに、隣人たちに、そして見知らぬ誰かに、この世界へ充満する死と死、破滅と破滅との間隙で、わずかの生を与えるために存在している。
 そして、時に愛されたその究極の人物は――
 神速の斬撃は音もなく巨獣の首を通過する。刀身が、澄んだ音を立てて割れた。音叉が共鳴するような静寂と、時が吸い込まれるような静止。
 ――人類を救済する仕事をするのだ。
 激しい血流が八方へ噴き、弾けるようにすべてが動きはじめる。巨獣の首は血の噴水に乗り、電線を超え、家々を超え、尾根を超え、入道雲を超えて上昇してゆく。
 その日、列島の各地から成層圏へと昇ってゆく生首が見られた。街頭で、市場で、公園で、学校で、会社で、病院で――ある者は泣いているように見えたと言い、ある者は笑っているように見えたと言った。ある者は両手を組みあわせ、ある者は眉を潜め、ある者は忌々しげに唾を吐き、ある者はただ好奇にカメラを向けた。
 最初の少女の葬送を偶然に目撃した人々へ共通するのは、誰も無関心のうちには見送らなかった、ということである。


 衛星軌道に乗った少女の生首が引く血の筋は、やがて土星の如く地球を環状に取り巻いた。夜空を見上げるとき、誰かが思い出すことを願ったのだろうか。
 名乗りでた唯一の係累は、米国航空宇宙局の支援を得た壮大な首実検を経て、それが確かに妹であることを確認した。頭髪に白いものの目立つ、柔和な面持ちをした初老の男性だった。
 このときの様子は感動の対面劇として、いささか過剰な演出を伴って生中継された。
 ――妹さんの変わり果てた姿を見て、いまどんなお気持ちでしょうか。
 レポーター群から成される質問は、いずれ良識のある者ならば背筋の凍るような内容ばかりだった。
 ――変わっていませんよ。
 しかし、その男性はどの問いかけにも、激さず、黙せず、ただ静かに答えた。
 ――あの頃のままです。内気で、繊細で、寂しがりやで、この世の誰よりも優しい。少しも変わっていません。
 愛おしげに、つい、といったふうで生首の映るモニターへ這わせた右手は、人差し指を欠いていた。
 この瞬間、いずれの局も大慌てで番組をCMへと切り替えた。それまで申し訳程度のモザイクで損壊した死体を放映しており、倫理規定の運用が極めて恣意的であることが露呈したのである。
 男性は遺骨の回収を願い出たが、却下された。単純に、これだけの大質量を持ち帰るだけの技術を人類が持たなかったからだ。
 そして、仁科望美は天から地上を見守る存在となった。
 私は人工衛星に乗せられた、あの犬の話を思い出す。文字通り、真空のような孤独。宇宙塵に粉々に粉砕されるか、暖かい星の抱擁にからめとられるまで、最初の少女はあらゆる生命から離れて、ずっと一人きりでいることを許される。愛する誰かを遠く見守りながら。
 私は想像する。たぶん、私自身の幸せのために。もしかすると、仁科望美は最後に願いを叶えることができたのかもしれない。


 さて、地に残された人々の話を少しばかりしなくてはなるまい。
 幸いなことに私の怪我は、全身の打撲といくつかの単純骨折で済んだ。少女は私よりもよほど軽症であったが、病院側が融通をきかせたらしい、いくつかの精密検査が退院を長引かせた。
 白い壁に囲まれた穏やかで、何も無い日々。ふたりでたくさん話をした。全国を旅して回ったというのに、こんなに話をしたことはなかった。
 退院の日、ふたりで川沿いを歩いた。春の日差しに川辺から綿ぼうしが舞い上がる。偶然にふれあった指先から、お互いの手のひらをからめた。橋を渡る途中、ふと気になって欄干から身を乗り出す。ブリキの鍋がひとつ転がっているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
 どちらから言ったわけでもない。足は自然に少女の生家へと向かっていた。門扉に手をかけると、わずかに鉄のきしる音がした。すべてはここから始まったのだ。
 ――いま、帰ったよ。
 透き通った声が、玄関にこだまする。主を失った家屋はがらんとして、返事があろうはずもなかった。背後から差し込む陽光に舞う埃が、喪失の感じを強くする。私は座敷へ上がると、少女へと向き直り、声音を作った。
 ――おかえりなさい。さぞかし、疲れたでしょう。
 少女は大きく両目を開いて驚いたように私を見つめると、泣き顔とも笑顔ともつかない表情を浮かべる。そして、意を決したように私の両腕の間へと身を投げた。少女の両親が死んだ日と同じように。
 布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、少女の傷の形がありありと見える。家族や、社会や、歴史や、世界や、そんなものはぜんぶくそくらえだ。
 私は少女の背中に両腕を回すと、強く抱きしめた。せめて、この手の届く範囲のものだけは逃さないように。
 唇が重なると、呪うべきか、寿ぐべきか、すべては正しくなった。


 血のついた脱脂綿をジッパーつきのビニルに収める。少女はわずかに身を震わせて放心しているようだったが、毛布をかけて頭に手を置いてやるとすぐに眠った。
 私はベッドサイドの明かりだけを頼りに、幾枚もカーボンの写しが付いた書類を埋めてゆく。膨大な量である。実際にすべての記入が終わったのは、少女が起きだし、また眠り、そしてもう一度起きてきてからのことだった。
 翌日、私と少女は最寄の役場へと向かった。整理番号が印字された紙片を渡し、用件を告げる。丸眼鏡をかけて黒い肘あてをした職員は、いぶかしむように上目遣いで私と少女を見た。そして、整理棚の奥へと消える。
 長い時間が経った。少女が不安に私の袖を引く。すると、分厚いファイルを抱えた職員が戻ってくる。事務机にファイルを置くと、表紙に浮いた埃をひと吹きした。そして、眼鏡をぬぐいながら、「なにぶん、初めての申請でしてね。わかりませんよ」と小声で言った。
 その日、無数のAvenger Licenseのうちの一枚が初めて国へと返却され、ひとりの少女が少女殺人者であることを止めた。
 「予の少女」は永久に消滅したのである。